明治憲法下の天皇制・・天皇機関説

明治憲法下の天皇大権を現憲法との質的違いを強調する立場では事実上の制約があったのと、法律上権限があるのとでは大違いだ・本質が違うということになるのでしょうが、
国民一般はそんな理屈ではなく、体感で天皇制を理解しています。
女性の地位を役員比率など単純集計して日本の女性の地位が低いと自慢する?論説が普通です。
メデイアが都市の優劣を偏った?指数化して調査した結果が時折発表されますが、いつも僻地の都市が上位に並び、大都市が劣位する調査結果です。
本当にその都市や農村が住み良ければ人口が増えるはずですが、人口減が進んでいる結果と合いません。
物事は特定の立場を有利化するために非合理な指数化しても意味がないということでしょう。
そのためにクオーター制をすべきという意見がありますが、そんなのはテスト問題を入手してその問題だけ猛勉強して有利な点を取ろうとするのと方向性が似ています。
女性が大事にされている実態で欧米と比べれば、日本が最も進んでいる・・何周回も先を進んでいます。
日本の家庭では女性が完全主導権を持ち、男の地位が低い分(基本的に阻害されています)穴埋め的に形式的に持ち上げられているだけです。
この辺は人権思想も同様で、人権が無視されすぎる社会が根底にあるから、フランスでは革命が起きたと繰り返し書いてきました。
日本では、乳幼児から弱者がとても大事にされる社会です・この結果、強いものの意見が通るわけではない・・公正な判断が最も尊重される社会になったのだと思われます。
強いからといって正しくない主張を押し付けられない社会です。
この辺が(米国も含めて)韓国や中国には理解不能・戦争に勝った以上は事実無根の主張でも強制できると思い込んで行動するところを日本人の正義感が許せないのが理解不能なのでしょう。
明治憲法下での天皇権力の実態を直視したGHQは天皇の戦争責任を追及しなかった(点はマッカーサーの功績です)し、長期に国民の支持を受けている天皇の権能・実態に合わせた憲法草案を提示していたことがわかります。
新憲法はこれを実態に合わせただけであって、戦前でもこの実態に合わせて天皇機関説が学問上の通説でしたし、昭和天皇自身それを支持していたのです。
だからこそ、現憲法はGHQによる事実上の強制とはいえ、国民意識に合致していたので、この分野(天皇制)に関する国民不満は(高齢化して耳が遠くなったかな?)一切聞こえてきません。
天皇機関説については以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC

日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
・・この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。
民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。
この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。
天皇主権説との対立点
天皇主権説 – 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした[3]金森徳次郎によれば美濃部は、天皇の発した勅語であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた[2]。
国務大臣の輔弼
天皇機関説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。
国務大臣の責任
天皇機関説 – 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)
。当時の岡田内閣は、同年8月3日には
「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。

今の北朝鮮政府が連発する空疎な声明に似て、子供が喚いているかのような内容のない「過激」な単語を言い募るだけです。
「国体明徴」と言っても具体的内容のない感情論でしかありません。
当時の通説・天皇機関説によれば、輔弼が要件になっているので実質江戸時代や今と同じ(輔弼と助言承認の表現の違いがありますが)です。
倒幕の経緯から薩長政権にとっては「天皇は名目だけ」とは言えない・・観念論にこだわっていた点は、幕末の尊皇攘夷と同じです。
狂信的軍部が弾圧に動いたのですが、結局は軍部が壟断するだけ・天皇自身が複雑な政治をする実力がない以上は、天皇尊崇といっても文字通り狂信的願望にとどまる点は同じです。
上記の通り、新憲法と明治憲法では天皇の実質的地位や権能は変わっていないと思われます。
そうとすれば、今でも実質的意味の憲法に皇室典範が入っていると見るべきではないでしょうか?

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

現在の議院内閣制でも天皇の名において国会を召集しますが、詔書には内閣総理大臣の副書が必要です。

官報で見る国会召集の詔書


日本国憲法第七条及び第五十二条並びに国会法第一条及び第二条によって、
平成二十五年一月二十八日に、国会の常会を東京に召集する。
御 名  御璽
平成二十五年一月十八日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生 太郎
法令を公布する場合には内閣総理大臣と担当大臣の連署が必要です。
連署を拒むことはありえないと思いますが、仮に内閣総理大臣や担当大臣の副署しない詔書が発行されても、公布の効力がないとされるでしょうか?
徳川時代でいえば、将軍家の同意がないということで無効(紫衣事件)でしょうし、現在でも天皇が独断で任命したら内閣の助言承認がないという点では同じです。
いわゆる天皇の大権と内閣の助言承認との違いですが、実際の実力関係・実質決定権は徳川時代も明治時代も現在も変わらないように思うのは私だけでしょうか?
天皇と周辺に実務能力がなくなった結果天皇大権の場合、周辺を握ったものが天皇の名で政治権力を行使できる点に問題があった点は確かです。
禁中並公家諸法度以来、政府高官の任命に至るまで幕府の同意が必要になったことを紹介しましたが、明治憲法も国務大臣の輔弼プラス副署が必須にされていた点では、禁中並公家諸法度の幕府同意権の明治版ですし、現行憲法の内閣の助言.承認を要するのとほとんど同じです。
以下明治憲法を見てください。
いかにも仰々しく天皇大権を謳っていますが、実態は内閣の輔弼によるものでした。
捕弼する仕組み・・君側の奸がはびこるかどうかで天皇制危機が起きるだけでしょう。
今のような民主制が確立すると補弼すべき内閣が悪いかどうかは、国民が選ぶことですから天皇制の問題ではなくなります。
天皇(君主)無答責という原理がトキに言われますが、実務を握るものが責任を負うべきである組織・機関決定にそのまま署名するしかないものが責任を取るのは無理があるという当然のことを言うにすぎず、保元の乱や承久の乱のように、上皇が先頭切って行えば責任を取るのは当然です。
皇子も同じで以仁王や護良親王のように自己の意思で行動すれば、相応の責任を取るしかありません。
現在サウジ国籍ジャーナリスト殺害事件が国際政治を揺るがしていますが、皇太子の地位があるから責任があるかどうかではなく、実効的関与があったかどうかで決まることです。
このように見れば、天皇の戦争責任論・・あるいは天皇制があったから戦争回避できなかったかの問題ではなかったことがわかるでしょう。
これまで日露講和条約反対論に始まる過激主張煽りの極限化が国会での良識的言動を葬る役割を果たし、ひいては戦争に持ち込んで行ったのですが、これは天皇制の結果ではなくジャーナリズムによる國民扇動行き過ぎの結果です。
※日米開戦自体をジャーナリズムが煽っていたというのではなく、第一次世界大戦後の国際情勢変化に合わせて対外活動を軌道修正すべきところを逆方行為へ煽って行ったことを書いています。
例えば、今回の米中覇権争い、あるいは米ロの核軍縮条約破棄で言えば、米国トランプ氏による過去の約束全てのちゃぶ台返しで始まっていますが、その非を咎めても仕方がない・・ロシアは再度米国と無制限軍拡競争する力がないことが明らかである以上、ロシアとしては表向き自国に非がないと言いながらも、米国との再交渉・新条約締結に応じる構えを見せています。
カナダやメキシコも過去の条約違反だと喚いても仕方ない・・再交渉に応じてきました。
中国も米国の強硬要求に応じるのが大人の知恵でしょうが、中華の夢実現という国粋主義思想家のいう通り自力更生路線で断固アメリカと対決すると戦前日本の二の舞です。
多分表面的強硬路線とは別に妥協を探っているでしょうから、日本としてはいきなり頭越し米中和解をされると困るので安倍総理が10月25〜26日に訪中して首脳会談をしたばかりです。
欧州情勢は複雑怪奇と言って政権を投げ出した時代とは違い、安倍政権は複眼的どころか多層的国際戦略を実行しています。
明治憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
以下省略
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ   憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第2章 臣民権利義務
第18条日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第19条日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ・・以下省略
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
御名御璽
明治二十二年二月十一日
内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
枢密院議長 伯爵 伊藤博文
以下省略
1921年に軍部の同意が得られず組閣すらできないで「うな丼の香りを嗅いだだけだった」とし、「鰻香内閣」と揶揄された清浦奎吾内閣がありましたが、組閣が天皇の大命降下によるならば、軍部も天皇大権・・統帥権を盾にした組閣非協力は許されないはずです。
皆、自己主張を通すために天皇制を悪用していただけなのです。
上記の通り、官吏任免権があっても法の特例を除くのですが、法に根拠のない官吏任免がほぼゼロですし、基本的人権もすべて「法律に従い」という限定があって、天皇は立法権があるとはいうものの、法は国会の協賛が必須ですから、天皇が勝手に何も決められない点では中世以来の天皇の権限と変わりません。
幕府の同意なしに叙任し、幕府に取り消された後水尾天皇の例とどう違うか?です。
また、現行憲法と比べても法令交付や政府高官任命その他すべてに国会の指名や内閣の助言承認がいる(憲法6条7条)のと結果が同じです。
このように天皇権力は明治憲法でも禁中並公家諸法度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)以来長期的に象徴的機能・名前を貸すだけ?以外に実際にはなくなっていたのです。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

裁判(裁定)に勝てば、相手が引き渡さなくとも武士は実力で取り返せるので(取られる一方の弱い武士は淘汰されていく・戦国時代に入っていく所以です・・)それでもいいのですが、公卿は実力装置を武士に頼っている状態で、荘園のアガリの分配を武士と争うとなれば、実力行使できないので勝ち目がありません。
徐々に荘園からの上がりが減っていき最後は盆暮れの付け届けくらいになっていく・・藤原氏を頂点とする公卿・朝廷は干上がっていきます。
室町初期の直義の頃の状況を見るとこういう荘園の収入の分配(平安時代初期には荘園成立過程での初期競争では、藤原氏が貴族(古代豪族)間で圧倒的地歩を固めましたが、それが天皇家自体の参入によって八条院領に蚕食され、鎌倉期になるともとからの荘園領主同士の争いよりは内部に地盤を築いて来た武士層に内部蚕食されて行く(合理的交渉で言えば、管理費の値上げ?要求すべきところを集金した管理費を実力で払わないとなれば横領?)時代に入り、公卿や八条院系)と現場管理者の武士層との紛争が多発する時代に入っていたのです。
鎌倉以降武家の時代になってだいぶ経つのに、観応の擾乱を見るとなお貴族や朝廷の荘園収入があったことが逆にわかりますが、応仁の乱を経て戦国時代に入ると中央の訴訟機関自体が機能しなくなっているので、収入ゼロに追い込まれていたであろうことは容易に想像がつきます。
10月26日に天皇家の収入減少を書きましたの一部繰り返しになりますが、さらに詳しく書きますと、公卿の中には大内氏などに縁を頼って地方に落ち延びていくか?文化を売る・天皇家は落ち延びられないので、天皇御真筆でお礼を貰うなどで食いつなぐ中で、地方有力武将への叙任や、大寺の実力者に僧正などの称号を付与するのは貴重な収入源だったし、ひいては乱発気味になっていました。
これが目に余って来たので、紫衣事件になったのですが、その背景には絶対的な収入減があったことがわかります。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&action=edit&section=1

紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

幕府権力確立によって、旧来同様にすべて幕府を通すべきとなると朝廷の収入源がなくなります。
これを禁止しっぱなしでは朝廷関係者が生きていけませんので、家康が1万石、次に秀忠が皇女誕生を祝って1万石、綱吉が1万石、慶喜が15万石寄進しています。
現憲法下でも天皇家の生活保障のために26日紹介したように「内廷費」が予算計上されているのと同様です。
生活補償するので生活費稼ぎのために「ハシタないことをやめてください」朝廷の権威が下がってしまうことを恐れた意味でもあったでしょう。
話題が逸れましたが、朝廷の文化活動に戻りますと、昭和天皇の活動も「雑草』研究などに限定されていますが、敗戦でそうなったのではなく、家康以前から「文化を売り物にするしかなかった」そういう仕組みになっていたのです。
家康に言われて初めてそうなったのではなく、当時すでに「朝廷や公卿が政治に口を出すべきではない」という価値観が一般化していたからでしょう。
明治維新でなぜ王政復古になったのかですが、薩長が幕府追及・倒幕の言いがかりに「尊王攘夷」を主張しただけのように思えます。
倒幕運動の大義名分が王政復古だったので、倒幕成功・維新後は表向き天皇親政形式・・政体書体制・二官八省体制を作ります。
(これも6省から8省へ変遷がありますが、重要なことは太政官と神祇官をトプ2としたことです)
しかし、もともと公卿・朝廷には鎌倉幕府以来実務経験も能力もないので、実務をやれるわけがありません。
薩長政府は当初二官八省体制を作りますが、神祇官などが政治をやれるわけがなく、目まぐるしく統治体制変更を繰り返し、最終的には、内閣制度を創設して行きます。
結局は実務政府とお飾りの天皇家・公卿を切り離す方向だったのです。
明治初期の政府組織については、2005年07/21「政体書と中央組織」前後で連載しました。
ちなみに内閣制度は明治憲法によってできたのではなく、その前の明治18年に創設されて伊藤博文が初代総理に選任されています。
明治憲法は22年ですから、約4年間先行して実績を積んでいた内閣制度を憲法に取り込んでいったことになります。
言わば幕府の実務機関である「幕閣」を内閣(幕閣の閣「老」を「大臣」と王朝風に)と変えた上で、朝廷と場所的に合体したようなものでした。
武家が朝廷の影響を避けるために鎌倉に政府を開いた時には幕府が何かするには幕府が京へ使者を立てる必要があったのに対して、徳川体制では十分強くなっていたので・・朝廷が何かしようとすると幕府の同意・許可を取る必要があった・・幕府が京へ参内するのでなく朝廷の方が江戸に下向する(これが忠臣蔵の背景です)必要のある社会体制でした。
薩長藩閥政府も今後の国策として開国しかないとすれば、新政府を京に置くわけにはいきません。
実務政府を江戸に置くしかないとなれば、王政復古を唱えた手前、全て天皇の名において発令するには日常的緊密な連携が必要です。
その都度・・京都まで行って参内する手間を省くために朝廷に江戸へ引っ越してもらった・・実務政府幕府→内閣が朝廷を内部に引きこんで、天皇の名において機動的に実務を行えるようにしたことになります。
ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
10月26日に憲法を紹介して少し書いた天皇権力の本質を示す連署に戻りますと、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
王朝時代にどうであったかの記録は今のところ私には分かりません。
連署制は北条泰時が始めたと言われますが、少なくとも江戸時代には幕府正式文書には老中が連署する習慣になっていたようです。
三田市の資料では以下の通りです
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。
※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、今年8月頃にサーバーの不具合で過去の事前掲載用送信分が皆消えてしまったので、今コラムに再アップしようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は国立公文書館に入って確認してください。

 幕府権力と執行文の威力

室町時代初期にも、まだ貴族荘園と武家との年貢の取り合い・押領テーマにした幕府への訴訟が多かったこと・・この訴訟の裁定・裁許下知状・執行状に御家人が従わないことなどが尊氏の弟直義・三条殿が裁定していた頃から問題になっています。
この辺は、亀田俊和『観応の擾乱』中公新書、2017年に詳しく出ています。
後醍醐政権の裁定は公卿有利な裁定が多かったので武士の不満が蓄積されて足利政権が生まれたというイメージは、大筋ではその通りでしょうが、武家が荘園管理をするようになった場合、管理者とオーナー(荘園領主)との分配の揉め事は、荘園領主層の支配する中央権門・・朝廷が裁いた方が荘園領主側に有利ですが、武士の力が強くなってきて貴族層による裁定に従わないようになると、公卿会議の裁定は意味がなくなります。
「蛇の道は蛇」ということで、貴族層の方でも武家の棟梁に持ち込んだ方が強制力がある結果、後醍醐政権の方へ訴えるよりも、足利屋敷の方へ持ち込む事件の方が増えてきたようです。
結局後醍醐政権は時代の流れに会わないで市場淘汰されたように見えます。
公家側から見ても足利氏の裁定は無茶に武士に有利ではなかった・・比喩的に言えば、6対4で武士に有利な裁定であっても公卿にとっては、10割勝っても何の実効力もないよりは、4割でも権利を守ってくれる方がよかったということでしょう。
こういう意見(想像)は上記の本に書いていることではなく読後感・私の勝手な憶測です。
またこの本による執行状も興味深い事実です。
武家政権に頼んでも同じことで、執行状を誰が書いているかによって現場の実効性が違ってくる・・三条殿に対する御所巻きで、高師直側に多数武士が集まったのも、高師直が失脚して彼のサインした執行状の効力がなくなるのを恐れてあわてて集まったという読みも(本には書いていませんが)成り立ちます。
ところで、日本の歴史の連続性に関心するのですが、今でもせっかく勝訴判決を得てもこれを執行できないと単なる紙切れです。
判決を得て強制執行するには、さらに「執行文」というものを判決書につけてもらう必要があります。
判決書正本に執行文がついて初めて強制執行の申し立てができる仕組みです。
これを執行力ある、〇〇正本といい、公正証書や調停調書や和解調書など全て執行文付与が必須になっています。
民事執行法
(強制執行の実施)
第二五条 強制執行は、執行文の付された債務名義の正本に基づいて実施する。ただし、少額訴訟における確定判決又は仮執行の宣言を付した少額訴訟の判決若しくは支払督促により、これに表示された当事者に対し、又はその者のためにする強制執行は、その正本に基づいて実施する。
(執行文の付与)
第二六条 執行文は、申立てにより、執行証書以外の債務名義については事件の記録の存する裁判所の裁判所書記官が、執行証書についてはその原本を保存する公証人が付与する。
2 執行文の付与は、債権者が債務者に対しその債務名義により強制執行をすることができる場合に、その旨を債務名義の正本の末尾に付記する方法により行う。

「将軍が良し」と言い、今では裁判官が判決を宣言しただけではダメ・・執行文が必要な仕組みが室町時代には普通になっていたことがわかります。
今は官僚機構が整備されているので、執行文を誰が書いたかで効力に差がない・誰が書いたかに関係なく権限のある人(書記官)が書いていれば画一的権限が保証されています。
民事執行法
執行官等の職務の執行の確保)
第六条 執行官は、職務の執行に際し抵抗を受けるときは、その抵抗を排除するために、威力を用い、又は警察上の援助を求めることができる。ただし、第六十四条の二第五項(第百八十八条において準用する場合を含む。)の規定に基づく職務の執行については、この限りでない。

執行に抵抗すれば、公務執行妨害罪になりそうですから、ひ弱そうな執行官が来ても今の時代ヤクザでもヒルム関係です。
室町時代には執行(せぎょう)状を書いた人が誰かによって「あの人の命令では、聞かないわけにいかない」「あいつの命令じゃ聞く気持ちになれない」などと末端武士が決める時代でした。
判決(正義)に従うのではなく、執行状(ひと)に従う社会でした。
領地の境界争いの場合、負けt方が係争地をすんなり引き渡すのを期待するのは無理ですから、ほとんどの場合、上京した機会に執行状に花押を書いた実力者に、あの件何とかなりませんか・・とお願いする程度で、実力者が「よしわかった」と言って付け届けをもらいながら何もしてくれないと信用がなくなる関係です。

専門家の論文は事実の裏付けというか事実を丹念に拾っているので、私のような不器用なものには、読み応えがあって楽しいものですが、高齢化のせいか?読んでも読んでも忘れてしまうのは困ったものです。
直義が観応の擾乱第1幕では圧倒的に勝利を収めて政敵の高師直が討ち取られますが、直義がすぐに地位を失っていくのは彼は正義感が強すぎて?、あるいは過去の価値観にこだわりすぎて?自分に味方した武士に対するその後の論功行賞をまともにしなかったからのような印象です。
観応の擾乱第一幕では、御所巻きに屈服した直義でしたが、第二幕の直義による全国規模の巻き返しで直義側に馳せ参じた武将らは、自己主張が正しいかどうかは別として命がけで応援した以上は、相応の恩賞(不当な)利益を期待していたのにがっかりしたのです。
もともと室町幕府の威令が届きにくかったのは、足利家は源氏の名門とは言え頼朝のような絶対的名門ではなく相対的名門であった上に、権威の裏付けたる朝廷自体が南北に分かれていたことが、騒乱に明け暮れた基本原因でしょうと形式的には言えるでしょうが、(今でいう国連での決議や・・中国が南シナ海問題に関する国際司法裁判所判決を「紙切れに過ぎない」と一蹴したのと同じです。)上記私の想像によれば、時の流れが速すぎて室町幕府はしょっちゅう政変続きになったとも言えそうです。
建武の中興政権が崩壊して室町幕府成立直後は、高師直・高家一族勢威を張っていましたが、これが急速に武士団の信望を失って行くのは、上記の通り、公卿荘園領主側への遠慮が大きすぎて今度は武士の方から不満が出てきたからでしょう。
足利政権樹立直後は、政治的情勢から公卿側に配慮して上記の通り比喩的にいえば6対4で武士有利に裁定していたとしても、武士の世がはっきりしてくると、武士の方は6では納得しなくなる・7対3の願望が強くなります。
それが、比喩的にいうと数年もすると今度は8対4でないと納得しないような急激な変化の時代でした。
この不満期待感が直義への期待になったようですが、上記著者亀田俊和氏によれば、直義はむしろ守旧派・常識人・・過去の価値基準でいえば、武士が約束違反しているという発想が強かったようですから、直義側についた武士団はあっという間に直義を見放していきます。
ただし、室町幕府自体が武士に対する威令が届きにくい脆弱性を持っていたので、執行状を発給しても現地では守られないのが普通だったとも書かれています。
だいぶ前に非理法権天の法理を紹介しましたが、その時に書いたように粗暴な君主の事例を見ると国民隅々まで威令が行き渡る怖い時代かのように見えますが、逆から言えばそのくらいのことをしょっちゅうしなければならないほど、末端では威令=法令が守られないということです。
こう見ると何のための訴訟か?となりますが、一応幕府に訴えて自分の方が正しいという「正義のお墨付き」を求めるだけの利用価値があったのです。
今の国際司法裁判所の判決を「中国は紙切れだ」とうそぶいていますが、その程度の効力があったのでしょう。

天皇制変遷の歴史2(朝廷財源消滅1)

古代から朝廷=国家(個人事業創業時同様に財政と内廷費の分離がはっきりしないのが原則)ですから、天皇家=朝廷は納税する側にとってはいかにして国税納付をまぬがれるかに知恵を絞る対象であり、朝廷は恩賞を気前よく配る立場でした。
今でも納税者は法人税の減税をはじめとしていろんな分野で如何にしても減税を勝ち取るか、一方で如何にして補助金を多く勝ち取るかが、政治の大きなテーマです。
今から始まっていますが、消費増税をするとなれば自己業界を例外扱いしてもらうために、各業界はしのぎを削るのが普通です。
親子でいえば年金収入しかなくなっても親はいつまでたっても里帰りした子供らに手土産を持たせるかに気を配り子供世代はなにかもらって帰る習慣が抜けないのと同じです。
荘園の発達によって国庫収入・・収入源が細る一方→皆無になっていたのが安土桃山時代でした。
税を取れなくなって、恨まれないかもしれませんが、税のさじ加減の権限・影響力がなくなるしだけではなく、古代も今も経済影響力と権力は比例しますので、天皇権力に経済裏付けがなくなった上に、官僚やその他貴族にとっては事実上の決定権を持つ人に恩を感じても名目上の叙任権者である天皇に何の感謝もありません。
ついでに天皇・朝廷の権限縮小過程・・収入減少を見ていくと、荘園の発達に比例して国衙収入が減っていくので、藤原家の勢威が「望月の欠けたることのなき」栄華を誇る絶頂期になると、天皇家側で自前の資金源を持つ必要に迫られて「毒を以て毒を制する」挙に出たのが院政の始まりだったように思われます。
朝廷自身が荘園を持つのは国家体制と矛盾するので、早くに退位して身軽になった上皇が、院の荘園保有・・経営に乗り出して藤原氏との荘園の系列化争いを演じ始めたことになります。
朝廷には公式の左右の大将や近衛兵など青侍?しかいませんが、院の経営する荘園には藤原氏の荘園同様の武士団が発生します。
この中央武士団が北面の武士ということでしょう。
ところで、荘園の中央系列化の始まりは、地元豪族(いわゆる郡司さん)のものですが、もともと国衙の徴税を免れる(ゼロにして納めないというのではなく徴税のさじ加減を緩くしてもらうため)には中央権門に名目上寄進して交渉を有利に進める(今で言えば政治家に口利きしてもらう?)ために始まったものでしたから、さじ加減の権力の強い方に集中するのは当然の結果です。
このコラムで何回も紹介している千葉氏は元々平家でしたが、伊勢神宮の荘園である相馬御厨の管理権・今で言えば不動産会社がマンション管理する権利に似ています・・あるいはヤクザのショバ争いで、平家に頼んでいたが有利な結果にならず恨んでいたそこへ新興の源氏が食いついて世話になったので源氏に恩を感じるようになっていたという構図です。
老舗は客が多すぎて(双方に義理があって)どっちつかずになって、新興の勢力に負けて行くのは現在の世界の勢力争いでも同じです。
今のアメリカが、中東であちらてればこちら立たずで、一方的な応援できない・どうして良いかわからなくなっていたのと同じです。
古代豪族(のちの公卿)間の荘園系列化で、藤原氏の一人勝ち的(比叡山や興福寺その他寺社勢力も残っています)状態になっていた平安末期に院の庁が荘園経営に手を出すようになると、地方豪族は藤原氏に着くのが良いか院(上皇)に頼む方が良いか(荘園名義をどちらにするか)の選択が始まります。
院の方は新興勢力ですから、対立当事者に何の義理もない・・きた方に味方すれば良いだけである上に朝廷の実力者ですから、この争いに負け始めて藤原氏の影響力が足元から崩れ始め、この経済戦争の表面化が、保元平治の乱であったことになります。
もちろんこのような意見は、素人の私の妄想です。
この最盛期が八条院領を始めとして後白河周辺で荘園取り込みが活発化したことを17年12月31日の大晦日にちょこっと紹介しました。
この時点では、八条院庄園が、藤原氏の荘園経営を凌駕していたようですし、建武の中興後の観応の擾乱のテーマが、八条院領などの荘園経営者と武士層との年貢の取り合いであったことを見ると、鎌倉幕府成立後も八条院東野平安貴族層の荘園経営が続いていたことがわかります。
幕府成立〜武士の時代がきてどうなったかですが、有職故実の研究で知られている順徳帝の履歴を見ると、後鳥羽天皇(後の後鳥羽上皇)の寵愛を受けていた彼は、即位前から経済的バックを固めるために巨大な八条院領の相続人になっていることが出てきます。
天皇家の経済基盤が重視されていたことが分かります。
一般的歴史書では、藤原氏が代々天皇の外戚であったのに、保元平治の乱は藤原氏の娘の産まない皇子が天皇になったのでこういう乱が起きたかのような人脈だけを中心に説明されますが、(外戚支配の危機は何回もあったのですが、その都度藤原氏(長屋の王の事件や弓削道鏡事件が有名ですが、その他にも藤原氏の危機はいろいろありました)がその都度乗り切ってきたのですが、この時に限って危機を乗り切るに足る人材がいなかったということでしょう)そういう背景で天皇家は経済独立のために経済基盤の確立を図る動きが出てきてこれに藤原氏が対抗できなかったということです。
光明皇后が勢威を振るえたのは、紫微中台という役所を作って国家財政の過半を握っていたからという記述をどこかで、読んだ記憶がありますが、政治権力掌握・維持には、人脈も重要ですが経済基盤が絶対的に必要でしょう。
歴史年表的には、鎌倉時代に起きた承久の乱を習うと、源平時代がとっくの昔で、武士の時代になってからのこと思いますが、尼将軍政子の演説が有名なことからしても、その頃はまだ後白河時代の人脈や遺産につながっているのです。
その頃にもまだ後白河の頃に肥大した八条院の荘園がそのまま?残っていて大きな役割を果たしていたことがわかります。
鎌倉時代に問注所・訴訟部門・が発達していたことが知られますが、(室町幕府の所務沙汰)は そこの大きなテーマは所領(結局は武士の管理権?)争いや年貢の横領(管理人とオーナーとの分配)事件だったのでしょう。
大晦日にちょっと紹介した院近臣による荘園設定の場合、(国衙との共同経営的荘園が多かったので)国衙役人が荘園内の年貢徴収を荘園に委ねて一定率を、荘園が国衙におさめる方法でしたが、(このため荘園設定には国衙の同意書添付で中央に申請する仕組み・・・院近臣が各地国司になるとどんどん八条院の荘園が増加していった仕組みでした。
武士はこの荘園経営の現場部門が肥大化して独自性が出てきたものですから、貴族と国衙の年貢取り合いだった平安時代から、鎌倉時代に入ると朝廷の取り分がほぼ消滅していて、武士と公卿の取り合い・都の貴族や寺社にまともに上がりを納めない・収める量が少なすぎるなどの争いに変わっていったのです。
学校教育では合戦を歴史のエポックとして取り上げるので、合戦の結果幕府権力が出来上がったように見えますが、実は荘園経営の実利争いになると朝廷で議論してもラチがあかない・今でいうと「ヤクザ相手にするにはその道の格上・武家の棟梁相手に話をつける方が早い」となるのと同じです。
ヤクザの下っ端にとっては警察も怖いですが、その程度なら「月夜ばかりと思うなよ!」という捨て台詞が効きますが、兄貴分に「あいつには俺がギリがあるので手を出すなよ!」と言われる方が効き目があります。
荘園の用心棒である武士団が横領を始めると、貴族社会で「困ったものだ」と嘆いていてもラチがあかない・武士団の棟梁にけじめをつけさせるのが合理的です。
ヤクザの親分や幹部が内部けじめをつけられてこそ、幹部の地位を維持できて稼ぎの元にもなる訳ですが、武家の棟梁の始まりもこれの原始版でしょう。
千葉氏はもともと平氏一門でしたが、伊勢神宮所領の相馬御厨の管理権をめぐる争いで平家が力添えしてくれなかったので、折から利根川沿いに進出してきた後発の源氏の応援を頼んだことが、石橋山の旗揚げで敗れて安房(房総半島)に落ち延びてきた頼朝の応援につながったことを2004年に 09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」」で千葉氏が源氏に乗り換えた経緯を書きましたが要は管理権・用心棒のシマ争いです。
後醍醐天皇の建武の新政がつまづいたのも、この裁定実務能力がなかったからです。
政治家に必要なのは利害調整能力ですが、革新系は理念先行実務能力に欠けているのが一般的です。

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