ヘイトスピーチ15(我が国の憲法論議2)

昨日引用論文は司法書士連合会の機関紙?寄稿論文(普通は寄稿を頼まれてから執筆するものでしょう)だったのに、論文が完成し校正も終わった段階で引用データ削除を求められたが折り合いがつかず(これこそ執筆者にとっては学問自由の領域です)に、掲載拒否されたので、これを大学機関紙?での発表に切り替えたというのですから、このやり取りの方が驚きです。
弁護士会同様に司法書士会もまずはいろんな意見を聞いてから会員が会の方向性を決めるのではなく、会員に情報サービスする前に幹部間で一定方向の結論が決まっていてその方向への結論に資する論文を求めて、これを会員に周知する傾向が強まっているのでしょうか?
上記論者のいうとおり、特定思想立場で意見表明するかは組織の自由ですが、もともと特定政治立場に共鳴して参加している訳ではない弁護士会や司法書士会は・価値中立・どういう意見があるかを会員に広報した上で会員の意向によって行動指針を決めるべきではないでしょうか?
ヘイトに関する学会の意見状況の紹介を続けます。
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/11/blog-post_8.html

前田朗Blog『統一評論』563号(2012年9月)
Thursday, November 08, 2012
差別表現の自由はあるか(4)
今回は、そうした理論状況の特徴を見るのに有益と思われる二つの文献を検討することにしたい。
一つは市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)であり、もう一つは内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)である。

表現の自由に関してはこれ以外にも多くの重要な研究業績が存在するが、ここでは旧内野説から新内野説への転換を見て行くことが主たる関心事であり、そのためには上記二冊を見ることで足りると考えられる。
表現の自由に関する研究の第一人者である奥平康弘にも『表現の自由を求めて』(岩波書店、一九九九年)などの重要著作があるが、ヘイト・クライム処罰は主題とされていない。
二 市川説による到達点
市川はまず、「アメリカにおける差別的表現の規制」について、①アメリカ合州国最高裁のR.A.V.判決を検討し、②次に批判的人種理論の挑戦によって始まった差別的表現禁止をめぐる論争を検討する。そのうえで、市川は、③日本における差別表現規制をめぐる論争、すなわち旧内野説とそれへの批判を整理して、差別表現規制法の可否を論じ、人権擁護法案について検討を加えている。
① R.A.V.判決とその評価
「「差別的表現禁止法を人種などに関するけんか言葉の禁止として正当化する手法は、これまでの判例の流れからして最も自然な手法であるが、本判決はこの手法を否定したのである。また、本判決は、差別的表現の禁止を、少数者の人権擁護のためのやむにやまれざる政府目的を達成するために必要不可欠な規制と構成する手法をも否定した。/本判決が差別的表現禁止法に対してこのような厳しい姿勢をとったのは、差別的表現禁止法に対し、特定の争点につき非寛容の思想ないし偏見をもつ側にのみ負担を課す(見解差別的効果を有する)ものであるとの否定的な評価を加えているからであろう。・・」
市川の評価の前提、そしてアメリカ最高裁判例の前提には「思想の自由市場」の論理があることがよくわかる。あくまでも「思想」であり、「表現」であるという位置づけである。この思考と、表現の自由の優越的地位とがセットになることによって、ほとんど無制約の表現の自由論が構築されることになる。
② 批判的人種理論の挑戦
市川は、次に批判的人種理論の挑戦について検討している。批判的人種理論とは、一九八〇年代末頃からアメリカに登場した理論であり、この文脈では、差別表現禁止を唱える見解として位置づけられる。

日本のヘイトスピーチ・表現の自由の優越的地位と関連法理に関するウイキペデイアの記事からです。

韓国籍在日朝鮮人で政治活動家の李信恵は、自身のTwitterに「路上が国会に繋がった。ヘイトスピーチ対策法は、路上に立ってたみんなが作った法律だと思う。嬉しくて、涙が止まらない。」などと書き込み、ヘイトスピーチのデモに対する抗議行動など、差別反対の運動が法案整備につながったと評価した。
弁護士の堀内恭彦は、「外国人に対する差別的言動は許されないが日本人に対する差別的言動については問題にしないというおかしな法律である」と評している。また、このような理念法が成立すれば、その後の個別具体的な法律が作りやすくなるため、今後、必ず禁止や罰則が付き「ヘイトスピーチ審議会」に特定の人種、利害関係者を入れ込むという法律制定の動きが出てくると危惧している。
さらに、法律の成立過程を見る限り、自民党を初めとした多くの国会議員に「表現の自由」が侵害されることへの危機意識が感じられないと主張している[7]。
憲法学者の八木秀次は、具体的にどのような行為がヘイトスピーチに当たるのか不明確であり、自治体や教育現場が法律を拡大解釈し過激化する恐れがあると懸念を示している。
例えば、外国人参政権が無いのも、朝鮮人学校に補助金を出さないのも、戦時中の朝鮮人強制連行が歴史的事実として誤りだと主張するのも、在日韓国・朝鮮人に対する「侮辱」「差別」だと訴えられる可能性も否定できないとしている。
そのため、政府は「どこまでが不当な差別的言動で、どこまでが許される表現なのか」を示す具体的なガイドラインを作るべきであると述べている[8]。

ヘイト問題は、まだ途上的議論(の筈)ですから、自己流に纏めずに煩を厭わずいろんな意見を羅列的ですが引用しておきます。
ウイキペデイアの7月19日の記事からです。

岩田温(政治学)は「民族、宗教、性別、性的指向等によって区別されたある集団に属する全ての成員を同一視し、スティグマを押しつけ、偏見に基いた差別的な発言をすること」と定義している[148]。
九州大学准教授の施光恒(政治学)は「ヘイトスピーチ」という英語(カタカナ語)を使うのでなく、「何が不当なのか」という問題の本質に目を向けるためにも、日本語で正確に表現したほうがいいと主張している。[149]。
青山学院大学特任教授の猪木武徳(経済学)は、

「ヘイトスピーチは「人種、宗教、性などに関する「少数派」への差別的言説一般を指すと大ざっぱに理解されている」
とし、デモのような大勢の「匿名性は公的なメディアで発言する者への悪意ある批判を誘発する」が、逆に、
「少数の暴力的な集団が多数の普通の社会生活を送る人々を脅す例もある」
ため、
「国家による言論統制」や「感情の問題に感情的に対抗し、単純な極論だけが大手を振ること」だけは避けな

ければならないとしている[150]。

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