ロヒンギャ問題2(日英の恩讐1)

ミャンマーに関する18年9月3日現在ウイキペデイアの引用です。

ロヒンギャ問題
2016年ミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている[17]。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている[18]。
2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラディシュ側へ流出した
ロヒンギャのテーマで出てくるウイキペデイアの記事からです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A3
現在も、ラカイン州では仏教徒であるアラカン人(ラカイン人)とイスラーム教徒であるロヒンギャの間で死者の出る衝突[25][26]が頻発しているが、次代を期待されるアウンサンスーチーはこの問題についての解答を留保しているため、ロヒンギャ側は不満を露わにしている[27]。そして、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟が政権を取っても状況は変わらず、国連調査団の入国不許可を表明した[28]。
アラカン人は「仏教の守護者」を自認している。ミャンマーの支配勢力であるビルマ人と対立する一方[29]、ムスリムであるロヒンギャへの敵意は非常に強く、アラカン人の民族政党・上座部仏教政党であるアラカン国民党(ANP)は、「ベンガル人」追放を公約している[30]。以前に認められていた国籍や参政権などの諸権利も、アラカン人には不法に与えられたものと認識されている
※日本の在日特権に対する在特会支持者の関心同様です。

「ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々[注釈 2]が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。
日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始[注釈 3]した。1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。
そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。市民権法はロヒンギャに限らず、1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった[38]。
現在のミャンマーは、新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため[39][40][注釈 4]、ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い」

ロヒンギャ問題は英国とビルマ両国の緩衝地帯であったアラカン王国の争奪戦に始まるようです。
まず、アラカン王国が1784年ビルマに征服されて、英国とビルマの直接対決になり、英緬戦争敗北で、ビルマが元アラカン王国地域を英国に割譲させられ、この結果元アラカン王国地域はこの時インド帝国の一部に編入されました。
編入後新植民地統治のために英国はイスラム系を利用したらしく、英国はアラカン人から土地を取り上げて少数派のイスラム教徒に与えたということらしいです。
アラカン王国当時少しずつ流入していたベンガル地域からの移住者であるイスラム教徒と仏教徒とは平和裡に共存していたらしい(と言いますが、実際には新参者は苦しい立場にあったからこそ英国に利用されたのでしょうが・・)のですが、農耕社会定着以降の流入民・流入民は100年単位では農地を持てないのが普通でしょう・・・・。
わが国でも衰退産業と言われる現在でも、在日で農民になった人は滅多にないのではないでしょうか?
イギリスはビルマから割譲を受けて新たに入手した元アラカン王国地域支配の道具として、アラカン人の土地を奪って?(流入民も土地を持てるようにしただけかも・正確な実体が私には不明・ネット情報をちらっと見ただけの知識です)流入民に引き渡したことが仏教徒=アラカン人との深刻な対立の起源・原因らしいです。
アラカン王国の民にとっては、外敵に協力ししかも自分たちの先祖伝来の土地を奪った恨み骨髄の歴史というネット情報です。
日本軍が英国軍を追い払うと(日本軍の第一次〜第二次アキャブ作戦のことか?)アラカン族はこれに協力しますが、ロヒンギャはイギリス・インド連合軍軍側についたことが恨みに火がついた直接の原因らしいです。
この戦争でラカイン人が「2万人以上も殺された」というのが過激な襲撃が始まった直接の理由になっているようです。
上記引用の続きです。

また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る[35]。特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている[36][37]。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年 – 1992年と1996年 – 1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。
2012年以降の現状
2012年6月、ロヒンギャ・ムスリムとアラカン・仏教徒の大規模な衝突が起き、・中略
ミャンマーの軍総司令官は、ロヒンギャはミャンマーの民族ではなくバングラデシュからの不法移民であると表明[50]する一方、バングラデシュでも難民や不法移民と扱われている[51]。また、タイやマレーシアなどの周辺諸国はロヒンギャを経済移民視しており、難民認定しないことで一致している。このため、母国での迫害を逃れて、国外へと脱出するロヒンギャの人々は周辺国でも不法入国者として罰せられることが多い。
2015年には、ミャンマーから海路で流出するロヒンギャが激増したため、アメリカ国務省は周辺諸国に受け入れを呼びかけている[57]。しかし、バングラデシュ、マレーシア、インドネシア、タイなどの周辺国は、前述のとおり経済移民であるという立場を崩さず、受入を拒んでいる[58]
5月14日にはミャンマー国会で産児制限法が成立し、事実上ロヒンギャ・ムスリムを標的とした法制化が行われた[62]
こうした国際的な孤立から、ロヒンギャにはイスラーム過激派組織による勧誘に応じる者が少なくないとみられている。

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