自由民権運動の系譜3(メデイア)

現在の原発政策は、もともと「やめてしまうしかないほど危険なものである・科学技術で100%安全確保できない」という国民合意があって、その上ですぐやめると電力不足で社会生活が成り立たない現実を踏まえ、代替発電産業の成長するまで「恐る恐る運転継続します」という国民合意があったことになります。
この国民合意を無視して司法が「危険性がない」証明を求めるとすれば問題です。
危険を除去できない前提の国民合意・・与野党合意を無視した判断と言うべきでしょう。
司法権は憲法違反の場合立法に優越しますが、憲法違反がない限り立法府判断を否定できません。
以上一例を書きましたが、政府というのは「あちら立てればこちら立たず」の利害対立を調整して最終決断していくものであり、その付託は民意によるのが国民主権国家です。
民意に直接依拠しない司法権は、立法府の判断通りに政府が実行しているかのチェック権はありますが、立法自体が憲法違反でもないのにこれに介入するのは違憲行為です。
生存権・・健康で文化的生活保障は憲法で決めた責務ですが、これは責務・・宣言であって法的義務ではないと解釈されています。
健康で文化的生活は国力相応の生活水準であり、現在日本の文化水準といわゆる後進国とは大きな違いがあることは公知と言っても良いでしょうが、結局はその国の国力によって平均が決まるのであって他国を基準しても意味がないし文化的という意味自体その国、その当時平均的生活水準を無視できません。
例えば大飢饉や戦乱(日本の敗戦時)で国民の多くが飢えているときに、戦争・大災害前の基準で憲法違反という判決をした場合、非常識すぎるでしょう。
憲法は大まかな精神規定であるから政府批判派にとっては何でも憲法問題といえば言えますが、その精神を具体化するのは立法府・政権党の役割であり、国家運営の実務を担当しない司法の役割ではありません。
民意によらない評論家やメデイアが洪水のように垂れ流す報道は民意でも何でもありません。
国家予算トータルに責任を持つ政治主張を出来ない政党は民主主義政党と言えるのでしょうか?
貧しい人の救済が必要だという理念は正しいですが、総論さんせい各論反対という言葉があるように、総予算の中で配分をどうするかの問題です。
貧困とは相対的概念ですから、私の子供の頃の生活水準から見ればお金持ちの部類に入る家でも火鉢に潤沢に火を熾している程度で家庭にはストーブなど滅多にありませんでした。
もちろん冷房など見たこともない時代です。
今では、冷暖房もない家は最貧困家庭と言うのでしょうが、平均水準をどこに持ってくるかの問題です。
北朝鮮のように等しく?極貧生活に落とし込みたい人はいないとすれば、国力維持向上がまず最優先課題で、その上で分配に気をつけようというのが現在社会の総意というべきでしょう。
現状維持で良いと気を緩めればたちまち競争相手に抜き去られて現状維持どころか、落伍してしまう国際競争熾烈な時代です。
民主党政権時には、あれもこれもの要求実現には政府の無駄な支出を抑えれば財源ができるというあんちょこ主張でしたが、結果的に将来の競争力を育成する研究資金等を削ることしかできませんでした。
いわゆる事業仕分け作業時に蓮舫氏の有名な発言「一位でなく、二位で何故いけないか!」のスローガン政治でバサバサと研究費等を削ったのかな?象徴的でしたが、これではパイを大きくして分配を増やすどころかパイが減って分配が減ってしまう方向に進んでしまいました。
政権を取ってみると批判経験しかなく前向きの経済力底上げ政策が何もなかったという評価を受けてしまい、以降野党は批判政党に特化しています。
正確なやり取りや結果は覚えていませんので、以上はおぼろげな記憶によるものです。
こういう批判勢力が政権を取っても基本的な社会運営能力がないので国家が無茶苦茶になります。
戦後の芦田内閣、リーマンショック後の民主党政権の実務能力不足に国民が呆れてしまったのはこのような歴史によります。
政策批判・対案の優劣で勝負することと、その実行力で勝負するのが政党の存在意義です。
経済学者や経営学者が自分で経営して成功する例が内容に、政治評論家が自分で政治をできないし策謀家も参謀としていくら役にたっても自分が表にたって政治をできないのが原則です。
いまの韓国大統領の文氏は学生運動家上がりの闘士らしいですが、運動家がそのまま自分で政治をできるわけがない・・格差縮小には最低賃金をあげれば良い」と言う子供じみた短絡的政治で結果的に賃上げ強制によって経営が成り立たなくなった零細事業の倒産続出で国家経済をボロボロにしつつあります。
運動家としては単純論理の方が国民に対するインパクトがあるでしょうが、社会は単純論理で動いていませんので、こう言う人が政権を握ると社会は無茶苦茶になります。
日本で市民運動家上がりの菅直人氏が総理の時に原発事故が起きて、右往左往したので国民が愛想を尽かしたのは記憶に新しいところです。
運動家やメデイア界は実務経験ない人の集まりですから、現実政治無視のゴシップ的政治批判ばかり報道するので国民は困っています。
こう言う繰り返しの結果、既存大手メデイアの影響力が急速に低下してきました。
以下にグラフなどで詳しい分析が出ています。https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20191001-00144754/
新聞の販売部数などの推移をさぐる(2018年後期まで版)

・・朝日新聞は2010年前後から、毎日新聞は2007年後半から漸次減少が起きている。特に朝日新聞は2014年以降の下げ幅の大きさが確認できる。

自由民権運動の系譜2(メデイア)

社会保障費は社会全体の経済力の範囲でしか出せない→保育所であれ、生活保護であれ、芸術やスポーツ振興〜科学振興であれ国全体で必要なものがいっぱいある・比喩的に言えば、数万種類の必要分野にそれぞれどの比率で資金や人材を分配すべきかのトータル判断をするのが政治というものです。
教育費予算に絞っても大学や高校小中学校の耐震補強工事費と学費補助の優先順位、保育所設置基準を緩めてより多くの保育所設置に舵を切るか等々何事も総合判断です。
こう言う政治判断に司法が介入するのは、司法権の乱用です。
設置基準を緩めたから事故が起きたのは国家の責任だと言うのは、政治判断に司法が優越するかのような結果になります。
よくある事例では、ガードレールがなくて車が転落したり、道路陥没で車が落ちて損害を被ったなどの国家賠償事件ですが、全部の崖や道路にガードレールを一斉に設置するのは無理があるので、通行量の少ないところはあと回しにするなど予算の許す範囲で順次工事していくのが普通です。
道路陥没などの通報があればすぐ現地急行して通報後通行禁止柵などを設ければ良いですが、滅多にない陥没事故のために大勢が常時待機できないので、駆けつけるまで一定時間がかかります。
この所要時間は予算次第・要員を増やし、出動待機場所の増減次第・予算配分によります。
人員不足のためにその作業が翌朝になったために陥没に気づかなかったオートバイの転落被害が起きた場合、道路管理者に責任があると言えるでしょうか?
予算に応じた配置人員で可能なことをしたが、間に合わず柵で囲う前に事故が起きたなら、それは予算配分問題..政治が決めるべき・・その分野の予算が少なすぎるかどうかは地域住民・・市町村議会が決めるべきことであり、司法がこれを「道路の瑕疵」として賠償を命じるのは行きすぎでしょう。
瑕疵には違いないですが、瑕疵を補修すべき予算配分の優先順位を決める権限は立法府にあるのです。
都内では電車ホームの転落防止柵設置が進んでいますが、これも予算次第で一気に設置できず順次工事中ですが、最後になってまだ設置していない駅で事故があった場合の責任も同じです。
国家や公共団体の予算優先順位を決めるのは、民意=議会・・政治分野です。
このトータル利害調整を「有司専制」で行うのでなく、民意に基づく合理的分配をするのが政治力であり調整力です。
〇〇反対・それを廃止することによってこれまであったサービスをなくすのか?
既存サービス受益者をどうするかという問題に対しては何も考える必要がない・再軍備反対→中ソが侵略してきたらどうするかについては答えない。
〇〇設置要求運動・その施設ができたらその後の運営費や維持費など、どうするという問いには答えない・・。
あらゆる主張を通せばその必要コストに応じて他の施策の比率を減らすしかないのですが、その点に関する意見はないし議論に応じない、自分の主張を実現したいだけという無責任主張が一般的に行われています。
はじめから他の主張団体との利害調整に応じる気持ちがない・・他のことはどうでもいいから自分の主張だけを通したいという主張になります。
自分の主張が通ればその分他の予算が減るという関係を敢えて無視している人・集団は、自己実現と利害相反する他の集団との利害調整拒否する政治団体と言い換えることができるでしょう。
素人の場合、自分は素人だから、要望を出すだけで、あとは政党が全体のバランスを考えて正式公約にするかどうかを決めればいいのじゃないかと言えますが、政党自体が全体予算バランス無視で
「この分だけ予算措置を求める・その結果他のどの部分の予算が削れるか知ったことでない」
と言うようになると国家運営を任せろと言う政党とは言えなくなります。
言い換えれば、今は少数政党で弱いから弱者の意見を尊重しろと主張していますが、唯我独尊ですから権力を握った場合、他の要望は受け入れないし利害調整する気もない、独裁政党になると宣言しているようなものです。
民主党政権は八ッ場ダム工事をやめるとした場合、その穴埋めをどうするかの意見がなくて結局続行に決まりましたが、結果からみるとやめる場合の総合判断による意見ではなかったことを露呈しました。
子供が南米に2週間の家族旅行したいと言っても家計や休暇期間・健康等の都合の事情等で親が国内旅行にしようと言っても聞き入れず、駄々をこねていたようなものです。
流石に民主党政権時代に原子力発電をやめるしかないとしても約30年(あるいは30年までにだったか?)かけて徐々に減らしていく・その間に風力や太陽光発電等を育てていくという基本方針が策定されましたが、社会運営に責任ある政党としては、「ある工事をやめるまたは何かを新設する」というからにその影響を総合的に判断して決めて行く必要があったことを示しています。
原発に戻しますと、民主党政権のやめる方向の決断はいかに工夫努力しても危険性を無くせないという国民意識を前提にしていたものです。
努力工夫次第で、100%安全になるという自信があれば、30年までに?やめる決断自体があり得ないことでした。
ということは太陽光等で補充できるようになるまでの間はリスクゼロではないが、恐る恐る・できるだけリスク軽減しながら運転して行きましょうという国民合意であり、今の各野党自身そのような意図であったことになります。
山奥に行った帰り道で崖崩れがあり、絶壁の上の道路幅が半分に削れてしまいその約1キロの区間を走破するのは危険極まりないものの、そのまま山に止まれば餓死するしかないときに「100%安全ではないが慎重に通り抜けましょう」というのと同じです。
夜中に数百メートル危険そうな路地があるときに、危険を冒しても変えるしかないこともありますし、企業経営でも一定のリスク承知で新興国進出して成功することがあります。

自由民権運動の系譜1

たとえば、板垣退助に対する批判論では以下に紹介するようなものがあります。
板垣に関するウイキペデイアの中に紹介されている板垣に対する評価です。

小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]
尾崎咢堂  「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた
谷干城  「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[18]

谷干城とは板垣と同郷の士で、儒家の生まれで25歳で藩校の史学助教授となっている外、西南戦争では西郷軍の猛攻に対して寡兵よく熊本城を死守したことで知られている有能な軍人であり学習院長にもなっている教育者であり政治家です。
日本の革新系野党が空理空論に走る傾向があるのは、メデイア受けのよかった板垣の運動体の系譜を引く、企業経験や地方政治等の実務経験がないグループの弱点でしょう。
明治に戻れば板垣と大隈の違いでしょうか?
大隈重信は維新当時佐賀藩内の地方的人材で維新の英傑ではありませんでしたが、幕府崩壊による長崎奉行の仕事を佐賀藩が穴埋め的に担当したことで長崎で外交手腕を発揮し、中央から赴任した井上馨の目に止まり中央での活躍の場が与えられるとその都度外交手腕を発揮していた外、内政においても、何かある都度原則にとらわられず手腕を発揮して中央政界中枢に参画して行った経歴で実務能力に秀でた人材のようでした。
年末の給与支払いに困って旧来の太陰暦から太陽暦系に切り替えた大隈の蛮勇が有名ですが、その他混乱期に特定資金を状況によっては別の資金に振り向けて難局を切り抜けるなど柔軟性に富んだ人材だったようです。
大隈は14年政変での下野をチャンスに政党を結成したことによりその後の政治基盤を確保できて政治力を長続きせる方向に利用するなど(その後下野すると早稲田大学創立するなども含めて)社会変化に対応して生き抜く力の強い人でした。
板垣系・自由民権運動系はその後大隈と連立していわゆる「隈板内閣」として連立政権を組みましたが、利害調性的実務経験がない結果か?利害調整に最も遠い内相担当になって板垣の声望を一気に落としました。
「板垣死すとも自由は死せず」をもじって宮武外骨の『滑稽新聞』は、「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄したとも書いています。
板垣系の真骨頂は啓蒙「運動」と政府批判することにあって国会開設後は目的を達したので隠居すべきだったと思われます。
最近流行語では発展的解消といって名称変更で組織存続することが多い・・民意実現を見届けるかのように政界に未練を残した・引退した社長が後継社長を監督したがるようなもので、却って恥を晒したことになります。
以後自由民権運動系・・メデイアを含めて各種運動体は実務政治能力がない不満分子の運動体というイメージが定着して行きます。
日露戦争の講和反対の大騒動や戦後のサンフランシスコ講和反対、日米安保反対等々、多くは現実無視の反対論でした。
これを賞賛する現在メデイア〜革新系野党は実務経験より空理空論というか、理念(と言えるかな?)重視傾向・要するに「運動」すること自体に生きがいを求める人たちになっていきます。
自由民権系は、国会で政治を決める民主主義というスローガンが達成された後は、どのような政策が良いかの政治テーマを提供できず、達成後は「民主主義を守れ」と言う運動体でしかなくなったようです。
戦前はまだ民選議会が完全でないと批判していれば良かったのですが、理想とする米国肝いりの現行憲法ができるとこれを守ることが自己目的化していき、平和憲法と民主主義を守るためには改憲反対・情報公開が必要という一点?集中になってきました。
情報公開の必要性も(産業機密を筆頭に)程度問題であることは世界の常識ですし、平和を守るためには一定の自衛力が必須であることも常識ですが、こういう具体論になると口をつぐみ議論に応じません。
政府は総合的に政策実現の責務があるので、情報公開さえすれば、外交や安全保障、経済政策その他万般の重要政策について関心がありませんというのでは責任政党とは言えないでしょう。
結局政権獲得を目的とせずに、反対運動することに意義があるかのように自己目的化していき、どういうデモを組織し、どれだけの人数がデモに参加したかが強調ネタを求める人たちに特化して継承されてきたようです。
自由民権系の弱点は実務・政治力の源泉である調整能力不足ですが、この閉塞打破のためにマイノリティ=社会の少数派・主に弱者に着目して社会の陰に埋もれていくマイノリティーに光をあてることに活路を求めるしかないようです。
マイノリティーに光をあてるのは映画等の芸術のテーマにすることは意味がありますが、政党がそれを主看板にするとマイノリティ支持者中心に限定されていくようになります。
例えば医療全般の予算を増やせという場合と特定疾患者を救済のための運動とでは支持母体の規模が違ってきます。
トマト特化、ワイン用ブドウ農家特化で利権を求めるより野菜・果実全般で政治活動する方が支持母体が大きくなるように、何かに特化すれば利害調整能力不要で一致しやすい代わりに、支持母体が小さく影響力が小さくなる関係です。
大きな組織・・野菜だけでなく農産物業界全部あるいは、食品業界全部と広げれば政治力が大きくなる代わりに今度は内部調整力が必要です。
政治というものは利害プラス同情心.正義感等で動くものとすれば、lGBT運動その他マイノリティ支援に特化すればするほど政党支持率は下がるしかない理屈です。
物事はバランスで成り立っています。
映画や芸術で「弱者を忘れないで!とアッピールする程度で意味がありますが、これに特化した政党が仮に政権政党になった場合、政権運営するには無理があります。
マイノリティー保護・生活保護基準を上げろ、母子家庭保護、保育所増設.最低賃金を引き上げろ式の主張・・バラマキ型の政党が、政権担当するとその資金をどうするか・どこかの予算を削るしかない・総合調整能力の現実にすぐ直面します。

14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

任命の効力4→下野と謀反

立憲政体・憲法制定準備進行過程で、北海道開拓庁汚職?問題で追求し過ぎたこともあって、明治14年の政変で大隈重信が一時野に下りましたが、明治6年当時と違って政権も下野した方もスマートになり、野に下る→謀反人扱いでなく官職辞職した程度の扱いですぐに閣僚に復帰しています。
こうしてみると下野=反乱へ結びついた支持母体の地域は全体に民度が低かったのかな?という憶測につながります。
不平士族の乱が起きたのは主に明治新政府を構成した薩長土肥の主流プラス準主流(佐賀)の地域中心であった点が特徴です。
幕末騒乱で戦勝国=準戦勝国になりながら政権運営で意見相違を理由に下野するとすぐに反乱に転嫁したのは同じ地域出身でも頑迷派と柔軟・進取派が倒幕では一致行動していたものの倒幕成功してみると同床異夢だった違い(廃藩置県等の改革が進むと島津久光が不満だったことが知られています)が出たのでしょう。
昨日から板垣の身の振り方が気になっていますが、出身地の土佐藩はもともと幕末政争で中立的であった分公平な見方が身についていたと思われます。
権力闘争目的で幕末騒乱に参加していたのではなかったのです。
この辺は同じ土佐出身坂本龍馬が、暗殺目的で勝海舟を訪問して逆に説得されて開国派に転じたように板垣も上海に連れて行かれて欧米海軍力を目の当たりに見て、攘夷論の無謀さを知るようになったのと同じです。
要するに政権奪取が目的ではなく日本をどうすべきかの、愛国心だけで動いていたのが土佐藩だったように見えます。
このためには旧来の幕藩体制では対応できない・・下からの民度アップが重要という欧米思想を信じていたように見えます。
この点で旧来型の延長である藩主の大政奉還論・諸侯会議→徳川家主導妥協案には反対していたようですし、この点で薩摩らの倒幕に組みしたことになります。
土佐勤王等の本旨は維新政府の五箇条御誓文の精神だったので「これを守れ」いうことにあったようです。
板垣や土佐出身者の下野は薩長の派閥政治に参加できない不満でなく、「万機公論にて決すべき」という旗印で頑張ったのに薩長の独裁政権になっていくのは約束が違う・・という不満だったので、薩長内の久光的古代発想・守旧派・時代錯誤的・・江戸時代よりもっと前の王朝時代の政治に戻すべきという主張とは方向が真逆だったのです。
板垣ら(後藤象二郎など土佐出身が参加するなど)の政治理念は下野後わずか数ヶ月で提出した明治7年の民選議会設立建白書に明白に出ています。
要は五箇条の御誓文の精神を守れ、有司専制(薩長・大久保の独裁批判)はけしからんというものを骨子とするものです。
だから大阪会議に合意したという意味で請われて参議に復帰しても、自分はあくまで在野にあって民選化の定着を見届けたいという固い意思で・・政争で負けたわけでもないのに自分から辞職して在野を育てるための自由民権運動に特化していきます。
数人で企業を起こして成功して大規模化していく過程で路線違いが大きくなり分裂することが多々あるのと同じです。
建白書原文(要旨)を見ておきます。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

【民撰議院設立建白書】(抄) 【前略】
明治七年一月十七日
高知県貫属士族  古 沢 迂 郎
高知県貫属士族  岡 本 健 三 郎
名東県貫属士族  小 室 信 夫
敦賀県貫属士族  由 利 公 正
佐賀県貫属士族  江 藤 新 平
高知県貫属士族  板 垣 退 助
東京府貫属士族  後 藤 象 二 郎
佐賀県貫属士族  副 島 種 臣

左 院 御 中
臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而独有司に帰す、夫有司上 帝室を尊ぶと曰はざるには非ず而帝室漸く其尊栄を失ふ、下人民を保つと云はざるにはあらず、而政令百端、朝 出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ、言路壅蔽、困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲 す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。

困仍改めず、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能は ず、即ち之を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已。
天下の公議を張るは、民撰議院を立 るに在る而己。則有司の権限る所あつて、而して上下其安全幸福を受る者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃其政府の事を与知可否するの権理を有す。是天下の通 論にして、復喋々臣等の之を贅言するを待ざる者なり。
故に臣等竊に願ふ、有司亦是大理に抗抵せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者曰、我民不学無智、未だ開明の域に進まず、故に今日民撰議院を立る尚応さに 早かる可しと。
臣等以為らく、若果して真に其謂ふ所の如き乎、則之をして学且智、而して急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則、今日我人民をして学且智に、開明の域に進ましめんとす、先 其通義権理を保護せしめ、之をして自尊自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り。
如是して人民其固陋に安じ、不学無智自から甘んずる者未だ之有らざるなり。
而して今 其自ら学且智にして自其開明の域に入るを待つ、是殆んど百年河清を待つの類なり。
甚しきは則今遽かに議院を 立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。
有司中智功固り人に過ぐる者あらん、然れ共安んぞ学問有識の人、世復諸人に過ぐる者あらざるを知らん や。蓋し天下の人如是く蔑視す可らざる也。
若し将た蔑視す可き者とせば有司亦其中の一人ならずや。然らば則 均しく是れ不学無識なり、僅々有司の専裁と、人民の輿論公議を張ると、其賢愚不肖果して如何ぞや。
臣等謂ふ、有司の智亦、之を維新以前に視る、必ず其進し者ならん、何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり
>故に曰、民撰議院を立つ、是即人民をして学且智に、而して急に開明の域に進ましむるの道なりと。
【略】             (文は縦書、片仮名旧字体)

上記のうち以下の節は「有司専制」批判として有名な部分ですが、今も役に立つ卓見です。
「甚しきは則今遽かに議院を立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。・・何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり」

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。