表現の自由と組織内意見

話題が報道の質にずれましたが、表現の自由・・海外で日本人が日本批判する自由に戻ります。
August 17, 2018「表現の自由と国外での自国批判(NGO2)」の続きです。
政党であれば思想信条の一致で参加しているはずですから、対外的意見が違えば内部で意見を言うべきでしょうし、意見が合わなければ離党自由ですから党内に留まりながら外部に不満を言うのはルール違反です。
企業人その他組織構成員もみなそうです。
December 19, 2017に紹介した共産党の袴田事件はこれをいうものでした。
しかし日弁連は思想信条の一致共鳴で組織ができているのではなく、各都道府県に(都だけ3個)一つの強制加入組織ですから(千葉県に事務所がある限り、千葉県弁護士会から離脱自由がありませんし、弁護士をやめない限り日弁連から出られません)いわば地方公共団体のような組織・千葉市に居住する限り千葉市住民になるのと同じです。
同じ千葉市住民だからといって、皆同じ意見でなければならない道理はありませんし、千葉市長や県知事がどこかの政党を支持していても、市民や県民がそれに従う義務はありません。
市議会や県議会がいくら民主的に運営された結果であろうとも出来上がった条例等を批判するのは自由でしょう。
・・民主的に選任された市長の行動について、居住地でない東京や大阪で批判意見を発表するのは、文字通り言論の自由です。
労働法関連意見発表について、一般会員に対するアンケート調査があったかどうかすら覚えていないのですが、日弁連は政治的意見に関しては会内アンケート調査しない不文律でもあるかのような印象を受けますので、一切やっていないのではないでしょうか?
私が不勉強なだけか知りませんが、日弁連が19年12月13日に紹介した意見書発表にあたってどうやって会内意見集約しているかすら全く知りませんし(関連委員会意見・労働関連委員会の積み上げだけか?)、一般会員に対するアンケートが仮に来ていてもその当時関心のない時には答えないことが多いし、私の記憶を素通りしているのでしょう。
市民が民主的に構成されている市議会で決議したことに(条例等の効力を受けますが)固有の意見を言えるように、日弁連が民主的手続き・・関連委員会議論を経て決めていることは有効な決議であることと、会の外で反対の意見を言う権利がなくなるものではないでしょう。
日弁連やや千葉県弁護士会の意見は発表されている通り「会の意見であることを認めるが、自分の個人意見はこう言う意見だ」と言う表明権がなくなるとは思えません。
ところで、千葉市をよくするために県内の他市長と連携したり、国内での応援も必要かもしれませんが、それを国外に広げることが許されるのか?
千葉県を良くするために、国外で政治運動することが許されるのか?が今の所私にはよく分かっていません。
文化活動では、国内で評価されない発表が国外で先に評価されて、そのうち国内でも評価されるようになることがあります。
それとどう違うかでしょう。
政治的な利害関係のある国で、そのテーマで自国批判をしてその国で喝采を受けるのではおかしなことになりますが、文化相違の場合、直接的利害のないことがその違いでしょうか?
人権意識のレベル・・どの程度の男女格差が許容範囲かも、文化意識の一態様ですが、その気になれば政治に絡めるのは簡単です。
最近ユネスコのあり方が政治問題化し始めたのは、これを中韓等が露骨に利用するようになったからです。
先進国は文化で後進国に批判されるようになるとは、当初想定しなかったでしょうが、
中韓が自国の人権侵害を棚に上げてシャープパワーを駆使した結果事実上ユネスコを牛耳ってしまっているような印象になってきました。
中国のシャープパワーについては、December 22, 2017,表現の自由と外国の影響(中国シャープパワー)2」まで紹介しました。

都民ファーストの実態1(組織不備・人材不足?)

小池旋風の支持基盤は、もともとメデイア連合の推す鳥越氏に対する反発・・反メデイア連合であって、メデイアの推す民進党支持母体・護憲勢力とはまるで逆方向の運動体でした。
小池旋風の原動力はなんであったかを11月1日に書きましたが、この期待を裏切ると支持・小池旋風のエネルギーを失うのは当然です。
小池フィーバーの原動力を維持するにはこの原動力・支持母体の拡大発展・・これを全国規模に発展させる努力が必須だったのですが、都議選圧勝後せっかくの支持母体の冷遇・逆に動き始めました。
民進党との全面合流→民進党に乗っ取られる不信感が高まってからの極左?排除論表明では遅すぎたし、しかも都議選後わずか2ヶ月で都知事選時小池支持の中核を果たした保守系地方政治家の内部排除が進んでいる実態が漏れ始めました。
今回の総選挙は突然の解散なので選挙準備期間が短かすぎるとしきりにメデイアが報道し、「解散の大義がない」と批判していました。
逆に短期決戦の場合、新党の政策吟味も何もせずにメデイアの圧倒的「よいしょ」報道で「選挙の風」フィーバーを作り出せば(選挙がおわってから「あれは民進党の生き残り策だった」となっても選挙結果は変わりません)その勢いで選挙の方向を決めてしまえる有利さがありました。
短期に小池フィーバーを起こすメデイア+小池氏の思惑・・戦略から今回の騒動が始まったのですが、すでに第一次ラウンドの都知事選〜第二ラウンドの都議選を経ている点でメデイの起こしたフィーバーの結果に対する検証期間があったことが大きな誤算だったと思われます。
都政の運営を始めると小池都知事当選前よりも小池氏独断の密室決定が増えてしまい党内議論さえ許されない状態・・以前よりもひど過ぎないかという批判が起き始めた・・都民ファースト創設メンバーの不満が出たことです。
この種の不満はその都議の元々の支持組織内で公然と言われていたでしょうから、メデイアが報じなくとも徐々に都民浮動層に広がります。
このような不満が蓄積しチョロチョロと漏れ始めている時に民進党全面合流決定が出ました。
合流という名の全面合併ですから、都議会で起きていることの全国版になることは容易に想像がつきます。
今回の総選挙ではメデイアと小池氏の仕掛けたトリックが露骨すぎたので、いかに選挙運動期間が短期間とは言え、多くの国民はすぐに虚構性に気がついてしまいました。
アイドル歌手を売りこむようなメデイアの作り上げる虚像にそのままホイホイと乗る国民がどれだけいるのかと見ていましたが、結果は周知の通りでした。
メデイア宣伝に簡単に乗らない日本国民レベルの高さに感心していますが・・逆から言えばメデイア界の宣伝次第でどうにでもできる時代が終わった印象です。
このシリーズでは小池氏の国政進出に横たわる問題の深さが、「排除の論理」を強調するだけではごまかし切れなくなったことを書いてきました。
小池氏の主張のデタラメさ(流行語さえ器用に使えばいい態度?)の一つである「都民ファースト」に戻りますと、他国の内政にまで手出し、口出ししているアメリカと違い都知事がこれまで他県の県政に介入して都民の税金を使ったこともありません。
どこの知事でも地元のために頑張って来た(・・その方策としてここは国に協力した方が良いか盾ついた方がいいか特定の県と共闘した方が良いかの塩梅はありますが)のですから、都民ファーストと強調する意味が不明・・・結果的に地元のためになろうとなるまいと・是是非ではなく「何でも国や関係他府県の政策に反対する」という政治スタンスぐらいしかイメージできません。
近隣の迷惑を考えずに真っ先に地元利益の主張をするのは、一見勇ましいもののストレートな主張の仕方は日本的政治のイロハからすれば拙劣なやり方ですが、この程度の政治家がふさわしい都民レベルであればそれも民主主義でしょう。
しかし、日本全体をどうするかという国政選挙に出る以上は、都民ファーストの主張は都民以外の国民からすれば、不愉快な標語でしょう。
都民ファーストの対語は端的にいえば「よそがどうなろうとよその面倒まで見たくない」という事ですが、これを唱える政治家が、国全般に目配りする国政担当者になりたいと旗揚げするのは矛盾しています。
都政ファーストで相応の実績を上げてから今度は地方政治の経験を生かして国政の立場で・というならばまだ分かりますが、まだ「リセット」するという掛け声で大混乱を起こした結果があっただけで、いまだに築地の移転時期さえ決まっていない状態です。
都民ファーストの主張は、従来以上に国の政策にノーを言うイメージですが、都知事になったばかりの人間が国家全体の運営者になる名乗りをあげるとその関係はどうなるのか?弁護士で言えば双方代理をするような関係で、全国に目配りしなければならない国政代表と相容れない立場です。
小池氏は、この1年の都政で築地移転問題でいかにも過去の決定過程・・石原元都知事に問題があったかのような思わせぶりな大騒ぎをしたものの結果的に高齢者イジメをしただけに終わり、オリンピックも似たような疑惑らしいもので大騒ぎしていましたが、結果的に何をどうしたいのか不明のまま元の計画通りにやることになった印象で、結果的に移転時期が遅れただけのように見えます。
都政を透明化すると言って立候補したのに都知事就任後は、個人的ブレーンとの密室決定を強行する独善的姿勢・公的決定システムをないがしろ・空洞化する不透明な言動が目立ちます。
これを強行するために7月の選挙で圧倒的議席を得た都議会与党が黙って賛成するだけという無茶な議会運営のイメージが伝わってきます
国政に関しても内部留保に課税するなど掲げる公約は全て素人目に見ても無茶過ぎるというか、素人目にも詰めの甘いその場しのぎ的公約が多すぎました。
いわば実現可能性のない無茶クチャな公約を宣伝した民主党が政権獲得後どうにもならなくなった民主党政権の焼き直しです。
民主党政権より酷いのは、政党を作ったと言いながら党内の組織・役職もはっきりせず、政党説立準備を進めてきた若狭氏をコケにして、小池氏一存で「私が代表になる」というと即時にその通りに決まってしまう・・機関決定なくいきなり小池氏が意見を発表するとそれがそのまま党の公式意見になるなどのイメージが広がりました。
無茶な党運営をしているのは・・組織立ち上げ直後で組織運営経験もなく人材も揃わないし、実務が間に合わないこともわかりますが、会社を作ったばかりで設計部門も下請けも作業員も揃っていませんが、やる気だけありますから私に任せてビルを建てさせてくださいと言ってくる建設会社のようでは国民は困ります。
古来から「勇将の下に弱卒ナシ」と言いますが、勇将一人で大軍と戦えません。
野球でもサッカーでも監督一人で戦えるのではなく、第一線で働く選手その他の人材・・組織でなり立つものです。
政治の場合にも多くの協力者がそれぞれの立ち場で一体感を持って根回しして物事が動いて行くのであって、党首1人の虚像をマスメデイアが作りあげても意味がありません。
そこがアイドルや銀幕のスターの場合、虚像さえ売り込めばいいのとの違いです。

民族文化の有無3(宗族血縁組織)

韓国の血族支配の財閥が勢威を振るっているのを近代的企業統治精神?を基準に批判する論調が普通ですが、血族・宗族発展のエネルギーを無視した意見では的外れな意見だと思われます。
韓国の財閥組織形態は戦前日本の財閥をモデルにしたものですが、日本の場合、三井,三菱、住友その他財閥見ても分るように直ぐに血族支配から脱皮していたのですが、韓国の場合いつまでたっても客観組織に変貌出来ないのは意識が遅れていると言うよりは、中韓では宗族血縁重視・地域社会・「公」の意識が育っていないと言うか元々存在しない・・価値観が違う・・民族国家その他の地域社会・共同体意識のない社会?であることを直視する必要があります。
周回遅れをバカにしていても良いですが、もしかしたらグローバル化に最も適しているのが宗族血縁意識民族かも知れません。
地域社会・・面としての固まりでないと生きて行けない組織体行動原理の場合、進出先で面としての地域支配権獲得が必須・・ですが、ツタやカヅラのような生き方ですと行く先の支配者が誰でも良い・・どこでも隙間があれば入り込みそこで根をはれます。
これが、華僑が世界中へ進出を容易にして来た生活習慣と言うか価値観です。
その内に最先頭の社会になる可能性もあります・・蔓草はミミズのように途中で断ち切られてもその先で根おろして更に発展して行ける・・テロによる交通切断などに強い組織です。
いわゆるグローバリズムの基礎ですが、つる草のようにお互い絡み合ってぐちゃぐちゃに棲息する社会が後1世紀もすると普遍化し、「民族国家?そんなもの昔あったな!」と言う時代になるかも知れません。
本国を必要としない点ではユダヤ系と似ていますが、華僑の場合宗族間の強固な互助組織・意識が特徴でその地の支配者になる必要がない(大きな樹木にならず地を這い樹木(権力)に絡み付くだけのツタの特性で)点で政敵を作り難い点が有利です。
世界が資源や量に頼る時代に終わりを告げようとしていると言う意見で書いていますが・・アメリカの動きを見ると中国のバイタリティーに比べると未だに量で勝負する・・移民受け入れ(人口量)や資源に頼る習慣が抜けないような印象を受けます。
欧米の影響を受けているメデイアも如何に多くの移民を受入れて労働力=人口を増やすかの宣伝ばかりで一人当たりの豊かさ追及にはとんと関心がない印象です。
アメリカの復権と言っても結局はシェールオイル等の資源産業の復活でしかないことを大分前に書きました。
中国が省力化投資に邁進してどこまで日本に肉薄出来るか、人口の1〜2割でも近代化に成功すれば日本の人口の1〜2倍ですから、組織体の競争・・国対国では日本より国力が上になるでしょうが、残り8割の底辺層を抱えたままである分が不利です。
人口の巨大さ、国土の広さが不利になる時代です。
とは言え、「よそ者がそんなことで国がどうなるの?」と心配してやる必要張りありません。
異民族支配が多かった関係で、中国人(と言うよりもこの地域の諸民族)の心底の意識は「国なんかでどうでも良い・・自分・一族だけ成功して世界につる草のように伸びて行けば良い」ということでしょうから、そんなことは気にしない・・一人でも多くの成功者を出す方が先決と言うことでしょう。
成功する順にドンドン国を出て行き「カス」だけ残る・これが中国地域になりそうです。
天の原フリサケミレバ・・と故国をしのんだ阿倍仲麻呂のように「何が何でも故国に帰りたい」と言う心情は稀ではないでしょうか?
とは言えまだ民族?国家が幅を利かす時代ですから、国家として世界の指導的地位を得るのは重要です・・そのためには最後に重要なのは世界に通用する独自文化が生まれている民族かどうかに掛かるでしょう。
他所の文化のパクリや単に遅れてダサイ・粗暴なだけの独自性では相手にされません。
独自文化発進力もなく他所の名画や彫刻を金の力で買い集めるだけのロシアやアメリカに先があるの?と言う疑問です。
3〜4ヶ月ほど前にプライスコレクションで知られるプライス氏が日経新聞に「私の履歴書」を書いていましたが、彼は財力と鑑識眼によって若冲その他の日本絵画のコレクションしたのは個人の業績としては立派ですが、ここのテーマは、自民族の文化は?と言う疑問です。
大原美術館など見ると自己満足自慢のためではなく、洋行出来ない美術学徒が日本にいながら西欧の最新潮流に触れられるようにと言う心意気で出来たことが分ります。
ブリヂストン美術館に行ってみると、専門家ではなく「一般のサラリーマンが仕事帰りや休憩時間にちょっと立ち寄って芸術に触れられるようにしたい」と言うみんなのための美術館創設を目指したことも分ります。
日本人の多くは自己満足のためにあるいは自慢するためにコレクションしたのではありません。
古くは弘法大師その他の留学僧は唐の先進分物を持ち帰り、自国普及に努力しましたし、誰とも分らないほど多くの人の努力で漢文をそのまま日本語に読み下す技術が考案されてみんながそのまま漢文を読める社会にしてしまいました。
明治維新時にも洋行帰りが西洋知識を独占せずに直ぐに大量に翻訳して国民への西洋知識の普及に努めましたし、対応日本語のない場合多くの新造語も作りました。
プライス氏の集めた若冲のコレクションがアメリカ人の美術レベルに何ほどか影響を与えることがあったのでしょうか?
あるいは、幕末からアメリカのコレクターが、金に飽かして(両替の不正があったこともあります)日本美術品が多量に多数コレクトされて今は、メトロポリタン美術館に収蔵されていますが、アメリカ人の創造力に何か影響を与えたのか不明です。
23日まで、日経新聞最終ページにイギリス貴族の館・カントリーハウスの連載をしていましたが、エエカテリーナ2世同様に個人的蒐集・自慢の域を出ないレベルを表しています・・イギリスは世界の覇者になって経済力にあかして世界中から文物を集めても、先進文化を参考にして自国文化を発展させるほどの文化土壌がなかったからでしょう。
我が国は幕末から明治開国後「洋画」「洋楽」を学びましたが、遠近法や新しい絵の具などが入れば直ぐにこれを応用出来る下地があってのこと・・飽くまで日本画、日本音楽を棄てていません。
料理も西洋の良いところを取り入れても和食自体発展するばかりです。
和魂洋才・・こうした外国文化の受容方式は遣唐使の昔から変わりません。
東博(東京国立博物館)にある法隆寺館の仏像群や東洋館にある北魏時代等の仏教伝来初期の石像群を見ると、日頃我々が知っている仏像と表情がまるで違うのに驚きます。
漢詩が入っても万葉に代表される我が国古来からの「歌詠みの心」を基礎にしてこれを受容し取り入れて来たことが分りますし、政治制度的に律令制を受入れても直ぐにわが国風に変えて来ました。
洋画がいくら立派だと解説されても日本人が自己資金で買うのは殆ど日本画でしょう。
東山魁夷が洋画を志したときに親から洋画では食べて行けないから「日本画に」と言われたと言われますが、実業家の親は学校教育でいくら洋画を褒めようとも、国民の心は違う・・・需要者の気持ちを良く知っていたのです。
日本発で今や世界を風靡し始めたアニメも、他所からの借り物ではなく、鳥獣戯画の昔から動物を擬人化して遊ぶ日本古来からの風俗が源流です。
アメリカが大きな顔を出来たのは資源があるからダと言う意見・・最近ではJuly 2, 2016,「欧米と日本の対応1(EU→大規模化)」で書きました。
産業革命以降20世紀までは、資源の時代・・戦争も資源を巡るものであったと言えます。
世界の覇者になったアメリカも資源に基礎を置くので、独自文化らしきものがなく、ジーンズやハンバーガー、コーラくらいしか残せない印象です。
そこで現在アート創造に必死ですが、私のようなド素人から見ればどれも思いつき的域を出ない・・素人にはあまり魅力を感じないのが難点です。

占領政治と警察組織解体(旧警察法〜現行警察法)

在日問題に逸れましたが占領政策・・警察法に入ります。
先ず、旧警察法から見て行きましょう。
ウイキペデイアによります。
旧警察法
自治体警察はすべての市および、人口5000人以上の市街的町村に設置されると定められた。市町村長の所轄のもとに市町村公安委員会を置き、自治体警察を管理するとされた[1]。経費はすべて当該自治体の負担とされた。
自治体警察の法執行官は、最高責任者である警察長と警察吏員(現行法における警察官に相当)によって構成された。
小規模の町村にとって警察経費は重い財政負担だった。1951年に一部法改正が行われ、住民投票の付託で自治体警察の存廃ができるようになると、自治体警察の返上が相次ぎ、ほんの僅かな期間に1千以上の自治体警察が廃止された。」
「自治体ごとに小分けにされた警察は広域犯罪に対処することができず[3]、戦後の混乱期にあって増加する犯罪に的確に対処することが難しい事例もあった。さらに自治体警察は地元に密着していることから、暴力団などとの癒着も横行していた。」
「様々な問題を受け、1954年(昭和29年)に全面改正された現行の警察法が施行された。」
私が子供の頃に住んでいた5000人以上の農村規模(子供の頃の目分量では約1km四方のほぼ正方形的地形でした)でも設置ですから、経済的に無理がありました。
小さな村にまで警察を置くのは一見警察官が増えるかのようですが、細分化してしまう結果、却って一定規模の警察署がなくなりどこの村や町にも一人か2人しかいないのでは、複数犯・・集団化した暴徒や広域犯罪に対応出来なくなります。
ウイキペデイアでは暴力団と癒着と書いていますが、1〜2人に細分化された警察では、物理力で優る暴力団に頼るしかない面があったことが推測されます・・これが田岡組長の自伝で語られている真実でしょう。
比喩的に言えば「10万の軍が展開」と言っても、1km四方に一人ずつ配置では軍隊の役割を果たせないと言えば分りよいでしょうか?
これが朝鮮人の違法行為続出を誘発した制度的原因ではないかと思います。
占領軍は治安悪化・・警察組織解体を目指していた・・混乱が広がれば軍が出動してやる・・占領・軍政を長引かせる思惑もあったのでしょうか?
案に相違して食うに困っていた筈の日本人の犯罪は広がらず朝鮮人の犯罪ばかり広がったので支配の手先・道具として朝鮮人を使うのは無理となりました。
占領長期化・・軍による直截支配の思惑が狂い結果的に支配道具として利用する予定だった朝鮮人を(数日前に紹介した首相官邸事件や神戸の非常事態宣言に至る事件のように)鎮圧対象にするしかなかったのです。
昭和29年・現行警察法でも市町村単位から県単位に引き上げただけで、自治体警察の原則が今でも残っています・・。
日本は律儀ですからアメリカの残した基本・・自治体警察の基本までは手を着けられなかったとも言えます。
自衛隊を作りながらも平和憲法自体をいじらないのと同じで大人の智恵です。
ウイキペデイアの続きです。
「1952年、日本が独立を回復すると、旧警察法に内在する問題を根本的に解決すべく、警察制度改革が始まり、1954年6月8日、旧警察法を全面改正した新警察法が公布され、同年7月1日から施行された。新警察法では、従来の国家地方警察と自治体警察による二本立ての制度を廃止し、新たに警察庁と都道府県警察を発足させて、日本の警察機構を再び中央集権化した(地方警務官も参照)。また、内閣の責任を明確化すべく、国家公安委員会委員長に国務大臣を充てることになった。
以下は政府公報からの引用です。
警察法(昭和二九年 六月 八日法律第一六二号)
(警察の責務)
第二条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
第五条  国家公安委員会は、国の公安に係る警察運営をつかさどり、警察教養、警察通信、情報技術の解析、犯罪鑑識、犯罪統計及び警察装備に関する事項を統轄し、並びに警察行政に関する調整を行うことにより、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持することを任務とする。
  2、3項省略
 4  国家公安委員会は、第一項の任務を達成するため、次に掲げる事務について、警察庁を管理する。
一  警察に関する制度の企画及び立案に関すること。
二  警察に関する国の予算に関すること。
三  警察に関する国の政策の評価に関すること。
四  次に掲げる事案で国の公安に係るものについての警察運営に関すること。
イ 民心に不安を生ずべき大規模な災害に係る事案
ロ 地方の静穏を害するおそれのある騒乱に係る事案
ハ 国際関係に重大な影響を与え、その他国の重大な利益を著しく害するおそれのある航空機の強取、人質による強要、爆発物の所持その他これらに準ずる犯罪に係る事案
五  第七十一条の緊急事態に対処するための計画及びその実施に関すること。
六  次のいずれかに該当する広域組織犯罪その他の事案(以下「広域組織犯罪等」という。)に対処するための警察の態勢に関すること。
イ 全国の広範な区域において個人の生命、身体及び財産並びに公共の安全と秩序を害し、又は害するおそれのある事案
ロ 国外において日本国民の生命、身体及び財産並びに日本国の重大な利益を害し、又は害するおそれのある事案

第一六条 警察庁の長は、警察庁長官とし、国家公安委員会が内閣総理大臣の承認を得て、任免する。
2 警察庁長官(以下「長官」という。)は、国家公安委員会の管理に服し、警察庁の庁務を統括し、所部の職員を任免し、及びその服務についてこれを統督し、並びに警察庁の所掌事務について、都道府県警察を指揮監督する。
(所掌事務)
第一七条 警察庁は、国家公安委員会の管理の下に、第五条第四項各号に掲げる事務をつかさどり、並びに同条第五項及び第六項に規定する事務について国家公安委員会を補佐する。
第三六条 都道府県に、都道府県警察を置く。
2 都道府県警察は、当該都道府県の区域につき、第二条の責務に任ずる。

上記のとおり、16条2項によって、警察庁長官は「所掌事務について」都道府県警察の指揮監督出来るのですが、肝腎の所掌事務は国家公安委員会の事務を担当する事務部門でしかありません。
第17条を見ると、警察庁の庁務には第2条記載の本来の警察業務が所掌事務に入っていないのですから、企画立案・統計調査などが主任務で具体的事件に対する指揮監督権がありません。

政府と国民3(2項対立1)

日本列島では縄文の昔から上下の一体感・・犬まで一緒に葬る同胞意識が強い社会ですし、西洋の革命によって生まれた民主主義・人道主義以前から日本では民意重視・・すべての生き物・環境重視社会です。
西洋の学問を学んだ文化人は飽くまで政府と国民の対立図式・・地主と農奴・労働者と資本家・男性と女性・敵か味方か白か黒か人とそれ以外と言う2項対立図式を有り難がる傾向があります。
世の中「晴か雨、暑い寒い・・」ばかりではなくいろんな天候があるし白黒の外にいろんな色合いがあります。
キリスト教・イスラム教的善悪二元論は数千年〜万年単位で遅れた社会で通用する・・人間の一生で言えば小中学生レベルの単純価値観ではないでしょうか?
自我に目覚めて何でも口に出して主張するのが進んだ人間と賞讃される価値観も、小中学生レベルを前提にすれば、自分の意見を持てるようになって良かったと言うオヤの目から見れば賞讃すべきことですし、子供から言えば誇りでしょう。
近代西洋で発達した2項対立図式(この程度までが理解能力の限度)によれば、犯罪摘発・・秩序確立は政府を利するだけのことだし、国民を監視するための情報収集に協力するのは、まっぴら御免・・通信の秘密・プライバシーその他表現の自由など人権重視となると嬉しくなってそのサジ加減の必要性が分らないし、「生き物を大切にしなければならない」と習ったことを自慢したくなって「捕鯨反対」と短絡化して行くのは民度レベルから当然です。  
フランス革命で権力と人権の二項対立を習うと、この基準でしか考える能力がない人は日本人レベルで言えば、小学高学年レベルの人と言えるでしょう。
日本は繰り返すように縄文の昔から・・複雑多様な自然の移ろいを肌で感じて表現して来たように、(「春か夏か!と言う観念で決めるのではなく、その日の風情で微妙に着るものや床の間に活けるハナや掛け軸を変えて行く社会です)いろんな価値観を総合判断して行く社会でしたから、2項対立→「今日は春か夏か」の区別程度しか分らない人はムラの寄り合いでマトモな意見を言えずに黙っているしかない人材でした。
万年単位で人智が遅れているアメリカ人が乱暴な(言わば原始社会基準の)二択基準を持ち込んで強制したために、この70年間世間を2項対立でしか判断出来ない低レベル人材がアメリカと言うトラの威を借りてエリートとしてのさばっていたに過ぎません。
今日の空模様で何を着ていこうか、どのような色柄が良いか迷っているときに「今日は春か夏かどちらかだ!」「晴れるか雨か」と言う基準を出されると黙ってしまうしかありません・・。
黙っている人はモノゴトの基準が分らないのではなく、大雑把な基準しか分らない設問者をバカにしているだけです。
多くの女性は出掛けるのを急かす男性に対して「はいはい」と答えていますが、「どうせ男性には分りはしない」と言う気持ちであって男性が優れていると思う女性は皆無でしょう。
子育ても「厳しいか寛容か」などの単純価値観ではうまく行きません・・母親の重層的価値観でこそ学業や友人関係について行けない子供が何とか育つのです。
単純化に適している戦後エリートを基礎的人材源とする革新系・・民主党政権時代にいわゆる二者択一的判断・・微妙な反論を許さない「事業仕分け」が同政権の目玉だったことがその本質を如実に物語っています。
菅直人氏が総理現役時に自衛隊を「暴力装置」と表明したのも、人命救助側面を見たくない・・抑圧組織としか見られない限界を示しています。
2項対立的仕分けによれば、政府が何のためにあるのか・・・国民のためか搾取するための道具としてあるのか?
社会秩序は国民のためにあるのか?犯罪摘発は政府に抑圧・搾取されている国民反抗抑圧のための「摘発組織」としてあるかがテーマとなります。
そして革新系文化人にとっては、日本政府を「自分たちの政府」ではなく、フランス革命前の人民抑圧組織として理解し敵視していることになります。
公害・環境問題や核実験反対も、抑圧組織と決めている日米政府や企業に反対するが、解放組織である中ソの実験や公害出しっ放しには全く問題にしない矛盾行為に平気な理由です。
敵か味方かを基準に「戦略的に?』判断するのではなく、人類全体のために環境をどうするかの高度な視点にまで脳構造が追いついていないのでしょうか。

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