国(くに)とは?4(日米和親条約)

現在人はいわゆる華夷秩序が意識の前提にあるので、自分の支配地域を国というと中国王朝の属国・・半独立国のイメージになるような固定観念が邪魔するのですが、華夷秩序は超古代から存在するものではなく国の上に君臨する秩序を宣言したのは秦の始皇帝が最初です。
それ以前には他地域支配者相互に国と表現していたのではないでしょうか?
相手が帝国というなら帝国でもいいし合衆国というならそれでもいいという日本の態度であり、華夷秩序外の欧米同様の態度ではないでしょうか?
実際に日米和親条約時の米国の態度はそういういうものでした。
日米和親条約をウイキペデイアで見てみました。

英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」であり、前述のように「Treaty of Kanagawa」と通称される。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ratification_of_the_Japan_USA_Treaty_of_Peace_and_Amity_21_February_1855.jpg?uselang=ja
これによると第一条に
「日本と合衆国とは、其の人民は永世不朽の和親を取結び・・・」

「安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[31]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[32][33]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[34]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[35]」

国際社会では、誰が日本を代表するのかを気にしていますが、日本が帝国か、皇帝か国王かなど気にしていないのです。
双方署名欄部分のコピーが見られないので日本をどのように表現して署名していたか不明ですが、日本は第一条ではアメリカを国と表現しています。
ステートを国と習いますので、United States というのはまさに日本が三河国や尾張国などいくつかの国等で成り立っているという表現と同じです。
岩倉使節団のビクトリア女王宛の全権大使委任状を見ると大日本帝国と書かずに日本国天皇としています。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/Iwakura-mission/photo/ininjou/index.html
公文附属の図・国書御委任状・第五号 大不列顛愛倫皇帝ウィクトリア陛下
請求番号:附A00302106 国立公文書館所蔵

日本の朝廷が大王(おおきみ)から天子、天皇の称号を唱えるようになるのは、聖徳太子の頃のようですが、正式公文書で決められたのは大宝律令(701年)以降のようです。
皇帝に関するウイキペデイアの説明によると以下の通りです。

「天皇」号の使用は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[27]。

以上によると聖徳太子の頃から中国の王朝に冊封された王とは違うという意味で強がって天子と名乗ったことがわかりますが、だからといって帝「国」と主張した訳ではありません。
自国は帝国ではないので「国」であるが、華夷秩序に入って属国として「冊封された国ではない」という意味で天子と名乗ったのでしょう。
日本は中国歴代王朝に冊封されず、独立国の立場でやってきたというのが一般的理解ですが、聖徳太子以前の紀元前からの歴史がよくわからない教育をされ、それを鵜呑みにして迂闊にも私はその前時代を考えたことがありませんでした。
しかし近年考古学の大発見が続き日本の古代史が大きく変わってきました。
三内丸山遺跡発掘でわかってきたように、実は紀元前の縄文時代から大規模な集落を営み、かつ広域の交易をしてきたことがわかってきました。
聖徳太子から始める歴史(上記ウイキペでイア説明を含め)は無理が出て来ました。

三内丸山遺跡とは

三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

しかも、これだけの規模の集落が営まれてきたことから大規模な交易が行われてきたことも分かってきています。
ここから分かることは、聖徳太子以前の4〜5千年も前から日本列島外の諸集団と国際交流が行われていたことになります。

「さと」(郷と里)4

法人実在説論争に深入りしましたが、地方単位・・20年2月19日「江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2」の続きです。
「おさとが知れる」という時は(家風の文化水準)同族集団的古代集落単位を指し、「おさとはどちら?」という時・・故郷・・どちらかといえば江戸時代までの旧国名を主に指します。
お上から強制的な漢字の当てはめが通達されるとみな従うので文献上一挙に借り物の漢字「評」は完全抹殺されますが、発音としての和語がいわゆるオーバーラップして残るので、元の「こおり」と新たな郡とは少し範囲がズレるのでそっくり同じではありません。
国の造(みやつこ)に関するウイキペデイアによれば、国造が廃止されて国になったときの国と評の関係が表になって出ています。
大和の国に元3名の国造、山城国に元2名などの表が出ていますが、制度変更には領域や権限に変更を伴うことが多いことがわかります。
名称が変わるにはそれなりの理由があります。
我々の仕事分野・法の改正・禁治産制度が被後見制度に変わっても一見元の後見業務と似ていますが、制度目的が変わったので、運用の方向性が変わった・・資産保護の目的から被後見人の人間保護(資産保護はその1部)に変わったのと同じです。
郷里制に戻しますと、自己紹介で長野県出身というより木曽ですという方がイメージが伝わりやすいでしょう。
都道府県単位になってまだ約100年あまりでしかないので、民族的な一体性・特徴の紹介では旧国名の方がわかり良いからです。
今は大都市住民の多くが地方から出てきた2〜3世の時代ですので、東京ですというより多くの人が親の出身地をいうのも聞いている方の気持ちに応じる結果でしょう。
日本の「むら」がいくつか集まった「さと」やこれがさらに大きな単位になった「こおり」を朝鮮半島では評というらしいのでこれにするか!となって日本では「評の」漢字をあてていた可能性があります。
そもそも、朝鮮では原始集落に「評」の漢字を何故当てていたか不明ですが、ネット上でその原義まで書いたものが見当たりません。
朝鮮語の発音が漢字の「評」の発音と似ていたから?というの普通の推測ですが、私の素人憶測です。
「こおり」と言い習わしていたものを漢字導入初期に朝鮮では「評」と表記されていたものを借用していたものの、大宝律令制定を機に郡に変わったのではないでしょうか。
もともと借り物の漢字表記なので中央の命令で「今後こおりの表記を郡とする」と指示があればこれに従うのに何の抵抗もなかったでしょう。
律令制導入時に各地のいくつかの「こおり」=権力単位を集めて一つの国に編成し直したときに地域実力者数人が?郡司に任命され、中央から派遣国司との両立体制になったのだと思われます。
ちなみに日本では明治維新まで中国の地方制度・郡県制を導入しながら、県だけ採用しなかったのは、中国のような末端まで行き渡る中央集権体制・・社会が明治まで成立しなかったからです。
千年以上にわたって地方体制がいろいろ変わっても、もしかして縄文の昔・・紀元前何千年前から庶民は雑草のごとく踏まれても踏まれても、庶民・原始集落はその場にしがみついて縄文時あぢのDNAのまま変わることなく生き抜いてきたように見えます。
戦国時代から見れば、足腰になる地元国人層が(古代豪族から武家層に入れ替わって)戦国時代に信長や秀吉〜家康に攻められて支配トップが追い払われても、地元民はしぶとく生き残りますし、地元武士団.国人層の多くも本領安堵が原則でした。
武田家が滅んでも配下武将・・真田昌幸はその機に自立しましたし・叡山焼き討ちや根来攻めがあったと習っても、現在まで延暦寺や根来寺が残っています。
古くは、各地の神々(氏神様)がそのまま残っているのもその一態様です。
中国古代の郡県制はウイキペデイアによれば以下の通りです。

先秦の郡県制[編集]
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
漢代以降[編集]
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。

中国での郡県制の内容はしょっちゅう変わっていますが、共通項は中央政府の官僚が派遣されて地方を直接統治する仕組みだったことになります。
明治維新以降日本の歴史始まって以来の郡県制採用ですが、日本の場合県が上位で郡がその下部機構になっています。
現在の県域は、大方の場合旧国名を数カ国(千葉の場合下総、上総、安房の3国)まとめた大きさになっていますが、律令体制下での国は、その前にあった国造を数名集めて1カ国にしていたことを冒頭紹介しました。
国造の支配地域と「こおり」の範囲の関係がはっきりしませんが、もしかするとほぼ同一だった可能性があります。
古代の地域単位としての「こおり」をいくつか合わせて律令制下の旧国名となっていたのですが、前漢の郡国制を見ると直轄地は秦同様の郡県制であり、遠隔地で直接支配困難地域を国として王として半独立的支配をさせていました。
郡国制に関するウイキペデイアの記事です。

帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。

奥田愛基氏(SEALDs)とは?4(自己認識)

メデイア宣伝の虚構性に戻ります。
アルバイトして大学院の研究出来ないとは言えませんが、バイト主役では受け身の講義を受ける程度で単位をもらえる学部生と違い自発的な研究(・・まずは指導教授のもとでの地道なデータ収集のお手伝いその他の下積み修行)が必要な大学院生には通用しません。
なんとなく地味な研究などやる気がない・・始めっから逃げている印象を受けます。
8月12日紹介した19年3月の神奈川新聞https://www.kanaloco.jp/article/entry-155274.htmでは、

「今、都内で広告関連の仕事をしているそうです。」とあります。

アルバイトから脱して音楽系イベント企画して走り回るようになってれば、もはやアルバイトの域を超えているのではないでしょうか?
大学院は勉強したくて進学したのではなく、格好付けにメデイアが用意してくれた逃げ場だったに過ぎない・・進学後すぐに学業そっちのけにして自分の生きる道を探していた結果広告業なら生きていけると活路を見い出したということではないでしょうか?
天下の一橋大学がメデイアから依頼あれば、大学院生に必要とされる素質・レベル無視でなんら研究下地もない人材を無条件で入学させるのか?
大学の宣伝のために体育系別枠入学と同じ便法なのでしょうか?
学者世界がメデイアと持ちつ持たれつになっている現状が、浮き彫りになったような印象を受けますが?
津田大介氏の経歴でも、意味不明な客員教授等の肩書きがありましたが、メデイア会で有名になると年に何回か特別講義をしてもらう程度の仕事・事実上名称だけの資格を与える大学があるのかもしれません。
学者はメデイアに弱い・ジャーナリストは失言等でテレビ出演がなくなる→メデイアのゴリ押しで実力不相応の進学をしたが、指定推薦入学の問題点同様に進学と同時に大学院研究レベルについていけないで居場所をなくした現実・進学に際して不公正なコネが働いた可能性が高いことを示しています。
インタビュー引用続きです、

自分だって、政策に反対の声はあげているけど、コールしながら、『この問題は安倍政権が退陣したところで解決しないよなぁ』と、もやもや考えていたことだってたくさんあります。
これが現実でしょ。一人の人間がそこにいるんだから。色々な葛藤もありつつ行動してる。
最近のアーティストって『わからない』とか『言えない』ってことをそのまま歌詞にしてる人が結構いる。
日和ってるって見方もあるけど、俺はこういうリアルな気持ちを切り捨てずにいたいって思うんですよ。どっちか立場を明らかにしろってところから始めるんじゃなくて、決めなくていいからまずは考えていきたい。ていうか、いろいろと考えてることぐらいは共有してたい。
以下写真省略
だいたい、社会は複雑で、簡単にわかるわけないんです。すぐに日本の未来を変えられるとか、何かができるとはまったく思わない。
もやもやしていること、悩んでいること、わからないということだらけ。わからなくても、ダメでもいいんですよ。等身大で、だから考えるっていう場所を自分はつくっていきたい」
「THE M/ALL」は、そんなジャンルを横断するDJ役を、奥田さんが担うイベントだと言える。思い返せば…と少しだけ考えて、彼は言葉をつなぐ。
「国会前で自分がやっていたスピーチも、分解していけば『自分の言葉』はあんまりないと思うんですよ。誰かの言葉をつないで、つないで、これは俺の話だって語っていた。
まあカチッとしたスピーチをしてたというか『司会業』的な、国会前でみんなの話を聞いて、みんなの声を表現してもらってつないでいくっていう意識だったと思うんです・・・。

奥田氏が受賞したという国際平和映画祭(と言っても横浜でやっているだけのようですが)での受賞作の動画をネットで見ると、彼のこういう「わからなさ」をよく表現しているように見えます。
素人の感想ですが、3、11の地震津波に限らず今回のコロナ禍であれ、あんちょこにわかる物事など世の中にひとつもないという当たり前のことにやっと気がついた未熟な青年がモヤモヤした気持ちを雑然と映像化しただけのような映像ですが・・。
大学生になって見るとわからない事だらけと気がついた若者向け映像として評価をうけたのでしょうか?
年齢だけ成人しても社会経験皆無の未熟さ・何もわからない若者の不安をそのまま映像化しただけ物のようですが、これのどこに着目して左翼系が利用したのか不思議です。
もしかして不安を抱える若者に訴求するには不安を振り切って、一方の側で断定的に言い切ってくれれば、同じ不安を抱える若者の心をつかめると期待したのでしょうか?
もともと革新系は社会経験のない若者を非現実的スローガンで引き込む手法が基本でした。
彼・奥田氏にとって大手メデイアに利用されていた数年は足元がおぼつかない不安そのものだったのでしょうか?
インタビュアーは中々いいところを聞き出していますし、奥田氏もきちんと自分のレベルを自己分析しているところが今後を期待(潰されてしまわないで普通に生きていけるのかな?という程度ですが・・)できる印象です。
奥田さんが政治家の都合で捨て駒として捨てられて終わらない・・普通の人として能力相応にしたたかに生きていけることを期待したいような良きインタビューです。
政治の都合で使い回されて潰されなくて良かったね!

政治家は発言を抑制すべきか?4(女性プロレスラーと炎上)

政治家は国民の負託を受けて政治活動するのが職責である以上、国会や市議会外でも意見を求められれば、抑制どころか自己責任覚悟で述べるのは職責でしょう。
8月28日の安倍総理辞任表明により、自民党総裁候補が出揃ったところですが、発言抑制どころかどのような日本にしていきたいのか自己アッピールして国民理解を求めるべきが当然です。
一般人は説明責任のないことには、原則として発言を求められることはありませんが、発言する以上は責任を伴う点は同じです。
政治家と一般私人の違いは、発言の影響力の違いによって慮る利害の範囲が違うので政治家の方がより慎重にする必要があると言う効果の違いでしかないでしょう。
大声で話すときとひそひそ話とでは会話内容に違いがあるのは、多くの人に聞かれて良いことか?周囲に迷惑をかけていないか注意するのと同じ・・自己を守る知恵を働かす範囲の違いです。
女性プロレスラーの言動が炎上して自殺した事件があり、一人一人のチョットしたツイッターでも数になると巨大な影響力を持つので批判意見を遠慮すべきかのような解説を読んだことがあります。
しかし、巨大な視聴者相手に影響力を与える言動をすれば、影響を受ける数に比例したプラスマイナスの反応があるのが当たり前ではないでしょうか?
どういう言動で批判が殺到したのか関心がないので、ニュース表題しか読んでいないので内容不明ですが、世の中には不満タラタラで何かきっかけがあれば、衆を恃んで不満をぶっつけたい有象無象がひしめいているので、気をつけるべきという教訓でもあるでしょうが、多くの人に発信すれば、良い反応も悪しき反応も受信者の数に比例することになります。
内輪の会合で述べた会話が漏れたのと、初めっから数百万以上の視聴者相手に述べるのとでは反応力が違う筈です。
以下には母親の主張は記載されていませんが、大方の流れは紹介されています。
女性プロレスラーの母親?の主張は「テレビ局の振り付けどおりにしていただけなのになんで娘が批判されるのか!」という主張だった記憶です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8618e08e8dd1e2b57b67a4bf61f7c8e922ae5195
映画で悪役(強盗や詐欺師など)を務めたからと言って俳優個人が非難されたり、警察に逮捕されるとなれば、母親の意見も一理ありますが、彼女の場合俳優としての演技ではなく、個人キャラとしての発言である以上(名誉毀損発言すれば個人が被告として訴えられる)個人が責任を負うべき・火の粉の対象になるのは当然です。
軍隊前線の指揮官(突撃隊長)になれば、いやいや就任したのであろうとも、職を引き受けた以上は敵の標的にされるのは当然の報いです。
社会党が別働隊としての社青同を育成し、共産党は民青を育成したように大手メデイアは世論誘導意欲が強いものの直接批判を避けるために自社意見代弁者として火の粉をかぶる鉄砲玉役・・とんがった発言者の演技をできる若者を育てていつでも切れるようにしておく・・外注役(ジャーナリスト)として養成し、使い捨て駒を利用するようになっている現状を表しています。
不自由展の主役になったのも朝日新聞そのものではなく、独立したジャーナリスト津田氏であり朝日新聞は第三者のごとく、これの擁護意見を発表しています。
大手の振り付けの場合、一見とんがった意見のようでいて炎上しないスレスレのとんがった発言を工夫して世論反応を試すものでしょうから、事前にかなり練り込まれた発言になっているので「そこまで言って委員会」などの長寿番組が存在できているのでしょう。
専門家としてあるテーマで出演する場合でも専門家として、自分の属している会議の模様などをどこまで話して良いかの事前の心の準備が必要ですが、いろんな分野で日々生起する新たな現象に対してリアルタイム的な話題(昨日出たばかりのニュースに対する話題など)がテーマになるバラエテイ番組等の出演者にとっては、突発事態に対して以前から個人的主張(一家言)を持っていたとしても、以前から思っていたことをどのように発言するかによってその及ぶ範囲に対するリスクに思いを巡らしたことがないのが普通です。
急遽検討するには時間不足ですし、まして以前から関心を持っていなかったニュースに関して「明日の話題に出ますので準備してください」程度の情報では、ありとあらゆる話題にそつなく応答できる人は稀です。
結果的に明日朝の番組での話題・テーマにすることを決めた局のスタッフが、ABCの3方向で議論するとした場合「誰がA方向の議論で口火を切ると誰がB方向で受ける」」など配役を決めるとすぐに手分けしてその発言内容の吟味・・どこまで踏み込んで発言しても炎上しないかの綿密なチェック体制を前提にして、出演タレントとしては安心して(〇〇がこういう発言をするのでその時に)「このように発言してください」と指示される通りすることで即応性のある番組になっているので、際どいところまで言い切っているように見えても滅多に炎上しないのではないでしょうか?
ところが、映画のように一言一句までの指示がない・・(台本を読み込MUリハーサル時間がないので)骨格以外はアドリブに委ねられる余地が多いので個人的思い込みで言いすぎたりやりすぎるとリスクが大きくなります。
このアドリブの境界で名誉毀損その他の炎上が起きるのでしょう。
女子プロレスラー木村花さんのテレビでの言動が炎上したのは、テレビ局のシナリオが不適切だったのかアドリブが行き過ぎたのかも不明ですが、この協会で起きたことではないでしょうか?
普段テレビ局の振り付けどおりそつなく(アドリブ)発言していた「みのもんた氏」の発言を視聴者が同氏の個性のように誤解して?いただけでなく、みのもんた氏自身が、自分が偉くなったように錯覚したのか、熊本地震の時にテレビ局の振り付け(際どい発言に対するリスク管理)のない個人意見を書いて大恥をかいて?そのままテレビ界から姿を消した(表向きの理由はいろいろあるでしょうが)イメージです。
https://www.asagei.com/excerpt/56988
Posted on 2016年4月21日 17:58

ネットを舐めてた?みのもんたの上から目線な「熊本地震つぶやき」に批判殺到

みのもんたが4月20日に開設した公式ツイッターが大炎上している。初投稿は「早く飲みたいね!打ち上げまであと何時間?」と能天気そのもの。しかし、その後の「俺なんかの役目はね、広めること。今回の震災もね、熊本だけじゃなくて九州全体だから。支援のやり方も甘い。自衛隊きちんとして欲しいね。あと、過去の震災、阪神淡路、もっと遡れば関東大震災の教訓活かせてないでしょ?‥‥みたいにTVではちょっと言いづらいことも、ここでは言いたいね」という2度目のつぶやきで炎上。手が付けられない状況が続いている。
「みのの過去のハラスメントが不問にされたことについて揶揄したり、現地に行かず、言いたい放題の上から目線な態度、自衛隊をバカにしたような発言についても批判が殺到しています」(芸能ライター)

炎上パターンは、日頃テレビ局の言いたい本音を99%体現しながら、ギリギリ批判の手がかりを与えないように細心の注意を払っているので、テレビ発言の誘導方向に不満な視聴者に不満を言わせない・つけ込む隙を見出せない不満な視聴者がいっぱい発生している時に、ちょっと一線を超えた発言をした時にいいがかり的な炎上が起きるようです。
女性プロレスラーの場合何が炎上したのか知りませんが、普段の発言に不満を持つ人がそれだけ多かったということでしょうか。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離4(表現の自由市場論13と世論軽視論の矛盾5)

左翼系でも一定の論理思考できる人は、「政治主張を公的補助して良いか」の議論になると結論が見えていて不利だから感情論や表現の自由を守れ式の抽象論だけいう人に発言を委ねて知らんプりしているのでしょうか?
こういう視点で見ると東大名誉教授が歴史修正主義者と言うレッテル貼りで得意になっているとは?どういう専門の教授か?と思ってウイキペデイアで経歴を見ると会計学専攻で、政治や法の専門でない人が東大名誉教授の肩書きで政治発言していることがわかります。
どういう専門家かをウィキペデイアで見ると以下の通りです。

醍醐 聰(だいご さとし、1946年 – )は、日本の会計学者。専門分野は財務会計
研究テーマ[編集]
金融機関や公共部門における会計基準・会計情報の役割に関する研究。
NTTの接続料等を扱う総務省情報通信審議会の「新たな料金制度の運用等の在り方に関する研究会」座長代理を務めたが、2003年1月の任期切れのさいに、慣例に反して委員に再任されなかった

会計の専門家という以外に情報がありませんが、専門と関係ない分野での意見のようですから、東大名誉教授の肩書きが邪魔している感じです。
だれが政治発言してもいいのですが、申入書発行などの行動するようになっていると影響力が違います。
この後で表現の自由・・自己実現のためにどこかに勝手に投稿したり、同好の士が集まりどこかの部屋を借り切って奇抜な格好を競うのは自由勝手ですが、一般人に同調を求める・・積極的表現の自由の行使になるとその影響力というか相手の立場も必要です。
日露開戦論を煽り、講和会議反対の音頭を取った帝大7博士の代表的人物・戸水寛人氏の経歴を見ると、西欧留学(3〜4年かな?)でラテン語を習得した特技(草分け)でローマ法の権威?として帝大教授になった人材で世間(実務)を何も知らないのに、帝大教授という肩書きで意見発表して世間を煽った始まりを想起します。
抽象論中心の人らに限って学会や芸術界の自主判断だと専門性を強調する傾向が強いのでしょう。
彼らは民意が・・・というのが常套文句ですが、一方で自由市場の評価や選挙結果を認めたくないようです。
表現の自由市場論がいろんな学者の共通主張ですが、一方で「審査員に委ねろ!」と、民意など問題にしないスタンスにこだわる点も共通です。
不自由展擁護論者は前提として国民が慰安婦=性奴隷論を支持しているという思い込みがある人が含まれているようです。
国民多くが慰安婦像や昭和天皇の拡大写真らしき造形作品を焼いて踏みにじる行為を見られないのが不自由と言うのでしょうか?
検閲がないので公費を使わなければ、どこで展示しようと販売しようと勝手で何の不自由もありません。
客の方も欲しいならば絵画や雑誌が売れているように相応の対価を払って観たり、買えば良いことです。
これが自由市場論ではないでしょうか?
彼のいう不自由とは、そうではなく、そのような表現したいのに表現するとパッシングを受けるのが不自由というようです。
表現の自由とは自己実現の自由であるという憲法学者の意見をだいぶ前に紹介したことがありますが、自己実現の自由とはいっても国家が検閲し処罰しないだけのことであって、相手の立場を無視して言いたいことをそのまま言えば・・それに対して不快に思う人の不興を買う・・自己責任を取る覚悟がいるでしょう。
天皇の写真模造品?を燃やしたいからと燃やすのは、火事の危険ない限り自由ですが、他人に見られるとその集落で変人と思われるのが不利か有利と思うかは別の問題です。
都会の方が他人に関心を持たないので奇抜な洋服を着る自由があるとよく言われますが、他人に見てほしい欲求があるから奇抜な格好をするのであって、都会の場合でも自宅周辺(自宅から駅までの限定空間)で「あそこのお嬢さんは・」と噂されるのが嫌だが、電車に乗り原宿に着くと匿名性があり格好いいと思う・・空間移動の差を言っているだけでしょう。
ゲイのクラブに限らず、いろんな同好の士が特定の趣味のクラブに集うのもその格好で街中を歩いたり勤務先にはいけないが、特定グループ間ではより格好いい極端な格好を競って自慢しあうのもその仲間です。
40年ほど前に弁護士同期の飲み会後の二次会で行った先が変わっていて、軍歌ばかりのカラオケバーでそのうち、友人らが旧日本軍軍服や軍帽子を被って歩きながら歌いまくるのに驚いたことがあります。
さすが、天下の銀座ですのでいろんな店があるものです。
今になるとどの辺の地下に入ったか全く記憶していませんが、その店に誘ってくれた友人はすでに故人になりました。
見ると軍服や鉄兜や銃のようなものがいっぱい置いてあって、自由に着込んだりして遊ぶ仕組みでした。
居合わせたクラスメートの話では、彼は右翼ケイにハマっているとのことでした。
このように誰かに自慢したいが軍服などを着て街を歩く勇気がない人もいます。

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