住民登録制度6(公示から管理へ)

ついでにこの辺で昭和26年の住民登録法と昭和60年の改正法を紹介しておきましょう。

住民登録法(昭和二十六年法律第二百十八号)
第一条この法律は、市町村(特別区を含む。以下同じ )においてその住民を登録する ことによつて、住民の居住関係を公証し、その日常生活の利便を図るとともに、常時人 口の状況を明らかにし、各種行政事務の適正で簡易な処理に資することを目的とする。
住民基本台帳法(昭和四十二年法律第八十一号)
(昭和60年法律第七十六号による改正後)
第一条この法律は、市町村(特別区を含む。以下同じ )において、住民の居住関係の 公証、選挙人名簿の登録その他の住民に関する事務の処理の基礎とするとともに住民の 住所に関する届出等の簡素化を図り、あわせて住民に関する記録の適正な管理を図るた め、住民に関する記録を正確かつ統一的に行う住民基本台帳の制度を定め、もつて住民 の利便を増進するとともに、国及び地方公共団体の行政の合理化に資することを目的と する。」

上記アンダーライン部分は昭和60年に付加されたものですが、住民票制度は本音としては国民管理目的で充実して来たことを04/14/05「夫婦別姓26(公証の時代3・・・住民基本台帳法2)」その他で繰り返し書いて来ましたが、各種登録制度の表向きの目的として国民の便利のために必要な制度・・・公示制度を掲げて来たものですが、完成に近づくと国民管理目的を正面に出して、元々の「公証」目的はついでみたいな書き方に変わってしまいました。
この改正で国民を管理する目的が正面に出て来たことを、この条文の変化でこれを読み取ることが可能です。
元々戸籍制度はその管轄の変化を見ると分りますが、明治2年に民部官庶務司戸籍地図掛(国土地理院の前身)が担当して始めたものが1871(明治4)年民部省廃止とともに大蔵省租税寮へ管轄が移されて以来、租税対象として制度整備が進んで来たものです。
国民に対し徴税目的で制度創設しますと宣伝したのでは国民の協力を得られないので、公示機能(公に証明する機能=公証)を前面に出していたのですが、いよいよ完成してくるとそんな目的は背景に追いやり管理目的を前面に打ち出したと言うことでしょう。
住民登録制、さらには世帯別把握を基本とする現在の制度から、今後は個人別の(年金等の)番号制その他個人識別制度が普及してくれば、(昨年秋頃から書いている結婚制度の崩壊とは別の要因で)将来的には制度上の家族概念に結びつく戸籍制度自体更には世帯単位の住民登録制度まで不要になってくるべきかも知れません。
韓国では日本統治時代から引き継いだ戸籍制度を何年か前に廃止していることを昨年何かのコラムで紹介したことがありますが、個人識別に出身地や親兄弟に関連づける戸籍までは必要がないと言うことでしょう。
ここ10〜15年間の韓国の制度改正は目覚ましいものがあり、いろんな分野で日本が遅れを取り始めている心配がありますが、これもその一つでしょう。
ある人を特定するにはDNAあるいは虹彩・指紋等で識別が可能になれば、親兄弟の氏名(壬申戸籍では士族か否かエタ・非人等身分まで書いていました)は関係がありませんし、まして出身場所などは今では全く意味がなくなっていることは分かるでしょう。
昨年から話題になっている超高齢者の問題も、戸籍制度と住民登録制度を混同している二種類の制度設計が併存しているから起きて来たことであってこれを混同をしたマスコミが騒いでいただけです。
戸籍制度さえ廃止すれば、超高齢者が登録されたままの社会問題も起きません。

住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

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