憲法問題と変革対応

今回の大変革のうねりは、(・・非嫡出子の相続分部差別違憲論のように)日本社会の内部変化によるのではなく、周辺国の軍事大国化・侵略意思の明確化・行動に対して、どこまで対応必要性が生じたか、どのように対応すべきかの判断です。
幕末に英国によるアヘン戦争・・香港割譲事件に国家的危機を感じた騒動に似ています。
今回は中国による南沙諸島や尖閣諸島の侵略で、習近平氏による意趣返し的(中華帝国の栄光復活=19世紀に受けた屈辱の仕返しを基本思想とする)行動ですが、方向こそ違え、周辺安全保障環境が激変している点は似ています。
幕末にも開国が祖法(憲法)に反すると言って反対した教養人?攘夷勢力が重きをなしていましたが、結果的に開国が正しかったことを歴史が証明しています。
攘夷とは言いながら(これは方便であって)本音は徳川政権を倒したいだけの勢力でしたから、徳川政権が倒れるとすぐに開国に舵を切っています。
当時の弱肉強食の世界情勢に適応するには、幕藩体制のまでは無理があったことから開国が正しかったとしても、幕藩体制変革の必要があったので、結果的に明治維新は成功しましたが・・・。
今回は現在の民主主義体制を別の体制(中ロのような独裁性?)に変える意図を持っている人はいないでしょうから、単純に国の安全を守るのにどこまでの準備が必要かと言う程度の意見相違です。
集団自衛=他国の協力が必要と言う意見と、そこまでの必要がないという意見に分かれていると見るべきでしょう。
それだけのことに憲法違反かどうかを先に議論して行く必要があるかどうか疑問です。
目の前の必要なテーマをどうしてキチン議論しないか不思議です。
先ず集団自衛の必要性の有無を討論してどの程度までなら必要かなど順次議論して、その結果ここまで必要となったときに憲法上どうなの?と言う順序で良い訳ですが、必要性の論議に入るのをいやがって入口で憲法違反かどうかの空中戦で勝負しようとしているのって自由な議論をさせたくない意図・・戦略の成功を感じます。
後生大事にしていた攘夷ならぬ非武装平和論で国を守れるかの議論が先ではないでしょうか?
反対論者が、政府案と反対論を比較して反対論でどのようにして国を守れるかと言う利害得失を説明するのが、建設的議論ではないでしょうか?
単に安倍総理はナショナリストだから・・と言うレッテル張りや憲法違反と言うレッテル張りで勝負していることに、言論封殺的・・民主主義に対する危険な方向を感じます。
政治運動には何らかの実利の裏付けがある筈で観念論は意味がないのですから、その裏には、反対運動するに足りる本音がある筈ですが、これを表に出さずうまくやるのが政治そのものと言えば、言えますが・・。
国民は主権を行使するためにはムードやマスコミ宣伝に惑わされずに運動体の本音・・何のために政治運動しているのかを知り嗅ぎ分ける必要があります。 
国民が正確な判断をするには、前提事実・・情報提供が重要であって、そのためにマスコミの重要性があるのではないでしょうか?
マスコミがやるべきことは、ナショナリストとか憲法違反かどうかの報道紹介よりも政府案だと「このようになり」反対論だと「どうなる」と言う事実の正確な情報です・・。
憲法違反かどうかの観念論の宣伝では、国民を惑わす効果しかなく、法案成立による利害が国民に分かりません。
全ての法案は利害の落ち着くところを見れば国民がどちらに味方したら良いかがすぐに分ります。
本当の利害が分ると困る勢力が、これを知られないように誤摩化そうとしているのです。
現在は幕末とは違い、その法案が憲法(祖法)に違反するかどうかを決めるのは、法律が成立してから裁判所がきめる権限・・三権分立していますから、代議士・国会(幕末で言えば諸候重臣)がこれに反するとか、反しないとか勝手に決めて審議に応じないことは逆に憲法・祖法違反で許されません。
国会の機能は、法案内容実質の妥当性(今回で言えば集団自衛が必要な国際情勢になって来たか否か)議論し議決するべきであり、憲法違反かどうかを議論するべき場ではありません。
国会の権能外のことに対して、国会議員もその職責がないだけではなく、職務外の憲法論を優先して肝腎の本案内容の吟味を怠っているとすれば、立法作業に関与すべく選出されている代議士の職務怠慢です。
「憲法違反の法律を許すな!と政治家が言っても、そもそも違反かどうかの決定権を国会が持っていません。
憲法論は国会の権限でない以上は、国会で立法作業を行うべき代議士の職務でもないでしょう。
職務外の行為に精出しているのって不思議な光景です。
ある法律が憲法違反かどうかに付いて議論するのは代議士の職務ではなく、代議士は自己の信念でこの法律はこの点が良くないから変えるべきだと言うのは・・そのためにどの部分が国民にとって良くないと力説するのはまさに職務行為です。
仮に人種差別法が制定されようとしている場合を考えれば、憲法違反かどうかを言うのではなく、(そう言う意見は法律家に任せて)このような差別法は許されないと、自己の価値観で話すべきです。
自分の価値観と関係なく憲法違反だから反対とか、憲法枠内だから賛成と言うような主張は法律家に任せておくべきであって、代議士の職務ではなくそんな観念論しか言えない代議士は要りません。

憲法違反の疑いと司法権2

「憲法違反の法律を許すな!と言っても、そもそも国会が違反かどうかの決定権を持っていないし事前審査制度がないのですから、法案段階で事前規制を言うのは憲法の国民主権主義に反しています・・。
代議士も審議権を持っていないテーマに付いて、国民の支持を求める行為は代議士としての行為ではなく、個人・市民活動の分野です。
憲法違反かどうかは、裁判所以外に誰も決められないことですから、誰も分らないことを前提に主張していることになります。
ですから、これらスローガンで主張している本当の意味は、単に「この法案反対」を「どう言う害があるから反対するかの理由を言わずに・言えずに)憲法違反と言い換えているに過ぎないことになります。
相手の主張に対して反論しないでどうせあいつは「アカ」だから・・・と言うのと同じです。
法案の成否テーマを憲法論にしてしまうと、代議士も法律専門家でないので良く分っていないし、国民も難しい憲法論が分りません・・結局「悪いことなんだな!」と言うイメージ操作・・宣伝次第になります。
この辺は国民理解が進まないと言うマスコミ宣伝も同じです。
「国民理解」などと言う誰のもわからない単語が出て来て、国民が惑わされている点で同じと言う意味です。
具体論で負けそうになると古くはプライバシー侵害と言う外来語を使って惑わし(グリーンカード制その他新技術をこれでいくつも葬ってきました)、この4〜5年では近代法の法理違反〜憲法違反、果ては立憲主義違反〜国民理解が進んでいないなどと次々と抽象概念を繰り出して混乱させる戦法の1つです。
我々弁護業務で言えば、事実説明途中でイキナリ違ったこと、「先生には分らないでしょうが・・」と言って業界隠語などの説明を始める人がいますが、用語説明が終わってから、「用語の意味は分ったがそれと今までの話の流れとどういう関係があるの?」と聞くと何の関係もないことが多く、話をそらせて誤摩化そうとしている印象をうけることがあります。
国会は「言論の府」・・冷静論理的に議論出来る「選良」?が感情論に走らず具体的冷静に議論して問題点を詰めて行き、意見対立が解消されないところで議決して行くことが憲法上予定されています。
内容をマトモニ議論しないで、憲法違反の主張ばかりを平然とする政党があるとすれば、(野党がしているかどうか知りませんが)国会で法律制定権や憲法改正の手続を定めている憲法の制度仕組みを真っ向から否定するもので、・・憲法違反の存在ではないでしょうか?
憲法違反になるから内容の議論に応じられないと言い張っている政党があるとしたら、新規法律制定必要性の実質議論では負ける(国民の支持を受けられない)から、この議論を避けて入り口論で終始しているのでないかと疑われます。
政党はまさか国会ではそんな主張はしていない・・国民向けスローガンで主張しているだけと言う場合もあります。
場外ならば何をしても良いと言うものではありません。
社会変化に対応すべきどんな法律案にも内容の議論をせずに反対することを目的に国会議員になっているとすれば、憲法が予定している立法権・・時代変化に合わせて新規立法を制定し改正することに参加すべき代議士の職務・・立法府・国会の存在意義を踏みにじるもので憲法違反の存在です。
現行(憲法)法に反すると考える法案には内容の議論さえ応じないと言う立場は、自分の気に入らない社会変化対応に全て反対すると言う基本精神を示していることになります。
交通取締法等の改正も排ガス規制強化も増えて来た空き家をどうするかも、社会変化適応によるものですが(考えようによれば私有財産権の制約等憲法問題が背後にありますが・)、この程度の変化対応に付いては憲法違反の議論が起きません。
憲法論が起きるのは、社会のあり方が急激に大きく変わる大変化適応・法制度上も追認して行くかに関する場合でしょう。
基本的に変化に反対する傾向のある(日本の進歩政策に何でも反対するかの背景事情にはいろいろあるでしょうが・・)超保守政党が、大きな変化に対して反対する名目に憲法論を持ち出す傾向があります。
(旧社会党は何でも反対の社会党と言われていて消滅?しました)

憲法違反の疑いと司法権1

国会が憲法違反の法律を作れないならば先議事項ですが、憲法はそう言う制度設計にしていません。
制度的には、ある法律が憲法に違反するかどうかを国会が決めるのではなく、出来た法律を後に・しかも事件が起きて(具体的争訟性)から司法権がチェックする仕組みです。
実際上そうしないと、国会議決で決められるならば、多数派が合憲と決めれば、皆合憲になってしまうので、議会を縛るための憲法制度の意味がなくなってしまいます。
これがイギリスの国民主権=議会決定万能主義の欠陥・限界であり、これに抵抗したのがアメリカの独立革命でしたから、独立後のアメリカでは、民意であれば何でも良いのではなく、民意によって議会が法を制定しても良い代わりに「事後的に」違憲立法審査権を司法権が持つようになりました。
民主主義の本家を称するアメリカでも司法権が「事前に」憲法審査する仕組みではありません。
民意の洗礼を受けていない司法権が法・・国会の議論を事前チェック・検閲出来るとすれば、如何に考えても国民主権の原理に反して無理があります。
せいぜい「事後的チェック」があることによって「議会の暴走」を抑制する程度の意味を期待しているに過ぎません。
違憲立法審査権は、民意代表の国会の立法権を最大限尊重すべき暴走抑制がその本文ですから、微妙な疑いを審査する必要がない・・暴走に至らないギリギリの問題まで口出しするのは司法権の越権行為と言えます。
三権分立制度は三権による相互控制(チェック&バランス)であると説かれるのは、その意味であって「司法権の優越」は比喩的に言われるだけであって実際に優越して良い訳ではなく、謙抑的判断が求められています。
いろんな規制には、事前チェックと事後チェックの2種類がありますが、事前検閲の方が強力と理解されています。
まして憲法判断はこの後に書くように社会の大変化を背景に法的にも大きな変化が妥当かどうかを見るものですから、先ずは市場と言うか世間に法律が出た後の実際社会との適合状態を見てからの判断の方が間違いがないことになります。
この意味でも裁判官ですらなく、公的バックもない学者が個人の考えで(無責任に)言ったり、あるいは内閣法制局の役人などの意見で国会議論の方向性を決める事前検閲に類するようなことは、元々憲法が想定していません。
内閣法制局は昨日から書いているように法律の矛盾調整・・別の法律で引用している場合、同時改正の必要性や間違いを防ぐべくチェックするための事務局(テクノクラート)であって、国政を左右するような基本的意見を言うべき職務ではありません。
憲法論が大きな話題になるときは、(明日以降書いて行きますが、)日々の細かな社会変化に対する適応の問題(すでにある耐震基準やガス排出規制をより強化する程度を)越えて社会根幹の変更をもたらす大きな変革時にこの変化に合わせて法律まで変えていいのか等が大論争になったときに憲法違反かどうかが大問題になる傾向があります。
このよう社会大変革の認識の有無・許容の幅に関しては、社会変化が進んではいるものの法的にこれを求めることまでやるべきか(アメリカで言えば同性愛問題など)国民の総意で決めて行くべきです。
象牙の塔とは言わないまでも、民意と直接関係のない・・政治の現場を知らない学者や法制局の役人が、聞かれて参考意見を述べるのは自由ですが、聞かれもしないのに、率先して憲法違反を主張して集会など開いて国民を指導しようとするのは、学者の役割を越えています。
まして歴史上教養人知識人は、書斎中心のために現場の空気にうとい・・時代変化を読み取る能力が低く、超保守的立場に固執する傾向が多いことからも国家大変革受け入れの可否に付いて学者が口を出すのは、国家の進路を誤る危険な風潮です。
この後で書いて行く幕末開国の場合も学者が過去の洗礼「祖法」にこだわって攘夷思想の背精神的支柱になっていました。
社会の大変革問題にどう対応するかではなく、細かな技術改良に口を出す程度が学者・研究者の守備範囲ですから、社会大変革期に学者の意見など聞いていると国家の進路を誤ります。
あたかも国会が合憲違憲の先議権(事前検閲権)があるかのように、民意を受けた代議士よりも優先的に口を挟む権限があるかのように学者の意見を大々的に報道するのはおかしな現象で・・まさに憲法の前提を揺るがす悪しき風潮です。
日本国憲法は戦後アメリカ法の系列に入っていますので、憲法違反かどうかは法律制定後に司法権が最終的に決める制度設計になっていることについては、争いがない・・左翼・文化人が金科玉条にしている制度です。
実務上も、政府が法案提出段階で合憲を前提に提出しているのが原則ですから、道路交通法や建築基準法・食品衛生その他全ての法律に付いて国会が合憲議決してからでないと法案審議に入れないと言う制度にしても、結果的に合憲決議が(多数派の造反がない限り)通ってしまうので、無駄なセレモニーが挟まるだけになって国会空転時間が多くなるだけです。
ですから世界中の憲法で、そう言う制度・・違憲かどうかを先議する制度になっていないし、運用もそうなっていない筈です。
合憲違憲に関しては国会で議決するようになっていない・・国会の権限外のこととすれば、権限外のことについて議論することは意味がありません・・と言うよりは、三権分立制度の精神から見て国会が議論して議決するのは、司法権を侵害する越権・憲法違反行為でしょう。
この辺を野党が充分に国民に説明していないかごまかしている・・政府・与党が宣伝負けしている印象が、今国会の流れです。

憲法違反の疑いと国会の権能3

矛盾法令が並立する場合と違って、憲法違反が事後に分った場合、(参議院の選挙区定数が後に違憲であったと判断されれば、)実害は大きいと言えば大きいものの、司法による事後判断が憲法で決められている以上は、憲法制度の許容範囲です。
例えば、矛盾する法令が併存している場合、法律・・生活保護費の支給基準表が併存したり(同じ道路に制限時速50kmと80kmの標識がある場合など)窓口の人がどちらの基準で支給して良いか困ります。
法令の場合、改廃が同時でないと世の中が混乱してしまいものごとが進みませんからある法律の改正や新法施行によって既存の法律と矛盾するようになる場合には、同時改廃が原則です。
1つの法律を改正すると関連して何本と言う法律改正が行なわれるのが普通・あちこちの法律にその法律の第何条何項の場合・・・と引用されているので一緒に改正しないと別の法律適用関係が混乱してしまうからです。
これに対して、憲法違反の疑いがある場合には、(国会には権限がなく)同時改廃しない・・出来ないので、違憲の法律が事後的に無効になると、結果的に矛盾状態が生まれて混乱すると言えば言えます。
しかし、実際には遡及効を阻止するための工夫がおこなれて矛盾・併存状態が生まれることは滅多にありません。
選挙区割が違憲と認定される判例がパラパラと出ていますが、過去の選挙自体を無効としてやり直す判例が出ていないのはそのような智恵によります。
非嫡出子の相続分差別が違憲と言う判例が出たときにも、過去の相続手続が全部無効になるのではなく、ある時点からと言う限定付きだったように記憶しています。
耐震基準や排ガス規制が変わっても、今後新車登録するクルマや建築からと言う法律が普通で過去の建物やクルマに適用しないのと同じです。
議員定数違反論の場合、(違憲論者から言えば自分の頭の中でかくあるべきと言う基準があるとしても)違憲無効の判決確定までは矛盾した選挙区が実定法として併存している訳ではないので選挙自体は整然と行なえますし、生活保護支給基準も1つしかないので、直ちに矛盾した法令が現実にある場合とは異なり、二重基準で困るようなことが起きないません。
これが同時改廃しなくて良い・・司法による事後判断で良いとなっている実際的な理由でしょう。
生活保護の支給基準表が1つしかない場合、現行基準が憲法違反と思う人が違反を理由に不足分の請求をしたり国家賠償等を求めて裁判することになります。
上記のようにある条文で禁止されていることが、別の条文では合法であったりすると混乱しますが、憲法違反の疑いは理念的なものですから、明記された矛盾条文関係になることは滅多に考えられない・・憲法違反を理由に事後的にしか裁判で争えないことになっていても当面社会が混乱しません。
国民はさしあたり現行法にしたがって行動することになっていて、憲法違反の法律だからと思って従わない行動をすると、法令違反で逮捕されたり不利益を受けてしまいます。
この時点で憲法違反の法令だから、(自衛隊法違反事件で言えば、自衛隊法が憲法違反だからと言う展開です)これによって処罰出来ないから無罪だと言う憲法裁判になります。
比喩的に言えば8時間労働制は憲法違反と言う主張によって、労働者が7時間しか働かないで帰ってしまって契約違反で解雇された場合、その解雇は憲法違反かどうかを裁判で争うことになります。
司法権が事後に決めると言うのはそう言う意味で、先に不利益を受けた方が、争ったときにはじめてテーマになる仕組みです。
したがって、憲法違反の疑いだけでは目先の実務混乱は起きません。
憲法違反を理由にこれに従わない・・法令違反すると検挙されたり解雇されるので当面従うしかない関係ですから、たまに争う人がいるだけで、(違反と思っている人も)多くは従うので、大した混乱が起きません。
以上のとおり国会では、もともと憲法論を憲法制度上も同時議論する余地も必要も権限もないし、元々国会議員も憲法違反の疑いだけで、一般法令のように事前に憲法に抵触するかどうかの議論に時間を割く意味がないばかりか、これを理由に立法作業・職務をサボることは(労働者が自己判断で労働の義務がないと決めて、勤務時間中に帰ってしまえば、解雇されるように違法で)許されません。
国会が憲法違反の法律を作れないならば先議事項ですが、憲法はそう言う制度設計にしていません。
制度的には、ある法律が憲法に違反するかどうかを国会が決めるのではなく、出来た法律を後に司法権がチェックする仕組みです。
実際上そうしないと、国会議決で決められるならば、多数派が合憲と決めれば、皆合憲になってしまうので、議会を縛るための憲法制度の意味がなくなってしまいます。
これがイギリスの国民主権=議会決定万能主義の欠陥・限界であり、これに抵抗したのがアメリカの独立革命でしたから、独立後のアメリカでは、民意であれば何でも良いのではなく、民意によって議会が法を制定しても良い代わりに「事後的に」違憲立法審査権を司法権が持つようになりました。
民主主義の本家を称するアメリカでも司法権が「事前に」憲法審査する仕組みではありません。

憲法違反の疑いと国会議員の職責2

仮に与野党で国益上集団自衛権が必要があると合致した場合でも、政府案をどこまで修正すれば妥協出来るかなどはその次の問題です。
必要性があるという合意が出来れば、野党の言う憲法の枠内に収まるように修正合意する協議もあるでしょう。
維新の会の修正案は・報道程度で詳細を知りませんがこの範疇に入るように見えます。
中韓の脅威は理解出来るが、この際とばかりに国際貢献・・遠いアフリカや中東の方まで含めるのは?どうかと言う意見もあるでしょう。
これに対して、科学技術の発展は日進月歩であって、地球の裏側でも我が国の存亡にかかわる事態が起きないとは限らないから、場所で限定するのは間違いだと言う意見もあるでしょう。
こう言う具体的な論議を国民が知りたいのではないでしょうか?
修正案の隔たりが大きければ最後は裁決するしかないのであって、その違いの根本は憲法論に基づくか中国の意向に基づくか、家族が反対しているかは内部問題であって議論する必要はありません。
国民に理解を求めるべきは、自分たちはこう言う修正案を出した・・政府与党案はこう言う条項だ・その違いによって国民にこう言う利害の違いが生じる自分たちの方が正しいから支持してくれと言う具体的説明です。
これらの過程を全部省略して「憲法違反を許すな!」「平和を守れ!」「戦争をする国にするな!」「自衛隊員生命危機が生高まる」と言うスローガンではあまりにも短絡的・・飛躍(すり替え)があり過ぎます。
却って緻密な審議が進まず国民には、消化不良・審議不十分の印象を与えている一方で、国民が内容を理解し難くなっている(内容について緻密な質疑がなければ当然です)のではないでしょうか?
刑事事件で言えば弁護士が法廷で「こんな裁判は茶番だ!」と怒号ばかりしていて裁判長とのけんか腰のやり取りばかりしていると、裁判員として参加した人は肝腎の事件の流れや緻密な争点を理解し難くなります。
国民理解が進んでいないとすれば、内容の議論では国民の支持を受けられないので、マスコミと一体になって訳が分らなくする戦略が成功している結果のように見えます。
憲法違反の疑い・・新法制定や改廃に関連して、既存法令との抵触問題・・整合性の必要性はいつでも生じる問題です。
元々既存法令で間に合わない・・無理して規制すると法令違反になるから新法を作り、既存法の改正をしているのです。
国会はその仕事をするためにあります。

憲法
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。

ドローンの新規規制法の必要性が言われている例を見れば、分ることでしょう。
新法に既存法令との矛盾部分があれば既存法の改正も視野に入れて新法制定の必要性を考えて行くことになります。
ですから既存法令に反しているから反対と言うのでは、(既存法の枠内ならば改正する必要がないので)当たり前過ぎてまじめに議論している(国会議員としての職責を果たしている)ことにはなりません。
既存法令を改廃してでも新たな法律を作るべきかどうか(今問題になっている参議院の合区案の例で言えば、その分どこかの選挙区定数削減変更と一体改正になりますので、改廃には常に利害対立がバックにあります)の決断・・政治交渉に努力することが、立法作業に従事するために歳費を受けている国会議員や背後の国民に求められています。
この辺の理は憲法に関しても同じようなことが起きます。
先ず新規法制定の必要性があるかどうかを議論して利害調整努力の結果新設・改廃が必要となった後で「ところで現行憲法に違反しないか」とあるていど検討するのは良いことです。
後に違憲になると困りますから・・もしも違憲と言う意見一致を見たならばやめた方が良いでしょう。
しかし、違憲かどうかの意見が分かれるような場合、この議論にこだわって法案内容の審議に入るのを拒否することが許されるかは別問題です。
すなわち、一般法令に関しては、国会が新法と整合性を持たせるように同時に改廃出来るし、矛盾法令を存続させておくと国民はどちらの法に従って良いか分らずに困りますから、必ず同時に改廃します。
憲法に関しては違憲か否かは事後的に司法権が判断することになっていて国会の権能ではない上に、ご承知のように国会は憲法改正の発議を出来るだけであって、法律のように国会だけで改正出来ませんから、同時改廃権能を持っていません。
このことが大きな違いになっています。
権限外議論の必要性・・意味がないことに時間をかけることが許されるかと言うことです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC