軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)1

10数年以上前から、ミャンマーの軍政だけ欧米が目の敵にするのはおかしいという意見を書いてきましたが、アラカン族にとっては、ビルマに征服されてから、イギリスに支配されイギリス支配から免れるためにビルマ全体の日本軍に協力に参加し、日本敗退後はビルマのイギリスからの独立運動に協力してきた苦難の歴史(独立戦争は日本敗戦後のことですから、日本の戦後より短いのです)が、つい最近のことでしょう。
ビルマ全体がイギリスからの独立戦争を戦い抜いた歴史・軍事政権とはそういうことです。
欧米にとっては自分たちに歯向かったビルマの軍政が許せないでしょうが、国民にとっては軍こそは欧米支配から独立の旗印・象徴ですから軍の威信は絶大と思われます。
ビルマ独立直後の政治を見ると、中国の辛亥革命後の軍閥の乱立混乱状態の小型版の中から、平野部を抑えたネ・ウインがクー・デ・ターによって政権掌握したものですが、いわば蒋介石が軍閥の抗争から一頭地を抜いて南京の国民政府を仕切るようになったのと本質的違いがなさそうです。
フランス革命もジャコバン独裁からナポレオン帝政へ・ロシア革命も結局は選挙無視のクーデターによるものであり、韓国も混乱回避のために軍事政権が続いた結果の民主化ですし、戦乱を統一するには最終的に武力によるしかないのは、どこの国でも同じです。
乱世平定後民心が安定してから文治政治に移行するものであって、まだ国内が固まらないうちから文治政治では国が治りません。
イギリスに抵抗した腹いせのように、これを民主政治破壊の軍事政権と定義づけて国際批判・経済制裁するのは、(10年以上前にアメリカは中南米や韓国軍事政権を容認していたのに、ビルマだけ許せないのは独立戦争に対する欧米の腹いせ」だと書いたことがあります。)無理筋でしょう。
英米の支援を受けたアウンサンスーチー氏の反軍政・民主化運動に対抗するのは、ビルマ軍としては独立戦争の継続みたいに受け止めていたでしょう。
アラカン人は本音では、ビルマ中央からの独立を希望しているのかも知れませんが、(このために政府はアラカン人の対ロヒンギャ強硬論を無視出来ない関係です)内部不満/敵対勢力一掃の方が先という戦略で、ビルマとともに日本軍に協力し、ビルマ全体の独立戦争に協力してきたようです。
ロヒンギャは日英戦争では英軍側についていた関係もあり、日本敗戦後すぐに始まったビルマの対英独立戦争でも明白に英国側で戦わないまでも、積極的にビルマ独立に協力しなかったと思われます。
しかも何十年にもわたる英米主導の対ビルマ経済制裁下で、スーチー氏の運動を応援していたロヒンギャは、侵略軍の手先のように国民意識にすりこまれてしまったように見えます。
長年のスーチー氏の反政府運動をロヒンギャが支持してきたことにより、アラカン人のみならず、その他相争う少数民族全体(ミャンマーの少数民族はなんと百三十五もあると言うのですが、「ロヒンギャを許せない」と言う点では一致している様子)がロヒンギャだけは容認できない・・仇敵関係になってしまったように見えます。
ロヒンギャとしいては、頼みのスーチー氏がようやく政権を得たので、その庇護を期待したのでしょうが、ビルマ全体の敵としての位置づけが確立してしまったロヒンギャをスーチーが保護できません。
スーチー政権は(欧米の傀儡でなく)民主化運動の成果である以上、国民大方の意向を無視できないのは当然です。
民族和解の精神はその他部族との和解には、使えてもロヒンギャ問題解決には使えないのです。
民族和解に向けた会議で「ロヒンギャだけは別」という方向で会議が進んでいるのでしょう。
下記の通り、少数民族との停戦合意が成立したのですが、ロヒンギャだけは別扱いのようです。
https://thepage.jp/detail/20150603-00000013-wordleaf?page=2
によれば、ミャンマーは移民国家であり、部族間の戦争は移民同士の争いに集約されるようです。

ロヒンギャ漂流問題 ミャンマー少数民族の対立と迫害の歴史
2015.06.05 16:25
3月末にミャンマー政府と16の少数民族との間で停戦合意草案が調印されました。しかし、5月下旬に入り、イスラム系少数民族ロヒンギャの数千人規模の難民が同国沖を漂流したり、ロヒンギャらとみられる大量の遺体が見つかったりするなど、いまだ根強い少数民族問題が垣間見えます。
実は「移民による多民族国家」
ミャンマー(ビルマ)はアメリカ合衆国やカナダと同じく、「移民による多民族国家」です。
人口約5100万人の60~70%を占めるビルマ人のほか、シャン、カレン、アラカン(ラカイン)、モンなど130を超える少数民族で構成されています。少数民族の多くは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイとの国境付近に暮らしています。
人口2位のシャンは推定350~400万人、3位のカレンも推定300万人で、けっして「少数」ではありません。
この規模の独立国は世界にたくさんあります。世界の1/4の国(約50か国)が人口300万未満です。つまりミャンマーは、独立国家を持っていても不思議ではない複数の「少数民族」を抱える多民族国家なのです。
紀元前から住んでいたのは、モン人やピュー人と考えられています。現在、この地を支配しているビルマ人は先住民ではありません。
ビルマ人は、9~10世紀に大陸から南下してきた広義の移民(移住者)なのです。
11世紀、ビルマ人は最初の統一王朝(バガン王朝)を建国し、この地に仏教を根づかせました。少し遅れて、北方からシャンやカレンなどの民族も移住してきました。ほかの多くの少数民族も、中国から南下してきた移民です。
その後は、シャンが勢力を強めたり、モンがビルマ人の王朝を倒したりと、移民の対立・紛争の時代が続きました。
現在の領域にほぼ固まったのは、イギリスの植民地になった19世紀半ば以降です。ビルマは英国領インドの一部となり、南アジア系民族(ベンガル人ほか)が入植してきました。
肌色・容姿が日本人に近いビルマ人は、南アジア系の人々を「カラー」(外来者の意も含む)と呼び、快く思っていません。あまり声高に語られませんが、「ビルマ人vs.カラー」という火種も残っているようです。
イギリスの家芸の民族分断統治によって、「ビルマ人vs.少数民族」という対立構造もしっかり強化されました。
第二次大戦後の1948年、ビルマは連邦国家としてイギリスから独立しましたが、直後、南東部の少数民族カレンが武装蜂起したのです。
1962年にネ・ウィン政権が誕生し、ビルマは社会主義路線に進みました。1988年、民主化運動の激化で後任のサン・ユは退陣したものの、国軍がクーデタで全権を掌握。国際社会の批判を浴びながら、長らく軍政が続きました。
その間も、カレンだけでなく、カチン、シャン、カレンニー(カヤン)などの少数民族による独立・反政府運動は止まりませんでした。
国際社会の眼は、「軍事独裁政権vs.国民民主連盟(アウンサンスーチー率いるNLD)」という“ビルマ人内の民主化問題”にしか向けられませんでした。スーチーの軟禁状態がいつ解かれるのか。解放されると、いつ軍事政権と和解するのか、真の民主化は進むのか。ヤンゴンのビルマ人に聞くと、カレンやカチンなど少数民族の問題は「よそごと」という声が返ってくるようですが、国際社会にとっても同様だったのです。

私の推測ですが、もしかしてアラカン族支配地内の少数民族という位置付けで見れば、ビルマ国内の大手少数民族間の協調優先の為に各部族内のさらなる少数民族問題を他の部族はタブー視して口出ししない(アラカン族の独立運動を封じるために国軍がロヒンギャ迫害に協力するのもその一つです)「国際」協調路園があるのかもしれません。
15年3月の16部族間停戦合意後、ロヒンギャ迫害がいきなり激しくなったのはその流れとも読めます。
ミャンマー周辺国がこぞってロヒンギャに冷淡なのは、国家規模での協調に影響がある・・「お互い内政不干渉が大人の知恵」という立場でしょうか?
ミャンマーの部族一覧のウイキペデイアからです。

ミャンマーの民族の一覧である。
ミャンマーでは、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在する。そして、それぞれの部族は、それぞれの州そして文化を持っている。

上記の通り大手部族内にいくつものさらなる少数部族を抱えているのですが、大手部族内部の抗争に外部の部族が口を挟んでいたら収拾がつかないでしょう。

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