共謀罪6と立法事実3

今になって見ると社会防衛思想は元ナチスの思想であったか否かは別として、個人の人権擁護一辺倒ではなく社会防衛の比重が大きくなって来ているのを否定出来ないのではないでしょうか?
個人のプライバシイ保護も重要ですが、エボラ出血熱騒動を見れば分るように、必要に応じて渡航の経歴を聞いたり隔離したり(罹患者は何か悪いことをした犯罪者ではありませんが・・)人権が制約される場合が多くなっていることを否定出来ません。
我が国のデング熱の場合もそうでしたが、どこの公園へ行ったかなどのデータによって危険地域が分るなど・・「個人の勝手だ、どこをどう歩いて来ようと答える必要がない」と言う人は滅多にいないでしょう。
安全・安心社会はみんなで協力して作って行くものであって、個人にとっても有益ですし、害悪ばかりではありませんから要はその兼ね合いです。
みんなが自宅前の道路など綺麗に掃除すればみんなが気持ちがいいのですが、掃除する人には負担が発生するようなものです。
全体と個の関係は一方だけ主張すれば、済むものではありません。
戦後と言うか、文化人と称するグループは個の負担になることを全て「悪」と主張し過ぎる傾向があります。
この後でも書きますが、防犯カメラをプライバシー侵害と批判的に書くのがはやっていますが、公衆道路や商店街で人に見られて悪いようなことをしなければ良いのであって、その程度を知られる被害と何かあったときに犯人が被害者に近づき暴行を加えたりひったくったりした犯行状況、その後逃走する経路が分るメリットなどとどちらを選ぶかの問題です。
時々再審無罪事件が起きますが、我が国ではこうした事件は全て政治的捜査によるものではなく、末端警察の捜査能力不足や思い込みによるミスが基本です。
(あるいはDNA鑑定能力の精密化によって違いが分ったなど・・)
政府の歪んだ検挙方針(政治弾圧目的・秘密警察)や末端機関の不正・気に入らないものを検挙するなど濫用行為の被害にあった人は、戦後70年間皆無です。
このように司法権の独立は信頼されていますので、共謀だけで処罰すると司法権の独立のなかった19世紀までの絶対君主や専制君主制時代の恐怖政治の再来があるかのように言い立てるのは、亡霊を騒ぎ立てるようなもので時代精神にあっていません。
犯罪成立要件の決め方で見ても、20世紀に入って(今や前世紀ですよ!)車や原子力・航空機など危険物が出て来ると全く事件が起きていない前段階の細かい規制→犯罪化が必要になり、個人生活でも無免許運転や危険運転行為や飲酒運転等を事故(傷害等の結果)が起きなくとも処罰するようになって来ています。
これらいろんな分野で犯罪化の前倒しが進むのは、人権侵害になると言う批判を聞いたことがありません。
犯罪成立要件の前倒し化や、自己申告義務化が進んで来ていても、これを社会が受入れて来たのが現在社会です。
交通事故を起こした場合、直ちに報告義務が法定されていますが、これを自白の強制として憲法違反と争う人もいましたが、最高裁は(被害者救護の必要を理由として)自白を強制するものではないと(ちょっとこじつけっぽいですが・・)これを退けていますが、近代刑法の精神違反だと言う批判を聞きません。

道路交通法
(交通事故の場合の措置)
第72条 交通事故があつたときは、当該交通事故に係る車両等の運転者その他の乗務員(以下この節において「運転者等」という。)は、直ちに車両等の運転を停止して、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置を講じなければならない。この場合において、当該車両等の運転者(運転者が死亡し、又は負傷したためやむを得ないときは、その他の乗務員。以下次項において同じ。)は、警察官が現場にいるときは当該警察官に、警察官か現場にいないときは直ちに最寄りの警察署(派出所又は駐在所を含む。以下次項において同じ。)の警察官に当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度、当該交通事故に係る車両等の積載物並びに当該交通事故について講じた措置を報告しなければならない。
(罰則 第1項前段については第117条第1項、同条第2項、第117条の5第1号 第1項後段については第119条第1項第10号 第2項については第120条第1項第11号の2)

上記のように報告しないと刑罰まで決まっている・・一種の自白を強制されているのですが、誰も文句を言いません。
日本社会では、交通事故を起こしたのは仕方がないとしても「ひき逃げ」してしまった!などは、人間として最低ランクの評価を受けるのではないでしょうか?
事実上自白強要されるのは憲法の基本精神に違反しているから、「自白を拒んだのは偉い」と評価するよりは、日本では一刻も早く救急治療を受けさせる必要性と潔く自己申告する方に価値をおいているのです。
近代法の精神に違反するかどうかの命題ではなく、どこまでの変容を社会が受入れられるかの問題であることが分ります。

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