法人3(自然村と法律村)

話題を法人に戻します。
法人は前もって存在目的やそのような組織にするための設計を定めないと成立自体ができないと書いてきましたが、この考え方はロボットその他人工物は前もって存在目的や目的実現するに足る機能を備えたものであるという設計図?と機能等を定める必要がある点は同じです。
建物は建築前に用途を決めて、その目的にあわせて基準法に合致した設計図を揃えて新築(生まれてくる)されます。
ところで視点を変えると人間の場合もDNA(建物の設計図?)で実は生まれる前からいつ頃こういう病気になるとか役割が決まっているとすれば、今の所それこそ「神の領域でしょう」とすぐ思いたくなるのが凡人である私の習癖ですが、実存哲学では「神は死んだ」というニーチェの宣言を前提に発達した思想のようで、「神にお任せ」と言えない点が厄介です。
身体障害で生まれた子も、「自分で運命を切り開いて行くべき」となりますし、生まれつきの虚弱者に限らず劣悪環境も「運が悪かったと開き直るのでなく)自分でどうやって切り抜けて行くかの知恵次第・可能性を提示したのは実存哲学の功績ですが・・みんながみんなそういう能力があると限らないのが辛いところです。
もちろんそのハードルを下げるための社会的底上げ政策は必要ですが・・。
それは健常者や社会的成功者による所得分配→インフラ整備によるので、(卑近な例で言えば駅にエスカレーターやエレベータの設置、障害者用トイレ設置普及率)結果的に豊かな社会で生まれるか貧困地域で生まれるかの運次第ともなります。
インフラだけでは異性から愛されるかの究極的願望は解決できません。
個々人の生き方の蓄積が人格形成するのですが、インフラは画一的平等化を進めるもののヒトは他者との違い・・個性を重視するものですから個性・他者との違いをどのように形成するかは、文字どおりDNAによるところ大です。
これが劣っているために誰からも愛されない状況に陥ると政治の力で解決するのは不可能です。
モテない男にとってはサルトルのいう自由刑に処せられている牢獄に生きるようなものでしょう。
サルトルとボーボワールは実存・自己実現競争社会の勝者として、一世を風靡したので若者にはまぶしかったというべきです。
(異性にモテる人よりモテない方が多数です)その矛盾を直感的に感じている若者に対して(パリでのカルチェラタンの占拠学生運動)彼は「既存秩序をぶち壊せ!」社会活動扇動によって落ちこぼれる若者の不安に応えたのでしょうか?
昭和40年代前半の世界で吹き荒れた「荒れる大学の時代」が終わって彼ら夫婦?の偶像がしぼんで行ったと見るべきでしょう。
唯物史観・・下部構造が概ね上部構造を規定していく面があるとしても、これに対すr反動もあれば金融政策や財政出動等で景気下降を防ぐなどのいろんな修正要素があるように実存哲学もある一面の真理を表しているに過ぎなかったのでしょう。
話題を人工物に戻します。
ビルも飛行機や車も薬品も民間の創意工夫によって新製品が生まれるとしても、最終的に商品として世に出るには、国家が決めた基準に合致する申請をして許可を受けて初めて出荷や建築可能です。
このように(物品であれ法人であれ法制度であれ)人工のものはAIによって動くロボットやドローンであれ、概ね国家が認める方法によって製造され完成品検査を受けて合格して初めて流通するというか、規格品になります。
国家が関知しない製品もありますが、それは自由に任せても大した危険がないから許容範囲として細かいことまで許認可を必要としないだけです。
人間の場合、妊娠前に国家の許可がいらないし、生まれてから完成検査を受けて問題ないと合格して初めて人間になるわけではありません。
障害者も貧困者も生きる権利があります。

憲法
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
このように人としての権利主体性があるとしても、法人と人とはだいぶ違うので法人制度ができる前の人を法学上「自然人」と言い、法の定める規準規格合致で初めて権利主体となれる法人と区別しています。
明治以降の村をその道の専門家が行政村といい、村に昇格する前および、昇格しなかった集落を自然村ということをFeb 18, 2020 12:00 am「さと」(郷と里)2(村)で紹介しましたが、自然人と法人の区別に関連する関心からいえば、行政上の村?と言うより法律上の村と自然村と区別すべきかと思われます。

自然人と法人2(実存主義)

現行民法制定の起草委員であった富井政章氏の現行民法典編纂過程に関する民法言論がネットに出ています。
ウイキペデイアによれば富井政章氏は以下の経歴です。

民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[1]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。

著書発行は1922年ですが、自分が明治29年成立の民法典起草委員であったときの歴史証言になる論文です。
以下私権の享有主体に関する部分の引用です。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%8E%9F%E8%AB%96

民法原論 第一巻総論
作者:富井政章
1922年
第3編 私権の主体[編集]
第1章 汎論
権利の主体たることを得る者は法律上人格を有する者即ち自然人及び法人の二とす。
何れも法律に依りで人格を有する者なるが故に法律上人と称すべき者なることは一なりといえども民法は便宜上世俗普通の慣例に従い人なる語を狭義に用ヰたり。即ち民法に所謂人とは法人に対し専ら自然人のみを指すものと解すべし。
権利の主体たることを得るを称して権利能力と謂う。
民法に所謂私権の享有とは即ちこれなり。権利能力は法人に対してその範囲に制限ある外何人といえどもこれを有するを原則とし身分,宗旨,姓,年齢等に依りで差別あることなし。即ち私法上においては各権利の主体たることを得るものとす。
而して権利の目的物たることを得す。
この公の秩序に関する原則にして何人といえどもその人格を放棄することを許さざるなり。彼の奴隷及び准死の制度の如きは既に歴史上の事迹に属し近世の立法例は特にこの原則を明示することを必要とせざるに至り。
但し私権を享有する程度には差別あり。或一定の身分を有すること又は受刑の結果等に因り特種の権利能力を失う場合なきに非ず然りといえどもこれ何れも特例にして人格を具有せざる一階級の者あることを認める趣旨に非さるなり。
権利能力に対するものを行為能力と謂う。
行為能力とは法律上の効果即ち権利の得喪を生ずべき行為を為す適格を謂う。行為能力に法律行為能力と不法行為能力の二種類あり。何れも意思の発動に外ならざるが故に権利能力と異なりで意思能力を具えさる者はこれを有せず。例えば嬰児又は喪失者の如し民法において無能力者とは法律行為能力を制限せられたる者を謂うなり。

人は権利の主体であり客体たるを得ず・・すなわち人身売買・・奴隷制禁止の思想です。
民法制定の沿革部分(引用しませんが)によれば、旧民法と新民法の違いは細かい解釈の変更ではなく総論を置き、重複を避けるなど体型整備が基本でドイツのパングステンシステムを採用した程度の変更であったことが分かります。
ボワソナード民法(旧民法)はもともとナポレオン法典・・近代市民法の原理を骨格にするもので、新民法(現行法も)近代法の精神等の内容面で大きな変更がなかったようです。
以上によると「私権の享有は出生に始まる」との大宣言(人種性別等によらず全面的平等理念)は、明治初年頃には日本社会の支配的意見だったことがわかります。
世襲というか設計図(今風に言えばDNA配列)が生まれる前から書かれている人生も辛いものでしょうが、実存哲学のように自分で切り開く自由も辛いものです。
「能力次第だから自由にしろ」と言われ、自由恋愛と言われても自分で相手や職場を探せる能力ある人は限られる・・環境のせいにする逃げ場がないのは、凡人にはつらいもので、精神疾患が増えます。
サルトルはこれを「自由の終身刑」とも主張しているようです。
楽直入氏の日経連載「私の履歴書」が今日で終わりましたが、楽焼きの伝統を承継する楽家の長男として生まれた(伝統承継の義務?)苦しみを経て成長していく過程に心打たれますが、それでも家業(生まれる前から書かれている設計図通り)生きるかは慣習・利権継承の問題であって法が強制するものではない・家の伝統を守らず別の道に進むかを決める決定権は本人にあります。
徳川期に大老の家柄に生まれた酒井抱一が栄光の武門を世襲する恩恵を受けるより、一介の絵師になったように、世襲制といってもリアルにみれば、世襲の恩恵より大きなチャンス(個人能力)があればその権利を拒否し枠外に踏み出すことが可能な社会でした。
世襲制といっても世襲する義務があるのではなく、相続権?を行使するかどうか自由のある社会でした。
たまたま安定成長時代に入ったので、よほどの才能がある人以外には将来が保証された相続を選ぶ人が多かった時代だったという程度のことでしょう。
大老というビッグネームを捨てた(跡取りではなかったので、ハードルが低かった)彼以外にも、西行に始まり、芭蕉、平賀源内その他武士・世襲の家禄)を捨てて、文化人になって行った人(山東京伝や滝沢馬琴など)が一杯います。
楽直入氏の生き方を読むとまさに実存者の行き方です。
苦しかったといえば、高名な彫刻家を父に持つ高村光太郎も「僕の前に道はない・・」と同じような苦しみを抱き続けたのでしょう。
高村光太郎氏も父の権威に反発しながらも、詩だけでなく結局?彫刻もやっています。
戦後思想界を風靡したサルトルの実存主義は、行動主義でもあったので・・共産革命や市民・学生運動に結びつく傾向があってソ連崩壊後輝きを失って行きますが、私にとっては青春の一コマ・・セピア色の残映です。

自然人と法人1(私権の享有は出生に始まる)

民法は「私権の享有は、出生に始まる。」とナポレオン法典の思想そのまま導入・大きく出て、当時最先端の平等観をどーんと提示しました。
家柄や身分や性別、人種に関係なく、生まれた瞬間に100%の私権を享有すると宣言したものです。
人には外国人と日本人の区別があるだけです。
それだけではなく、それまで、徳川家、住友家などというものの、その当主の人格を離れて独自の権利主体でなかったのですが、各種集団にも一定の手続きを踏めばそうした主体になれる思想・・法の作った人=法人の二種類あることを同時に宣言しています。

民法
(明治二十九年法律第八十九号
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス
(別冊)
第二章 人
第一節 権利能力
第三条 私権の享有は、出生に始まる。
2 外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。
第三章 法人
(法人の成立等)
第三十三条 法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない。
2 学術、技芸、慈善、祭祀し、宗教その他の公益を目的とする法人、営利事業を営むことを目的とする法人その他の法人の設立、組織、運営及び管理については、この法律その他の法律の定めるところによる。
(法人の能力)
第三十四条 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
(登記)
第三十六条 法人及び外国法人は、この法律その他の法令の定めるところにより、登記をするものとする。

人は生まれた時から権利の主体であり、法人は法律の規定により成立した時から権利の主体になるという並列的な関係です。
ただし人は生まれつき、人としての規格に合致するかに関係なく仮に5本の指がなくとも歯が欠けていても目が見えなくとも人は人です。
ある人が集まりさえすればいいのか?と集まり、今から法人になると宣言しても法の定める一定の規格に合致しないと法「人」とは認めない仕組みです。
薬品は、国家が製造過程から介入し、薬品と認めた時から薬品であり、それまでは薬品でない(毒かも知れない?)というのに似ています。
普通自動車は、国が一定の規格に合致していると認めて認証(登録)した時に公式に道路を走れる車になるし、飛行機も同じです。
家の場合、建築基準法で定める以下の規模であれば許可なしに作れますが、それ以上になると建築基準法で定める細かな規制があってその基準に合致しない建築は違法ですし、場合にはよっては除却命令の対象になります。
人の場合、生まれてくる子が大きかろうと小さかろうと将来100メーター何秒で走ろうとどういう子供を産むかの事前申請や許可が入りません。
生まれた後の予定・この子はどういう仕事をしますと世間に表明してから生む必要も義務もないし子供も生まれてから親の約束に縛られる義務もありません。
人の規格に合わないからと建物のように違法建築物として除却されることもありません。
ここまでくると、戦後我が国で大流行したサルトルの実存哲学を思い出します。
人はあらかじめ設計図などなく(神は死んだ前提)、世界内存在として投げ出された存在・実存が本質に先行する思想に意外と合致します。
私の青春期にボーボワールと一緒に来日して慶応で講演して大ニュースになった記憶です。
本質もわからず、ただ青春の熱気だけでこれに反応していた若者でした。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/foreign-visitors/201601-1.htmlに出ていました。

朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)慶應義塾大学法学部教授

ちょうど半世紀前、1966年の9月、慶應義塾およびサルトルの日本語版全集を出版していた人文書院の招待でサルトルとボーヴォワールが訪日し、三田山上で特別講演会が開かれた。

民法3条の条文は、明治29年国会通過の法案ですし、私権享有の考えはボワソナード民法時代からありそうな市民法の思想ですから、サルトルの実存主義などまだないとき・・いわゆるデカンショ・デカンショで半年暮らす(デカルト・カント・ショウペンハウエル)デカンショ節全盛の時代だったはずです。
ナチスの頃全盛期だったハイデガーもまだ若手学者か学生程度の時代かな?
こういう時期に「私権の享有は出生に始まる」→「人は設計図なしにただ投げ出された存在」(ニーチェの「神」は死んだ」を前提にしたサルトルの論理などという思想があるわけがないとも言えますが、そうはいっても存在論が20世紀にはいって大きなテーマであったことは間違いないところでしょう。
学者は先人の思想を受け継ぎ発展させるものですから、サルトルが大きな影響を受けていないとは言えません。
当時はまだDNAなど知らぬ時代ですので、文字通り設計図なく生まれて投企された実存・・サルトルの言うように自ら主体的にアンガージュマンしていく存在と言う実存主義哲学の時代でも解釈応用できそうな条文です。

「不法滞在は信号無視程度」か?4(自然犯と法定犯2)

以下刑法犯を例示しておきます。

刑法
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
第二百四条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
第二百三十五条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する
第二百三十六条 暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した者は、強盗の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。

傷害、殺人行為は原則違法として逆に正当業務の時だけ違法性を阻却する・・取締法規とは原則と例外が逆転しています。

 

第三十五条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
(正当防衛)
第三十六条 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

傷害罪等自然犯では、「乱用防止やこういう場合だけ許されない」という制度ではなく、そもそも許されない行為という法の仕組みです。
治療に伴う人体侵襲行為はそれ自体で違法行為にあたり、例外的に正当行為の時だけ違法性を阻却され「罰しない」関係でしかありません。
傷害行為は原則違法ですから、一般人の場合には正当行為であったことの主張立証責任がありますが、医療行為のように、正当業務性を立証すれば「罰しない」ことになります。
刃物で言えば、原則として所持できるが、指定の刃物だけ例外的に禁止するだけという刑法とは逆の書き方になっています。
その気になって考えれば、例えば家庭内にある包丁やハサミ鍬や鎌など、日常生活に必要な物が普通にゴロゴロあるのが原則で刃物一般の支持を違法というのは国民意識として無理があるので、特別指定した刃物だけ許可制にしたという仕組みです。
一般過程で使用する料理用の刃物や、子供が鉛筆削りや工作用のナイフ(私が子供の頃にはいつもポケットに肥後守というナイフを皆ポケットに持っていて鉛筆削りや、遊ぶ時に竹やぶなどで篠竹を切って遊ぶ道具でした。)などはもともと自由であり、持つこと自体が構成要件に該当しないのですから、正当行為の時だけ「罰しない」と言う余地がないのとは大きな違いです。
殺人や重傷事案で正当防衛主張の場合にはよほど正当防衛成立が明白な場合以外は、先ずは逮捕して言い分を聞いてから起訴するかどうか決める仕組みです。
医師による身体侵襲行為の場合は身近で正当行為性が常識化しているので、はじめっから違法性がないように皆が思うようになっているだけです。
このように不法滞在と信号無視とは、国民の道徳意識的に大幅な違いがある・不法滞在はそれ自体犯罪で国民の拒否感が強いものです。
これを敢えて「信号無視程度」と公言する神経が不思議です。
現行法制度の説明意見としては、信号無視と同程度ではない・上記の通り信号無視をしてもすぐに懲役の実刑でなく、普通は罰金程度ですむのに対して、不法滞在で検挙されると対応は大違いであるのに、「信号無視程度」という意見は現行法制度無視の意見です。
立法論・・法をこのように変えるべきと言う意見を言うのは自由ですが、法改正を待たずに自分の主張を現行法の解釈として主張するのは事実と違う・一種の虚偽主張というべきでしょう。
このような法改正論と現行制度とを同視する無茶な意見を、立派な意見のように新聞に掲載する新聞も新聞です。
この意見の出典を見ると41^ a b 朝日新聞2000年4月23日ですが、慰安婦報道のミスだけではなく、正邪の判断なしに自社意見方向に合えば現行法無視の意見でも他人の意見として報道することになっているのでしょうか?
ただし、不法滞在制度を本来の主権維持行為の「潜脱を許さない」という場合と違い、労働調整弁としているような場合もあります。
・・・たとえば、表向き就労禁止しておいて好景気・人手不足時には事実上就労黙認・・不景気になると取締強化というような御都合主義的運用になっている場合には、本来の主権維持問題ではありません。
こういう運用が続き、不法滞在者の多くが単なる景気調整弁に使われているイメージに変わってくると、不法滞在者の中でも単なるオーバーステイ者に対する国民の法意識も変わって来るべきでしょう。
今の法体系では、信号無視と不法滞在では明らかに違いますから、上記のような前提主張の上で今後の法改正論(例えば一定期間以上の(黙認の推定)不法滞在があれば、時効取得制度の変形として?強制退去を出来なくするとか、もっと刑罰を引き下げるなど)としての立法論であるならば、それほど間違っていないようにも見えます。

「不法滞在は信号無視程度」か?3(自然犯と法定犯1)

不法滞在と道交法違反の違いに戻ります。
道路交通法等の取締法規は、類型的な危険行為をあらかじめ規制しておく予防行為でしかない点・・・、技術的規制である道路交通法違反と実害が起きた場合に処罰する場合とは法の本質が違っています。
昔の分類(今ではその区別がはっきりしないので、こういう分類にあまり意味がなくなりましたが、今でも一般の法意識ではまだ厳然たる区別意識があるでしょう。
スピード違反で捕まった程度ならば気楽に人に話しますが、泥棒で捕まったと自分から言う人は滅多にいないでしょう。
社会の道徳意識では、昔からの自然犯(殺人、傷害、窃盗などと)と法定犯(金融取引法・宅建業法や建築基準法などの各種取締法規違反)で大違いと言えるでしょうか。

https://www.bengo4.com/gyosei/1127/d_7169/

法定犯とは、行政上の目的を果たすために定められた刑罰法規に違反するために、犯罪性・反道義性が生じる犯罪を意味する。行政犯ともいう。
法定犯に対して、刑法典に規定されている犯罪のように国民一般にとって当然に反社会的で処罰に値すると考えられている行為を自然犯または刑事犯と呼ぶ。
自然犯を「それ自体の悪」といい、法定犯は「禁じられたがゆえの悪」といわれ、区別される。
しかし、国民の規範意識・道義意識は社会の変化とともに流動するものであり、どの犯罪類型が自然犯かはっきりと区別することは難しくなってきている。
たとえば自然犯である賭博や堕胎の反道義性は薄らぎ、逆に、法定犯である選挙犯罪や税務犯罪に反道義性を感じるようになってきている。

上記例の「賭博や堕胎の反道義性」と言うのは、自然犯としては、歴史が浅い・・もともと全面的違法ではなく、技術的区分けした限度で違法という意味では法定犯の一種です。
例えば車の運転自体が違法ではなくスピード違反や信号無視その他の規制に反する時だけ違法なのと同じです。
賭博でいえば、人間本性として一定の賭け事・人生を賭ける・・一か八かの挑戦をするのも一つの生き方です。
ルビコンを渡り、桶狭間の戦いのような政治決戦に限らず事業でもなんでも、大きな仕事を成し遂げた事例は、皆この種/乾坤一擲の挑戦力によっています。
私の受験したころの司法試験挑戦も、現役合格者を除いて一旦浪人の道を選んで数年挑戦して最終的に合格しなければ通常の就職コースから外れてしまうので人生真っ暗です。
この乾坤一擲の挑戦力・・度胸の有無で多くの人が脱落していく世界でした。
企業であれ国家であれ、あれこれ調査して絶対安全な商売ばかりでは、結果的に人真似→後塵を拝するばかりでその企業はジリ貧です。
賭けることが悪いのではなく、(社運や人生を賭ける勝負は常習化しようがないのですが)パチンコのように小銭を賭ける方法・・それが常習化しやすいパターンの場合、家計を破綻させ人間性まで破壊してしまう怖さです。
そこで、競輪競馬、その他公営に限定して一定の賭博行為を公認している所以ですが、この10年前後ではパチンコ中毒化が社会問題になってきました。
飲食施設や建物の有用性を認めるが一定の基準を守らせないと危険だから規制があって、これに違反すれば処罰されるのはいわゆる法定犯です。
賭博行為はそれ自体人命や資産を侵害するイコール的違法行為ではありません。
一定のルールを守りさえすれば殺人や強盗も許されることがないのと比べればわかるでしょう。
賭博の弊害が古くから知られていたので自然犯に組み込まれてきたに過ぎない面がありますから、こう言うのが時によって犯罪性が低くなっても自然犯と法定犯の境界が曖昧になった例にはならないでしょう。
昨今大麻の解禁が世界的話題になっていますが、覚醒剤等はそれ自体が誰かの権利侵害行為ではないのですが、常習化しやすいことから、幻覚等による自傷他害行為に結びつくほか、利用者の人格破壊にもなるので予め規制しているに過ぎない技術的なものです。
ですから、医師等の有資格者が治療に用いるのは自由ですが、自分勝手に用いるのを禁止しているに過ぎません。
車もそれ自体違法性がなく、むやみに走らせると危険であるから、運転のルールを定め、これを守れる人に運転免許を与え、免許を持たない人が運転するのが違法になるのと同じです。
賭博そのものが悪いのではなく、常習化が怖いと言えるでしょう。
人体損傷行為は原則違法であるが治療のための損傷・手術や注射等は正当業務行為として違法性阻却されるのですが、覚醒剤や車運転等はそれ自体の違法性がなく、運転免許がないのに道路を運転したという道路交通法の規制違反というだけのことです。
ですから、車を道路で運転するには免許がいるし、運転ルールに従う必要があるというだけですから、運動場や駐車場など道路以外で運転しても事故さえ起こさなければ、道路交通法の対象外・・処罰対象にはなりません。
覚醒剤等もそれ自体が本来的(自然犯的?)犯罪ではないので、各種取締法で「法定の除外事由」というのがあって「それ以外は所持し使用してはならない」という仕組みになっています。
除外事由に当たればそもそも、犯罪構成要件にすら当たらないのです。
この点が、医師の治療行為が傷害罪の構成要件にはあたるが、正当行為として次の段階で阻却されるのと次元・ランクが違っています。
以下に見るように覚醒剤は、乱用防止が目的です。

覚せい剤取締法
(この法律の目的)
第1条 この法律は、覚せい剤の濫用による保健衛生上の危害を防止するため、覚せい剤及び覚せい剤原料の輸入、輸出、所持、製造、譲渡、譲受及び使用に関して必要な取締を行うことを目的とする。
(所持の禁止)
第14条 覚せい剤製造業者、覚せい剤施用機関の開設者及び管理者、覚せい剤施用機関において診療に従事する医師、覚せい剤研究者並びに覚せい剤施用機関において診療に従事する医師又は覚せい剤研究者から施用のため交付を受けた者の外は、何人も、覚せい剤を所持してはならない。
2 次の各号のいずれかに該当する場合には、前項の規定は適用しない。
以下省略

銃刀法の場合は、もともと所持自由を前提に、法で禁止した刃物に限って初めて許可なしに所持すれば違法になることを明らかにしています。

銃砲刀剣類所持等取締法
第二条
2 この法律において「刀剣類」とは、刃渡り十五センチメートル以上の・・・・をいう。
第三条 何人も、次の各号のいずれかに該当する場合を除いては、銃砲又は刀剣類を所持してはならない。
一 法令に基づき職務のため所持する場合
以下省略

自然犯とされる殺人、傷害、強盗窃盗等では、そもそも「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」」などの禁止規定すらありません。
全部チェックしていませんが、刑法犯は全てそういう仕組みだと思います。
特別法の場合・例えば刃物所持や自動車運転のように全部違法ではなく、「こういう場合に限定禁止」としているだけで限定禁止以外は自由になります。

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