住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

戸籍制度9(変遷)

徳川政権の宗教管理・人民把握政策として檀家寺制度が始まったことを、05/12/10「公家諸法度と紫衣事件」以降のコラムで紹介しましたが、この機会に、江戸時代に始まったお寺の役割であった宗門人別帳登録管理から政府の直接の仕事に切り変えた最初の戸籍である壬申戸籍(明治4年大政官布告第170号)以降の制度変遷を大まかに辿っておきましょう。
国家的規模で出来た最初の壬申戸籍は、手がかりとしては、一家の跡取りのいるところ・・現住所を本籍地として始めるしかなかったので結果的に現住所登録と身分登録の渾然としたものから始まりました。
(・・・今では本籍地をどこにしても良い制度ですから、本籍を見てもどこの出身か分りませんが、明治の初めに造った戸籍の本籍地を見ればその人がどこの出身でその村に行けば親族が一杯いる・・氏素性が直ぐに分ることが想定される仕組みでした・・・。)
次の明治19年内務省令による戸籍では、除籍制度が設けられています。
弟の妻子・その子が結婚するとその妻子までと際限なく登録者を増やして行くと戸籍簿が膨大になり過ぎますから、(家の制度思想などの無理な要求がない限り・・当時まだそうした思想要求がなかったのです)自然に任せると都会等他所で定着した人は分籍して新本籍を作って行く人が増えるのが普通です。
また元々家の制度を前提に先祖まで書く必要性を考えて作った制度はなく、当面そこに住んでいる人を基準に登録し、一緒に住んでいなくともまだ所帯を構えていない半端状態の息子や娘を一緒に書くようにしたに過ぎないのですから、本来これらの人が都会等に定着したならば、そこでまた戸籍を作るのが基本思想だった筈です。
その結果分籍したりしていなくなった人を除く必要が出来て来たからでしょう。
このときも本籍と住所は未分化でしたが、住所地の表示が従来の屋敷地番から、地番に変わったそうです。
(09/16/09「地租改正条例1(明治6年)」前後のコラムで不動産登記制度の進展・・結局は土地に地番を順に付して行くシステム整備について紹介しましたが、地番の登記制度が進んで来た結果です。
(そのシリーズで紹介しましたが、それまでは何々の庄・・あるいは何々郷の宮の前何反何畝歩と言う表記でしかなく、土地の特定表記方法は番号がなく・・番号順ではありませんでした)
ちなみに上記シリーズで紹介したように、明治19年には我が国最初の法律である登記法が成立しています。
今でも戸籍内の人が全員死亡や新戸籍編成等によって除籍(いなくなる)になると、最後に除籍簿・・除籍謄本に移りますが、明治19年に出来た除籍簿はその前身です。
明治31年には明治民法成立に伴う大改正で、これまで書いているように民法で定めた家の制度を貫徹するための戸籍法(令や布告ではなく法律制度)になり、従来の戸口調査目的から家の制度貫徹目的に変わり、身分簿と戸籍簿の2種類が設けられました。
この身分簿を見たことがないのではっきりしたことを書けませんが、現在の身分帳(前科や破産歴など有無の証明に使う身分証明書・・これは今でも必要に応じて発行してくれます・・・の元になる帳簿)のことではなく、系図に類する関係を証明するものだったかも知れません。
この時点で本籍は現住所とはまるで関係のない制度になりました・・・・今では住民登録と連動した戸籍付票制度がありますが、これは多分戦後寄留法が廃止された時に作られたものではないでしょうか?
更にFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に紹介したように、大正3年(1914)に大正4年式戸籍法と寄留法が出来て、戸籍と身分登録が一本化されて、これが戦後改正(22年法で施行は23年からです)まで約30年間続いた制度でした。
上記のように寄留法で個人が居住地別に個別管理出来るようになった以上は、中間組織である家の制度・戸籍制度は不要になった筈ですが、これをやめられなかったのは、家の制度を思想的に強調し過ぎたからではないでしょうか?

戸籍制度8(目的)

我が国では庶民から乞食に至るまで公の意識が強く、今回の大地震・津波による生存の危機に際しても三陸方面の人たちは庶民の端に至るまで利己的行動に走る人が皆無と言ってもいいくらい・・全員節度を持って行動しているのに対して、中国では普段から利己的行動こそが行動指針であるかのような国柄です。
明治政府の始めた「戸籍」の熟語自体は中国の律令制から来た用語ですが、内容は中央集権国家確立に必要なものとしてフランスを中心とする西洋の制度を勉強して整備しようしたものですので、中国古来からの戸籍とは違っています。
いわゆる羊頭狗肉の看板と言うか、和魂洋才の具体化です。
中国の戸籍制度が、辛亥革命以降の近代化によって、どうなっていたのかよく分りませんが、中国では今でも国家・・あるいは企業への帰属意識より一族の紐帯の方が強いと言われる・・我が国との違いは何でしょうか?
元々中国では我が国のような封建制を経験していない・・封建制の熟語は周代の用語の借用ですが、周では諸候が封ぜられたのであって、我が国のように先祖伝来の自分の地盤に根を張り割拠して来たのを形式上本領安堵してもらったに過ぎないのとは本質が違います。
我が国の場合、中央の政争に敗れると国に逃げ帰って再起を期すのが普通です。(平治の乱に破れた源義朝のように本拠地に逃げる途中で討たれることもあります)
最近では、ペルーの藤森元大統領が政争に負けると日本に帰って来ていて、日本政府はこれを守っていましたが、この歴史によるのでしょう。
これに対して中国では、まだ専制君主制の始まりでしかなかった時代・・秦の商鞅が失脚して自分の領地商邑に逃げ帰ろうとして、自分の作った制度に阻まれて領民に拒まれる故事が有名ですが、これで明らかなように中国では中央で負けると帰るべき場所がなかったのです。
中国では各地に封じられるのは(貨幣経済未発達の時代における)給与の代わりでしかなく、免官されるとおしまいですし当然世襲出来る地位ではありませんでした。
日本では先祖伝来の領地に対する本領安堵が基本ですので、結果的に世襲制が基本になりますし、江戸時代の旗本は領地との結びつきが薄い点では、中国の官僚に似ていましたが、旗本も他の大名小名等同様に世襲制を流用していました。
中国では歴史上高名な大官でも3代目以降になると零落して食うや食わずになるのは世襲の地位ではないからです。
そのために各州の知事等地方の大守に任ぜられると何時クビになっても食いつなげるように私腹を肥やしておくことが最大の目的になってしまうことが多かったのです。
実力・能力主義の土壌があったので科挙制度が根付いて能力主義が進んでいたとも言えることを、09/28/05「科挙の意義4(憲法132)法の下の平等(国家公務員法1)」で書いたことがありますが、こうした制度で2000年近くもやってくると、イザとなっても自分を守ってくれるべき故郷もなく個々人の精神不安が増し利己主義の権化みたいになってしまいます。
能力主義が行き着くところに精神不安定が増えることを、10/10/09「能力主義3と精神の安定1」で書きました。
中国や朝鮮半島では、我が国のように中間に大中小の豪族が存在していたのとは違い、君臨する専制君主と砂粒のように弱い個々の人民との2層構造でずっと長い間構成されて来た歴史です。
もしかしたら共産中国では、この伝統を基にいきなり人民を砂粒のようにばらして国家直接管理にしてしまったので、ある者は国家の教育理念通りに自分の親でさえ国家に売る(・・文化大革命時にはこうした悲劇が一杯ありました)あるものは、国家や中間の企業を全く信用していない・・・前近代のまま一族の助け合いしか念頭にないグループとに価値観が分裂しているのかもしれません。
今回の大地震→放射能問題が起きると、日中貿易に携わっているある日本企業の中国人従業員は、責任者であるにも拘らず企業の都合を無視して即座に帰国してしまったようです。
あるいは生活保護を受けている中国人女性が、放射能汚染を恐れて子供を放置して帰国してしまう例が後を絶たないと報道されていました。
名目上は中国にいる親が危篤のためと言うことらしいですが、残された子供に聞くと放射能を怖がって一日も早く出国したいと言う動機らしいです。
(こういうときには流言飛語が飛び交うので、報道の正確性は不明です)
日本人と結婚して子供が生まれて定住資格を取得してから離婚をすると生活が苦しいことから、外国人生活保護所帯が結構あるらしいのです。
生活保護の生活でも日本にいた方が良いが、放射能を浴びてまで日本にいたくないと言うことでしょう。
行動形態が合理的=功利的・打算100%・・分りよいことはその通りですが、自分の利益の(放射能被害を避ける)ためには、子供さえ放棄して帰ってしまうメンタリテイの違いに驚いた日本人が多いでしょう。
我が国では、企業帰属意識が強いのは、(企業を守るために法令違反も結構やるのは国家より企業一家意識優先の現れです)明治までの各大名家を守り維持する意識・・赤穂藩のように取りつぶしになると全員路頭に迷うので・・の伝統に加えて明治以降の大家族主義と融合して強固な企業一家意識を形成して来たからでしょう。
頼るべき集団がある・・国民・人心の安定をもたらしている基礎でもあるようです。
今回の東北大地震大津波の結果、大方の家が流され地域社会の生活基盤が物理的に崩壊しているように見えても、なお地域再生に対する意欲の強さを表明しているのに感心するのですが、先祖伝来住み続けて来た郷土への愛着・大家族での助け合い習慣が強固な地域であることがエネルギーの源泉になっている筈です。

むらと邑

邑の漢字の成り立ちは服従している土地・・被支配地のことですが、殷代には王の都(直轄地)を意味していてその後次第に諸候の領地を意味するようになり更に時代が下がってくると来ると、、もっと下位の関係にも使われるようになります。
秦の改革者公孫鞅・・商鞅が孝公から商の地の邑を賜った(紀元前340年頃)ので商の君主と言う意味で彼を商鞅と言いますが、孝公自体が諸候でしかないので当然諸候の領地よりも小さかったでしょう。
このように時代が下るに連れて単語のインフレが進み、もっと小さな単位の地域を表すようになったので時代によって単位の意味が違いますが、いずれにせよ元々上位者から賜る(時代によって大小があっても)支配地・周囲を囲まれた領地の意味・・後世の封土と同じような用法だったらしいのです。
いろんな文書で「邑を賜る」と言う表現が多いのはこのせいです。
邑は上位者から賜る領地のことですから、我が国に当てはめれば徳川政権時代における旗本知行地に該当するでしょう。
旗本あるいは徳川直参大名の知行地は、将軍家から賜るものでしたから小分けされていたこと・・1つの集落が何人もの旗本の知行地に分かれていたこと12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」以降繰り返し紹介していますが、知行地はどんなに小さくともむらの範囲と一致しているとは限りません。
その点戦国大名や江戸時代でも戦国大名の系譜を引く大名家の場合、一定水準以上の家臣や国人層は先祖伝来の固有の領地を持っていてその経営をしていましたから、その領地を知行地とは言うのは間違いです。
邑は自然発生的集落のことではなく、上位者から賜った領地としてみれば、徳川期の知行地と本質が似ています。
これが言葉のインフレで次第に小規模になって行きついには我が国の村のような小さなものになっていたとしても、我が国の自然発生的に人家が集まったムレ→ムラとは、成り立ち・意味が違うようですから、いろんな書物で単純に「むら」と翻訳していても気をつけて読む必要があります。
元々我が国のムラは自然発生的・・動物の群れみたいに、灌漑農業に必要な単位から生まれた最小単位集団を意味するものですが、中国の場合、商業社会が民族の始まりであったことを繰り返し書いて来ましたが、こういう場合、未開地に橋頭堡を築くとそこで自給するために急いで農地を切り開いたのでしょうが、これはまさに現地人の襲撃を防ぐために柵で囲まれた地域で始めるものです。
この場合、集団規模が大きければ大きいほど異民族からの襲撃を防ぐのに有利ですから、我が国のような最小単位の発想はありません。
中国では正式に皇太子や皇后になることを冊立と言いましたが、冊立の冊は柵の木偏がなくなっただけのことですから、中国古代で進出地において橋頭堡を確保し自給自足出来るようになったとき・・イザとなれば本国からの応援が必要としても日常的にはその地域であるていど自立・自衛できるようになったこと・正式に地位が固まることから来た熟語でしょう。
そのうえ、我が国の集落の発生は小川が細かく別れて流れている川水の利用の便宜で始まったものですがから少人数の家族で始めても良いのですが(最初は灌漑の土木工事は不要です)中国の場合未開地へは船で進出するので橋頭堡開設は一定の大きさの川のほとりに限定されます。
大きな川の場合、川の直ぐそばに基地を築いたり農地を開墾出来ませんので、ある程度本流から離れた場所まで水を引かねばならないので灌漑技術が発達したし、そのための一定規模以上の集団行動が必要でした。
中国(に限らず地中海世界)では、大きな川沿いに交易のための集団が移動して来て物資の集散地で交換するために野営したり一定期間継続使用するために、食料自給のために植民する屯田兵目的で始まって行くものです。
こうした場合、敵襲を防ぐために早期完成が必須でしかも一定規模の土木工事・・灌漑が必要ですから、農地開墾は始めから組織的に行う必要があったように思われます。
結局は、地中海・・西洋の植民地政策同様に中国では屯田兵的開拓団が入植して行くことが中心・・城壁で囲まれた都市国家がまず出来てその周辺に柵で囲まれた農地が広がるようで、自然発生的な我が国とはムラ(これが大きくなって都市になるの)とは成り立ちが違うような印象です。
我が国の縄文・弥生時代の稲作の最初について、04/06/06「治山治水の必要性3(水運と河港都市)」その他で書いたことがありますが、湿地状態の谷津田とか幅数メートル程度の細流が縦横に流れている状態でそこから、川の縁をちょっと引っ掻いて(当時はスコップ一つないのですからそんな程度の土木工事がやっとでした)水を引いて稲を植えれば始められる状態から水辺の生活が少しずつ始まったので、大規模な土木工事・・組織力を始めっから必要とはしていなかったのです。
この辺の歴史の違い・・・中国では昔から団体でやる国でしたから、共産主義時代に集団農場制度等に親和性があったゆえんでしょう。

 戸籍制度7と家の制度5

ところで、制度が二本立てになると今の参議院がいつも存在意義を問われているように、明治始めに父か祖父が住んでたところ=本籍・・一緒に生活していないし、跡継ぎ以外の弟らが行った先で新たな家族関係も生まれているのにそこを本籍とさせずにいつまでも、一緒に登録しているようにするには、現住所である寄留地以外の登録の意味・理由付けが必要になります。
もしも出身地が人の特定のために必要とする論を進めれば、明治の始めに親が住んでいたところに本籍地を限定する意味が不明・・元は三河武士だから本籍は三河になるのか、あるいは薩摩出身の人は薩摩になるのかなど、どこまで遡るべきか際限のない論争になってしまいます。
そこで、明治の初めに所帯を持っているところで戸籍として登録し、登録した場所が一家の始祖であると構成し、それ以降(このときが家の制度創設時だからと言う理由でそれ以上遡らなくとも良い)結婚して新たに所帯を設けても分家しない限り、元の戸籍の構成員であるとするしかなくなったのでしょう。
家の制度を進めたかったから戸籍制度が残ったのか、戸籍制度を残したかったから家の制度を思いついたのかどちらが先かと言うところですが、March 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」で書いたように家の制度は実際には何の実効性もなかったことから見て、後者・すなわち戸籍制度墨守の役人がこれに固執したからだと思っています。
自然の動きに任せれば寄留地・・今の住民登録の方が合理的ですから住民を現地で登録する制度の充実に反比例して戸籍制度は消滅して行くことになりますが、一度出来上がった制度に固執したいのが役人のサガで、そのために家の制度が国家統治思想としても便利だなどと言う後づけ講釈が固まって行ったのではないでしょうか?
これを受けた民法典(民法第四編・民法旧規定、明治31年法律第9号)が成立して家の制度・・観念的一家意識の構成が求められて、これが完成してしまいます。
明治の家制度の結果、具体的な田舎の家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出てそこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで、田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする制度になったので、(江戸時代で言えば無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付き呼称が必要になったと言えます。
ただし、明治政府の家単位の管理の発想は、今考えれば個人の直接管理に比べて無駄なように見えますが、それまでの地方豪族を通じた間接管理を排した中央集権国家への第一歩としてむしろ進んだ制度として位置づけられて始まったようです。
ついうっかりしますが、それまでは幕府は大名家を通じて武士を統率し、大名は家臣を通じて家臣の家の子郎党を間接統治し、家臣その他の国人層は、自己の領内の農民等を支配していました。
間接統治の積み重ねが、平安中期以降明治までの我が国の社会構造でした。
これを一族ごとの籍ではなく、戸ごとの籍・・各戸口ごとに人民を直接管理したい・・まさに中央集権国家の基礎と考えて、明治政府は戸籍簿を作り始めた最新式の制度構想が戸籍制度の始まりです。
言わば一族概念をバラバラにして、国家が核家族ごとに直接統治する政体を考えていたのです。
その後に揺り戻しの結果、家の制度がはびこったので、明治の戸籍制度は核家族とは違う制度目的だったかのような印象ですが、始まった当初は、その時の所帯=核家族を登録するものであり、先祖を遡って一族の登録をする目的はありませんでした。
その内族=士族僧侶その他の族称が廃止されて行ったのは、人権思想のためだけではなく当然の結果だったと言えます。
一旦登録が始まるとその後に分裂して新たに所帯を持った弟らの家族まで分離しないで際限なく登録して行くと大家族制になってしまうので、国民の管理としては生計が独立すれば新たな戸籍を創設して行く方が住んでいる場所と一致して合理的です。
(現行戸籍制度は、婚姻を基準にして新戸籍編成主義です)
ところが、戸ごとの人民登録による一族意識解体の進行で危機感を持っていた保守層の反撃で妥協制度として、弟が新たに所帯を持っても更に既存戸籍に付け加えて行く仕組みで温存することになって家の制度の原型になってしまいました。
それでも明治以降に形成された家族が最大で、(ただし、壬申戸籍の最初の頃には使用人・住み込みの家臣まで書いていました)それ以前の一族まで遡って記載しないのですから、まさに一歩前進半歩後退の中間的解決だったことになります。
(そこから先は、ルーツ探しに熱心な人の趣味の世界です)
この中間的解決が、人心の帰属意識をイキナリ断ち切ってしまわずに安定感を維持出来たので結果的に良かったように思えます。
今回の大地震・大津波被害・・極限状況下においても利己的行動に走る人は一人もいない・・利己主義だけではない連帯感・「公」の観念を維持出来たゆえんです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC