あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と国民意思乖離1(表現の自由市場論11と世論軽視論の矛盾2)

最近では選挙の都度大手メデイアの事前世論調査と大きな乖離が起きる・しかもいつも一方向の外れである(連日のキャンペインに呼応する世論調査結果と結果が違う)点が、余計信用を落としたように見えます。
世論調査してからキャンペインを張るものではなく、この点を掘り下げれば国民の多くが反応する読みで系統的取材を先行させるものでしょうから、大手メデイアがこのテーマで攻めれば・・と誘導したい方向性が民意(そんなことは国会で議論する問題ではないという意識)とズレていることがはっきりしてきたのではないでしょうか?
もともと大手メデイアの関心が偏っていても、ネットのない時代には誰も声を挙げられないので一人相撲でもなんとか体面を保てていたのではないでしょうか。
民意を無視するな!の大合唱ですが、その前提になる民意をメデイアが決める権利があるかのような宣伝です。
選挙結果を見ればどういう根拠で国民多数が秘密保護法やいわゆる安保法案に反対していると言えるのか不明のまま扇動していたことになります。
放送に関しては電波法で中立を求められていますが、反対派デモがあった事実報道であれば良いことになり賛成派のデモがない限り賛成派の主張は事実上報道されない一方的な関係です。
韓国は日本のメデイア動向が日本世論と誤解する傾向が強い・・中韓では日本メデイア界への影響力浸透に精出して、出来レース的世論をつくるので却って、日本世論を読み違える傾向があるように思われます。
韓国では大手メデイア誘導のままに民意が動く社会なのでしょうか。
大手メデイアが発表すると支配的意見になる→メデイアさえ支配すれば民は意のままという図式を見ると、韓国系芸能人のアルバム等では、「いいね!」の数を稼ぐために機械的に膨大な「いいね」を稼ぐ仕組みを利用しているので信用できないと言われるようになって久しいですが、あるいは、国際的な数学や知能テストなどがあるとその問題集を練習させて受験させるとも言われています。
共産圏で国策のためにオリンピック選手だけ特殊英才教育していたなどのマネでしょう。
こういう国では国際統一テストが上位になっていても、国民平均レベルの基準にはなりません。
民意もマスメデイアさえ押さえれば済むというあんちょこな発想になっているから、朝日新聞等の意見が日本世論と誤解してしまい、日本人の怒りが理解できないのではないでしょうか?
あいちトリエンナーレ「不自由展」騒動に対する専門家?主張と国民意思の関連を見ておきます。
以下平均的紹介記事と思われるウイキペデイアの8月22日現在の記事を紹介しながら逐次私の意見を書いて行きます。
ウイキペデイアでは公平に編集しているつもりでしょうが、あれだけ不満が渦巻いているのにまともな批判意見は産経の主張だけで、あとは批判「的」であるものの基本は擁護意見(表現の自由を重視した上で、説明不足とか運営ミスをいう程度です。)あり、その他膨大な引用記事は擁護論や批判に対する批判で埋め尽くされています。
ウイキペデイア引用始めます。

展示までの経緯
2012年、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が東京都美術館で開催した「第18回JAALA国際交流展」に『平和の少女像』のミニチュアが出展されたが、東京都美術館から「(政治的表現物であるため美術館の)運営要綱に抵触する」として撤去された。その経緯から「主催者の抗議にもかかわらずいつの間にか展示会場から消えた少女像は、日本の歴史認識と表現をめぐる『不自由な状況』を暴露するもの」(韓国美術研究家の古川美佳)として、2015年の「表現の不自由展」に『平和の少女像』の複製が展示物として採用された[95]

上記経緯を見ると、東京都のように特定政治主張が強い展示は行政の中立性の要請から会場使用許可しない基準があったので、それに抵触する展示ができなかったという経緯のようですが、愛知県の場合具体的使用基準がなかったからフリーパスになったのでしょうか。
具体的基準明記ない自治体でも中立性の要請から露骨な政敵批判集会利用許可しないのが原則的運用・暗黙の価値基準だったのではないでしょうか?
仮にそのような許可すれば、逆に一方勢力肩入れの違法の疑いさえ起きそうですから、東京都で条件付き許可になった団体が憲法違反訴訟や政治運動を起こしたというニュースをみかけません。
発表禁止ではなく公共施設を低価格で利用させたり補助金を出さないと言う消極姿勢にすぎず、左右どちらの勢力にも・ともかく積極的政治主張のための展示には許可しないのであれば公平です。
発表禁止と補助金交付や施設利用不許可は同じではありませんが、以下の議論を見て行くと優遇基準該当性チェックと事前検閲と同視したいようなすり替え議論・・・再軍備=戦争国家という飛躍論法と同じ手法が多い印象です。

国民意思僭称と大義なき解散論

親中政権であった民主党政権時代にもっと忠誠を尽くせ!と言わんばかりの追い撃ち・尖閣諸島侵犯や反日暴動の洗礼を受けましたし、韓国では親中路線に舵を切ったパク大統領から現在の文政権になっても、かえって観光客絞り込みや、韓国ロッテや現代自動車への嫌がらせなど相次いで露骨な仕打ちを受けています。
中国は相手が旗下に入ったり屈したとなればとことん搾り取る方式のようです。
奥田氏は流石に「中国と仲良くすれば良い」というのではもはや無理があると思ったからか?国会では過半数の意思を尊重しろというような主張に終始しています。
何が過半数かは選挙で国民意思を問うしかない・・そこまで行けばあとは堂々巡りですので、文字通り国民意思を決定すべき段階・・論議を打ち切って採決すべき時機は熟していることになります。
民主主義とは議論を尽くせば採決すべきで、議論が尽きたのちも際限ない議論を予定していません。
奥田氏国会発言引用続きです。

『理解してもらうためにきちんと説明していく』と現政府の方はおっしゃられておりました。
しかし説明した結果、内閣支持率は落ち、反対世論は盛り上がり、この法案への賛成の意見は減りました。
・・・世論の過半数を超える意見は、明確にこの法案に対し、今国会中の成立に反対しているのです。自由と民主主義のためにこの国の未来のために、どうかもう一度考えなおしてはいただけないでしょうか。

結局彼の論拠は、説明が合理的でないから理解困難という主張でなく、世論の過半数が反対だから法案反対と言うようですが、国民意思がどうであるかを聞くための国会意見陳述制度ではありません。
政治は国民の意思に従うべきですが、それは野党やメデイアが決めた国民意思ではなく、選挙で決めることです。
国民意思がどこにあるかを読み違えれば、読み違えた方がリスクをとるのであって法案反対者から教えてもらう必要がありません。
世論動向はそれぞれ陣営内での情勢分析によるのであって、与党が彼に情勢分析を頼んだのではないので余計なお世話というべき発言です。
上記によると・・自分らは主権者・・国民過半数が反対しているという主張が印象に残ります。
そもそも国会は世論がどこにあるかの審査機関でなく(情勢の読みはそれぞれ政党の自己責任・・失敗すれば選挙に負けますの専権事項です)法案自体の議論をする場所です。
大手メデイアは選挙で負け続ける野党に対する援護として?世論調査でいかに内閣支持率が下がり続けているかという世論誘導を続けています。(調査主体により偏りがあることは7月15日に紹介した通りです)
民主国家においての主権行使は選挙結果によって示される多数意思によって実現すべきであって、個々人が主権者である自分の意見に従えと主張する権利でありません。
特定人や機関がこれが世論だと決めつける権利を認めていません。
国民意思を決めるのは選挙の結果のみであり、そのためには民意を問う選挙は多いほど民主制度の実効性を高めることになります。
多数意思を知る方法は、デモや言論によるのではなく選挙だけです。
デモや言論は「多数意思形成に影響力がありうる」手段に過ぎず結果ではありません。
議論で声が大きい方が多数とは限りませんし、大手メデイアの意見が国民多数意見でもありません。
デモをいくら派手にやっても(仲間内がいっぱい集まった・・大成功と自己満足をしていても)国民が支持しない主張であれば空振りです。
国民の支持が多かったか、デモは迷惑だという人が多いかは選挙で決めるべきことで、奥田氏や大手メデイアが決めるべきものではありません。
奥田氏の15日の国会公述の2日後の17日には以下の朝日新聞の報道が出ています。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13

2015年09月17日
(社説)衆院選 大義なき解散 「首相の姿勢」こそ争点だ:朝日新聞 …

見出ししか読んでいませんが、あれだけ安保法案反対の国民世論が盛りあがっている・国民が反対しているとキャンペインを張っていたのに、解散モードになるといきなり、安保法案反対を争点にせず、総理の姿勢が問題と争点をスリ変えて、「大義なき解散」と言い張り選挙阻止に走るのが朝日新聞であり野党です。
こういうメデイアの世論調査など誰も信用していないでしょう。
上記朝日新聞社説は奥田氏が国会公述した日の2日後の社説ですので、もしかして彼の国会意見陳述・・主権者である私の意見を尊重すべしという印象を与える思い上がった主張?に対するブーイングが凄まじかったからではないでしょうか?
野党も朝日新聞も国民の多くが反対しているならば、選挙で民意を聞く機会が来たのを喜ぶべきですが、いざ解散風が吹き始めると何やかやと反対するのではこれまで強調していた民意無視という主張はどうなったの?となります。
選挙すれば大敗覚悟だったから解散を批判して安保法案はテーマではないと言い出すのでしょうか?
7月28日に、14年12月総選挙直前に行われた共産党党首の記者会見記事を引用しましたが、そこでも見出しは「大義なき解散」という大見出しでした。
民主党政権後の安倍政権以降、選挙の都度自民党は大勝し革新系野党は議席を減らす一方です。

国民総意2と神威

古代ではモーゼ・・神の啓示・・我が国では神威?宇佐八幡の御神託などの受信能力のある人・結局は意味不明ですが、卑近な例で言えば企業経営での投資・撤退決断等々集団トップに求められる決断力でしょうか。
宇佐八幡の御神託についてはJan 16, 2020 「神は民族利益を超越したか?」でも少し触れました。
政治家で言えば、国内や世界情勢の空気を読む能力であり、読みが狂うとリスクを取る立場ですが、いつもギリギリ決断の積み重ねです。
各種評論家、学者はその道のプロのように見えますが、「無数の与件が一定としたら」こうなる・こうすべき論にすぎません。
厳格なルールで行われるスポーツでさえも選手の体調、気温風向き等による誤差が生じますし、政治経済などの社会現象では何万あるか不明・無限大要素の組みわせですから、与件一定などあり得ないので、高名な評論家・学者等が経営や政治家になって成功した事例は皆無に近いでしょう。
「政治の世界は一寸先は闇」というように、数分後の大地震や今回の中国武漢発のコロナウイルス騒動による大リスクなどは合理的分析では予測不能です。
安倍総理の中東歴訪直前に米国によるイランの司令官殺害とこれに激昂するイランがどう動くかの緊迫した情勢下で、安全保証専門家が総理に示した選択肢が数種類あって(これが官僚システムの原則らしいですが)総理がその中で最も順位の低い予定通りの歴訪を選んだということでしたが、結果的にイランによる米軍基地へのミサイル攻撃が限定的だったことで報復合戦のエスカレートにならず歴訪決断が良かったことになります。
このような限界状況下では、プロの高度判断に頼るしかないことが今でもいっぱいあります。
政治の世界では世界中の情報が手元に揃っていない中での(後講釈は誰でもできると言われる所以です)緊急判断が求められることが多いので、直感力.神の啓示の受信能力のレベルによります。
サッカー・ラグビーなどで瞬時動物的勘による的確なパスや移動、戦闘現場での司令官や救急担当医師等の専門家判断の場合鍛え抜いた訓練の結果でしょうが、政治家の場合鍛え抜いた直感と神の啓示受診能力双方が必要な感じです。
菅直人氏には市民運動をしてきたせいか?で緊急時の胆力というか現場指揮経験がない・・実務能力欠如が目立ちました。
方向性がズレましたので東北大震災による原発事故に関する国民総意に戻しますと、当時の日本は敗戦時同様の国難に遭遇して悪くいえば民族挙げての総ヒステリー状態下で国民挙げて国家民族のいく末に誰もが想いを致す特殊環境下にあったので「民族意思が形成された」状況であったというべきでしょう。
国民全員に憑依した原発に関する国民総意は、「もともと危険なものである」「この危険なものが、通常状態では飼い慣らせる・危険除去施設設置は可能であっても、突発的自然現象については中短期的将来の科学技術の発達によっては予測不能である→100%安全確保できない」というものでした。
ただし、「いつ自然の猛威が襲い掛かるか不明であるので、すぐやめると電力不足で社会生活が成り立たない現実を踏まえ、代替発電産業の成長するまで最大限危険予測を鋭敏にしながらも代替電力が成長するまで「恐る恐る運転継続する」という国民総意があったことになります。
例えば、東北大震災級津波がいつどこに来るか不明ですが、だからと言って日本中の海岸ベリの生活を全員一斉に明日から放棄するわけにはいきません。
東北の大津波に被災地で明日もう一度津波が来ないという確信がなくとも警戒しながら海岸ベリで堤防その他の復旧作業を続けています。
要するに「危険が否定できないからすぐやめる」という選択肢を国民総意が取らなかったのです。
こういう考えは原発に限らず、もともと法律学で「許された危険」という基礎理論の応用です。
卑近な例でいえば、車の場合、交通戦争と言われ最盛期には年間1万人以上に事故死者が出ていましたし、今でも自動車による死亡事故を皆無にすることはできないが、社会的に有用な道具であることを理由に製造販売使用が許されています。
料理も食中毒の危険が否定できないからと、フグやキノコに限らず何もかも禁止していれば多種多様な日本の食文化が生まれなかったでしょう。
飛行機も墜落しない保障がありませんが、今よりもっと危険性の高かった初期から許容されて技術開発の結果次第に安全性が高まってきたものです。
原発というか放射能漏れによる死者が一人も出ていないのに比べれば、車の被害の方がその何万倍も大きくしかも(死者だけでなく傷害・物損事故の方が死亡事故の何十倍もあるほか排ガス公害など)現在も日々発生しています。
原発に限って、危険の可能性があるという程度で停止命令を出すことは国民総意に反していないかの違和感です。
伊方原発で稼働停止命令が出たとの報道ですが、この国民総意を無視して司法が「危険性がない」証明を求めたとすれば危険を除去できない前提の国民合意・・与野党合意を無視した判断となります。
できるだけ慎重審査するという政府の決めたルールを守っていないという判断でしょうか?
決定文自体がまだネットに出ていないので正確な決定理由が不明ですが一応引用しておきます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200117/k10012249231000.html

伊方原発3号機 運転認めない仮処分決定 広島高裁
2020年1月17日 18時02分

・・広島高等裁判所は、地震や火山の噴火によって住民の生命や身体に具体的な危険があるとして、運転を認めない仮処分の決定を出しました。・・

伊方原発の敷地の近くに地震を引き起こす活断層がある可能性を否定できないとしたうえで「原発までの距離は2キロ以内と認められるが、四国電力は十分な調査をせず、原子力規制委員会が問題ないと判断した過程には誤りや欠落があったと言わざるをえない」と指摘しました。

また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。

国民総意1と神威

大震災の猛威を見て、当時国民投票こそしていないものの、原子力発電は「やめてしまうしかないほど危険なものである・科学技術で100%安全確保できない」という国民認識が一般化していました。
いわゆる「総意」ですが、本当に重要なことは形式的な多数決ではなく総意によるのが正義というべきでしょうか?
弁護士会内や公共団体の各種委員会で議長または委員長がいろんな意見交換後議論の流れ・空気を読んで「ではこのような答申・議決でよろしいでしょうか?」などと取りまとめるのが99%以上といっても過言ではありません。
千葉県弁護士会の総会ではこの10数年以上前から政治的立場による意見対立が激しくなってきた結果か?議長により「この方向でいいですか?」的な取りまとめ方が通用しなくなって、対立の激しい総会決議等では毎回(賛成反対棄権何票等きっちり数えて)厳密な決を取っています。
日本国憲法制定は「国民総意」によるというのですが、どうやって「総意」を確認するのかしたのかが法的に問題になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八月革命説#大日本帝国憲法の改正と憲法改正限界説

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日(以下略)」

私は、上記8月革命説を提起した宮沢憲法で勉強した世代ですが、その頃読んだ記憶ではルソーの意見を引用しながら、それでもないというような私の能力では理解困難な議論を書いていた記憶ですが、理解できなかったという記憶だけ残っています。
ちなみにルソーの「総意」とはウイキペデイアによれば以下の通りらしいです。

ルソー社会契約論において意思の総和だけでない正しい理念と言う意味(一般意思)で用いた(これをヴォロンテ・ジェネラールともいう)

上記を読み直しても多数決の程度ではない・国民投票で決めるべきでもない・意味不明ですが、私流の直感的理解では、民族意思を超能力的直感で実現する行為でしょうか?
日本国憲法制定時の国会の議論では、時間的条件として制定時の国民意思ではなく、民族の過去現在未来を通じた民族意思と言うようです。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai1/sannkou4.pdf

【内閣法制局長官 真田秀夫君(昭和 54 年4月 19 日 衆・内閣委員会)】 天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくと書いてございます場合のその総意 というのは、一億何千万の国民の一人一人の、具体的な国民一人一人の意思というよう な意味ではなくて、いわゆる総意、いわゆる総体としての国民の意思ということでござ いますので、特定の人がその中に入っているとか入ってないとかいうようなことを実は 問題にしておる条文ではないというふうに考えられます。…先ほど申しましたように、 ここに言う総意というのは、いわゆる総体的な意思、一般的な国民の意思という意味で ございますので、証明しろとおっしゃっても、それはなかなか困難であろうと思います。 …いまの憲法ができますときに、これは帝国憲法の改正の形をとりましたけれども、当 時の帝国議会で衆知を集めていろいろ御検討になって、そして国民の総意はここにある のだというふうに制憲議会において御判断になった、それがこの条文の規定にあらわれ ておると、こういうふうに言わざるを得ないのだろうと思います。

総意」とは過去現在未来の民族意思と言うのですから、投票によって数字で(単純多数か、特別多数か、全国民一致か、成人だけに限定するかなどの議論以前の概念です。

人民〜臣民〜国民3(明治憲法〜日本国憲法)

12月21日の国民や人民の用語に戻ります。
日本国憲法制定時に明治憲法の「臣民」をそのまま残すのは国民主権と矛盾し不可能になったのでその代わりの表現をどうするかが、当然大議論になったと推測されます。
明治憲法草案論争時に人民を主張していた人たちにとっては臣民になってしまって言わば論争負け組にとっては、日本国憲法制定時に人民と表記すべく巻き返しのチャンスだったはずです。
現憲法はGHQによる事実上の強制・原案を示されたのは、周知の通りです。
日本語の「国民」をピープルに訳したかの順序次第ですが、もしも英語原文が先行していた場合原文のpeopleをどう翻訳するかが重要だったと思われます。
もしも日本国憲法の原文がマッカーサーに示されてそれを日本語化したものとすれば・・ゲチスバーグ演説を下敷きにしたpeopleが当時一般的に「人民」と翻訳されていた・後に紹介する日米和親条約第1条に日本語版には「その人民」」という文字がありますので、これが一般的翻訳だったのでしょう・・とすれば、これを憲法上も人民と表現すべきという主張があったと見るのが素直でしょう。
日本国憲法草案としてマッカーサーが示した原文は以下の通りであったと本日現在のゲテイスバーグ演説に関するウイキペデイアに出ています。

1946年、GHQ最高司令官として第二次世界大戦後の日本占領の指揮を執ったダグラス・マッカーサーは、GHQによる憲法草案前文に、このゲティスバーグ演説の有名な一節を織り込んだ。
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.
— GHQによる憲法草案前文。強調引用者。
この一文がそのまま和訳され、日本国憲法の前文の一部となった。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

日本側との交渉の結果、完成したのが以下現行法であり、その英訳です。
日本国憲法英文を見ると前文冒頭は以下の通りです。
http://www2.kobe-u.ac.jp/~akihos/en/grenoble_docs/07CONSJAP1946.pdf

THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity・・・.
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

日本語の前文です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

従来のピープルの翻訳や国内用語論争の経緯からすれば、人民と書くのが素直な結論のようですが、日本では古代から支配対被支配の根源的対立社会でないので、もしも明治の初めから人民と翻訳していたすればそれがそもそもの間違いだったのか?
・・私の拙い翻訳能力で言えば庶民〜領民が妥当か?不明ですが、・・憲法制定交渉のおおよその流れについては、このコラムで紹介したことがありますが、文言表現交渉の逐語的議事録まで読んだことがないので経緯不明ですが、結果から見ると日本側はピープルを人民と訳さず「国民」という用語に巻き返したように見えます。
とすると「人民による人民の・・」という明治以来の翻訳が間違いという主張をしたとすればその後の翻訳が「国民による国民のための・・」と変わる筈ですが、今に至るまで変わっていないようです。
私がゲティスバーグ演説の原文を読んだのは大学に入ってから・すなわち戦後約16〜7年経過頃ですが、その当時でも日本語訳は「人民の人民による・・・」というものだった記憶です。
高校大学にかけて漢詩や和歌、短歌その他気に入ったフレーズ丸暗記の年齢でしたので今も「人民の人民による〜」と口について出ます。
以来現在まで「国民の国民による・・」という翻訳を見たことがありません。
多分憶測ですが、「虐げられている段階では人民であるが、主権を握った後は虐げられている人民ではない」二項対立を脱却した以降は主権者であるから抵抗勢力ではあり得ないので、民主主義=民の主権国家になった以降の領民は、権力機構の一員でもあり、権力者の構成員でもあり、構成員として参画して決めた法に従う関係でもある・・総合的概念である「国の民」であるべきだというものだったのではないでしょうか?
続いて臣民概念について書いていきますが、「臣と民」の合体した上位概念として国民が考案採用されたのです。
明治憲法は、領民の中には、「臣と民」がいるという程の意味しか明記せずに、「臣と民」を合わせて何というかの総合概念としての国民概念をあえて採用しなかったようです。
人民にこだわるグループも総合概念ではなく、明治政府同様の「臣と民」の内、「民」の部分を政府転覆権=抵抗権を強調する立場ですし、明治憲法の臣民概念は、民にはそこまでの権利がないという言外の意味を込めたものだったのでしょう。
デモ等の行動を見ると民衆・大衆の行動というにふさわしく、「国民行動」というとなんとなく違和感を感じるのは私だけでしょうか?

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