むらと邑

邑の漢字の成り立ちは服従している土地・・被支配地のことですが、殷代には王の都(直轄地)を意味していてその後次第に諸候の領地を意味するようになり更に時代が下がって来ると、、もっと下位の関係にも使われるようになります。
秦の改革者公孫鞅・・商鞅が孝公から商の地の邑を賜った(紀元前340年頃)ので商の君主と言う意味で彼を商鞅と言いますが、孝公自体が諸候でしかないので当然諸候の領地よりも小さかったでしょう。
このように時代が下るに連れて単語のインフレが進み、もっと小さな単位の地域を表すようになったので時代によって単位の意味が違いますが、いずれにせよ元々上位者から賜る(時代によって大小があっても)支配地・周囲を囲まれた領地の意味・・後世の封土と同じような用法だったらしいのです。
封建の封とは、封じると言う動詞の意味からしても一定地域に封じ込める意味合いが強いものです。
いろんな文書で「邑を賜る」と言う表現が多いのはこのせいです。
邑は上位者から賜る領地のことですから、我が国に当てはめれば徳川政権時代における旗本知行地に該当するでしょう。
旗本あるいは徳川直参大名の知行地は、徳川家から賜るものでしたから小分けされていたこと・・1つの集落が何人もの旗本の知行地に分かれていたことを12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」以降繰り返し紹介していますが、知行地はどんなに小さくとも自然発生的なムラの範囲と一致しているとは限りません。
その点戦国大名や江戸時代でも戦国大名の系譜を引く大名家の場合、一定水準以上の家臣や国人層は先祖伝来の固有の領地を持っていてその経営をしていましたから、その領地は上位者から貰ったのではないので知行地とは言うのは間違いです。
邑は自然発生的集落のことではなく、上位者から賜った領地としてみれば、徳川期の知行地と本質が似ています。
これが言葉のインフレで次第に小規模になって行きついには我が国の村のような小さなものになっていたとしても、我が国の自然発生的に人家が集まったムレ→ムラとは、成り立ち・意味が違うようですから、いろんな書物で単純に「むら」と翻訳していても気をつけて読む必要があります。
元々我が国のムラは自然発生的・・動物の群れみたいに、灌漑農業に必要な単位から生まれた最小単位集団を意味するものですが、中国の場合、商業社会が民族の始まりであったことを繰り返し書いて来ましたが、こういう場合、未開地に橋頭堡を築くとそこで自給するために急いで農地を切り開いたのでしょうが、これはまさに現地人の襲撃を防ぐために柵で囲まれた地域で始めるものです。
この場合、集団規模が大きければ大きいほど異民族からの襲撃を防ぐのに有利ですから、我が国のような最小単位の発想はありません。
中国では正式に皇太子や皇后になることを冊立と言いましたが、冊立の冊は柵の木偏がなくなっただけのことですから、中国古代で進出地において橋頭堡を確保し自給自足出来るようになったとき・・イザとなれば本国からの応援が必要としても日常的にはその地域であるていど自立・自衛できるようになったこと・正式に地位が固まることから来た熟語でしょう。
そのうえ、我が国の集落の発生は小川が細かく別れて流れている川水の利用の便宜で始まったものですがから少人数の家族で始めても良いのですが(最初は灌漑の土木工事は不要です)中国の場合未開地へは船で進出するので橋頭堡開設は一定の大きさの川のほとりに限定されます。
大きな川の場合、川の直ぐそばに基地を築いたり農地を開墾出来ませんので、ある程度本流から離れた場所まで水を引かねばならないので灌漑技術が発達したし、そのための一定規模以上の集団行動が必要でした。
中国(に限らず地中海世界)では、大きな川沿いに交易のための集団が移動して来て物資の集散地で交換するために野営したり一定期間継続使用するために、食料自給のために植民する屯田兵目的で始まって行くものです。
こうした場合、敵襲を防ぐために早期完成が必須でしかも一定規模の土木工事・・灌漑が必要ですから、農地開墾は始めから組織的に行う必要があったように思われます。
結局は、地中海・・西洋の植民地政策同様に中国では屯田兵的開拓団が入植して行くことが中心・・城壁で囲まれた都市国家がまず出来てその周辺に柵で囲まれた農地が広がるようで、自然発生的な我が国のムラ(これが大きくなって都市になるの)とは成り立ちが違うような印象です。
我が国の縄文・弥生時代の稲作の最初について、04/06/06「治山治水の必要性3(水運と河港都市)」その他で書いたことがありますが、湿地状態の谷津田とか幅数メートル程度の細流が縦横に流れている状態でそこから、川の縁をちょっと引っ掻いて(当時はスコップ一つないのですからそんな程度の土木工事がやっとでした)水を引いて稲を植えれば始められる状態から水辺の生活が少しずつ始まったので、大規模な土木工事・・組織力を始めっから必要とはしていなかったのです。
この辺の歴史の違い・・・中国では昔から団体でやる国でしたから、共産主義時代に集団農場制度等に親和性があったゆえんでしょう。

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