ヘイトスピーチ禁止論9(道義表現の禁止?1)

話を戻しますと、21世に入ってからの一連の国際潮流をみると、組織的犯行では、共謀関係の立証が難しいことから、1つには「証拠さえなければ良いだろう式」の悪いことやり放題のグループが生まれて来たので、これらを(証拠の有無にかかわらず組織自体を壊滅させる)何とか是正する潮流になっていることが分ります。
ある集団の犯罪率が高ければその集団に不利益を与える仕組みにしないと、犯罪実行の最終利益帰属者と実行行為者の間に何段階もかませると、殆どの主犯クラス・・最終利益帰属者が無罪になってしまい、犯罪行為のやり放題になってしまいます。
現在「振り込め詐欺事件」では分業が徹底しているために最終利益帰属者と見られている暴力団幹部への刑事責任追及が殆ど出来ていない状態が表しています。
いくらキャンペインを張っても被害が減らないのは、(年間4〜500億の被害)折角検挙しても(使い捨て)末端のアルバイト程度しか検挙出来ないところに原因があります。
サイバーテロ対策で、「変なメールには気を付けましょう」振り込め詐欺に「気を付けましょう」と言うだけでは、そのときに被害に遭わないだけであって犯人は標的を変えて行くだけでいつかは誰かが引っかかります。
現在社会問題になっている年金記録漏出も大量に送付されていた中で大多数の職員が「怪しい」として開けなかったのですが、ホンの数人だけが安易に開けてしまったので入り込まれたものです。
住居侵入と違って失敗すればいくらでも相手を変えて行けるし、しかも大量同時送信可能ですからその内の一人でもかかってくれれば成功ですから、攻撃側には手間ひまがかかりません。
防犯カメラ設置のコラムで書いたことがありますが、被害者に「気を付けましょう」と宣伝してもひったくりや強盗や窃盗が減る訳はなく、検挙率向上こそが犯罪率減少に向けた最良の政策です。
交通違反検挙のための「ねずみ取り」や自動計測装置設置などを何かとマスコミが批判しますが、(警察の資金造りだとか、犯人を作り出すのが政府の目的ではないだろうとか・・今では防犯カメラや通信傍受がプライバシー侵害とか・・マスコミは検挙率向上に役立つことは全て反対のように見えます。
繰り返すように通信技術が発達しているので、証拠にこだわりながら、重要証拠である送信記録の採集を許さないのでは時代変化に合いません。
今ではネットの経路捜査協力が出来ていますが、これだって最初の頃には、通信の秘密がどうのと言う議論がありました。
表現の自由には名誉毀損等の限界があるように、通信の秘密も限定的に制限されるのは仕方のないことです。
特定秘密その他「例外をどう定めるかの技術的基準策定に関して「そんな基準は甘過ぎると」反対するのは合理的ですが、アクセス制限を定めること自体憲法違反だと言う論法は幼稚過ぎます。
個人主義をタテに、集団関係を利用して誰が関与したか分らないようにして、規制を免れようとする集団が増えて来ると、実質効果の帰属主体である組織・集団自体に法律上の不利益を及ぼして行くしかないのは当然です。
どの犯罪による不法収益か分らないけれども、合法的事業をしていない暴力団組織が巨額資金を動かせるのは許されないと言う・・基本的道徳観・概括的根拠に基づく規制が銀行取引禁止の精神です。
暴力団トップに対する脱税検挙事例を紹介しましたが、(何をして儲けたかの証拠があろうとなかろうと?)結果的に収益が帰属している以上はその責任を果たすべきです。
個人主義原理の悪用に対する反動があちこちで起きています。
この辺は共謀罪関連シリーズのコラムで、近代法の個人法理は変容を受けていると書いて来たことにも繋がります。
民族集団は暴力団組織とは違うと言えますが、(同じにするなと言われそうですが・・)ここではある組織に属している限り、組織員の非道徳的行為があれば組織構成員が直接事件に関与していなくとも影響を受けるべき事実を書いています。
2015/06/27「民族摩擦とヘイトスピーチ8」以来ヘイトスピーチ論から横に入っていましたが、ここからヘイトスピーチ論に戻ります。
従来書いているようにヘイトスピーチの定義次第ですが、民族や集団批判が勢いを持つようになって来た状況は、個人責任法理の病理・・背後に隠然たる影響力を行使している暴力団親分やテロ組織集団の法的責任を問えない・・。
法的責任がないことを良いことにして道義責任をとらない場合に、放置していられなくなって、結果責任を問い始めたのと同じ基礎意識があります。
ヘイトスピーチ批判論は、(定義次第によりますが・・)道義非難は陰でするものであって、大きな声で言ったり社会に訴えるものではない程度のことでしょうか?
社会で通用している価値観が道義ですから、道義を守った正しい方が陰こそこそと主張せねばらないとすれば不思議な社会です。
道義を正面から主張出来ない社会ならば、圧政の下に暮らしている被支配民族がこそこそ不満を言うしか許されなかったのと同じではないでしょうか?

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