ロシアの脅威10(間宮林蔵の調査と択捉攻撃)

昨日紹介したピョートル大帝の記事で分かるように、和人の知らない間にロシアではすでに1600年代から黄金の国として知られる日本との通商を目的(とは言っても勇猛なコサック騎兵を先頭にした武力による露払い)に東進を進めていたことがわかります。
スペインがアフリカ廻りあるいは中東経由でのアジアとの交易ルート以外・・逆張りの着想での大西洋廻りでインド到達を目指したように、ロシアは海路では遠すぎて英仏蘭などの海洋先進国家にはとてもかなわないので陸路を利用して日本への直接到達を目指していたのです。
日本にとっても裏からいきなりやってきたロシアの脅威は想定外のことでした。
・・アイヌ人にとってはロシア人が普通の善良な通商相手であれば、普通の交易相手が出てきたというだけのことだったでしょうが、善良な交易相手ではなかったから警戒して保護者である松前藩に通報したのでしょう。
北海道北辺に出没するようになったロシア人(といっても勇猛な戦闘集団コサック人を先頭に未知の大地を切り開く目的できたものです)は元々通商に適した民族ではないことから、今風に言えば凶暴な熊のようで脅威だったでしょうから、1700年初頭ころには松前藩には・・・こういう人たちが来るようになって「怖い」という苦情が通報されていたのでしょうか?
松前藩に関するウィキペデイアによる記事では以下の通りです。
松前藩はアイヌとの交易を通じて次第にエゾチ全域に支配を及ぼしていたらしい・・だからこそアイヌ人は以下の通りロシアの動きを松前藩に報告していたのです。
もう一度一部引用しておきましょう。
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、・・・」
上記の通り松前藩は幕府に報告しなかったものの(商品流通がある以上隠しきれません)幕府に知られてしまい、調査の結果(強面のロシアとの交渉を松前藩に委ねるのは無理と思った)幕府は松前藩支配地を松前城の周辺付近を除いた蝦夷地を全面的に上知・・取り上げて直轄支配地にしていた様子を昨日紹介しました。
漁村に不法上陸して来た場合、漁村だけでは対応出来ない・・一般人の不法上陸なら警察対応ですが、軍艦の侵入の場合にはもっと上位機関の対応が必要になるように、これを大規模にした関係です。
幕末ロシアの対馬侵攻時に幕府直轄事業にしないと地方の弱小藩任せではまともな対応が出来ないという外国奉行小栗の意見はこの例によったのでしょう。
たまたま9月10日と16日の2回千葉市美術館で開催中のボストン美術館所蔵の浮世絵・・鈴木春信(享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)展を見てきましたが、可愛い子供や娘を大事にする気風が当時の流行絵画になっている・・鈴木春信の錦絵が最盛期を迎えたのは明和年間(1760年代末)のようです。
この錦絵によって庶民は江戸開府以来の約百五十年以上に及ぶ平和の恩恵を享受している様子・・その後の浮世絵の本格 発展の萌芽を目にすることができましたが、その裏で同時進行的に太平の世を脅かすロシアによる侵略の危機が遠くからヒタヒタと迫っていたことになります。
間宮林蔵の活躍はだいぶ時代が下りますが、それでもアヘン戦争よりはだいぶ前です。
以下間宮林蔵に関するウイキペデイアの記事を紹介します。
これによるとすでに文化4年・1807年に間宮林蔵が択捉島駐在時にロシア軍の襲撃を受けた記事が出ています。 
有名人の関与した事件であるから、こういう幕府の記録が歴史家の目に留まり引用され残っているのでしょうが、交渉ごとがうまく行かないとすぐ武力を振るう・・この種のロシアとの揉め事がしょっちゅうあったような印象です。
当時からロシアは、平和な話し合いがなりたたないクマを相手にしているような物騒なクにだったのです。
その翌年の樺太探検・間宮海峡の発見に繋がります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。
「林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。
林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン[2]」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している」
一般的に幕末の危機感の盛り上がりはアヘン戦争による清朝の香港割譲に日本がショックを受けたという教育が普通ですが、アヘン戦争は1840年ですから、そのおよそ百年ほども前から・・西欧の侵略脅威よりもロシアの脅威が先にあったことが、これまで見て来たことで分かるでしょう。
ところで19世紀の西欧列強の外交を砲艦外交とは言うものの、ロシアのように裸の武力行使による侵略ではありませんでした。
ペリー来航時の交渉も砲艦は背後にあっとしても、現在のアメリカ軍背景の威力による国際交渉同様に一応法原理・道理による交渉が可能な相手でした。
※ただし、一方的情報しか知りませんが、これまで日本で教育・報道されている限りでは、アヘン戦争は密輸禁圧に対する攻撃によるものですから、文字どおり仁義なき戦いでしたが・・。
アヘン戦争を除けば、西欧の作ったものであっても(今も各種ルールは欧米が事実上主導しています)・・ロシアを除けば一応道義・ルールに基づく交渉可能でした。
だからこそ、平和が続き多角交渉時代に入ると、道理の通る割合が増えるので強国の割にうまくいかないアメリカのトランプ氏は業を煮やしている・・1対1の取引外交に戻りたいのでしょう。
だいぶ前に書きましたが、アメリカも格好つけていられなくなって、ロシアや中国のように無茶をやりたいという地金が出て来たのです。

ロシアの脅威9(幕府の認知と海国兵談)

林子平の海国兵談がいつ書かれたかに関するウイキペデイアの記事です。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
1738年に生まれた林は洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったために出版に応じる書店がなかった。このため、天明7年(1787年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終えた。直後の寛政の改革によって版木を没収されてしまったものの、自写による副本を秘かに所持していたため、後世に伝わることとなった。」
林子平の海国兵談は1787年の自費出版ですから、思いついていきなり高度な本を書けませんし、先ずそのような関心・意欲を抱くには、そのだいぶ前からロシアに対する危機感を抱いていた人がかなりいてその影響を受けていた(洋学を通じて西欧系のロシアに対する危機意識の影響を受けていた可能性もあります)・・本を書かないまでも、相応の先達がいた可能性があります。
北海道網走根室宗谷方面は、当時の徳川政権にとって滅多に情報のない遠方ですから(林子平は仙台藩藩医であった兄の居候でした)本土にいる学者(当時学者という職業がありません)が危機感を抱くには、その前に相当の情報が広がっていたことになります。
ウィキペデイアの松前藩によれば以下の通りです。
「当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。」
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。」
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。
松前藩がアイヌからのロシア情報を幕府に報告しなかったものの、幕府の知るところとなって調査団が派遣されたのは1785年からであり、上知を命じられたのは1799年のことですから、海国兵談発行(1785)は幕府の調査開始とほぼ同時です。
彼の著書発行計画が契機となって幕府の調査が遅れて(慌てて)始まった可能性もあります。
松前藩が隠していても幕府にバレたのは、北前船または東廻船の普及・・松前藩を窓口とする交易の活発化にあると思われます。
ウィキペデイア記載の北前船の始まりと寄港地は北海道に限定すると以下の通りです。
「例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した」
これが北前船の走りだそうです。
その後んどんどん発達して一大動脈になります。
北海道では箱館、松前、江差、熊石、上ノ国(以上渡島国)、紗那、泊(以上千島国)、根室(以上根室国)、厚岸、釧路(以上釧路国)、様似、門別(以上日高国)、苫小牧、室蘭(以上胆振国)、小樽、余市、寿都(以上後志国)、久春古丹(以上樺太)
ただし、上記は明治30年頃まで盛んであったころの完成形の寄港地であって、いつ頃から千島や根室,樺太まで行くようになっていたのか私にはわかりません。
各地の郷土史関係のホームページに入れば分かるのかもしれませんが今日はこのくらいにしておきます。
冒頭に紹介したように松前藩は本州の大名のように農業収入によらずに蝦夷地と和人との交易仲介で藩財政が成り立っていたのですから、上記のような本格的航路開設の前から通商窓口になっていたので、おのずから各種情報が内地に漏れ出る関係にあったでしょう。
「ロシア人が根室にきて暴れた」などの新聞や文献情報があったとは思えない・・林子平の著書が最初とすれば・知識階層では新たに出現して粗暴な行動に走る傾向のあるロシアに対する口コミ?情報が集積され関心が高まっていたのでしょう。
彼が仙台にいて北海道更にその先の千島列島との境付近の情報を得てから、危機感を持ち、さらにそれを著作にするまでには、10〜20年単位の時間差があったように思われます。
(松前に行ったのは、物見遊山に行って偶然知ったのではなく、危機情報に触発されて現地を実地に見るべく行ったと見るべき・・危機情報の具体的収集目的で行ったものと思われます)
林子平の人となリは以下の通りです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。」
上記の通り1787年出版の仮に10〜20年以上も前から現地人が怖がっている情報を得た可能性があります。
1738年生まれの林子平が成人した頃の1760〜70年ころには、以下のピョートル大帝の時代から約7〜80年も経過していることを見れば、すでにロシア人が武力を背景に樺太〜北海道付近に頻繁に出没してアイヌの人がかなり困っていたから松前藩に通報があったのでしょう。
アイヌ人はもともと日本列島を根拠地としながら北方系・・千島列島やシベリア〜満州北部〜今の沿海州方面との交易を行なってきた平和的種族です。
・・・この辺の事情は15年ほど前に函館市内の美術館を見学して知った知識をこのコラムで書いたことがあります。
アイヌはシベリア方面の異民族との接触に慣れているはずですが、そこに従来型暗黙のルールでの交易無視の暴力主体のロシア系集団が現われたので松前藩に相談するようになったのでしょう。
ロシア史から見れば以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1303-004.html
「ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。
 ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下」
ピョートル大帝については以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-148.html
「また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間で1689年にネルチンスク条約を締結し、国境を確定した。また1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフにカムチャツカ探検を命じ、日本との通商路を探った。晩年にはベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ベーリングはアラスカに到達した。」
以上によると、1600年代末から、太平洋に到達していたこと・進出を果たしていたことが分かります。

ロシアの脅威8(アイヌとは?)

昨日日露和親条約を紹介しましたが、交渉時の経緯を見るとアイヌとは言うものの彼らを日本は異民族とせずに日本人の仲間であるが、せいぜい職業・居住地(会津人と言うように)が違う程度として日露双方が扱って来たし、アイヌもそれを当然と受けとってきたようにみえます。
アイヌ人は元々漁労狩猟等を生業とする生活者で戦闘要員的素質がありません・これが稲作その他農業生産の北上につれて生活圏が縮小していった・・あるは稲作その他農耕生活を取り入れないであくまで狩猟をやめなかった職業人をアイヌというようになったのかも知れません。
今の列島内でも「またぎ」等の狩猟に頼る職業人がなくなっていき、漁民その他居職人関係者が減って行くのと同じす。
私は「アイヌ人」別人種というものはない・狩猟や川魚を取るだけの職業を営む生活圏が関東地方から順次縮小していったただけの日本人の仲間でないかという素人的感想を抱いています。
日本列島がこの地域まで東西に延びているのが、関東から急速に北向きに折れ曲がっているので、縄文・弥生の混在とは言うものの農耕文化の拡大がこの辺の緯度で長年足踏みしていたことがわかります。
元々農耕向きの気候でなかったので遅くまで縄文式生活が残っていたのですが、これが気候変動と品種改良によって徐々に北上するにつれて縄文式生活圏が縮小・徐々に農耕に転職して行く人が増えてきた・旧来縄文式職業人がへってきたということでしょう。
明治以降で言えば、農漁業従事者が徐々に減ってきたのと同じです。
農民や漁民を小数民族という人は誰もいないでしょう。
雑貨屋やホカホカ弁当屋がコンビニに負けて無くなっても先住民保護という人はいません。
日本列島内で昔あった職業がなくなって行く事例はいくらでもあります・それら職業人等を〇〇人ということがいくらでもありますが、それは〇〇地域の住民とか職業集団をいうに過ぎないのであって民族集団ではありません。
ロシア人が知床に来た時に、現地アイヌ人が「大変だ」とまず支配者である松前藩に通報したのは和人と言う異民族に支配されている人たちというよりは、自分を守ってくれるありがたい関係・・例えば本州内の戦国時代に領国沿いの山奥で狩猟採集している職業集団が山向こうの領主が密かに山越えを準備していると知って大急ぎで平野部にいる領主様に通報するような関係に似ています。
北海道防衛に戻しますと北海道の知床〜根室あたりの防衛のために、寒さの経験のない本州の武士団をいきなり送り込んでも・・大勢の戦力を北海道縦断で陸路送り込むのは後続兵士投入路〜食料補給に窮しそれだけでもどうにもならなかったでしょう。
この経験から明治維新後北辺の防備にはまず地元勢力の育成が必須ということで、急速に北海道への屯田兵入植政策が進見ました。
この防衛基本戦略は満州への開拓団送り込み政策にも影響を与えたでしょう。
対ソ満州防衛では日本が、アメリカに降伏した後だったのと対米軍との最前線であった占守等防衛と違い、ソ連とは不可侵条約があったので安心して?精鋭を南方へ転出させていたので、ソ連軍の侵入に対して戦わずして降伏した結果開拓団がいても兵力供給源として貢献できず却って、開拓団の存在が敗戦時に被害を大きくしてしまった・・千島列島のようのスムースに民間人避難ができなかったことになります・・。
対馬上陸事件に戻ります。
ロシアは日露和親条約締結でお互いの国境線確定が終わっていた(樺太に関しては未定のままの条約)のに対馬に無断上陸・侵入したことになります。
そこで日本はロシアの行為は国際ルール違反であると列強に協力要請できた法的根拠があり、当時の覇権国=ルール担保権者である英国が黙っていられなくなったのでしょう。
ロシアの対馬上陸事件に対するイギリスの介入はイギリスの威信を示すチャンスでもあり、日本のためにここで動いておいた方が後々メリットがあると考えて動いてくれたと思われます。
日本では、ソ連発のコミンテルンの影響を受けた思想界支配の結果か?何故かアヘン戦争による西欧列強への危機感の覚醒ばかり強調されています。
本当の日本の危機は、江戸時代中期から幕末にかけて北辺に出没するようになっていたロシアの対日進出意欲でした。
日本では百年ほど早くから恐れられていたロシアの動きを報道したり教育したりあるいはこれを描く文芸作品は滅多に出てきません。
西欧諸国と接触の歴史はロシアよりも早く戦国時代頃から徐々に始まっていましたが、それは東南アジア諸国〜ルソン〜台湾や沖縄の海上ルートあるいは中国を経由しているので事前情報が豊富でした。
仮に戦争になっても相手は海路何万里の彼方からくる関係で、砲撃戦で一時的に負けても持久戦で追い払らえる自信がありました。
これが気楽に薩英戦争や長州の4国連合艦隊との戦争をできた原因ですし、負けても全く何も譲る気持ちがないと頑張りきれた背景です。
西洋列強も上陸敢行しても日本得意の夜襲につぐ夜襲を受ければ橋頭堡を維持できないリスクがあるので、結局なにも得ないで引き下がるしかなかったのです。
対ロシアでは知床付近どころか北海道全域に地元武士団がゼロですから、持久戦・夜襲に持ち込む下地がありません。
ロシアは本拠地から遠いとは言っても地続きですぐ近くまで来ている強み・地続きなので飛び地確保ではなくじわじわと侵食してくる脅威です。
ここが、飛び地確保に頼る西欧列強の脅威とは本質的に違っていました。
日米戦も最後には、この伝統的手法の有効性を沖縄防衛戦で立証した結果、(艦砲射撃の届かない内陸戦になると火力優位の威力がなくなる・・幕末ころにはなおさらでした)米軍が本土上陸作戦実行をためらうことになり、ポツダム宣言受諾を強要するために原爆投下したというのがアメリカの主張です。
対ロシアでは日本の伝統的国土防衛手法が成立しないことを知っていた幕府の対ロシアの脅威は半端ではなかったでしょう。
このマイナスを防ぐには国防面では日本が優勢な相手である欧米との交渉によって、(領土では一切譲らない代わりに貿易で譲る基本・・小笠原その他帰属のはっきりしない島々もアメリカに認めさせてしまいました)ルールを決めてロシアをこれに従わせるしかなかったことにとになります。
私は幕末の日本側の基本戦略は大成功であったと思います。
今後さらに数十年以上かかって明治政府系統の流れが終わり、一方でコミンテルン支配が残る思想界が正常化すれば、日本の近現代史が書き換えられて行くのでしょう。
以下、ロシアの脅威がいつ頃から始まったかについて私なりに見ていきます。
幕末というよりも江戸時代中期以降対ロシアの脅威を前提に海防の必要性が盛んに議論されるようになっていたことは、林子平の海国兵談などの書物が発行されるようになったり、間宮林蔵の樺太探検がおこなわれた事跡により明らかです。
海国兵談や間宮林蔵の樺太探検程度のことは学校でも教えますが、そこから約80年も後のアヘン戦争に何故か歴史教育が直結誘導していくのですが、彼ら国防を憂える人々の活躍は全てロシアの脅威に対するものであって西欧列強の脅威の始まるずっと前・・80年近くも前からだったのです。
80年前と言えば、日本敗戦からまだ70年過ぎたばかりですから、今よりも寿命のずっと短い時代における80年の差の意味が分かるでしょう
江戸時代の人たちは、もっと早くから西欧の動きを知っていましたが、それほど脅威に感じていなかった・・本当はどちらの方が怖いか早くから良く知っていたのです。

ロシアの脅威7(日露和親条約)

関税と違って主権にかかわるので重要性が違うという人がいるかも知れませんが、治外法権制度も領土さえ失わなければ実際に不都合な事件が起きれば・・例えば沖縄でちょっとした?事件が起きる都度米軍地位協定の見直しが行われてきたのを見ればわかるように、不都合な事態が起きればそれに合わせた修正可能です。
また治外法権でなくとも、幕末に異人の殺傷事件が起きると幕府は放置できず幕府は厳罰に処してきました。
米軍関係の治外法権を残すのが嫌・米軍基地も出ていかないなら返してもらう必要がない・・・ということはこういうものが残るならば主権回復不要論となりますが、この種のバカげた主張がメデイアと旧社会党意見でした。
このメデイア攻勢のために、早期円満返還を求める政府としては何もかも反対では返還交渉ができないので基地を原則現状維持とする外密約が残ったことになります。
今でも基地が残ったことに対して沖縄にだけ「負」を押し付けているというのですが、押しつけているのではなく、基地付きでも返還された方が良いから返還を求め沖縄県民も一刻も早い日本復帰を求めた結果を無視した意見です。
基地付きでないと返還が無理であった現実を前提にその後出来るだけの基地縮小交渉や地位協定等を少しずつ改正しながら現在に至っているのですから、沖縄県だけに日本全体が押し付けているのではありません。
国際情勢の変化で三沢基地等の比重が下がったのに対し、中国の台頭により沖縄の戦略的比重が上がった結果沖縄基地の重要性が低下しないのであって特に沖縄に対して意図的に犠牲を強いているものではありません。
沖縄の基地反対の論理は基地付きでもいいからと返還してもらった後で、主権国家に米国基地があるのが許せないという無茶を言っていることになります。
韓国の徴用工問題などの蒸し返しに似た思考法ですから、どこの国がバックにいるのかと疑問に思うのは仕方のないことです
基地問題は、これを受け入れて平和裡に返還された以上は、価値的に相容れない反対運動ではなく、地位協定の条件改定運動同様に文字通り対話によって粘り強く米国と交渉していくしかない分野です。
ソ連の側から見れば、アメリカによる戦利品・・占領地である沖縄の返還=日本主権回復は困る・・北方領土返還運動に発展するから無条件返還という米国が飲めるわけのない完全条件要求運動を応援したい・沖縄返還交渉を決裂させたいのは分かりますが、日本人の立場からすれば、不完全でもまず主権回復の方が良かったのです。
サンフランシスコ講和条約の時も革新系政党はソ連を含めた全面講和以外絶対反対・何十年先にあるかすらわからない半永久的・・米ソ冷戦が終わるまでは日本は独立する必要がない・・米軍による日本占領支配が続いた方が良いというのが革新系政党とメデイアの主張でした。
米ソ冷戦が終わっても今なお米露が争っているように、完全平和などあり得ない条件をつけていると日本は本日現在も主権回復していなかった・・結果的に今なおアメリカの占領支配下にあれば、米国産業を脅かすことなど許される余地がない・・高度成長などできなかったし、現在の繁栄もあり得ない・・今の北朝鮮のように食うや食わずのままで独りよがりを言っていた可能性があったでしょう。
講和条約で言えば、完全無欠でなくとも一刻も早く独立国家になることが先決であるのと同様に、沖縄返還も国益を総合すればかなりの部分で譲歩しても領土主権をまず確保することが先決です。
領土主権さえ確保すればあとは時間をかければ、細かな条件は円満な関係が続けば何とかなっていくものです。
背後の中ソ応援を受けていると円満な付き合いよりは対立を選ぶでしょうから、余計こじれるのです。
現在も中国さえ日本を威嚇しなければもっとスムースに基地縮小が進むはずです。
一方で威嚇して基地縮小が進まないように仕掛けながら、もう一方で背後で基地反対運動をけしかける・・それに乗るグループがいるから複雑化します。
幕末の不平等条約締結のメリットに戻ります。
問答無用のロシアの圧力・危機緩和のためにはさしあたり英米を中心とする西欧勢と条約を結び領域確保するしかない・・その結果ロシアもその例に倣うことにならざるを得ないように仕向けたメリットがあったのです。
1854年3月に日米和親条約が締結されるとこれがその他西欧諸国の基本例規になり、ロシアもこれに従って55年2月の日露和親条約となり、函館に領事館をおくようになったことを9月15日に紹介しました。
この点は江華島沖事件の紹介で少し書いたと思いますが、簡単でないものの大まかにいうと条約締結していない国との間では(領土範囲が決まっていない以上?)どこ国の船が湾内に入ろうが自由であるというのが不文律の国際ルールになっていたようです。
ロシアは和親条約を締結した以上は、勝手な湾内侵入権がなかったし、ましてや勝手な上陸権などある筈がありません。
日露和親条約で国境線確定に至らなかったカラフトについては、アイヌ人の居住区域で分ける基本線を前提にしていたのですが、アイヌ人の居住区域がはっきりしない面があって、将来の成り行きで決めようと言う現実的交渉の結果国境線確定が先送りになったようです。
また以下によると領土以外は変更が簡単・片務契約の点は双務にすぐに変更されています。
日露和親条約に関するウィキペデイアの記事からです
主な内容
千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
ロシア領事を日本に駐在させる
裁判権は双務に規定する
片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の安政5年(1858年)に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
樺太国境交渉
条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。
長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部のアニワ湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。
安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した
その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。」

ロシアの脅威6(多国間交渉のメリット)

日本軍が南方方面へ支配拡大していった現地でも末端兵士にいたるまで無法なことしなかった・・自分が飢えて死のうとも現地食料調達や個人的略奪を一切しなかったのは日本の支配者が民の福利優先政治を実践していたからです。
兵の末端に至るまでみんなが自律的にルールを守っていたのは、日頃から上に大事にされていたので自分が上・支配者に立てばどんな野蛮なことでもできるという夢・・そのような理不尽な被害を普段受けていないからです。
(インパール作戦の失敗・糧食の補給準備がなかったことによると言われていて・・その結果死屍累々・・その多くが餓死者です・・が現地食料調達しなかったのです)
庶民に対する過酷な支配をしている社会では、戦争に勝てば権力層は支配地を増やせるし日頃圧迫されている人民・戦士には恩賞の分配として捕虜や敗者の女性に対して日ごろ自分が受けている非人道的扱いの何倍もの非人道的行為を奨励し鬱憤晴らしに利用する仕組みになります。
ローマでは、戦争に勝てば負けた方の民族を家畜並みの境遇に落とすやり方が普通であったのは、それだけ民族内の上下支配が過酷であったことを表しています。
具体的イメージはアメリカ映画で有名なベンハーの物語でしか知りませんが、アメリカ映画ですからローマ支配のマイナスを強調するために作ったものではないでしょう。
権力さえあればどのようなひどいこともできるという価値観・・国内過酷支配のガス抜きを兼ねた領土拡張戦争の場合には、侵略した場合に人権蹂躙が激しければ激しいほどその目的を満たせます。
中国の歴史では、戦いに勝つと相手武将をトコトンいたぶるのが常態化しているのは、勝てば・権力を握ればどのような非道・残虐なこともできることを配下武将に誇示する意味もあったのでしょう。
日本では天皇制が象徴するように権力を握り権力に近づけば近づくほど「空」に近づくのを理想とする社会ですから根本が違っています。
民間企業でもトップに近づけば近づくほど腰が低くならないとやっていけません。
スポーツであれ戦争であれ、出世競争であれ勝てば勝つ程「上に立つべきものの徳」を示さねばならないのが我が社会です。
ソ連や中国の敗者に対する想像を絶する暴虐の歴史は、日頃理不尽な不利益を受けている弱者には、支配と被支配の入れ替わり願望・貧者に宝くじ願望が強いのが普通ですから、日頃から末端兵士や少数民族の鬱屈支配を前提にして、その解消策に利用していたと見るべきでしょう。
ソ連軍の満州 侵入時で言えば、戦争相手を支配下におけば暴虐行為を出来ることを餌にして下層階級や少数民族を使い捨て要員として戦争に駆り出しているのですから、当たり前の恩賞だったのでしょう。
このように見ていくと大災害や戦乱で警察力のなくなったときの略奪行為の多さやレベルによって、(立派な人権保障制度があるかどうかではなく)その国の下層階層の置かれている社会的地位・・支配層のしている政治レベルが反映されていることが分かります。
ところで、トランプ氏に限らずアメリカが基本的に多角交渉を嫌がることをトランプ氏の取引外交のテーマで書いたことがありますが、多角交渉では複雑な思考力が必要というだけではなく、強者の論理を通しにくくなるからです。
この20年ばかり多国間交渉時代に入って、アメリカがせっかく世界一強なのに強者の論理を貫徹できないことが続いたことに不満を出し始めたと見るべきでしょう。
ロシアの対馬上陸事件で解決をみたのはイギリスのお陰でしたが、江戸幕府は多角交渉の有利さを引き出そう(列強間の条件競争を引き出す)とした・・その成功例と解釈すべきです。
我が国の教育では、江戸幕府の失敗を言いたてたい明治政府の影響で不平等条約ばかりに焦点を当てていますが、その時点では早く条約(領土支配範囲の確定)を結ばないとロシアのように実力占拠のリスクに迫られていた点を重視すべきです。
今のTPP協定の賛否同様で何事も有利な面とマイナス面があるのが当然で、その一部不利な面だけ取り出して批判するのは間違いです・条約や契約は一方にだけ有利な条件はありえない・・相互関係です。
幕末に西欧列強との条約交渉中に内容に一部不満があっても当面西欧列強が押し寄せている中でもロシアの強引な実力行動を日本は独力で制御する方法もない状態でした。
対馬でさえ上陸阻止が事実上無理であったのですから、もっと遠隔地で和人のほとんどいない北海道への事実上の侵入・移住を阻止するのは不可能であったでしょう。
日本は白村江敗戦後の北九州への防人動員や中世の元寇防衛戦でもすべて外敵は九州方面からくる前提でした。
日米戦争最後の決戦も5月の沖縄防衛戦から始まっています。
九州には古代から地元武士団が集積していて地元武士団を主力として各地から応援に入る仕組みですし、幕末でも西欧列強が進出してくる正面進路には、薩摩や長州などの強力地元武士団があったなど、歴史的に西南方面での防備経験が豊富です。
しかし、北海道方面からの敵攻撃を古来から全く想定していなかったので防備は手薄どころか、北海道北辺の地理さえまともに理解出来ていない状態(これがのちの間宮林蔵らの活躍になるのです)でまるで備えのない状態でした。
地元で主力になって戦ってくれる勢力のない(当時北海道は農耕地に適さない状態でアイヌ人と言うより人ががまばらにしか住めなかったので知行として石高表示しなかったと言われ、〇〇石待遇という扱いでした。
松前藩の主たる収入はアイヌの漁猟や毛皮等の交易管理による収入だったようです。
ウィキペディアによると以下の通りです。
「江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった[1]。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。」
結果的に・・本土の武士・・農地確保に命をかける一所懸命の精神とはおもむきが違っていたのは当然です。
松前藩の業務は交易管理業務中心である結果?松前藩の武力は貧弱で・明治維新後新政権側についたために旧幕府軍・五稜郭軍の攻撃を受けて籠城した兵はわずか60名ですし、松前付近に集中しているので遠隔地の知床方面で、ロシアと戦う主力戦力には到底なりません。
知床周辺に居住するアイヌ人自身が(九州地元民と違い)戦闘的気質の弱い職業集団ですから、(だから松前藩の保護下にあったのです)戦闘要員供給源になり得ません。
幕府としては多国間交渉に持ち込まないでロシアと1対1の領土交渉ではどんどん北海道に上陸して住み着かれるのを実力阻止できないのでどうにもならない・・当時の日本は押しまくられてしまうのは目に見えていました。
そこで先行的にアメリカとの基本的取り決めを原則としてその他諸国がその例に倣う方式を選んだのは、国際情勢を冷静に睨んだ賢明な選択でした。
ちょっとした不平等な取り決めはその後次々と条約改正交渉が成立していきましたが、領土を割譲するような条約を結んでしまってから、平和な交渉で取り返すのほぼ不可能になります。
これが国際関係のゆるがない大原則ですから、税率などは後でどうにでもなるものですから、譲って良いものと譲ってはならないものとは大きな違いがありました。
その時点ごとの優先順位を決めることが肝要です。
関税や裁判権などの修正交渉は一定の期間かかるとしても、国際交易力の実力アップ次第であとででどうにも変更できる項目です、
そもそも・・・交易条件を条約で決めても貿易品は生き物で交易品の優劣がすぐに変わっていくのでこの変化に合わせて修正交渉を行うのが原則です。
その意味では領土保全の緊急性の前に交易条件や一定範囲の治外法権を譲ったことを、あたかも大失敗のように宣伝教育する明治政府系統の学者はフェアーではありません。
この数十年で見ても、毎年のようにWTO交渉〜FTA、EUとのEPA交渉、TPPその他年中行事のように関税(交易条件)交渉をしているのを見れば明らかです。