ヘイトスピーチ16(我が国の憲法論議3)

ウイキペデイア引用の続きです。

麗澤大学教授の八木秀次(法学)は、左派メディアが保守運動や保守政治家に対し、
「ヘイト団体」との関係をこじつけ「悪」のレッテル貼りをする行為は「欺瞞」であるとし、「ヘイト団体」の行為は日本人の美徳に反しており許すべきではないが、一方それを「正義面で保守批判に利用」し、「イカサマ」であると批判している[42]。
矢幡洋(臨床心理士)は、
ヘイトデモを行っている団体と、それに対抗して暴言を吐いている団体同士の感情的な対立について、「集団同士のこういった対立は、互いに自分は正しく相手は百パーセント悪いと思うようになり、攻撃性を強めることに力を注ぐ傾向にある。どちらも自己批判を伴う『悩む』という力を失う。世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。
自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。
話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。自分たちの主張もするが、自己批判も同時にできる心理的強さをもった人がリーダーシップを取るのが唯一期待できる解決への道だ。
現実をちゃんと見られる現実主義者が団体の中でかじを取ってくれれば変わってくるのではないか」と分析した[151]。
2015年6月6日、兵庫県宝塚市に元朝日新聞記者の植村隆が招かれ、植村による講演が行われた。
講演会の告知チラシにはいわゆる従軍慰安婦の「強制連行」を否定する風潮が今日のヘイトスピーチを生み出しているといった主張が記されていた。
会場で植村の講演内容を聞いた宝塚市議の大河内茂太は
「植村氏の主張は『強制連行された慰安婦』の存在に疑問を抱くことは一切許されないというものに思えた」
と語った。
主催団体が求めるヘイトスピーチの法規制のとらえ方についても
「人種・民族差別に対する批判というよりも、むしろ、形を変えた〝反日闘争〟とすら言える」
と、違和を感じたという[257]。

道徳律を強制するために法制定によって強引な解決を目指すと、これが相互不信を助長し傷を深くするリスクを感じないのか?
保守派を刺激することに快感を覚えている国内人権グループやこれの過激化を求める応援団の政治能力に危惧を覚えます。

言論禁止政策は争いが内向化し却って過激化していくので、双方に救いがない・日本社会にとって不幸なことになるように思えますが・・「絆が自慢の日本社会」を亀裂社会化することを喜びとする政治勢力もあるのでしょう。
日本国内の相互不信激化、日本社会をどんなに困った状態にしてしまおうと、何を画策しようとも「自己実現」することは褒められこそすれ、「憲法上批判されない」という憲法学者の考えそうなことです。
後進国等でテロ等に発展するのは、不満があると妥協する高度な能力がないからですが、このような紛争形態を日本に持ち込みたい勢力もいるのでしょう。
双方合理的話し合いのテーブルにつくようにお膳立てするのが政治の役割であって、これを規制によって怒りを潜行させるのは政策的には愚の骨頂です。
上記引用の矢幡洋(臨床心理士)の見解

「・・世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。」

上記意見は示唆に富むように思われますが・・・。
ヘイトスピーチ禁止で反韓言論を表面上撃退できても、それがどんな効果があるか?
個々人で言えば、近所でおかしな人がいれば相手にしませんが、一定限度を超えれば警察や精神病院に通報するのが普通です。
これをヘイトという方が言葉の濫用です。
韓国が反日感情をいくら煽っていても(個々の在日がなにか悪いことをしている訳はないので)在日に反韓感情をぶつけるのは相手が違いますが、相手が違うと非難する・・単純に言い切るだけで「ことが治まる」ものではありません。
成人の息子が近所の人を殺傷した場合、親には法的責任がないと澄ましていられないのと同様に、その違いや共通項についてきっちりした吟味が必要でしょう。
ヘイトスピーチ規取り組み法(通称)が成立しましたが、反日を煽る中韓の政策が修正されないまま反中韓感情表明だけ規制される(反中韓感情表明は自由だが関係のない在日批判は弱い者イジメだというのは確かに正論ですが、感情というのは理性だけで割りきれないから感情というのです)と反中韓感情が却って強く潜行していくだけで、本らいの解決にはなりません。
例えば精神病者や不良が大事件を起こすとその保護者もその地域にいたたまれなくなってどこかへ、転居する例が多いですが、それを人権侵害と言っても言わなくとも、結果は同じです。
自分の子供が隣人の子供に殺された場合、加害者の親に責任がないと言って隣にそのまま住み続けられる人がいるか?ということです。
大阪の池田中学だったかの大量殺傷事件の保護者・家族がどうなったか知りませんが、開き直るよりはどこへ転居するのが普通です。
宇宙や地球論では、理論では未解明部分が多すぎることを書いている途中ですが、親の責任をいうのは感情論というものの、将来的に理論的根拠があることがわかってくる可能性もあります。
庶民の根強い感情論は、実は今説明できないだけで後になると合理的根拠が分かることが多いので、感情論を無視すべきではありません。
実際革新系文化人.人道主義者自身の慰安婦騒動を例にとれば、彼らは慰安婦を性奴隷だったとした上で、我々の親世代の行為について孫世代の責任追及をしているのですが、パク大統領の言によれば、「千年間でもゆるせない→子々孫々まで責任をとるべき」という変な理屈です。
同じ「文化人」が、対中韓の日本民族の責任論になると先祖の責任を子々孫々まで負担すべきといい、中韓の日本攻撃(現在の日本人の行為が対象ではないので、事件に関与していないが、同一民族構成員ということによる攻撃に他なりません)に対する日本の対中韓民族に対する反感表明になると、民族間の争いと個人は別だとなるのですから、御都合主義(どこの国のための意見か?)の主張というしかありません。
自国や自分の民族のためになろうがなるまいが(自民族が他民族の支配下に入る方が良いと思えば)言いたいことを言える人が「自己実現]」していて「ご立派」となるのでしょうか?
そのような思考背景には、国家と人民の「二項対立」を推し進めた占領施策の影響下にまだ染まっているのではないかという疑い?を私は持っています。

ヘイトスピーチ15(我が国の憲法論議2)

昨日引用論文は司法書士連合会の機関紙?寄稿論文(普通は寄稿を頼まれてから執筆するものでしょう)だったのに、論文が完成し校正も終わった段階で引用データ削除を求められたが折り合いがつかず(これこそ執筆者にとっては学問自由の領域です)に、掲載拒否されたので、これを大学機関紙?での発表に切り替えたというのですから、このやり取りの方が驚きです。
弁護士会同様に司法書士会もまずはいろんな意見を聞いてから会員が会の方向性を決めるのではなく、会員に情報サービスする前に幹部間で一定方向の結論が決まっていてその方向への結論に資する論文を求めて、これを会員に周知する傾向が強まっているのでしょうか?
上記論者のいうとおり、特定思想立場で意見表明するかは組織の自由ですが、もともと特定政治立場に共鳴して参加している訳ではない弁護士会や司法書士会は・価値中立・どういう意見があるかを会員に広報した上で会員の意向によって行動指針を決めるべきではないでしょうか?
ヘイトに関する学会の意見状況の紹介を続けます。
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/11/blog-post_8.html

前田朗Blog『統一評論』563号(2012年9月)
Thursday, November 08, 2012
差別表現の自由はあるか(4)
今回は、そうした理論状況の特徴を見るのに有益と思われる二つの文献を検討することにしたい。
一つは市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)であり、もう一つは内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)である。

表現の自由に関してはこれ以外にも多くの重要な研究業績が存在するが、ここでは旧内野説から新内野説への転換を見て行くことが主たる関心事であり、そのためには上記二冊を見ることで足りると考えられる。
表現の自由に関する研究の第一人者である奥平康弘にも『表現の自由を求めて』(岩波書店、一九九九年)などの重要著作があるが、ヘイト・クライム処罰は主題とされていない。
二 市川説による到達点
市川はまず、「アメリカにおける差別的表現の規制」について、①アメリカ合州国最高裁のR.A.V.判決を検討し、②次に批判的人種理論の挑戦によって始まった差別的表現禁止をめぐる論争を検討する。そのうえで、市川は、③日本における差別表現規制をめぐる論争、すなわち旧内野説とそれへの批判を整理して、差別表現規制法の可否を論じ、人権擁護法案について検討を加えている。
① R.A.V.判決とその評価
「「差別的表現禁止法を人種などに関するけんか言葉の禁止として正当化する手法は、これまでの判例の流れからして最も自然な手法であるが、本判決はこの手法を否定したのである。また、本判決は、差別的表現の禁止を、少数者の人権擁護のためのやむにやまれざる政府目的を達成するために必要不可欠な規制と構成する手法をも否定した。/本判決が差別的表現禁止法に対してこのような厳しい姿勢をとったのは、差別的表現禁止法に対し、特定の争点につき非寛容の思想ないし偏見をもつ側にのみ負担を課す(見解差別的効果を有する)ものであるとの否定的な評価を加えているからであろう。・・」
市川の評価の前提、そしてアメリカ最高裁判例の前提には「思想の自由市場」の論理があることがよくわかる。あくまでも「思想」であり、「表現」であるという位置づけである。この思考と、表現の自由の優越的地位とがセットになることによって、ほとんど無制約の表現の自由論が構築されることになる。
② 批判的人種理論の挑戦
市川は、次に批判的人種理論の挑戦について検討している。批判的人種理論とは、一九八〇年代末頃からアメリカに登場した理論であり、この文脈では、差別表現禁止を唱える見解として位置づけられる。

日本のヘイトスピーチ・表現の自由の優越的地位と関連法理に関するウイキペデイアの記事からです。

韓国籍在日朝鮮人で政治活動家の李信恵は、自身のTwitterに「路上が国会に繋がった。ヘイトスピーチ対策法は、路上に立ってたみんなが作った法律だと思う。嬉しくて、涙が止まらない。」などと書き込み、ヘイトスピーチのデモに対する抗議行動など、差別反対の運動が法案整備につながったと評価した。
弁護士の堀内恭彦は、「外国人に対する差別的言動は許されないが日本人に対する差別的言動については問題にしないというおかしな法律である」と評している。また、このような理念法が成立すれば、その後の個別具体的な法律が作りやすくなるため、今後、必ず禁止や罰則が付き「ヘイトスピーチ審議会」に特定の人種、利害関係者を入れ込むという法律制定の動きが出てくると危惧している。
さらに、法律の成立過程を見る限り、自民党を初めとした多くの国会議員に「表現の自由」が侵害されることへの危機意識が感じられないと主張している[7]。
憲法学者の八木秀次は、具体的にどのような行為がヘイトスピーチに当たるのか不明確であり、自治体や教育現場が法律を拡大解釈し過激化する恐れがあると懸念を示している。
例えば、外国人参政権が無いのも、朝鮮人学校に補助金を出さないのも、戦時中の朝鮮人強制連行が歴史的事実として誤りだと主張するのも、在日韓国・朝鮮人に対する「侮辱」「差別」だと訴えられる可能性も否定できないとしている。
そのため、政府は「どこまでが不当な差別的言動で、どこまでが許される表現なのか」を示す具体的なガイドラインを作るべきであると述べている[8]。

ヘイト問題は、まだ途上的議論(の筈)ですから、自己流に纏めずに煩を厭わずいろんな意見を羅列的ですが引用しておきます。
ウイキペデイアの7月19日の記事からです。

岩田温(政治学)は「民族、宗教、性別、性的指向等によって区別されたある集団に属する全ての成員を同一視し、スティグマを押しつけ、偏見に基いた差別的な発言をすること」と定義している[148]。
九州大学准教授の施光恒(政治学)は「ヘイトスピーチ」という英語(カタカナ語)を使うのでなく、「何が不当なのか」という問題の本質に目を向けるためにも、日本語で正確に表現したほうがいいと主張している。[149]。
青山学院大学特任教授の猪木武徳(経済学)は、

「ヘイトスピーチは「人種、宗教、性などに関する「少数派」への差別的言説一般を指すと大ざっぱに理解されている」
とし、デモのような大勢の「匿名性は公的なメディアで発言する者への悪意ある批判を誘発する」が、逆に、
「少数の暴力的な集団が多数の普通の社会生活を送る人々を脅す例もある」
ため、
「国家による言論統制」や「感情の問題に感情的に対抗し、単純な極論だけが大手を振ること」だけは避けな

ければならないとしている[150]。

ヘイトスピーチ12(わが国憲法論議1)

この辺で感情応酬の現状紹介を離れて、以下わが国の憲法論を見ていきます。
立命館大学の市川教授の意見です。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/15-2/ichikawa.pdf
研究ノート ◇立命館法学 2015年2号(360号)

表現の自由とヘイトスピーチ
市川正人  立命館大学大学院法務研究科教授
1 日本国憲法における表現の自由の保障
2 ヘイトスピーチとその規制
3 ヘイトスピーチ規制と憲法

特定の民族や国籍を有する人々などに対する憎悪を表明し,憎悪を煽る表現であるヘイトスピーチ(hate speech)が深刻な社会問題となっている。
在特会(在日特権を許さない市民の会)などによる在日韓国・朝鮮人を口汚くののしる街宣活動が活発になされ,それが「ネット右翼」によって拡散されており,ヘイトスピーチが日本社会において跋扈している感がある。
「ヘイトスピーチ」が2013年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれたほどである。
こうした事態は国際的にも関心を呼び,昨年7月に自由権規約委員会が,8月には人種差別撤廃委員会が,それぞれヘイトスピーチに対する法的規制を求める勧告を行っている1)。
もっとも,京都朝鮮学校事件については,抗議活動に参加した者の刑事責任,民事責任が認定されている。
このことは,ヘイトピーチに対して現行法によって一定の規制がなされうることを示すものである。
しかし,現行法では不十分であるとして,また,ヘイトスピーチの禁止・処罰が国際的な人権条約の要請であり,既に100ケ国以上の国においてヘイトスピーチを禁止し処罰する法律が制定されているとして,わが国においてもヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定すべきであるとする意見も強い。
そこで,以下では,ヘイトスピーチを禁止することには,日本国憲法による表現自由の保障との関係でどのような問題があるのか,あるいは,日本国憲法の下でヘイトスピーチの禁止がどこまで許されるのか,について論ずることとしたい。

以下論点ごとにまとまった論説・スッキリした論理展開と思われますが、引用するには長すぎますので、関心のある方は直接上記論文を参照してください。
私が読んだ印象では「思想自由市場に委ねるべきで性急な規制は禍根を残す懸念が強い」という論旨のようです。
以下、結論だけ引用しておきます。

終わりに

以上の私の立場からすれば,人種差別撤廃条約4条abが挙げているものをそのまま禁止・処罰するような法律は日本国憲法の下では認められないが,他方,ブランデンバー
グ判決の基準を満たすような人種集団に対する暴力行為の煽動や,侮辱を自己目的とするような特定の民族に対する特にひどい侮辱的表現を処罰するような,きわめて限定的なヘイトスピーチ処罰法ならば,規定の文言が明確であるかぎり,日本国憲法の下でも許容される可能性があることになる。
しかし,憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。
後者についても,ヘイトスピーチ処罰法の差別解消にとっての効果23),表現の自由の保障に与える影響を考慮に入れて,慎重に検討すべきである。
こうした拙稿のような立場については,ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解,想像力を欠いたものである,所詮,マジョリティの立場からの立論に過ぎないといった強い批判がある24)
確かに,ヘイトスピーチの問題を考えるにあたりマジョリティに属する者にはマイノリティの人々の被害についての想像力が求められる。
しかしまた,ヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定した場合,それがわが国における表現の自由の保障に対してどのような影響を与える可能性があるかについての想像力も必要ではないだろうか。

[補足]
本稿は,日本司法書士会連合会(以下,連合会)の機関誌である「月報司法書士」201
5年5月号のために執筆したものであり,校正も終了していたが,ヘイトスピーチの実例が記述されているために不掲載となったものである。
以下中略
その結果,不掲載という結果となったわけである。
月報司法書士は連合会の機関誌であるから,依頼した論稿を掲載しないと連合会が判断したことは,表現の自由行使の結果であり,非難されるべきことではない。ただ,本稿をめぐるやりとりが,ヘイトスピーチの規制の可否を論ずることの難しさを示していることは確かである。

市川氏が「憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。」と言うように仮に憲法論をクリアーしても規制が先行するとかえって民族間の亀裂を深くするマイナス面の考慮が必要でしょう。
この辺は同感です。
政治は国内分裂を広げるためにあるのではありません。
辛 淑玉氏のウィペディア記載の意見は以下の通りです。

「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(いわゆる反ヘイトスピーチ法)について
「保護の対象が限定されるなど十分ではない。ヘイトの被害は米軍基地に反対する沖縄の人々にまで及ぶ。」[2]。
「反ヘイト法ができました。一歩前進するかな、と期待したんですが、全く変わらない。罰則がない。増えたのは、これを作ったことへの逆ギレですよね」

彼女は罰則などを厳しくしていないのが不満なようですが、逆に民族間憎悪の過激化を煽る言動の方こそ問題ではないでしょうか?
ウイキペデイアによれば、以下の通り在日からも批判があるようです。

前田日明(元在日韓国人、1984年に帰化)は、「名前を出して悪いんだけど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とてもおれは共感できない。」と批判した[29]。
鄭大均(在日外国人、韓国系日本人)は、金嬉老事件における辛の発言を引き合いに出して「メディアに登場する在日のなかで、姜尚中と辛淑玉ほど違和感を覚える人間はいない。辛淑玉に関して言えばその歯に衣着せぬ語り口はいいのだが、思いつきやデタラメが多すぎるのではないか」「在日コリアンの被害者性という現実的であるかもしれないが非現実的であるかもしれない状況に、自己を憑依してものを語る傾向がある」「辛淑玉の一見奔放な語り口が、驚くほど古風な被害者的立場や対抗主義的立場との見事な整合性を維持している」と批判した[30]。

過激なことを言ったりやりすぎると「自民族のためにならない」と危惧するまともな意見というべきでしょう。
ヘイト問題も厳しくすれば解決するものではありません。

日本にテロ被害の可能性?4

話題が変わりますが、平穏な日本社会では、犬の世界でさえも高度化されてきて公園等で犬種が違ってもワンワン吠合うのを見かけることがなくなりました・・犬だって吠えるのを恥ずかしく思う時代です。
犬が人間社会のあり様を反映しているとすれば、これは日本の人間社会で大声で怒鳴りあう時代が過ぎて久しいことを表しています。
朝鮮系は日本人とは「人種傾向が違うからどうにもならない」という人もいますが、日本に長く住んでいると朝鮮人であろうと中国人であろうとベトナム人であろうと日本人的生き方に犬同様に?馴染んでいくのではないでしょうか?
私が知っている限りの在日は、皆紳士的ですから世の中の動きについていけない少数者が自己の社会的不適合正当化のために、在日の民族上の特殊性を強調しているのではないでしょうか?
日本人にも社会不適合者が一定率いますが、この場合には「小数民族だから・・・」という逃げ道がないので、「なんでも反対」か?の「拗ね者評価される」ので、合理的対処が可能です。
「日本文化に馴染んでもらって皆なで仲良くしよう」というと、これを同化・排除政策と言って厳しく拒絶するのが、8月1日紹介した学者の主張です。
韓東賢氏の論文引用文を再掲します。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/96/0/96_109/_pdf/-char/ja

①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。
②2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。
③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。

韓東賢氏の論文は「排除/同化」と批判しますが、どの集団に入ってもその社会や組織・企業文化に馴染んで行かないとその企業等で出世できないどころか、・・悪くすると企業や組織から浮き上がり結果的に居づらくなるのは事実です。
ただこういう流れを「排除」という他力的強制力を発揮するドギツイ言語で表現するのが正しいかは別問題です。
企業その他組織で、ある人が日常的マナーに劣るから・人付き合いが悪いから・・といって強制的「排除」・・すなわち除名や解雇、仲間はずれをしていません。
ですから、仲間付き合いがうまくいかないで何となく浮き上がっているのと「排除」されるのとはまるで違います。
「排除」とは、仲間入りしたい人を「排除」してしまう外部的力です。
自分から、小・中学生がお昼休みに本を読みたくてドッジボールなどの仲間に入らないのを排除されたとは言いません。
繰り返しお誘いを断っているとそのうち「一緒にやろう」と声がかからなくなっても、排除されたとは言いません。
これを革新系では「排除される」というどぎつい・過剰表現する日常が見られます。
辛氏の亡命に関する表現だったかのコラムで少し前に書きましたが、言葉の意味を少しずつずらして行き、実態を表す当初の言葉とほぼ大方違う意味にすり替えて行く言葉だましの一例です。
都知事小池氏はジャーナリズムに本籍がある結果、相手を批判するためにこうした過剰表現になれていたのでしょうか?
昨年夏の総選挙直前の希望の党と、民進党との事実上合体に際して、慣れ親しんだ過剰表現「排除」を自分の行為の説明に不用意に使ってしまい、結果的に墓穴(希望の党失速のきっかけ)を掘ってしまったのが記憶に新しいところです。
韓東賢氏の論文は同化しないと「排除される」と日本の政策を否定していますが、どこの世界でも仲間と同じようにして行くほうが楽だから進んで同化していくのです。
子供の頃を思い出すと、空いている時間に自分のやりたいことがあっても、友達から遊ぼうと誘いがあれば友達に付き合うのはこうした知恵です。
造反有理というスローガンが文化大革命当時流行ったことがありますが、朝鮮族ではこういう屁理屈をありがたがって現実社会で気持ちよく生きるのを拒む・・いつも社会を斜めに見る習慣で生きている人がエリートとして大事にされるとすれば、半永久的に不幸です。
朝鮮系との間で半永久的に罵り合う社会になるのでは困ったものです。
これでは、種が違っても喧嘩しない犬族以下になります。
ヘイト法ができたのを機会にお互い冷静・・きちんとした議論をして行く関係・・要はお互いのことをあまり気にしない関係になって行くのが妥当です。
ただし、うがった見方によれば、日本の戦後復興妨害のためになんでも反対して、時間をかけさせて新たな分野への挑戦実行を5〜10年遅らせる・・その間に韓国が日本の政治経済等の方向性を先取りして素早く動くという二人三脚・・影の勢力だったという見方もあります。
国会の牛歩戦術に象徴されるようになんでも最後まで反対し最後は強行採決を目指す・・1日でも10日でも、法案通過を先伸ばしする戦術でした。
社会党や野党の動きは、時間をかけて議論してより良い法案に練り上げるのではなくどこまで行ってもアラ探しに終始していて最後は決裂するしかないのが見え見えの時間稼ぎだったのが、99%といっても良い過去の評価ではないでしょうか。
こういう先伸ばし、どんな国策も妨害することが主目的の集団とは一定のところで議論を打ち切れるルールを制定しないと民主主義のルールが成り立ちません。
9月9日全米オープンで日本の大坂なおみさんが優勝した試合経過を見ていましたが、これまでの王者であった、米選手が自分の負けを認めたくないためにか?試合開始後審判への抗議を演出して審判を罵っている場面が放映されましたが、セリーナの口を極めた罵り(英語はわかりませんが、その表情口調により明らかで・・同時に流れていたテロップにはDESPUTE〇〇の文字が出ていましたから、アメリカの報道陣にも常軌を逸した抗議という印象があったたのでしょう・・によって何かのペナルテイーを宣告され、それに彼女がまた口を極めて罵り抗議する・・彼女支持の群衆のブーイングを呼ぶ・彼女の思う壺にはまったかのような大騒動展開の結果、セリーナが狙っていた?展開通りになりましたが、日本の大阪選手がこの大騒動に動揺せず冷静に試合を運び勝利を決めました。
セリーナが試合開始直後にこれは叶わないと思ったならば、潔よく負ければいいのでに(日本の囲碁戦では投了仕組みがあります)不当な審判の所為で感情的になり、実力を出せずに負けたという印象操作狙いのように受け取った人が多いでしょう。
サッカーと違い本来紳士のスポーツで観客レベルが一応高いはずですが、セリーナの汚い狙いに応じてなんの非もない20歳になったばかりの小娘である大阪選手の健闘・優勝を讃えるよりは、観衆が大阪選手を非難する大ブーイングに終始したのには驚きました。
上記のようにメデイアの報道姿勢は、セリーナの抗議をdesputeという文字表示をしていた点で、客観的でしたが・・。
大阪選手はせっかく優勝したのに大ブーイングに驚いて子供らしく「泣きぬれていました」が、一々言い返さない、日本人らしい良い対応です。
女性の涙ほど強いものはありません。
垣間見えるアメリカの民度が世界中に拡散されたでしょうが、これではアメリカが国際大会を主催する能力がないのではないかの疑問が起きます。
アメリカの国際的地位は道義ではなく腕力しかよって立つ基盤がなかった・・覇道そのものを体現しているような印象で、腕力(経済力)が衰えると世界の覇者の地位をすぐに維持できなくなる理由がわかります。

「不法滞在は信号無視程度」か?4(自然犯と法定犯2)

以下刑法犯を例示しておきます。

刑法
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
第二百四条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
第二百三十五条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する
第二百三十六条 暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した者は、強盗の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。

傷害、殺人行為は原則違法として逆に正当業務の時だけ違法性を阻却する・・取締法規とは原則と例外が逆転しています。

 

第三十五条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
(正当防衛)
第三十六条 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

傷害罪等自然犯では、「乱用防止やこういう場合だけ許されない」という制度ではなく、そもそも許されない行為という法の仕組みです。
治療に伴う人体侵襲行為はそれ自体で違法行為にあたり、例外的に正当行為の時だけ違法性を阻却され「罰しない」関係でしかありません。
傷害行為は原則違法ですから、一般人の場合には正当行為であったことの主張立証責任がありますが、医療行為のように、正当業務性を立証すれば「罰しない」ことになります。
刃物で言えば、原則として所持できるが、指定の刃物だけ例外的に禁止するだけという刑法とは逆の書き方になっています。
その気になって考えれば、例えば家庭内にある包丁やハサミ鍬や鎌など、日常生活に必要な物が普通にゴロゴロあるのが原則で刃物一般の支持を違法というのは国民意識として無理があるので、特別指定した刃物だけ許可制にしたという仕組みです。
一般過程で使用する料理用の刃物や、子供が鉛筆削りや工作用のナイフ(私が子供の頃にはいつもポケットに肥後守というナイフを皆ポケットに持っていて鉛筆削りや、遊ぶ時に竹やぶなどで篠竹を切って遊ぶ道具でした。)などはもともと自由であり、持つこと自体が構成要件に該当しないのですから、正当行為の時だけ「罰しない」と言う余地がないのとは大きな違いです。
殺人や重傷事案で正当防衛主張の場合にはよほど正当防衛成立が明白な場合以外は、先ずは逮捕して言い分を聞いてから起訴するかどうか決める仕組みです。
医師による身体侵襲行為の場合は身近で正当行為性が常識化しているので、はじめっから違法性がないように皆が思うようになっているだけです。
このように不法滞在と信号無視とは、国民の道徳意識的に大幅な違いがある・不法滞在はそれ自体犯罪で国民の拒否感が強いものです。
これを敢えて「信号無視程度」と公言する神経が不思議です。
現行法制度の説明意見としては、信号無視と同程度ではない・上記の通り信号無視をしてもすぐに懲役の実刑でなく、普通は罰金程度ですむのに対して、不法滞在で検挙されると対応は大違いであるのに、「信号無視程度」という意見は現行法制度無視の意見です。
立法論・・法をこのように変えるべきと言う意見を言うのは自由ですが、法改正を待たずに自分の主張を現行法の解釈として主張するのは事実と違う・一種の虚偽主張というべきでしょう。
このような法改正論と現行制度とを同視する無茶な意見を、立派な意見のように新聞に掲載する新聞も新聞です。
この意見の出典を見ると41^ a b 朝日新聞2000年4月23日ですが、慰安婦報道のミスだけではなく、正邪の判断なしに自社意見方向に合えば現行法無視の意見でも他人の意見として報道することになっているのでしょうか?
ただし、不法滞在制度を本来の主権維持行為の「潜脱を許さない」という場合と違い、労働調整弁としているような場合もあります。
・・・たとえば、表向き就労禁止しておいて好景気・人手不足時には事実上就労黙認・・不景気になると取締強化というような御都合主義的運用になっている場合には、本来の主権維持問題ではありません。
こういう運用が続き、不法滞在者の多くが単なる景気調整弁に使われているイメージに変わってくると、不法滞在者の中でも単なるオーバーステイ者に対する国民の法意識も変わって来るべきでしょう。
今の法体系では、信号無視と不法滞在では明らかに違いますから、上記のような前提主張の上で今後の法改正論(例えば一定期間以上の(黙認の推定)不法滞在があれば、時効取得制度の変形として?強制退去を出来なくするとか、もっと刑罰を引き下げるなど)としての立法論であるならば、それほど間違っていないようにも見えます。

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