軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)1

10数年以上前から、ミャンマーの軍政だけ欧米が目の敵にするのはおかしいという意見を書いてきましたが、アラカン族にとっては、ビルマに征服されてから、イギリスに支配されイギリス支配から免れるためにビルマ全体の日本軍に協力に参加し、日本敗退後はビルマのイギリスからの独立運動に協力してきた苦難の歴史(独立戦争は日本敗戦後のことですから、日本の戦後より短いのです)が、つい最近のことでしょう。
ビルマ全体がイギリスからの独立戦争を戦い抜いた歴史・軍事政権とはそういうことです。
欧米にとっては自分たちに歯向かったビルマの軍政が許せないでしょうが、国民にとっては軍こそは欧米支配から独立の旗印・象徴ですから軍の威信は絶大と思われます。
ビルマ独立直後の政治を見ると、中国の辛亥革命後の軍閥の乱立混乱状態の小型版の中から、平野部を抑えたネ・ウインがクー・デ・ターによって政権掌握したものですが、いわば蒋介石が軍閥の抗争から一頭地を抜いて南京の国民政府を仕切るようになったのと本質的違いがなさそうです。
フランス革命もジャコバン独裁からナポレオン帝政へ・ロシア革命も結局は選挙無視のクーデターによるものであり、韓国も混乱回避のために軍事政権が続いた結果の民主化ですし、戦乱を統一するには最終的に武力によるしかないのは、どこの国でも同じです。
乱世平定後民心が安定してから文治政治に移行するものであって、まだ国内が固まらないうちから文治政治では国が治りません。
イギリスに抵抗した腹いせのように、これを民主政治破壊の軍事政権と定義づけて国際批判・経済制裁するのは、(10年以上前にアメリカは中南米や韓国軍事政権を容認していたのに、ビルマだけ許せないのは独立戦争に対する欧米の腹いせ」だと書いたことがあります。)無理筋でしょう。
英米の支援を受けたアウンサンスーチー氏の反軍政・民主化運動に対抗するのは、ビルマ軍としては独立戦争の継続みたいに受け止めていたでしょう。
アラカン人は本音では、ビルマ中央からの独立を希望しているのかも知れませんが、(このために政府はアラカン人の対ロヒンギャ強硬論を無視出来ない関係です)内部不満/敵対勢力一掃の方が先という戦略で、ビルマとともに日本軍に協力し、ビルマ全体の独立戦争に協力してきたようです。
ロヒンギャは日英戦争では英軍側についていた関係もあり、日本敗戦後すぐに始まったビルマの対英独立戦争でも明白に英国側で戦わないまでも、積極的にビルマ独立に協力しなかったと思われます。
しかも何十年にもわたる英米主導の対ビルマ経済制裁下で、スーチー氏の運動を応援していたロヒンギャは、侵略軍の手先のように国民意識にすりこまれてしまったように見えます。
長年のスーチー氏の反政府運動をロヒンギャが支持してきたことにより、アラカン人のみならず、その他相争う少数民族全体(ミャンマーの少数民族はなんと百三十五もあると言うのですが、「ロヒンギャを許せない」と言う点では一致している様子)がロヒンギャだけは容認できない・・仇敵関係になってしまったように見えます。
ロヒンギャとしいては、頼みのスーチー氏がようやく政権を得たので、その庇護を期待したのでしょうが、ビルマ全体の敵としての位置づけが確立してしまったロヒンギャをスーチーが保護できません。
スーチー政権は(欧米の傀儡でなく)民主化運動の成果である以上、国民大方の意向を無視できないのは当然です。
民族和解の精神はその他部族との和解には、使えてもロヒンギャ問題解決には使えないのです。
民族和解に向けた会議で「ロヒンギャだけは別」という方向で会議が進んでいるのでしょう。
下記の通り、少数民族との停戦合意が成立したのですが、ロヒンギャだけは別扱いのようです。
https://thepage.jp/detail/20150603-00000013-wordleaf?page=2
によれば、ミャンマーは移民国家であり、部族間の戦争は移民同士の争いに集約されるようです。

ロヒンギャ漂流問題 ミャンマー少数民族の対立と迫害の歴史
2015.06.05 16:25
3月末にミャンマー政府と16の少数民族との間で停戦合意草案が調印されました。しかし、5月下旬に入り、イスラム系少数民族ロヒンギャの数千人規模の難民が同国沖を漂流したり、ロヒンギャらとみられる大量の遺体が見つかったりするなど、いまだ根強い少数民族問題が垣間見えます。
実は「移民による多民族国家」
ミャンマー(ビルマ)はアメリカ合衆国やカナダと同じく、「移民による多民族国家」です。
人口約5100万人の60~70%を占めるビルマ人のほか、シャン、カレン、アラカン(ラカイン)、モンなど130を超える少数民族で構成されています。少数民族の多くは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイとの国境付近に暮らしています。
人口2位のシャンは推定350~400万人、3位のカレンも推定300万人で、けっして「少数」ではありません。
この規模の独立国は世界にたくさんあります。世界の1/4の国(約50か国)が人口300万未満です。つまりミャンマーは、独立国家を持っていても不思議ではない複数の「少数民族」を抱える多民族国家なのです。
紀元前から住んでいたのは、モン人やピュー人と考えられています。現在、この地を支配しているビルマ人は先住民ではありません。
ビルマ人は、9~10世紀に大陸から南下してきた広義の移民(移住者)なのです。
11世紀、ビルマ人は最初の統一王朝(バガン王朝)を建国し、この地に仏教を根づかせました。少し遅れて、北方からシャンやカレンなどの民族も移住してきました。ほかの多くの少数民族も、中国から南下してきた移民です。
その後は、シャンが勢力を強めたり、モンがビルマ人の王朝を倒したりと、移民の対立・紛争の時代が続きました。
現在の領域にほぼ固まったのは、イギリスの植民地になった19世紀半ば以降です。ビルマは英国領インドの一部となり、南アジア系民族(ベンガル人ほか)が入植してきました。
肌色・容姿が日本人に近いビルマ人は、南アジア系の人々を「カラー」(外来者の意も含む)と呼び、快く思っていません。あまり声高に語られませんが、「ビルマ人vs.カラー」という火種も残っているようです。
イギリスの家芸の民族分断統治によって、「ビルマ人vs.少数民族」という対立構造もしっかり強化されました。
第二次大戦後の1948年、ビルマは連邦国家としてイギリスから独立しましたが、直後、南東部の少数民族カレンが武装蜂起したのです。
1962年にネ・ウィン政権が誕生し、ビルマは社会主義路線に進みました。1988年、民主化運動の激化で後任のサン・ユは退陣したものの、国軍がクーデタで全権を掌握。国際社会の批判を浴びながら、長らく軍政が続きました。
その間も、カレンだけでなく、カチン、シャン、カレンニー(カヤン)などの少数民族による独立・反政府運動は止まりませんでした。
国際社会の眼は、「軍事独裁政権vs.国民民主連盟(アウンサンスーチー率いるNLD)」という“ビルマ人内の民主化問題”にしか向けられませんでした。スーチーの軟禁状態がいつ解かれるのか。解放されると、いつ軍事政権と和解するのか、真の民主化は進むのか。ヤンゴンのビルマ人に聞くと、カレンやカチンなど少数民族の問題は「よそごと」という声が返ってくるようですが、国際社会にとっても同様だったのです。

私の推測ですが、もしかしてアラカン族支配地内の少数民族という位置付けで見れば、ビルマ国内の大手少数民族間の協調優先の為に各部族内のさらなる少数民族問題を他の部族はタブー視して口出ししない(アラカン族の独立運動を封じるために国軍がロヒンギャ迫害に協力するのもその一つです)「国際」協調路園があるのかもしれません。
15年3月の16部族間停戦合意後、ロヒンギャ迫害がいきなり激しくなったのはその流れとも読めます。
ミャンマー周辺国がこぞってロヒンギャに冷淡なのは、国家規模での協調に影響がある・・「お互い内政不干渉が大人の知恵」という立場でしょうか?
ミャンマーの部族一覧のウイキペデイアからです。

ミャンマーの民族の一覧である。
ミャンマーでは、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在する。そして、それぞれの部族は、それぞれの州そして文化を持っている。

上記の通り大手部族内にいくつものさらなる少数部族を抱えているのですが、大手部族内部の抗争に外部の部族が口を挟んでいたら収拾がつかないでしょう。

ロヒンギャ問題3(日英の恩讐2)

ウイキペデイアの続きです。

2016年10月からの掃討事件
2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害された。当局は実行犯8人を殺害し、2人を逮捕した。当局は記者会見で、犯人はロヒンギャを名乗っていたと述べ、ラカイン州政府幹部は、ロヒンギャ連隊機構の犯行との見方を示した[68]。ミャンマー軍は過激派掃討作戦を口実としてロヒンギャを攻撃した。
2017年前半の展開
5月2日、アウンサンスーチーは欧州連合(EU)のモゲリーニ外交安全保障上級代表と会談し、国際調査団の受入拒否を表明した。外国メディアの取材制限についても、「私の村で(治安機関の)残虐行為はなかった」と取材に答えたロヒンギャが、武装勢力に当局の協力者とみなされ斬首された事件があったと述べ、理解を求めた[8
2017年8月からの「掃討作戦」
9月28日、国連安全保障理事会は、ロヒンギャ迫害について公開会合を開いた。グテーレス国連事務総長は、8月25日の武力衝突以来の難民が、少なくとも50万人に達したと述べ、さらに25万人が潜在的に家を追われる可能性があると指摘した。
10月16日、ミンアウンフライン最高司令官はフェルトマン国連事務次長(政治局長)との会談で、改めて「「ベンガル人」はミャンマーの民族ではない。1942年に(「ベンガル人」によって)2万人以上のラカイン人が殺されたこと[注釈 8]こそが真の歴史であり、隠すことはできない」と主張した。そして、ミャンマー軍は「ベンガル人」による不法占拠や「ベンガル人」テロリストに合法的に対処したまでとして、(「ベンガル人」では無い)地元民のために安全対策を取る必要があると主張した。
12月5日、国連人権理事会で、ミャンマーによるロヒンギャへの「組織的かつ大規模な人権侵害」を「強く非難」し、ミャンマーに独立調査団への協力を呼びかける内容の決議が賛成33、反対3、棄権9で採択された[127][128]。反対は中国、フィリピン、ブルンジ。棄権は日本、インド、コンゴ、エクアドル、エチオピア、ケニア、モンゴル、南アフリカ、ベネズエラであった[
12月24日、国連総会で、イスラム協力機構(OIC)の提出した、ミャンマー政府にロヒンギャ難民の全帰還や完全な市民権の付与、援助関係者の接触容認などを求める決議が賛成122、反対10、棄権24で採択された[141]。反対はミャンマー、中国、ロシア、ベラルーシ、カンボジア、ベトナム、ラオス、フィリピン、シリア、ジンバブエ。棄権は日本、インド、タイ、ネパール、ブータン、シンガポール、パプアニューギニア、カメルーン、南アフリカ、ドミニカ共和国、ベネズエラなどであった。
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、2017年6月15日までに7万5千人に達した。さらに、8月25日の武力衝突から12月17日までの間だけで、65万5千人に達した。以前の難民を含めると、80万人以上が難民となっている[1
日本政府の対応
2017年8月4日、日本財団の招きで来日したミンアウンフライン軍司令官が、安倍晋三首相を表敬訪問した。日緬防衛協力などを会談し、「国民和解や少数民族支援」にも触れたが、ロヒンギャについて特段の言及は無かった[156]。
8月29日、外務報道官は武装勢力による治安部隊への襲撃を「強く非難」した。その一方、アナン委員長らによるラカイン州助言委員会の最終報告書の勧告履行へのミャンマー政府の取り組みを「支援」すると表明した[157]。
9月19日、河野太郎外相は、改めて武装勢力による襲撃を「強く非難」した。一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に「深刻な懸念」を表明した[158]。
11月14日、安倍首相はアウンサンスーチーと会談し、「深刻な懸念」を伝え、治安回復や避難民帰還の実現を求めた[159]
12月14日、安倍首相は訪日したティン・チョウ・ミャンマー大統領と会談した。安倍首相の発言は以下の通りである。1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシ合意を歓迎する[166]。

日本政府の対応は、第二次大戦で日英戦に協力してくれたミャンマー批判には応じられない・・しかし現実の人道援助には対応したいというスタンスで日本としては合理的対応です。
ミャンマーも日本の(事実上の)支持を取りつけるために戦時中・日英戦争でロヒンギャが英国についた被害を最近強調するようになったのでしょう。
全体の流れを見ると日本は英米が人道を強調するならば、原因を作った「英国が最終責任を持つべき」と言わんかのような立場で、一貫しているようです。
ただ出身地域?バングラをはじめとして周辺国が冷淡なのには驚きますが、ミャンマーは地域の軍事大国でもあり、関わりたくないからでしょうか?
ロヒンギャとは、民族集団ではなく商業活動活発化に伴い主にバングラ経由で徐々に流入してきたイスラム系商人の総称?であってどこの民族集団とは言い切れない点に特色がありそうです。
それまでのビルマ流入民族は民族としての纏まった入り込みであったのとの違いです。
バングラデシュにとってもベンガル地域経由で流入しただけのことであって、自国民ではないという認識なのでしょう。
イタリア、ギリシャ経由のアフリカ系移民をドイツ、フランス等から送り返されるのはイタリヤやギリシャ等にとって迷惑なのと同じです。
ロヒンギャ問題を人権問題と欧米諸国が騒ぐのは、将来イスラエルの地がアラブによって回復された時に、ユダヤ人の国籍剥奪.迫害などが起きるであろう人権問題の先取り構図・・欧米によるイスラエル建国を正当化するためにイスラエル支持をして来た欧米諸国の予行演習の印象を受けます。
イギリス・欧米植民国家はロヒンギャ問題を作り出した原因国ですから、欧米の人権主張には裏があるように思う人が多い・・そのまま乗るのは無理があるでしょう。
ビルマの中でもアラカン族にとっては、対英戦争の最前線となって痛めつけられた歴史があるので、ロヒンギャについては最強硬になっているし、ビルマ→ミャンマー全体では一部の問題ですが、沖縄問題同様に全ビルマとしても潜在的独立主張を持つアラカン族の主張を無視できません。
日本で言えば蒙古襲来の被害を受けた壱岐・対馬であり、対米戦被害の大きかった沖縄県民意識・米軍存在を許せない意識でもあるでしょう。
長年欧米諸国は、ミャンマーの軍事クーデターを理由に経済制裁を続けてきましたが、要はイギリスからの独立を武力でもぎ取ったことに対する嫌がらせのように疑われかねない微妙な関係です。
ミャンマーに関するウイキペデイアの記事からです。

2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。
しかし、中国とロシアが拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカの3カ国。棄権はインドネシア、カタール、コンゴの3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。
イギリス人を夫に持つ、アウンサンスーチー氏を最大限持ち上げる欧米メデイアを奇異に感じていた人が多いと思いますが、独立したばかりのビルマを民主化という大義名分利用で虐めていただけのように、受け止めていた人が多いでしょう。
日本とビルマの関係は敗戦後も日本に帰らずに、ビルマの独立を支援する人が多くいて、敗戦後も現地に残って独立戦争の軍事顧問訓練教官的役割を果たしてきたことが知られています。
ミャンマーに関するウイキペデイアの記事続きです。

ビルマは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは親日的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。
日本は欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。
1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」の授与をおこなっている[45

ヘイトスピーチ10(米国憲法論の推移2)

https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf
アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
昨日引用の続きです。

こうした中で、大学でのスピーチコードを支持する立場を明確にしていたのが、「批判的人種理論」と呼ばれる立場に立つ法学者たちである。
・・・・彼らの主張はアメリカの法学界ではあくまでも少数派であり、連邦あるいは州レベルの議論に目に見える影響を与えるには至らなかった・・
ローレンスの議論は、言論と行為の区分を安易に前提にすることの問題点を示すことで、ヘイトスピーチ規制を否定する一方でヘイトクライム法については認めるアメリカの法制度を批判するものである。

※「言論と行為の区別」批判論の前提とするヘイトクライム法は、既存の刑事罰行為をヘイトに基づく場合に刑を加重する仕組み・客観「行為」を必須要件とするものらしいです・・。
本日現在のヘイトクライムで検索するとでるウイキペデイアによると以下の通りです。
ヘイトクライム判決強化法(1994年)[34] — 1994年暴力犯罪制御法執行法の一部として成立しており、差別犯罪をした場合は通常の犯罪の刑罰より反則レベルを3段階厳しくし重い刑を適用するよう米国判決委員会の判決ガイドラインを修正するもの[35][36]。マシュー・シェパード法(英語版)

、殺人罪でいえば、アメリカの場合、1級殺人2級殺人が当てそのほか謀殺とか故殺など細かく分かれているので、これに殺人動機によって刑を重くするように足していくのは比較的簡単です。
ヘイト批判が起きるとヘイト自体を罰するかではなくヘイトに基づく犯罪の場合には、加重要件に加えるかどうかというだけのあんちょこな議論に収束していき易い制度と思われます。
日本の場合、例えば殺人で言えば死刑〜無期懲役〜有期懲役〜執行猶予までの範囲で裁判所が介護疲れなどの動機原因や行為態様や計画性〜被害感情などすべての事情を総合判断して量刑を決められます。
ですから議論としては、ヘイト犯罪の刑を何年にするかの議論よりは、そういう犯罪類型を認めるかの議論が先になりがちです。
ヘイト犯罪が認められれば、千差万別の態様に応じて裁判所が法定刑の範囲内で量刑をを決めれば良いことになります。
この結果ヘイトスピーチが犯罪にするかどうかが、先決的大きな議論になります。
法定刑の幅が広い日本では、日本で罰則を伴わないまでも「ヘイト取り組み法」(私の勝手な略称)ができたことによる価値観的影響・・国家意思としてヘイトを許さないことが公認される(予定でも先取り可)と、量刑に当たって裁判所が犯情に自動的に組み込む仕組みですので、その実務的影響は甚大なものがあります。
不法行為慰謝料も同様で、何をしたらいくらと言う機械的基準がなく裁判所の総合判断で決める仕組みですから、「ヘイトが許されない」という社会的合意が出来ると裁判所は自信を持って高額慰謝料を認定しやすくなります。
実際に京都朝鮮人学校事件ではまだ法制定前ですすが、世論の後押しがあって?1000万円以上だったか?巨額認定があったという報道があった記憶だけで正確ではありません。
川崎の公的施設使用不許可事件もそのような文脈で読み取るべきでしょう。

② 憲法学者のロバート・ポスト
「表現の自由」を擁護する観点から規制反対論を打ち出している。その際にポストが提示するのは、表現の自由の意義は民主主義の維持発展のために不可欠だという議論であり、表現の自由の規制は、仮にそれがヘイトスピーチに対するものであっても、民主主義にとって不可欠な自己決定の概念を掘り崩すものだと主張する(48)。

③ ACLU)(自由人権協会)前会長の(36)ナディーン・ストロッセン
(1)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムの抑止にとって必ずしも効果的ではないこと、またさらに進んで、(2)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムをむしろ悪化させうること、である。ストロッセンがこの2つのテーゼを示すに(1)についてはイギリスにはヘイトスピーチに対する法的規制があるにもかかわらず、それが効果を上げているという証拠が必ずしもないこと、(2)についてはイギリスで1965年に人種関係法がはじめて制定された後、最初にこれが適用されたのがブラック・パワーの指導者であり、その後も黒人や労働組合員、あるいは反原発の活動家に適用されていると述べている(49)
。また別の箇所では、先に触れたミシガン大のスピーチコードについて、白人が黒人を訴えたケースが20件以上あったこと、また実際に罰則が適用されたのは黒人の学生の2例だけであったことを指摘し、やはり規制がむしろレイシズムを悪化させうることを指摘している(50)

3-3 90年代アメリカにおける公民権運動の「継承」
表現の自由の原理は、公民権運動との文脈で強調されたにすぎないという視点の強調?
4 日本の文脈への含意──結びに代えて
・・・2章で言及した政治学者のエリック・ブライシュは、ヘイトスピーチ規制を考える際には、その国ごとの歴史的な文脈性を考慮することが重要になるとしている(57)。また日本の著名な憲法学者である奥平康弘も、アメリカの表現の自由の歴史をまとめた大著のむすびで、次のように書いている。
「ぼくが言いたいのは、従来の問題の局面、すなわち、人びとがそのために犠牲を払いながら挑戦し獲得してきた表現の自由の文脈とはかなり異なるところで、同じ表現の自由を主張するばあいには、それを念仏みたいに唱えるのではなく、その歴史的な正確に適切な形で再構成して語る工夫が必要だろう、ということである。」(58)
・・・日本においてヘイトスピーチをめぐる議論を成立させている歴史的な文脈とは、どのようなものなのだろうか。
日本には一方でアメリカと同様に規制に対してきわめて抵抗が強い土壌があるが、その背景にあるのは、やはり第二次世界大戦の経験ということになるだろう。
ドイツの場合は同様の経験からヘイトスピーチに対して他国よりも強い態度をとることになったわけだが、日本の場合はむしろ言論統制こそが戦争への道を開いたという意識から、逆に「表現の自由」が支持されることが多いように思われる

以上紹介した論文は、アメリカには公民権運動があってそれを保護するためのの表現の自由の強調であったが、(公民權運動が規制されない・昨日引用した通りユダヤ人知識層でも「集団誹謗規制は却って不利」と考えていたことが紹介されています)ためにはヘイト規制を求めると自分たちの運動にもその規制が及ぶマイナスを考慮したと言うようですが、日本にはそういう歴史がないと強調したいようです。
しかし、日本でも米国理論の「相手批判が自分たちにも及ぶ考慮→朝鮮人の過激な日本批判・・天皇や総理の顔写真に竹槍を突き刺すような過激な表現が許されるかの非難がブーメランのように起きてくるのを無視できないでしょう。
「双方ともに行儀良くしてください」というのが、今の国民世論ではないでしょうか?
怒声や罵声を浴びせるような下品な言動は嫌われる筈・放っておけば、市場原理で淘汰されるのではないでしょうか?
実際に在特会に対するカウンター的組織であったしばき隊も、粗暴イメージが浸透した結果、事実上消滅してしまったようにに見えます。
在特会も高額賠償命令に懲りて粗暴な言動を慎むようになったように見えます。

ロヒンギャ問題2(日英の恩讐1)

ミャンマーに関する18年9月3日現在ウイキペデイアの引用です。

ロヒンギャ問題
2016年ミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている[17]。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている[18]。
2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラディシュ側へ流出した
ロヒンギャのテーマで出てくるウイキペデイアの記事からです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A3
現在も、ラカイン州では仏教徒であるアラカン人(ラカイン人)とイスラーム教徒であるロヒンギャの間で死者の出る衝突[25][26]が頻発しているが、次代を期待されるアウンサンスーチーはこの問題についての解答を留保しているため、ロヒンギャ側は不満を露わにしている[27]。そして、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟が政権を取っても状況は変わらず、国連調査団の入国不許可を表明した[28]。
アラカン人は「仏教の守護者」を自認している。ミャンマーの支配勢力であるビルマ人と対立する一方[29]、ムスリムであるロヒンギャへの敵意は非常に強く、アラカン人の民族政党・上座部仏教政党であるアラカン国民党(ANP)は、「ベンガル人」追放を公約している[30]。以前に認められていた国籍や参政権などの諸権利も、アラカン人には不法に与えられたものと認識されている
※日本の在日特権に対する在特会支持者の関心同様です。

「ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々[注釈 2]が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。
日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始[注釈 3]した。1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。
そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。市民権法はロヒンギャに限らず、1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった[38]。
現在のミャンマーは、新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため[39][40][注釈 4]、ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い」

ロヒンギャ問題は英国とビルマ両国の緩衝地帯であったアラカン王国の争奪戦に始まるようです。
まず、アラカン王国が1784年ビルマに征服されて、英国とビルマの直接対決になり、英緬戦争敗北で、ビルマが元アラカン王国地域を英国に割譲させられ、この結果元アラカン王国地域はこの時インド帝国の一部に編入されました。
編入後新植民地統治のために英国はイスラム系を利用したらしく、英国はアラカン人から土地を取り上げて少数派のイスラム教徒に与えたということらしいです。
アラカン王国当時少しずつ流入していたベンガル地域からの移住者であるイスラム教徒と仏教徒とは平和裡に共存していたらしい(と言いますが、実際には新参者は苦しい立場にあったからこそ英国に利用されたのでしょうが・・)のですが、農耕社会定着以降の流入民・流入民は100年単位では農地を持てないのが普通でしょう・・・・。
わが国でも衰退産業と言われる現在でも、在日で農民になった人は滅多にないのではないでしょうか?
イギリスはビルマから割譲を受けて新たに入手した元アラカン王国地域支配の道具として、アラカン人の土地を奪って?(流入民も土地を持てるようにしただけかも・正確な実体が私には不明・ネット情報をちらっと見ただけの知識です)流入民に引き渡したことが仏教徒=アラカン人との深刻な対立の起源・原因らしいです。
アラカン王国の民にとっては、外敵に協力ししかも自分たちの先祖伝来の土地を奪った恨み骨髄の歴史というネット情報です。
日本軍が英国軍を追い払うと(日本軍の第一次〜第二次アキャブ作戦のことか?)アラカン族はこれに協力しますが、ロヒンギャはイギリス・インド連合軍軍側についたことが恨みに火がついた直接の原因らしいです。
この戦争でラカイン人が「2万人以上も殺された」というのが過激な襲撃が始まった直接の理由になっているようです。
上記引用の続きです。

また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る[35]。特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている[36][37]。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年 – 1992年と1996年 – 1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。
2012年以降の現状
2012年6月、ロヒンギャ・ムスリムとアラカン・仏教徒の大規模な衝突が起き、・中略
ミャンマーの軍総司令官は、ロヒンギャはミャンマーの民族ではなくバングラデシュからの不法移民であると表明[50]する一方、バングラデシュでも難民や不法移民と扱われている[51]。また、タイやマレーシアなどの周辺諸国はロヒンギャを経済移民視しており、難民認定しないことで一致している。このため、母国での迫害を逃れて、国外へと脱出するロヒンギャの人々は周辺国でも不法入国者として罰せられることが多い。
2015年には、ミャンマーから海路で流出するロヒンギャが激増したため、アメリカ国務省は周辺諸国に受け入れを呼びかけている[57]。しかし、バングラデシュ、マレーシア、インドネシア、タイなどの周辺国は、前述のとおり経済移民であるという立場を崩さず、受入を拒んでいる[58]
5月14日にはミャンマー国会で産児制限法が成立し、事実上ロヒンギャ・ムスリムを標的とした法制化が行われた[62]
こうした国際的な孤立から、ロヒンギャにはイスラーム過激派組織による勧誘に応じる者が少なくないとみられている。

「不法滞在は信号無視程度」か?2(ロヒンギャ問題1)

運用面で見ると、不法滞在では、信号無視のように不起訴等の選択肢がなく摘発と同時に入管による強制収用が同時進行で始まり、最後は強制送還という実力行使が待っています。
辛淑玉氏の言う不法滞在というのは刑事手続き並行進行のない単純な場合を言うのでしょうが、この場合には検挙と同時に入管当局への身柄拘束が始まります。
このように法定刑では不退去罪とある程度パラレルな関係ですが、信号無視とはいろんな待遇でパラレルではありません。
単なる犯罪の場合、国外退去の強制(死刑はその1種でしょうか?それ以外に)はありません。
刑務所で1〜2〜10年以上年服役してもまたシャバに戻れる期待・希望がありますが、不法滞在で退去強制されると次の入国は以下に紹介する通り制限が生じます。
(5年以内は絶対ダメというだけであって、5年過ぎても簡単にビザが出ないリスクがります)
いわば二度と日本の国に来られないかも知れない・生活の基盤が日本に出来ている場合、(特に妻子が日本にいる場合など)5年以上再入国できないと死活問題になります。
他方、信号無視は、最高で3ヶ月以下の懲役でしかない上に、実務上1回の信号無視で実刑を受けることはありません。
全く車の来ない時に、赤信号無視で渡り始める人が多くいますが、その程度では罰金さえ取られない運用の実態を示しています。
信号やスピード規制、通行区分、飲酒運転禁止その他交通法規の多くは、その行為自体が生命身体を侵害する行為ではなく、侵害の抽象的または具体的危険のある場合をあらかじめ規制しておこうとして技術的に定められた「危険犯」にすぎません。
ですから、危険行為をした結果、実際に事故・実害が起きた時に処罰されるのが原則・・スピード、飲酒運転その他違反の多くは減点(行政処分が先行します)先行で、信号無視等の結果、交通事故のような実害を起こすと刑事手続が始まるのが普通です。
不法滞在は、それ自体で領土主権侵害行為そのものであり、一歩手前で規制する取締法規とは性質が違うので、不法滞在だけで・・特にその他の違法行為がなくとも即身柄拘束が始まるなどの対応の重さ・実質が信号無視とはまるで違っています。
この違いは何によるのでしょうか?
上記のように交通法規違反行為は、実際の侵害の前に危険性の多い行為をあらかじめ規制しているに過ぎないのに対し、住居侵入や不退去罪では、何も盗んでいなくとも侵入行為自体が、住居の平穏を害する侵害行為が発生しているのとの違いです。
住居侵入を伴う窃盗は、住居の平穏と財物窃取との2個の実害が生じているのですが、信号無視の結果起きた事故では、起きた実害は事故による致死傷・物損だけです。
刑事裁判では、拘留期間が最高20日しかなくその後保釈制度がありますが、入管に収容され不服申立てなどの手続きをしても保釈のような権利としての制度がなく、審査手続きが終わると実際の強制送還がいつか不明のまま、半永久的に?収容所に収容されたまま(仮放免制度がありますが保釈のように無味の推定に基づく保釈のような権利性がありません)です。
服役の予定が決まっている刑罰と違い、本人の全く関与できないところで(アジア系の場合、大村収容所のアキが出る都度大村に送られて、)帰国の船や飛行機が決まるとある日いきなり飛行機や船に乗せられてしまう仕組みです。
いわば俊寛僧都が赦免船がいつ来るか待つような環境です。
俊寛の場合、赦免船が来るのは夢だったでしょうが、強制退去の場合には、その直前まで家族の面会ができるので逆の関係です。
ただし平家ものがたりの筋とは違い、俊寛僧都の家人(その当時何と表現したか忘れました)が流刑された主人を案じて訪ねた時に、俊寛はその地の生活に馴染んでいて都への帰京を望まなかったという筋のストーリーを何かの書物(創作か研究成果かも忘れました)で読んだ記憶です。
最近の不法滞在者は国に帰れる喜びよりも、現地生活に馴染んだ環境からの剥離のほうが辛くなるのではないでしょうか?
これがオバマ大統領による、少なくとも親に連れて来られた子供(入国時16歳以下だったかな?)に限定して適法化する法制定になったのだと思われます。
どういう理由で不法入国したかは別として、ロヒンギャ問題もあまりにも長期間住んでしまった以上、今更故国に追い帰されても生きていけません・・同じ人道的配慮要求が欧米諸国の背後にあります。
ただアメリカの場合、アメリカ社会に溶け込み良きアメリカ人である移民の現状をトランプ氏が無視しているのに対して、ロヒンギャの場合歴史が違います。
仏教徒の国ミャンマー侵略後の支配道具として、イギリスがイスラム教徒を優遇し分断政治に利用した歴史があるロヒンギャの場合、単なる人道問題とするのは無理がありそうです。
(米軍政時の在日の暴動・違法行為などが言われますが、同様?)
ロヒンギャの場合、ミャンマー独立後地元アラカン族と同化・融和を拒むどころか?反政府運動に精出して来た・・・事実かどうか不明ですが、今回の騒動は反政府軍の警察署等襲撃に始まるとされています・・を無視できません。
今朝の日経新聞2pにもロヒンギャ問題の記事が出ています。
6〜70万人もの避難民が押し寄せたバングラでも自国民でないから、早くミャンマーに帰れ・・職を奪われる「迷惑だ」という不法入国扱い・・どこの国の保護も受けない漂流状態らしいです。
済州島から6〜70万もの難民が日本に押しかけた後の日韓交渉の時に、韓国は自国で引き受けたがらなかった(難民が戻るとその生活支援や地元雇用問題に波及するからです)結果、かわいそうだということで日本が、永住権付与で決着したものです。
日本の場合、敗戦後どんなに苦しくとも、何百万と言う日本人の故国引き上げを拒まないどころか、ソ連につれさられた抑留者に限らず、その他の中国残留孤児など帰還を強く訴えてきたし、異国で亡くなった人の遺骨収集作業や慰霊作業が今も続いています。
天皇皇后両陛下が2015年にパラオで深く深くお辞儀する慰霊式典の映像を記憶している人も多いでしょう。
https://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090022-n1.html
2015.4.9 22:49
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%A1%E9%99%9B%E4%B8%8B%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%81%94%E8%A8%AA%E5%95%8F

平成27年4月8日(水)
パラオご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)
本年は戦後70年に当たります。先の戦争では,太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ,
数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き,帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。
私どもはこの節目の年に当たり,戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ,パラオ共和国を訪問いたします。
以下中略
私どもは,この機会に,この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに,パラオ国の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に,慰霊碑や墓地の清掃,遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し,大統領閣下始めパラオ国民に,心から謝意を表したいと思っております。
この訪問に際し,ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり,パラオ国大統領御夫妻と共に,ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。
以下略

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