説明責任2(弁護士と医師の違い?)

間に入る人は、聞いて来た以外の事実は知らないので、弁護士の立場で気になる要点を質問してもそれを聞いていない人が普通で質問しても時間の無駄になります。
中には「要点を書いてください聞いて来ますから・・」という人もいますが、ある質問に対する答えがABC3通りあり得る場合、Aならばさらにabcdの4通りの質問がありうるし、その中のaの場合にはさらに①②③④のどれかについて突っ込んだ事実確認が必要な場合があります。
第一の設問でAか Bかすら記憶がないとか曖昧な答えの場合、「アイウエオのどれがありましたか」などの質問が必要なこともあります。
当事者から弁護士が聞きたいのは事実であって意見ではないのですが、事実と意見の区別がつかない人がほとんどです。
「こう言うことがあった」と言う場合、その結論自体その人の経験した生の事実を自分の知っている単語に言い換え要約した意見でしかなく事実そのものを語れる人は滅多にいません。
事実は自ら語るより聞かれる順に逐一語っていくものかもしれません。
訴訟の証人尋問では「質問されないことを話さないでください」と言う説明を裁判長が最初にするようになっているのはこの意味でしょう。
言いたいことをなぜ言わせないのか?と不満に思う人がいるでしょうが、言いたいことは証人尋問でなく「主張」として弁護士が整理して書いて出していますので、証人尋問では主張を聞く場でなく、主張した事実があったかの裏付けになるべき事実を聞く場です。
証人尋問の場で当事者の解釈した意見を聞くのではなく、そう思い込むに至った根拠として、裁判所はどういう事実があってそう思い込むに至ったかを聞きたいのです。
聞いてみたらABDの事実をABCの事実と誤解していた場合があります。
何故DをCと思ったかをさらに聞くと、イロの事実があればDと思うのが当たり前ではないですか!という人が結構います。
イとロの事実からCにはなるが、Dにはならない場合もあるし、証人の思う通りのこともありますが、それは意見主張であって自分の考えが正しいとは限らないので意見の押しつけは危険です。
パワハラ相談も同様でパワハラ被害という説明だけでは一応言いたいことがわかるだけであって、それが事実を表す単語ではありません。
弁護士にとって知りたいのは、どういう前後事情があって何を言われたりされたのか、どの程度の繰り返しがあったかなど具体的事実次第です。
その内容程度によっては、パワハラとは言えないことがありますし、立証できるかになるともっと周辺事情・誰と誰がいる前でこう言われたとかその人が証言してくれそうか?録音があるか?などが必要です。
診断書にパワハラで不眠症になったと書いてあっても医師は事実確認する方法がないので、その人の説明を記録しただけですので、その頃パワハラ被害を受けているという理由で診察を受けていた事実・・その頃第三者にパワハラ被害を訴えていた事実は証明できますが、事実の有無に関してはパワハラ被害者の主張のコピーにすぎません。
その場に居合わせた友人でさえも細部については記憶していない・前後何があったか知らないがいきなり大きな怒鳴り声がしたので振り向いて見たという程度の場合、上司が怒鳴ることがあった事実の証明が部分的に出来ることがありますが、(事実の再現はこういう部分証言のつなぎ合わせで成り立っていることが多い)このように目撃者とか同席者の場合でも知っていることは部分的なことが多いものです。
交渉ごとを客観化するためにわざわざ複数同席で出向いた場合でも、それぞれに事情聴取すると、片方は相方(同僚)が何を言い交渉相手が何を言ったか、細部の記憶がないか結論として違った印象を語ることが結構あります。
会話は複雑なもので、一直線に一貫した主張ばかりでなく、相手をおだてて見たり自己を卑下したり「硬軟両用」のモザイク的単語の組み合わせで成り立っているので、トータルで再現しないと真意が掴み難いものです。
極端な例で言えば、一人は相手が交渉をまとめる気がなく言いがかりをいってるから交渉を打ち切った方が良いと受け取り、他方はこの不満をうまく受けとめて改善すれば却って喜んでもらえるチャンスと受け取るような違いです。
単語の確認の場合、1方が、「自分がこう言ったら相手がこう言ったのをお前も聞いていただろう!と何回言っても、同席者が申し訳ないけど思い出せないということがあるものです。
人によって関心の持ちようが違うので、面談相手の説明の力点がどこにあるかの理解・記憶の要点が違うことが原因でしょう。
同じ経験をしていても記憶に残らない部分と残る部分が違います。
この端的な例が、高校時代の友人から、自分の言ったりやった古い記憶を持ち出されても、自分のことなのにまるで覚えがないことが多いことでわかります。
自分にとっては自然に出た言葉や行動であれば記憶対象でないが、驚いて見たり聞いたりした相手には新鮮だったりするから記憶に残るのでしょう。
一方でこちらの記憶に残っていること・一緒に〇〇の映画を観に行ったことなどについて相手の方が一緒に行ったことすら全く記憶していないことがあります。
アイウエオどれもなかったとなると、そもそもこういうことがあったという事実認識自体に誤解や記憶違いがないかの問題に発展することがあります。
持参した写真をいつ撮影したか、横から見たらどういう形の家かが問題になる場合もあり事案により色々です。
弁護士が聞きたい・必要なことを全部聞いてくる能力があると自信を持つ人がたまにいること自体不思議ですが、そういう人が間に入って本人を連れて来るのをいやがる?相談が来ると厄介です。
医療行為の場合、数日前からの容体変化について患者本人は痛みの始まり等の印象的説明は出来るものの・・いつ頃から声に元気がなくなったとか粗相が増えたなどの外形事実や体温脈拍変化等の説明は奥さんの方が詳しく説明できることが多い(というか自己認識とハタ目の認識のズレ)し、要介護になると介護者の説明や介護記録が必要な場合が多くなる点で患者本人説明に頼る要素の比重が弁護士受任と大幅に違うのがわかります。
また交通事故等の救急搬送や入院患者の容体急変など緊急事態など本人から聞く余地のない事例が多いことも大きな違いです。
寸秒を争って処置する必要がある時には、まずその手配を周りに指示し自分もその準備にかかりたいときに、事前説明の余地がない場合が多いのもわかります。
弁護士の場合いかに急ぐ事件でも、例えば急ぐので仮処分申請してくれと言われても事件内容の説明がないと申請理由・ストーリーも不明ですしストーリーに合わせた証拠集めの指示すらできません。

専門家の責任5(説明責任)

心療内科や精神科に関係すると「この頃眠れなくて」というと何か心配事ありますか?勤務先でこういうことがあってなどと、説明するとあんちょこに安定剤、睡眠導入剤等を処方されて終わりの印象です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
プロの目から見れば瞬時に信用性がわかるからでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)
基準がはっきりしないので、同意入院を原則化している内に本人が自分で入院したいと言ってくるなら良いか?というあんちょこな診断基準になっている・本人の作り話でもそれを記録化してあやふやな診断基準の補強に使うことに慣れている危険性です。
ある人を殺すためにあらかじめ精神病になったふりして入退院を繰り返しその後狙った殺人行為を敢行する映画を見たことがありますが、仮病での入院の繰り返しがいとも簡単にできる実態が映画に出てきます。
日頃から厳密診断していないといざ厳密診断が必要な時にその能力が錆びてしまっているのではないかの疑問です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、チェックしたくとも検証する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
弁護士の場合立証できないと負けますので、信じるかどうかより、説明を聞いて事件のストーリーが決まれば、次に村スローリーが立証できるかどうかに関心が向きますので、根掘り葉掘り聞く必要が先行します。
その段階で立証以前に相談者の主張自体が、事実に基づかない独断意見に過ぎないなどストーリいー自体が破綻していることが判明することが多々あります。
医師は安易に患者や関係者の説明・・経緯を恰もあった事実かのように書く傾向があるのは、プロの目から見れば瞬時に信用性がわかる自信によるのでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)
医師の場合、客観検査できること以外は、患者や付添人の説明そのまま前提事実として治療していくようですし、これとパラレルの関係か不明ですが、一方では治療の説明をしたがらない印象です。
私自身医療にかかるようになったこの6〜7年の経験で言えば、5〜7年ほど前に右手人差し指の先・第一関節というのかな?痛みとともに変形しているのに気づいて、心当たりとしてはその直前頃に小さなブラッシュを握って庭先のタイル磨きに精出したことが原因かな?と思って事務所近くの新設されたばかりのリハビリ施設を併設した医院に診察を受けに行ったら、「年とったら誰でもそうなりますよ、痛いなら痛み止めの薬を出しておきましょう」という程度で会話にならず帰りました。
その後庭仕事をやりすぎると痛みが出ることはありますが、痛みは指を休めたり撫でて指を伸ばしたりしてれば治るので、二度と医療にはかかっていません。
この数年前から左足首のあたりに赤いポツポツができて痒くなる症状が続いていて事務所近くの皮膚科に行くと「心配いりません高齢化すると皮膚が乾燥してそうなるのです」というだけで塗る薬を処方されて痒くなると塗れば治る・・1週間ほどするまたポツポツが見えてくるので痒くなる前に早めに塗るの繰り返しで4〜5ヶ月に1回前後の間隔で薬がなくなれば貰いに行く繰り返しで、医師と面談しますが、「変わりないですか?はい」程度の応答で・・数十秒で終わりです。
年寄りの繰り言をこの機会にぶちまけますが、2年ほど前にメガネが合わない・・遠くからくる人の焦点が合わず困ると思って眼科で検査してもらったところ、高齢化のせいで心配いりません」という説明で終わりました。
医師としては何か危険な病気が潜んでないか調べたつもりのようですが、私の方としては、こちらは高齢化の所為でメガネが合わなくなったから検査に行ったので「ふざけた説明だ」と思いましたが、検査目的のミスマッチがあったようです。
その後自分なりに納得した論理は、メガネの機能は水晶体の不具合をレンズで修正できるが、左右の目に別々に映る映像を焦点にフォーカスする作業は、水晶体→レンズで調整する作業と関係ない=メガネが合わなくなったわけではない・焦点を合わす脳内の作業が下手になったからではないか?
卑近な例で言えば、双眼鏡で焦点を合わす作業能力が落ちてきたことにあたるのかな?という素人的理解です。
そうすると現在医学ではまだ脳内の複雑な原理解明が進んでいないし、ましてや眼科医の領域外ということだったかもしれません。
脳医学の複雑な説明を三分診療ではできないということだったのでしょうか?
でも私の上記自己流納得が間違っているかも知れないし、素人は脳科学での複雑な数式や過去の研究成果・A〜Dの学説の細かい説明を求めているのではありません。
「メガネが合わない」と相談した患者の関心に答えるには「高齢化で起きるもので心配がない」というのではなく、「眼鏡の調整の問題でない」という程度の素人向け数十秒で足りる説明をすべきだったように思っています。
我々弁護士の場合、現在持参した手持ち資料と説明によれば、法理論上こういう主張ができるがこの主張にはこういう反論が想定されるので、相手の手持ち資料にどんなものがあるかを聴き、相手の反論が事実とした場合にこういう再反論ができますがあなたに裏付ける事実とその資料がありますか?など順に聞いていくのが普通です。
こういう順を追ったやり取りを経て何が争点になるかを素人も知ることができる仕組みです。
説明責任以前に前提情報を入手しないと(医師の場合各種検査データ)処理方針が立たないから質問と応答の繰り返しが必須であるからです。
眼科医診察を受けた場合の例で説明すると順番で呼ばれる診察もしないですぐ看護師による視力その他(麻酔で瞳孔を開くなど)の検査に入って検査が終わってからの医師面談でした。
弁護士の場合、補助職による事前チェックなしに直接面談(サラ金整理等では債権者表を書いてから面談していましたが、一般事件の場合)ですが、たまに代理で相談にくる人がいます。
大雑把にどう言う処理が可能か?どの程度の費用か聞きに来る程度で、「今度本人と一緒に来ます」ということになります。

専門家の責任4

元のテーマ・精神障害者に対する強制隔離の問題点に戻ります。
精神医学の基礎的本(法律家が必要とする程度の基本書のレベルですが)を読むとエピソードと称していろんな病名診断の事例紹介が出てきます(素人には分かりよくてありがたいです)が、患者自身が語るのは一応の信用性のある病状説明でしょうが、患者自身が語ることの裏付けとして周辺が語るのを利用する場合は補強証拠としてならば有用です。
しかし、周辺の人が過去にこのような異常なことがあったと語るエピソードを患者が言わないか否定しているにもかかわらず本当にあったことと決めつけて・あるいは誘導的質問で迎合的同意を取り付けたり患者が自分のしたことを忘れている証拠に使えるかは慎重であるべきです。
経験による総合判断程度の精神病の診断では、周辺関係者の共謀による場合には口裏合わせのからくりを見破る能力にかかる率が高いので、隔離する判断の客観性担保は複数医師による診断に求めるだけでは、抜本的信用回復にはなりません。
宇都宮精神病院事件のウイキペデアイアを紹介しましたが、内科や産婦人科等の医師が一定の講習を受けさえすれば、ある日精神科医になれるのでは、複数の医師による診断制度といっても技術担保というより2人がそろって悪いことをしないだろうという程度の人格期待にしかなりません。
内科医から心臓外科や脳外科医になるのはちょっとした何時間の講習何回受講程度では無理があるのは明白ですが、内科医から精神科医になるのが簡単なのは、そもそも専門家と言えるスキルが必要とされていないからでないかとうがった見方もできます。
宇都宮病院事件に関するウイキペデイアの再引用です。

精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は、内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に、内科から精神科へ事業を変更している[6]

これに加えて、こういう症状・・エピソードがあればという一般向け解説書が出回っていると、隔離を計画的に画策する方は、そういう口裏合わせをすることが容易です。
関係者の経過説明の信用性判断を基本としての診断が科学と言えるかどうか怪しい医学基礎知識の上に加味して決めるのであれば、こういう判断には医師以外の関与が必須でしょう。
しかし毎回の診断に第三者関与を求めるのは物理的に無理があるので、圧倒的多数の第一次診断は従来通りとなります。
宇都宮精神病院事件を契機に患者の外部への不服申し立て方法が整備され、不服があれば審査会が設置されるようになっていきましたが、精神医学自体がはっきりしないエピソードに頼る以上(素人の私に理解不能なだけかもしれませんが)問題が起きてから審査する制度に頼るしかないのが、現状というべきでしょう。
審査委員の構成も累次の改正によって、福祉に経験のある人が加わるなど多様化するようになっています。
とは言え、精神科医の多くは、この未知の領域で苦しむ患者を救うための崇高な理念で正解を目指して少しでも良いから徐々にわかる範囲を広げようと努力していること自体は非常に尊敬すべき立派なことです。
こういう医師が大多数であるものの、(私の知っている限りそれぞれ真摯に患者に向き合っている人ばかりでしたが)たまに宇都宮病院のように金儲け目的で始めると、匂いがするのか?そういう目的の邪悪な人が利用するようになる・・一般人に匂いがするようになっても監督機関に匂いがしないのか?
ある程度怪しい噂が監督官庁に入っても警察と違って内偵能力などないし、ブレーキが効きにくくなるのが困ったものです。
精神医学ではいまだに群盲象を撫でるような努力が続いている(素人には見える)のですが、それでも発達障害その他多くの分類ができるように発展してきただけでも大きな進歩のように見えます。
地震や火山噴火予知などもこれが学問と言えるかどうか不明と言えるほど未知の分野がほとんどのようですが、それでも地震予知学の救いは地震発生のメカニズムの全体が不明でも議論前提の各種データ自体は科学的数字のデータ中心なので、見るからに科学っぽい点がまるで訳のわからない精神障害の研究より、やっている学者にとっては救いがあるでしょう。
予測不能の変数が多すぎて、いつも予測を外す経済学者の論説も同じで結果だけ見ると無駄な議論だと乱暴に?切り捨てることも可能ですが、今は直ちに成果に結びつかなくとも地道に研究していくことがそれなりに有用です。
宇宙の神秘について、古代エジプトやギリシャ人が数学的に色々研究していたことがその当時の成果に直結しなかったにしても、その頃からの連続した研究成果(たとえば地動説や万有引力の法則→相対性理論・結局何もわからない=不可知主義の台頭?→「無知の知の自覚」がモテはやされたり)が現在のいろんな科学発展に資していることは明らかですし、人工衛星等の実用化の基礎になっていることでしょう。
米中対立が一時休戦で今年になれば中国経済が持ち直し世界経済も拡大という予測が一般的でしたが、今回の新型ウイルス事件で全部吹き飛びました・・結果だけ見れば学問と言っても皆そんな程度のものです。
結果がわからないといえば、新型コロナウイルスや精神病に限らず全ての学問は同じですが、地震学で言えば一応の論理があるので一歩一歩地球の仕組み解明に近づいていくように思えるのですが、精神病の場合まるで手がかりさえない・・素人にはそのように見える点で、学問というよりともかく困ったものに近づかない程度の社会合意しかないイメージです。
ただし、いろんな委員会で出会う精神科医あるいは一般医師と話していると頭が良い感じで、こう言う優秀そうな人たちが取り組んでいる以上は、(素人に理解困難なだけで)学問的にも科学的批判に耐える合理的な議論をし、研究してくれているのでしょう!と言う個人的信頼感を持ちたくなります。
要は地震等は一般人の関心が高いので新聞等の解説記事が多いので、まだ全体の仕組みが分からないなりに地道な研究が進んでいるのだ!という理解が進み易いのに対し、医療の方は庶民に身近になっているで分、逆に忙しすぎて丁寧な説明をする時間がない・・3分診療になってしまう関係でしょうか。
その結果、心療内科や精神科に関係すると「この頃眠れなくて」というと何か心配事ありますか?勤務先でこういうことがあってなどと、説明するとあんちょこに安定剤、睡眠導入剤等を処方されて終わりの印象です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
プロの目から見れば瞬時に信用性がわかるからでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)

専門家の責任3(元農水次官事件と戸塚ヨットスクール事件)

従来あった保護義務者同意制度も平成25年に廃止されましたが、99、99%の人は、真に困った家族の相談であって違法目的で最愛の息子(発達障害の場合女性は暴力を振るわないので家族の許容量次第でなんとかなるようですが)を入院させたい人はいないでしょうが、それにしても手に負えなくなっている息子の粗暴行為の原因が素人にはわからないので専門家に相談したいという動機であって、治療でない暴力によって制圧してほしいとまで思っている親は稀でしょう。
昨年農水省元次官が社会に迷惑をかけられないと息子を自ら手にかけた事件が報道されていました。
元農水事務次官長男殺害事件に関するウイキペデイアです。

2019年5月25日、それまで一人暮らしをしていた長男Eが自宅に戻り、父親Kと母親と長男Eでの3人の生活が始まる。(父親Kの供述によると)その直後から長男Eによる激しい家庭内暴力が有り、父親Kと母親はおびえて暮らすようになっていたという[5]。
長男Eは外出せずオンラインゲーム等をして引きこもり状態の生活をしていたが、2019年6月1日、近所の小学校の運動会の声がうるさいと腹を立て父親Kと口論になったという[6]。この数日前の2019年5月28日に、川崎市登戸通り魔事件が起きており、父親Kは(逮捕時の供述によると)「息子も周りに危害を加えるかもしれないと」不安に思い、刃物で長男Eを殺害した[7]。長男Eは数十箇所を刺されており、初公判でも「強固な殺意に基づく危険な犯行」とされた。

これにそっくりな発達障害の子を抱えた経緯の事件が約23年前の金属バット事件でした。

https://toyokeizai.net/articles/-/320929?page=2

引用省略しますが、親が精神科医に相談しても子供のために尽くしてやれと言うばかりだったようです。・・障害児を持った親の不幸ここに極わまれりという感じです。
入院を求めている家族や介護関係者による・・子供を思わない親はいないとしても「この人は如何に手に負えないか!」の過去に起きた事例説明は利害対立可能性のある人の主張も含まれる点が難しい・・悪意で利用され、これと倫理観欠如病院がマッチするととんでもない人権侵害になったのが宇都宮病院事件でした。
そんな悪質病院は万に一つしかないとしても、学問上精神障害になる原因が明確でなく、症状による判断しかない→症状も熱が出るとか咳が出るなどの客観性がない・・周辺の説明に頼るしかない・診断基準客観化が進まない以上は、事後的な外部透明性が必須と言うのが教訓だったのでしょう。
まして宇都宮病院事件のように、入院させたのが兄弟の場合(遺産分けなど利害がある場合もあり)はなおさらです。
シンナーや覚せい剤中毒の場合には血液検査などの客観性がありますが、発達障害や精神障害等の場合、身体的外形的データがほぼ皆無と言えます。
宇都宮病院事件とほぼ同時期に起きた事件では戸塚ヨットスクール事件がありました。
これなども、家族の手に負えない子供をスパルタ式教育・暴力的制圧を標榜する組織の事実上の監禁状態に置くもの・・本人が同意するはずのない剥き出しの酷い暴力宿舎的事件でしたが、これもまさか違法監禁しますと公称していたはずがない・・本人同意による形式になっていたはずです。
戸塚ヨットスクール事件に関するウイキペデイアの記事です。

戸塚ヨットスクール事件(とつかヨットスクールじけん)は、1983年までに愛知県知多郡美浜町のヨットスクール「戸塚ヨットスクール」内で発生、発覚して社会問題に発展した一連の事件。
当初は「戸塚宏ジュニアヨットスクール」の名称で、ヨットの技術を教える教室だった。その後非行や情緒障害等に戸塚の指導は効果があるとマスコミで報じられたことで、親元からスクールに預けられる生徒が増加し、指導内容をヨットの技術養成から非行や情緒障害の更生へと切り替えた。当初は教育界のカリスマとしてマスコミは好意的に取り上げていたが、後に事件が発覚した。
2名の死亡事件が発生した直後に、同事件を題材とした「スパルタの海」がノンフィクション小説として中日新聞に掲載され、映画版(伊東四朗主演)も制作された。

親や周囲に暴力を振るう息子に困り切った両親や親族がいて、こういう事件が起きたのでしょう。
昨日(6月4日)のニュースでは、23歳の男がボーガンとかいう弓で家族(祖母と母、弟)を殺傷し、叔母をも射殺そうとしたところ叔母が近所に助けを求めたことで110番通報で、発覚したニュースが出ています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200604/k10012457531000.html

ボーガンで撃たれ3人死亡 逮捕の大学生「家族殺すつもり」
2020年6月4日 22時59分
(事件内容引用省略)

過去のボーガン事件
ボーガンを使った事件は過去にも起こっています。

去年5月、北海道日高町で、50代の父親をボーガンの矢を放って殺害しようとしたとして当時29歳の男が殺人未遂の疑いで逮捕されています。

以上のように家庭内暴力が行き着いた先の事件がしょっちゅう起きてるので、戸塚ヨットスクールのような需要があったし現在もあることは確かでしょう。
家庭内解決不能な場合、武士社会のように親に生殺与奪の権がなくなったのに、それに代わる公的解決ルールが整備されていない隘路があるようです。
家庭内暴力のうちで、夫婦間のDVには早くから警察が関与するようになってきてその後親による乳幼児や児童虐待にも公的な目が入るようになりつつありますが、子供の祖父母に対するDVへの関与が進まないのは、親の方が強い・親による子供虐待防止方向ばかりの前提で、成人した子供の場合、剥き出しの暴力関係では逆転していることに社会が関心を持たなかったというか、社会変化に法制度が遅れているので親の苦悩がいや増しているのかもしれません。

外見有用性と責任2(宇都宮病院事件1)

3月4日に紹介した宇都宮病院事件は、ちょっとずれて牽強付会の疑問がありますが?外見の一種・・あえて言えば医師資格・・あるいは資格信用失墜事例といえるでしょうか?
ちょっと長くなりますが引用して事件概要を紹介して起きます。
ウイキペデイア宇都宮病院事件

私立精神科病院の乱立[編集]
高度経済成長期には、精神科病床は1年間に1万床ずつ増加し続け、1950年(昭和25年)の1万8千床が1955年(昭和30年)には4万床、1965年(昭和40年)には17万床、そして1969年(昭和44年)には約25万床となった。この時期に開院した精神科病院は私立病院である。
1958年(昭和33年)10月2日には厚生省事務次官通知により、精神科の人員は一般診療科に対して、医師数は約3分の1、看護師数は約3分の2を基準とする特例基準が認められ、更に同年10月6日の医務局長通知で、事情によっては『その特例基準の人員数を満たさなくともよい』ことになったために、一般診療科の病院よりも人件費を抑えることができ、そして、措置入院の国庫負担も5割から8割に引き上げられたことで、一般診療科と比較して精神科病院の経営が容易となった。また、病院建設費用にも便宜が図られ、特殊法人医療金融公庫から長期低利融資を受けることができるようになり、病院建設自体も容易になった[4
精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に内科から精神科へ事業を変更している[6]。
クロルプロマジンなどの処方箋医薬品で、患者の興奮状態を抑制することができるようになると、少ない病院職員で多数の患者の管理が可能となり、病院の運営経費が少なくて済むとともに、病床数が多い(患者の処遇がベッドも無く『うなぎの寝床』になる状態)ほど、利益を上げられる構造になったのである[8]。
当時の日本の精神科病院の状況を、日本医師会の武見太郎会長は以下のように述べている。
精神医療は牧畜業だ
— 武見太郎、『爆弾精神科医』(p.143)
1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。
1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[23]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる
精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。
地方公共団体の行政(都道府県)による病院監査も不十分であったため、実態の把握ができなかったこと、精神科病院の管理者を筆頭に、病院職員には倫理的な思考能力が欠落していたこと、日本社会の精神科医療に対する理解が、著しく不足していたことも背景としてある[34]。さらに、宇都宮病院には「必要悪」としての社会的存在意義が生じていた。
宇都宮病院では、対応困難と見なされた患者を積極的に受け入れ、収容施設の様相を呈していた[37]。
家族間の人間関係の悪化により、措置入院させられてしまう場合もある。前述したA氏は、兄B氏によって措置入院させられてしまった[38]。
A氏は、宇都宮病院を告発して民事訴訟を起こしており、1998年10月時点で第1審裁判が続いていた[39]が、2013年11月に死去した
A氏は晩年まで宇都宮病院の廃院を訴えて活動していた。

当時も人権侵害防止のために院内に公衆電話を設置するルールがあったのか?公衆電話を設置していたらしいのですが、宇都宮病院は患者に小銭を持たせなかったので、外部通報できなかったとも書いています。
宇都宮精神病院事件以降、精神病棟の閉鎖性が改善され、先進的医療を進めていた千葉県内の病院見学を千葉県弁護士会では司法修習生対象に長年継続してきました。
現在はその延長で、研修先病院を医療観察法制定後千葉県で受け皿主力になっている病院に変え(選択科目制ですが)研修を継続しています。
この事件は大々的報道があったことから結果的に医師の信用をいたく傷つけましたが、結果から見ると最大の進展は病院の閉鎖性を改善する・・誤った強制拘束を事後的に露見し易くする工夫・・程度にとどまったように見えます。
認定基準の客観性を担保する科学技術の進歩がない限り、精神病の認定データを周辺関係者による「これまでこういうことがあった」などの経過説明に頼る限り人権侵害リスクを防止するのは困難です。
医師の鑑定書だったか介護関係者の記述だったかの区別記憶が(実務上次々と読んだ記憶でしかないので)今になるとはっきりしないのですが、エピソードと称して親族による説明・・家庭内で起きた非合理な行いを細かく書いて判断基準にしている様子が見えるのですが、親族は他人に比べれば信用できるということでしょうが、今と違って数十年前には家族の関係が濃密でしたので、その分遺産分けの利害もあれば、長年我慢してきた怨念もあるなど逆に利害関係が複雑ですので家族の言い分だけでは危険です。
法律家から見ればこう言うエピソードを主要な間接事実として判断するのでは科学的判定と言えるのか疑問です。
こう言うエピソードがあればこの病気を疑える・診断して良いと言う診断基準の場合、診断が正しいかどうかの判定には、判断の材料にしたエピソードが本当にあったのか?その当てはめにミスがあるかどうかで決まるべきですが、判断の前提にしたエピソードが本当にあったかの検証方法が用意されていないようです。

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