住民登録制度不備と家の制度8

江戸時代のように何世代にもわたって定住している者(都会で言えば持ち家を持つもの)とそれ以外・・・借家人・中間的な人を無宿者として無登録にしておく・・今で言う住民登録のない人間が都会にひしめいているのでは(徴兵・徴税の対象にも出来なくて)困るし、実際にきちんと生業を持って働ける人が増えて来た以上は、これら中間帯を幽霊人口にしないで正規市民登録させようとした明治政府の方針は正しかったでしょう。
明治になって炭坑夫・工員・駅員その他農業以外の安定した就職先が出来たので、跡継ぎ以外の弟妹も自分のきちんとした収入があるので結婚出来る・・独立の経済主体・世帯を形成出来るようになったのに、これらを江戸時代のように無宿者・・浮浪者・・幽霊扱いで放置するのは実態に合わなくなったとも言えます。
都会に働きに出た弟妹の経済力が上がったことが制度変更の(無宿者・浮浪者扱いから正規市民登録が必要になった)原動力であったとすれば、(後講釈ですが)ズバリそのための制度・・ありのままに登録する・・今の住民登録制度あるいは将来制度化されるであろう国民背番号制に向けて制度化に努力すべきだったと思われます。
日本以外の諸外国ではこの方向へ進んでいることは、(アメリカ等は昔からそうですし、日本法の影響下にあった韓国でも数年前頃に戸籍制度を廃止しています)周知の通りです。
こうした簡易な登録制度を採用せずに、まず出身地別に管理する(・・出身地の檀家寺で管理をしていた檀家制度を06/03/10「(1)仏教の役割変化2(学問から登録機関へ)」前後で紹介しましたが、宗門人別帳の歴史経験があったのでこれの応用・修正から始めたのは合理的でした。
その代わり戸籍制度・・本籍観念から入って行ったので、現住所登録が完成して来た後も本籍と現住所の二本立て・・今も同じですが・・・となって行き、本籍地=出身地に籍を残す以上はそこの管理責任者・戸主と言う観念が必要になったように思われます。
本籍地・・本来どこの出身・一族であったかは、今では個人の特定にそれほど意味がない時代(どこの社員かなど所属や職業を明らかにする方が識別に意味があるでしょう)なのですから、今後はこうした二本立てをやめて個人別識別番号制に移行して行くのが合理的です。
(江戸時代の武士やその他では、先祖は源氏だった等出自を自慢するのに必要な時代がありましたが・・この種の需要は今後は趣味の世界にゆだねれば十分で国家が税金を使って整備してやる必要までありません)
明治の家制度の結果、具体的な家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出て、そこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする(会社で言えば連結)制度になったので、(江戸時代までのように簡単に無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付きの呼称が必要になったのでしょう。

 戸籍制度7と家の制度5

ところで、制度が二本立てになると今の参議院がいつも存在意義を問われているように、明治始めに父か祖父が住んでたところ=本籍・・一緒に生活していないし、跡継ぎ以外の弟らが行った先で新たな家族関係も生まれているのにそこを本籍とさせずにいつまでも、一緒に登録しているようにするには、現住所である寄留地以外の登録の意味・理由付けが必要になります。
もしも出身地が人の特定のために必要とする論を進めれば、明治の始めに親が住んでいたところに本籍地を限定する意味が不明・・元は三河武士だから本籍は三河になるのか、あるいは薩摩出身の人は薩摩になるのかなど、どこまで遡るべきか際限のない論争になってしまいます。
そこで、明治の初めに所帯を持っているところで戸籍として登録し、登録した場所が一家の始祖であると構成し、それ以降(このときが家の制度創設時だからと言う理由でそれ以上遡らなくとも良い)結婚して新たに所帯を設けても分家しない限り、元の戸籍の構成員であるとするしかなくなったのでしょう。
家の制度を進めたかったから戸籍制度が残ったのか、戸籍制度を残したかったから家の制度を思いついたのかどちらが先かと言うところですが、March 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」で書いたように家の制度は実際には何の実効性もなかったことから見て、後者・すなわち戸籍制度墨守の役人がこれに固執したからだと思っています。
自然の動きに任せれば寄留地・・今の住民登録の方が合理的ですから住民を現地で登録する制度の充実に反比例して戸籍制度は消滅して行くことになりますが、一度出来上がった制度に固執したいのが役人のサガで、そのために家の制度が国家統治思想としても便利だなどと言う後づけ講釈が固まって行ったのではないでしょうか?
これを受けた民法典(民法第四編・民法旧規定、明治31年法律第9号)が成立して家の制度・・観念的一家意識の構成が求められて、これが完成してしまいます。
明治の家制度の結果、具体的な田舎の家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出てそこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで、田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする制度になったので、(江戸時代で言えば無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付き呼称が必要になったと言えます。
ただし、明治政府の家単位の管理の発想は、今考えれば個人の直接管理に比べて無駄なように見えますが、それまでの地方豪族を通じた間接管理を排した中央集権国家への第一歩としてむしろ進んだ制度として位置づけられて始まったようです。
ついうっかりしますが、それまでは幕府は大名家を通じて武士を統率し、大名は家臣を通じて家臣の家の子郎党を間接統治し、家臣その他の国人層は、自己の領内の農民等を支配していました。
間接統治の積み重ねが、平安中期以降明治までの我が国の社会構造でした。
これを一族ごとの籍ではなく、戸ごとの籍・・各戸口ごとに人民を直接管理したい・・まさに中央集権国家の基礎と考えて、明治政府は戸籍簿を作り始めた最新式の制度構想が戸籍制度の始まりです。
言わば一族概念をバラバラにして、国家が核家族ごとに直接統治する政体を考えていたのです。
その後に揺り戻しの結果、家の制度がはびこったので、明治の戸籍制度は核家族とは違う制度目的だったかのような印象ですが、始まった当初は、その時の所帯=核家族を登録するものであり、先祖を遡って一族の登録をする目的はありませんでした。
その内族=士族僧侶その他の族称が廃止されて行ったのは、人権思想のためだけではなく当然の結果だったと言えます。
一旦登録が始まるとその後に分裂して新たに所帯を持った弟らの家族まで分離しないで際限なく登録して行くと大家族制になってしまうので、国民の管理としては生計が独立すれば新たな戸籍を創設して行く方が住んでいる場所と一致して合理的です。
(現行戸籍制度は、婚姻を基準にして新戸籍編成主義です)
ところが、戸ごとの人民登録による一族意識解体の進行で危機感を持っていた保守層の反撃で妥協制度として、弟が新たに所帯を持っても更に既存戸籍に付け加えて行く仕組みで温存することになって家の制度の原型になってしまいました。
それでも明治以降に形成された家族が最大で、(ただし、壬申戸籍の最初の頃には使用人・住み込みの家臣まで書いていました)それ以前の一族まで遡って記載しないのですから、まさに一歩前進半歩後退の中間的解決だったことになります。
(そこから先は、ルーツ探しに熱心な人の趣味の世界です)
この中間的解決が、人心の帰属意識をイキナリ断ち切ってしまわずに安定感を維持出来たので結果的に良かったように思えます。
今回の大地震・大津波被害・・極限状況下においても利己的行動に走る人は一人もいない・・利己主義だけではない連帯感・「公」の観念を維持出来たゆえんです。

戸籍制度6と家の制度4

 

こう着状態に陥った(と言えば小康状態のイメージですがそうではなく、より危険な方向に進んでいる様子ですが、直ぐに慣れてしまうのが不思議です・・)原発問題を一旦休憩して、いつものコラムMarch 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」の続きに戻ります。
親の家から出て行っても無宿者(死んでようが生きていようが数のうちに入れない無責任放逐制度)にするのをやめて、等しく国民として管理し、制度的に待遇するには効果から考えれば住民登録制度が合理的です。
戦前でも徴兵や配給制度などは、現況を把握している寄留簿から行っていた筈です。
本籍を基準に編成・登録する戸籍制度が出来上がったのは、明治の初めは現地で登録するシステムがなく個々人の登録は血縁による戸籍簿しかなかったので、東京等大都会に出て行っても出身地での登録に残しておくか無宿者になるかしかない二者択一制であった過渡期の産物として始まったことが分ります。
ただ、戸籍登録の始まりは、当然のことながら住所地の戸口(当時は地番制度がありませんでした)ごとに編成したのですが、安定した住所地ではない寄留の場合にその人の特定のために本籍(出身の家や親の氏名)を書き込む必要があって、言わば本籍と現住所登録が未分化の時代だったことによります。
これが観念的な本籍と現住所とに分離して来た(住所のウエートが高まって来た)のは、明治20〜30年代になって郷里から離れた都市住民が増加してそこで結婚して所帯を構えて根を生やして来たし、現住所登録の技術・方法も定着して来たのですから、実は旧民法・現行制定のときから現住所登録を基準にして、出身地別登録を廃止すれば良かったことになります。
元々これまで書いている通り、戸籍制度の始まりはその時に存在した一家・所帯持ちの所在地登録から始まったもので(遠い先祖の出身地を問いませんでした)すから、明治2〜30年頃に新たに都市住民として定着した(・・少なくとも夫婦になって所帯を持った場合)場所を基本に更に登録し直しても何も変わらなかった筈です。
明治2〜30年代には、結婚すればその時に住んでいた場所を新本籍を決めることが出来る現在同様の制度採用のチャンスでもあったのです。
これを採用していれば、今の住民登録制度だけで間に合っていた筈です。
ところがこの頃には,維新以来息もつかないでやって来た急激な社会変革反発する反動思想が渦巻いていて、民法典延期論争が起きたくらいですから,いわゆる「醇風美俗」を守れの運動と妥協するしかなくなって、家の制度を逆に強化するしかなくなったのが,明治20年代だった思われます。
(旧民法も結構家の制度に気を使って妥協した条文にしていたらしく、結果的に現行民法が出来てみるとそれほど変わらなかったらしいので,言わば反対のための反対だったとも言えます。)
ここまで進めば、壬申戸籍で書いてあった身分・・士族か否かなどは個人特定には意味がないように、「出身地を現す本籍って何故必要なの?」と言う、疑問がわいてくるのが普通の思考回路でしょう。
(今では、初対面の誰かと会った時に出身地や本籍を説明されても意味がないし、それどころか兄弟姉妹の名前を言われても、その人の特定にあまり関係がないでしょう。)
それなのに、戸籍制度がせっかく充実して来たことから勿体ないと思ったのか、元の出身地を基本にした制度そのまま更に精密化する方向に進んでしまったのがその後の日本だったと思えます。
とは言え、現況把握の必要性も無視出来ず、既に紹介したとおり大正3年には寄留法が制定されたので、以後国民管理制度は現況把握とそれ以外(・・何の目的か不明ですが・・・先祖のルーツ探しには役立つでしょうから国営の系図業務みたいなもの)の二本立てになって現在に至っています。

家の制度3と戸主の能力

    

明治民法で確立した本籍地を基本とする人民管理・・家の制度は、前回まで書いたように何の実効性もなかったことから見ると何のために創設したのか不明です。
その結果から眺めると、戸籍制度の創設・充実・完成との関連で自動的に・・付随的に出来上がったに過ぎないけれども、保守反動層をなだめる効果があるので、(実効性がないので何の実害もない)作っておいて損はない程度の制度だったような印象です。
明治政府は都市住民の管理もしたくなったので、明治4年の太政官布告以来、江戸時代のように出て行った次男三男や弟妹を郷里の実家では無宿者扱い・・すなわち除籍出来なくなったのですが、無宿者として除籍しないで郷里の戸籍に残す以上は広がりすぎる一家の定義・・が必要になったに過ぎません。
元々庶民が出て行った者を除籍して無宿者にしていたのは連座責任を免れる目的だったので、無宿者にするのを禁止して家族の一員として残すことを強制した見返りに親族共同体の一員としての連座責任は解除されましたが、大家族の一員とする以上は何らかの統率権が必要です。
一家意識を高め統率を期待しながらも、2月11日頃まで書いて来たようにその見返りに扶養義務が法定されてしまいました。
家父長制度の創設は、扶養義務に見合う指導権・口出し権があると言う意味合いがあったでしょう。
戸主の権限が強化され、その見返りに扶養義務があるとされてもイキナリ大地主になった訳ではないばかりか,単独相続であることも江戸時代までと同じです。
それまで分割相続であったのが明治民法で単独に変わったのなら,その見返りに弟妹を養う義務の法定は合理的ですが、江戸時代にも単独相続が法定されていなかっただけで,事実上のルールでしたから,明治になっていきなり無宿者・・無関係にするのを禁止されて,しかもイザとなったら扶養しろと言われても,それだけの裏付けがありません。
もともと自分の直系家族を養うのにぎりぎりの最小生活単位(多くは水呑百姓です)の農地を江戸時代同様に相続するだけのことで、弟妹の面倒を見るために特に農地が拡大したり、政府から補助金が出た訳でもないのに義務だけ明記されたのです。
長男が田舎のわずかな農地を家督相続しても、明治になってイキナリ単位面積当たり収量が上がった訳ではなく、弟妹とその家族全部の生活を見るのは元々無理だから都会に押し出していました。
これを江戸時代には無宿者にして人別帳(今の戸籍あるいは住民登録)から抹消して法的にいない事にしてしまい、人間として最低の義務である(・・死者を悼む気持ちは儒教に限らずどんな宗教世界でも同じでしょう・・)死体引き取りの義務さえを免れていたのですから、生きているうちに生活全般の扶養義務を長男=戸主に課した明治の家制度は無理な制度設計だったことになります。
農家収入だけでは養って行けないから弟妹が都会に出て働いていたのですから、「困ったら何時でも帰って来いよ」の論理自体矛盾です。
実際には中堅農家=自作農以下では(どこの国でも同じでしょう・・)一所帯(直系家族)で生活するのが漸くであって、相続した農地で2所帯も3所帯も養える筈がありません。
この理は現在の都市生活者でも同じで、ちょっとくらい(大手企業の役員になっても)出世した程度では並の昇進をした同僚より少し豊かな生活が出来る程度に過ぎず(一定規模以上の経営者以外には)直系家族以外に養える人は稀でしょう。
今回の地震被害者の親族でも,短期間の同居は可能でも半永久的に一方的に養うので不可能なことです。
一家の農地を世代交代の度に2〜3戸に分割していたのでは食べて行けない・・共倒れになってしまうから、新田開発が停まった後の江戸期を通して長子あるいは姉、末子が単独相続していて、婿や嫁に行かない弟妹は結婚せずに家に残っている場合「厄介」と呼ばれていた(独立の所帯を持てなかった)のですから当たり前です。 
都市化・貨幣経済化が進むと世襲財産の比率が下がってくることを、September 14, 2010「農業社会の遺産価値」〜September 16, 2010「高齢者と社会(ご恩と奉公)」前後までのコラムで紹介しました。
世襲した財産価値(近郊農家で農地の売値が仮に上がっても、同じ面積での収量が上がる訳ではないので家族を養う能力)が目減りする一方・・むしろインフレの継続で農地を世襲した一家の方が生活が苦しくなる一方でしたから、戸主(そのほとんどが農家承継者です)として観念的な権威だけ強くされても何のメリットもありません。
家の制度が昔からあるかのように誤解している人がほとんどでしょうが、明治の民法・戸籍法成立までは、家にある弟妹とは文字どおり具体的な家・建物に同居している弟妹(厄介・居候)のことでした。
これが明治民法では「家にある」と言っても戸籍に載っていると言う意味に広がってしまったのです。

家の制度2(実効性)

 

農家の多くは元々最小単位の核家族で漸く生活していましたから、これ以上構成員を減らせないとすれば、周辺産業にあわせて生活水準を引き上げるには耕作面積の拡大でしか対応出来ないのですが、農家をやめる人がいないと自分の耕地を増やせないことから(・・この誘導をしなかった、出来なかったのは政治の失敗です)農業以外の生産性が上がるのに比例して農家の相対的窮乏化がいよいよ進んでししまいます。
戦後は機械化が進み農業生産性も少しづつ上がりましたが、それでも農家戸数を減らせないので規模拡大が出来ず、戦後の兼業・農家出稼ぎが広がりましたが、これは家族構成員をこれ以上減らせないことを前提にした・・・一人あたりの従事時間を減らして行く試みだったことになります。
農家の収入は(生産性が上がらない限り)明治維新前後を通じて増えないとしてもまわりで景気良く収入が増えていると、農家の人もラジオを聞いたり新聞を読み近代的な乗り物に乗ったり本を買ったりしなくてはなりません。
これは現在でも同じ原理ですから、農業生産性上昇が周辺産業に追いついていないにもかかわらず農家も周辺産業従事者並みに生活水準を引き上げて行くには、規模拡大か補助金注入しない限り窮乏化を防ぐ方法はありません。
高度成長期には自民党政権が資金注入続けていて、農家経済のかさ上げに努力して来たのです。
この注入が限界に来たのが昨今の経済情勢ですが、この解決・・補助金を減らして行くには農家戸数を減らし一戸当たり規模拡大しかない筈です。
家の制度に戻しますと、家督相続人が明治民法で新たに得たものは何もなく範囲の広がった扶養義務だけ負荷されるのでは納得し難いので、戸主の居所指定権などの観念的指導権限を強化したのですが、東京大阪等に出て行った弟に対する居所指定権などと言っても実効性がなくお笑いです。
他方この扶養義務ですが、家の制度を論理的に説明するために何かあればその代わり故郷の実家で面倒見てくれると言う制度的保障・・観念強調だけですが、家を出た弟妹にとっても「江戸時代までの扶養2」 February 9, 2011 でも書きましたが、元々弟妹まで養いきれないから都会に押し出していたのですから、いざとなっても、長男が面倒見るほど経済力がないことを知っていましたので、お互いに茶番だと理解していたことになります。
家長と構成員どちらから見ても家の制度は意味のない制度で、すべての分野で家の制度は、実効性のない観念だけだったことになります。
今になると戦前の家の制度を過大に評価して如何にも悪い制度であったかのように思われていますが、実は思想的には親族・集落共同体崩壊の危機感に対する歯止め役としての観念的期待に過ぎず実体経済的裏付けがなかったことと、この次に書いて行く戸籍制度と整合させ維持するために自動的に構築しただけで、何らの実効性もない制度だったので、物の分かる人は家の制度に何の意味も見いだしていなかった筈です。
今でもマスコミが御拠もなくいろんなことを書き立てるとすぐその受け売りで困ったものだと言う人が多いのですが、宣伝に乗りやすい庶民に対しては大きな効果を持っていたでしょう。
何かあっても親戚が面倒見てくれる訳ではないことが何十年も前から既に証明されているし、その結果親戚に相談しても解決してくれないからこそ弁護士に相談来ているのですが、その状態でも弁護士に向かって親戚付き合いしておかないと何かの時に困ると言う潜在意識を吐露する人が多いものです。
勿論私は面と向かって反対はしませんが・・・。
これは古くは農業社会では核家族だけでは賄えない作業が多いことによる親族共同体での助け合いが必須だったことの遺伝子的記憶と明治民法制定直前頃に親族共同体崩壊が進んで行くことに対する保守層による危機感に応える意味で、観念だけでも家の制度を創設して保守反動層をなだめた思想教育の残滓に過ぎないでしょう。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC