戸籍制度8(目的)

我が国では庶民から乞食に至るまで公の意識が強く、今回の大地震・津波による生存の危機に際しても三陸方面の人たちは庶民の端に至るまで利己的行動に走る人が皆無と言ってもいいくらい・・全員節度を持って行動しているのに対して、中国では普段から利己的行動こそが行動指針であるかのような国柄です。
明治政府の始めた「戸籍」の熟語自体は中国の律令制から来た用語ですが、内容は中央集権国家確立に必要なものとしてフランスを中心とする西洋の制度を勉強して整備しようしたものですので、中国古来からの戸籍とは違っています。
いわゆる羊頭狗肉の看板と言うか、和魂洋才の具体化です。
中国の戸籍制度が、辛亥革命以降の近代化によって、どうなっていたのかよく分りませんが、中国では今でも国家・・あるいは企業への帰属意識より一族の紐帯の方が強いと言われる・・我が国との違いは何でしょうか?
元々中国では我が国のような封建制を経験していない・・封建制の熟語は周代の用語の借用ですが、周では諸候が封ぜられたのであって、我が国のように先祖伝来の自分の地盤に根を張り割拠して来たのを形式上本領安堵してもらったに過ぎないのとは本質が違います。
我が国の場合、中央の政争に敗れると国に逃げ帰って再起を期すのが普通です。(平治の乱に破れた源義朝のように本拠地に逃げる途中で討たれることもあります)
最近では、ペルーの藤森元大統領が政争に負けると日本に帰って来ていて、日本政府はこれを守っていましたが、この歴史によるのでしょう。
これに対して中国では、まだ専制君主制の始まりでしかなかった時代・・秦の商鞅が失脚して自分の領地商邑に逃げ帰ろうとして、自分の作った制度に阻まれて領民に拒まれる故事が有名ですが、これで明らかなように中国では中央で負けると帰るべき場所がなかったのです。
中国では各地に封じられるのは(貨幣経済未発達の時代における)給与の代わりでしかなく、免官されるとおしまいですし当然世襲出来る地位ではありませんでした。
日本では先祖伝来の領地に対する本領安堵が基本ですので、結果的に世襲制が基本になりますし、江戸時代の旗本は領地との結びつきが薄い点では、中国の官僚に似ていましたが、旗本も他の大名小名等同様に世襲制を流用していました。
中国では歴史上高名な大官でも3代目以降になると零落して食うや食わずになるのは世襲の地位ではないからです。
そのために各州の知事等地方の大守に任ぜられると何時クビになっても食いつなげるように私腹を肥やしておくことが最大の目的になってしまうことが多かったのです。
実力・能力主義の土壌があったので科挙制度が根付いて能力主義が進んでいたとも言えることを、09/28/05「科挙の意義4(憲法132)法の下の平等(国家公務員法1)」で書いたことがありますが、こうした制度で2000年近くもやってくると、イザとなっても自分を守ってくれるべき故郷もなく個々人の精神不安が増し利己主義の権化みたいになってしまいます。
能力主義が行き着くところに精神不安定が増えることを、10/10/09「能力主義3と精神の安定1」で書きました。
中国や朝鮮半島では、我が国のように中間に大中小の豪族が存在していたのとは違い、君臨する専制君主と砂粒のように弱い個々の人民との2層構造でずっと長い間構成されて来た歴史です。
もしかしたら共産中国では、この伝統を基にいきなり人民を砂粒のようにばらして国家直接管理にしてしまったので、ある者は国家の教育理念通りに自分の親でさえ国家に売る(・・文化大革命時にはこうした悲劇が一杯ありました)あるものは、国家や中間の企業を全く信用していない・・・前近代のまま一族の助け合いしか念頭にないグループとに価値観が分裂しているのかもしれません。
今回の大地震→放射能問題が起きると、日中貿易に携わっているある日本企業の中国人従業員は、責任者であるにも拘らず企業の都合を無視して即座に帰国してしまったようです。
あるいは生活保護を受けている中国人女性が、放射能汚染を恐れて子供を放置して帰国してしまう例が後を絶たないと報道されていました。
名目上は中国にいる親が危篤のためと言うことらしいですが、残された子供に聞くと放射能を怖がって一日も早く出国したいと言う動機らしいです。
(こういうときには流言飛語が飛び交うので、報道の正確性は不明です)
日本人と結婚して子供が生まれて定住資格を取得してから離婚をすると生活が苦しいことから、外国人生活保護所帯が結構あるらしいのです。
生活保護の生活でも日本にいた方が良いが、放射能を浴びてまで日本にいたくないと言うことでしょう。
行動形態が合理的=功利的・打算100%・・分りよいことはその通りですが、自分の利益の(放射能被害を避ける)ためには、子供さえ放棄して帰ってしまうメンタリテイの違いに驚いた日本人が多いでしょう。
我が国では、企業帰属意識が強いのは、(企業を守るために法令違反も結構やるのは国家より企業一家意識優先の現れです)明治までの各大名家を守り維持する意識・・赤穂藩のように取りつぶしになると全員路頭に迷うので・・の伝統に加えて明治以降の大家族主義と融合して強固な企業一家意識を形成して来たからでしょう。
頼るべき集団がある・・国民・人心の安定をもたらしている基礎でもあるようです。
今回の東北大地震大津波の結果、大方の家が流され地域社会の生活基盤が物理的に崩壊しているように見えても、なお地域再生に対する意欲の強さを表明しているのに感心するのですが、先祖伝来住み続けて来た郷土への愛着・大家族での助け合い習慣が強固な地域であることがエネルギーの源泉になっている筈です。

 戸籍制度7と家の制度5

ところで、制度が二本立てになると今の参議院がいつも存在意義を問われているように、明治始めに父か祖父が住んでたところ=本籍・・一緒に生活していないし、跡継ぎ以外の弟らが行った先で新たな家族関係も生まれているのにそこを本籍とさせずにいつまでも、一緒に登録しているようにするには、現住所である寄留地以外の登録の意味・理由付けが必要になります。
もしも出身地が人の特定のために必要とする論を進めれば、明治の始めに親が住んでいたところに本籍地を限定する意味が不明・・元は三河武士だから本籍は三河になるのか、あるいは薩摩出身の人は薩摩になるのかなど、どこまで遡るべきか際限のない論争になってしまいます。
そこで、明治の初めに所帯を持っているところで戸籍として登録し、登録した場所が一家の始祖であると構成し、それ以降(このときが家の制度創設時だからと言う理由でそれ以上遡らなくとも良い)結婚して新たに所帯を設けても分家しない限り、元の戸籍の構成員であるとするしかなくなったのでしょう。
家の制度を進めたかったから戸籍制度が残ったのか、戸籍制度を残したかったから家の制度を思いついたのかどちらが先かと言うところですが、March 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」で書いたように家の制度は実際には何の実効性もなかったことから見て、後者・すなわち戸籍制度墨守の役人がこれに固執したからだと思っています。
自然の動きに任せれば寄留地・・今の住民登録の方が合理的ですから住民を現地で登録する制度の充実に反比例して戸籍制度は消滅して行くことになりますが、一度出来上がった制度に固執したいのが役人のサガで、そのために家の制度が国家統治思想としても便利だなどと言う後づけ講釈が固まって行ったのではないでしょうか?
これを受けた民法典(民法第四編・民法旧規定、明治31年法律第9号)が成立して家の制度・・観念的一家意識の構成が求められて、これが完成してしまいます。
明治の家制度の結果、具体的な田舎の家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出てそこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで、田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする制度になったので、(江戸時代で言えば無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付き呼称が必要になったと言えます。
ただし、明治政府の家単位の管理の発想は、今考えれば個人の直接管理に比べて無駄なように見えますが、それまでの地方豪族を通じた間接管理を排した中央集権国家への第一歩としてむしろ進んだ制度として位置づけられて始まったようです。
ついうっかりしますが、それまでは幕府は大名家を通じて武士を統率し、大名は家臣を通じて家臣の家の子郎党を間接統治し、家臣その他の国人層は、自己の領内の農民等を支配していました。
間接統治の積み重ねが、平安中期以降明治までの我が国の社会構造でした。
これを一族ごとの籍ではなく、戸ごとの籍・・各戸口ごとに人民を直接管理したい・・まさに中央集権国家の基礎と考えて、明治政府は戸籍簿を作り始めた最新式の制度構想が戸籍制度の始まりです。
言わば一族概念をバラバラにして、国家が核家族ごとに直接統治する政体を考えていたのです。
その後に揺り戻しの結果、家の制度がはびこったので、明治の戸籍制度は核家族とは違う制度目的だったかのような印象ですが、始まった当初は、その時の所帯=核家族を登録するものであり、先祖を遡って一族の登録をする目的はありませんでした。
その内族=士族僧侶その他の族称が廃止されて行ったのは、人権思想のためだけではなく当然の結果だったと言えます。
一旦登録が始まるとその後に分裂して新たに所帯を持った弟らの家族まで分離しないで際限なく登録して行くと大家族制になってしまうので、国民の管理としては生計が独立すれば新たな戸籍を創設して行く方が住んでいる場所と一致して合理的です。
(現行戸籍制度は、婚姻を基準にして新戸籍編成主義です)
ところが、戸ごとの人民登録による一族意識解体の進行で危機感を持っていた保守層の反撃で妥協制度として、弟が新たに所帯を持っても更に既存戸籍に付け加えて行く仕組みで温存することになって家の制度の原型になってしまいました。
それでも明治以降に形成された家族が最大で、(ただし、壬申戸籍の最初の頃には使用人・住み込みの家臣まで書いていました)それ以前の一族まで遡って記載しないのですから、まさに一歩前進半歩後退の中間的解決だったことになります。
(そこから先は、ルーツ探しに熱心な人の趣味の世界です)
この中間的解決が、人心の帰属意識をイキナリ断ち切ってしまわずに安定感を維持出来たので結果的に良かったように思えます。
今回の大地震・大津波被害・・極限状況下においても利己的行動に走る人は一人もいない・・利己主義だけではない連帯感・「公」の観念を維持出来たゆえんです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC