封建制度と民族一体感(公平性訓練)

綱吉の憐れみの令(1つではなく何次にもわたっていることも以前紹介しました)あるいは定信以来細かくなって行った規制は,封建制度下ですから、主に狭い江戸市中を対象にしたものに過ぎないから、気候風土・生活習慣の違いがあり得ないので,細かく決めることが可能になった側面があります。
今の感覚ですとついうっかりしますが,幕府の命令は(外様大名は言うに及ばず)徳川家内でも譜代大名領内でさえ治外法権・・独自政策施行でしたから(会津家家訓のように別に定めます),徳川将軍家直轄領内限定・・主として江戸市中が対象だったことになります。
吉宗の質素倹約政治を無視して尾張の宗春が逆張り政治を出来た法的基礎です。
(徳川家800万石と言ってもそれは全体の話であって,実は家臣・譜代大名や大身の旗本(合計約300万石)などにドンドン分け与えて(例えば忠臣蔵の敵役・吉良上野介家は吉良に領地を持って)いたので、直接支配地はホンの少し・・江戸町奉行の政治ばかりが物語に出て来る原因・・少なかったのです)
綱吉の生類憐みの令が地域限定命令だったとは言え,江戸市中に住む人からみれば、(犬の飼い方で意見が合わないくらいでは他所に逃げられない・あるいは発禁処分されると田舎に行っても商売にならないので)綱吉や定信の無茶な「・・令の発布が全て」ですから,「法と道理の関係」がどうなっているかが気になったので、これをきっかけに法令と道理に関する関心が庶民にまで高まり研究が進んだのでしょう。
ただし、訴訟の決着例は(鎌倉幕府同様にどう言う場合に泥棒したと言えるか、猥褻の基準など)全国共通性がありますので,封建制度・・各領国で刑法やその他ルールが別だとは言うものの吉宗の始めた判例集編纂の成果(御定書)は各大名家で参考にして運用していた・・各大名家でプロが育ちます)ので、事実上日本列島全体の法意識の一体化が進んでいました。
この辺は10/03/06「公事方御定書の刑罰8(追放刑はどうなったか)」その他「御定書」のシリ−ズ、あるいは別のテーマでもその中で御定書の名称で紹介していますのでお読み下さい。
日本は権力で強制しなくとも自然に良いことは参考にする・・一体化して行く能力の高い高度な社会ですが、これはイキナリ出来上がったものではありません。
古代からの多神教社会なので何をするにも違った意見があることを前提とし、意見擦り合わせ必須社会でした。
ホンの数10km先・一山越えれば違った習俗のある社会があることを、子供でも分るような環境で縄文の昔からやって来ました。
今で言えば同業種でさえも企業ごとに必要なスキルや企業文化が違う・だから転職が難しい面があります。
違った点を認めながら,共通性のある部分の進んだ面は互いに尊重し参考にする社会(平安時代に田舎の受領階級も都ではやる物語などのへの憧れが強かったこと・・更級日記に描写が出て来るように思いますがはっきり思い出せません)・・外から見ると集団行動力が強く個性がないように見えますが,実は皆違う・・武士は細部まで他者と違う装いで出陣し,家の建て方1つ見ても中国や西洋の画一性とは違うことから明らかです。
個性と集団行動するべきときの暗黙知の働かせ方は違うことをここでは書いています。
この結果言語表現だけはなく「気配」を感じる能力が磨かれて来た・・この能力の欠けた人をKYと表現する流行語が直ぐ生まれて来る社会です。
今で言う暗黙知のチームプレーが出来る神秘的能力を持つ民族となった基礎環境です。
数千年単位で磨き抜かれた暗黙知を無視して、尾張の徳川宗春のように・・今で言えば自治権が憲法で保障されている・知事だから何でもやれると言う行動は民族的暗黙合意に反します。
非理法権天の法理については,10年ほど前に紹介しましたが,ウイキペデイアの(一般的解釈を)記事から引用しておきます。
「非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。」
中世の法意識を知る手がかりとして24日紹介した「御成敗式目」貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)に関するウイキペデイアの解説・・これが一般的理解でしょう・・を引用しておきます。
「鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、表向き律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。」
「幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。」
「武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。「泰時消息文」によれば、公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。」
「鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰であっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。 鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効であった。足利尊氏も御成敗式目の規定遵守を命令しており、室町幕府において発布された法令、戦国時代に戦国大名が制定した 分国法も、御成敗式目を改廃するものではなく、追加法令という位置づけであった。」
上記を読んで面白いところは,上からの押しつけではなく・・ボトムアップ社会・・武家台頭後に実際に起きている先例を斟酌して作っているほか,制定が幕府権力によるのに幕府関係者に有利ではなく,内容が公平であったこと・・現在日本人がどこのクニへ行っても公正な行動をする気質を表しています。
欧米が作るルールやデファクトスタンダード(マスコミ支配を含めて)では,欧米有利にされる・・結果不公平に対する世界的不満・・グローバリズム反対論もこの不満が基礎になっているのですが,中国がヘゲモニーを握ってもイスラムが握っても強い方は何をしても良いという発想では、結果は変わりません。
世界標準を作っている米英で反対ののろしが上がったのが逆説的ですが,EUやアメリカ内部では割を食っている不満から起きたのですから支配層に入って良い思いをしたいと言う意識が原動力になっている点は同じです。
・公平な判断・行動をするように数千年単位で訓練を受けている日本が世界のヘゲモニーを握ればそう言う不満がなくなります。
徐々に公平な日本・日本人に対する期待が世界で高まりつつあると思うのは,私だけでしょうか?
TPPも日本がいなければアメリカはやりたい放題で良いコト尽くめですが,ブレーキ役として弱小国が日本の参加を望んだ・・その結果アメリカが推進する旨味がなくなったが推進して来たオバマが「やめた」とは言えない・・そこで政権が変わるの機会にトランプ氏の反対論を出したと言う構図です。
専制支配・一神教の社会では強い者の意見かどうかだけが行動基準となり,どんな非道なことでも迷わずやってのける・・人の道に反するかどうかの判断もいりません。
中国の歴史で頻繁に出て来る残忍な処刑方法を日本人は恐れ驚きますが,命令さえあればこういうことを迷わずに出来る・・そんな酷いことまでして良いのかと言う疑問(「非理法権天の法理」も権力者がどこまでやっていいかの疑問から生まれたものです)すら起きないのが専制社会です。
中韓は自分たちの行動基準を前提に「日本が強かったときに中国や韓国で無茶をやった筈」と言う想像で日本批判をしているのが中韓のでっち上げ批判が盛んになっている原因です。
韓国のようにアメリカ+中国の日本叩きの意向があれば、鬼に金棒・・噓でも何でも主張する・・アメリがはしごを外すと中国の顔色だけ窺っていてよいか分らず思考停止になります。
日本人が公正な気質を磨かれたのは,「八百万の神・多神教社会の日本では,誰が何と言おうとも相互の納得・・道理に合うことが前提ですからボトムアップ・公正な判断が必要だったから・・公正な基準に反しないように気をつける・・古代から訓練を受けているからではないでしょうか?

非理法権天と野党1

非理法権天の思想は江戸時代の学者が言い出したことですが,徳川支配が盤石になって各種御法度などの具体的規制が始まっただけではなく、綱吉の時代になると生類憐みの令など(「殺生するな」と言うだけならば誰も疑問を持ちませんが,)具体的・細かくなって行くとその命令に対する道徳性に対する関心も高まります。
綱吉の生類憐れみの令はまだ過去の道理や道徳(宗教観)の延長の域・・具体化の域を出ませんが,次の正徳の治は儒家でありながら新井白石が経済や貿易政策に関与するようになり,その次の吉宗になるとサラに一歩踏み出して(儒家の時代が終わり)経済政策→規制(たとえば1730年の堂島の米先物取引許可があればその表裏の関係で取引所のルール規制も生じます)にまで進みます。
自由放任・積極経済主義の田沼政治の反動として定信の改革になると規制だらけの政治開始・・緊縮経済の一環として文化作品にまで口出しして,山東京伝が手鎖の刑に課せられています。
いつものエリート批判ですが,定信は若い頃から秀才の誉れ高かったと言われますので,才能を伸ばすより既存知識・・新たな風俗を好まない・規制を好む・・現実政治向きではなかったのではないでしょうか?
この辺は秀才の慶喜が(大政奉還)政権を投げ出すと、案に相違して諸候会議を主宰出来なかった(人望がなかったことも明治維新の原動力に関係したでしょう)のが日本のために良かったとなります。
政治の具体化が進むにつれて・・忠臣蔵で言えば忠孝の倫理と幕府秩序の相克で右往左往した末に切腹に決まったように,抽象論の理解(宗教家や儒家・荻生徂徠だったか?の議論)だけでは政治が動かなくなり、政治の表舞台から退場して行ったのです。
佛教〜儒教〜実学への流れについては03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
江戸時代に宗教哲学や有職故実を持ち出してもどうにもならなくなって来たのが正徳の治〜享保の改革以降の政治ですが、・・戦後から現在に至る革新系野党は日本社会が江戸時代に卒業した筈の抽象論から卒業しきれないグループ・・高邁な平和論・憲法論・あるいは近代法の精神だけをぶって満足している印象です。
最初は欧米では・・と言えば何でも立派に見えましたが・・。
国会で必要とされている具体的な議論をする能力に欠けているのか?スローガンの域を出ないので・・(今でも抽象論で満足するレベルの人が一定数いるのでその支持を受けているものの)多数の支持を得られないのです。
たとえば、土井元党首の「ダメな物はダメ」鳩山氏の「少なくとも県外へ」年金についても野党のときに厳しく追及していたのに・・何をどう改革するかではなく,やっていたのは集計ミスなどの揚げ足取りばかりだったので・・民主党が政権についても何ら目に見える改革が出来ませんでした。
昨年の安保法制国会でも憲法違反かどうかの抽象論(民意無視・国会に反対デモが何万人集まったとか)ばかりで、安保法制の必要性の有無について国際環境に対応した具体的議論を国民に示せませんでした。
山尾氏の「日本死ね!」は現在進行形ですが,同氏はこれが政府の保育園増設に弾みがついたと自画自賛しているようですが,いずれも具体的政策は与党任せで政治家に必要な具体論・・どうやって保育園を増やして行くか・・保育所政策がどうあるべきかの具体論がありません。
格差反対論も左翼系の十八番(おはこ)ですが,安倍総理の方が非正規の賃上げを要請したり,「同一労働同一賃金」の実現に努力しているのに,野党や連合からは格差是正のための具体論が全く上がって来ません。
生活保護基準や最低賃金を上げろと言うだけでは,格差が発生する基礎構造の改変・根本解決にはなりません。
最近成立したばかりの通称「カジノ法」でも「ギャンブル依存症」が増えると言うスローガンで野党が反対していますが,現実のギャンブル依存症ではパチンコ関連しかなくこれが今でも問題なのに・・と言いながら,これの改善策について、同党がこれまで具体的にギャンブル=パチンコ依存症対策を講じて発表しているのを見たこともないし,(逆にパチンコ業界から資金を受けてるのが左翼系ではないかと言う指摘すらあります)逆に努力しているのは政府の方です。
グローバリズム反対論も同じで,どうすべきと言う主張がない・・結果的に不満を煽っているだけになります。
乳幼児がぐずったり犬が騒げば,親や飼い主が解決してくれるのと同じで,野党は政府が何か解決してくれるためのアラーム装置と言う役割分担・・万年野党を自己目的にしているのでしょうか?
自分で政権運営するのが政党の目的とすれば,「何でも反対するだけ」「国民不満を煽って政府の是正策を求める」のが仕事では,政党としての将来がありません。
江戸時代に戻しますと,各方面で法令が具体化して来ると,具体的適用の蓄積と安定運用の期待から判例集(御定書)整備・熟達した官僚機構形成が白石→吉宗の頃から進みます。
日常生活に直結する法令が次々と出るようになると(「殺生するな」と言うだけなら誰も反対しませんが・・)これに対する賛否の意見が,利害のある関係者から起きます→反対論からすれば悪法か否かの議論が起きて来ます。
仮に悪法とした場合従うべきか否か?など・・「法と道徳・道理の関係」を研究する学問が発達して来ます。
非理法権天を記載している伊勢貞丈家訓はhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/ise.002.htmlによれば,宝暦13(1763)成立と出ていて,吉宗の死亡が1751年ですから,綱吉〜正徳の治,享保の改革など過去3代で日常生活に入り込む形で急激に増えて来た法令が研究対象・・重要関心事項にはいっていたと思われます。
ただ彼は,ウイキペデイアによれば
「伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通し、江戸幕府3代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された。」
「28歳で御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった。」
彼は有職故実・今で言えば法制史のプロですが,当時は忠臣蔵で有名な吉良家のように有職故実=現役指導係でもあった筈です。
ただ,彼の役職は,「儀式の周旋、将軍出行の随行」などで,具体的法令執行や研究に当たる公事方・吟味与力に採用されていません。
古いことを知っていても(法制史の学者が裁判出来ないし立法に関与出来ないのは今でも同じです)時代に合わないので役立たずだったのです。
室町幕府以来の家系で有職故実に通じていることによって成り立っている家柄?ですから、次々と打ち出される新法令・生活様式の変革は家業の存続に関係し・冷や飯を食っている環境から批判的立場だった可能性があります。
いずれにしても次々と法令が出て来る時代になって,「権力さえ強ければ,何をしても良い社会でない」と言う思いがあるからこそ、こう言う議論・・大公儀に対する明からさまな批判が出来ないので,「権力が法に勝つ」(勝って良いのか?)と言う反語的研究が起きて来たと見るべきです。
「非理法権天の法理」は最終的には「権力も天に勝てない」と言う意見ですが,天と道理の区別がはっきりしない(私の理解不足?)ところから見ると、将軍家の発する法令を旗本である貞丈が正面から違法とは言えないものの、結局「道理に反した法は無効だ」と言いたかったのではないでしょうか?
幕末に開国の必要性に直面したときに約200年前に決めた「(鎖国の)祖法を守れ」と時代錯誤な反対した攘夷運動と同じです。
今で言うと護憲論・憲法違反論で・・具体的な国際環境を前提に政策の可否を論じるよりは,もっと超越した有り難い物・・近代法の精神に反するとか言って,・・・野党が反対するのと似ています。
共謀法やスパイ防止法で言えば,先進国でこれらのないクニがないのですから、現在ある諸国で,どう言う弊害が起きているかの具体的議論が必要なのにその紹介がないまま単純に近代法(1800年代のことか?)の精神や原理違反とか言うだけでした。
日銀の異次元緩和が実行されると(「異次元」とは先例から一歩踏み出すことですから)日銀がそこまでやっていいのか!の議論がほうはいと起きるのと同じです。
過去の踏襲だけならば政治家はいりません。
天皇退位(譲位ではありません)問題も過去の知識を中心とする歴史家や学者の意見は参考にとどめるべきであって、現在から近い将来に合わせてどうするかは政治家の仕事です。
将来まで縛るのは行き過ぎとすれば,特例法にとどめる謙抑性も1つの選択肢です。

クリスマス(信教からの自由とシビリアン)1

イブには,例年日頃書いているコラムと全く関係のないことを書く習慣でしたが,今年はキリスト教による西洋の民に対する内面支配とこれに対する自我の目覚め→抵抗・シビリアンの発生→フランス革命を書いている内にクリスマスが来てしまいましたので,今年はクリスマス特番でありながら延長的コラムになります。
近代的な法の支配が成立していない社会では,法の代わりに何か基準になる生活のルールが必要です。
集団がある限り動物界でも植物界でも暗黙のルールがあって,人間社会の場合最初に生まれるルールブックが民族ごとの(地場)宗教・習俗となります。
明文がなくとも民度レベルに応じた生活をすれば「動物界の掟」同様に社会レベルに応じた暗黙のルール・習俗が成立していてトラブルが起きても解決出来る訳ですが,組織・社会規模が大きくなったり,生活様式の違う部族が統合されて・・支配者が出来ると,生活に根ざしたボトムアップによる自然発生的ルール造りでは煩雑過ぎるので,(習俗の違う部族を含めた)広範な支配地域の統一性を持たせるための新たなルールが意識的に欲しくなります。
このルールの一体化のために日本のように八百万(やおよろず)方式で柔軟対応するか、(合議制ですので決定に時間がかかる・・漸次的変化社会になる)1神教で画一強制(革命的急激変化)するかで社会意識のあり方が大きく変わります。
数段階も進んだ文化を一気に取り入れる場合、(ドイツ啓蒙的君主制〜ロシアや中国の共産党独裁〜新興国に多い独裁政治)効率が良いでしょうが,その分内部はぎくしゃくする上に自民族の文化による政治ではない→共通土俵がない・話し合い解決不可能→強権支配になります。
外来文化至上主義者が権力を握ると強権・恐怖政治になり,野党になれば現実の社会を対象にしないので(非武装平和論や「少なくとも県外へ」など・・)現実に即した・マトモな議論になりません。
社会形態で見れば,商業系では画一ルール化の必要性が高いし,農業社会では画一性の必要性がそんなに高くないだけではなく、地域別気候に左右されるので画一化は無理だと言うテーマで西洋の単一気候や中国は商業系社会であったという推理で連載したことがあります。
(気候が少しずつズレている日本では、朝廷の配る暦通り農作業出来ないので神棚に棚上げされていたことも別の機会に書きました)
西洋中世社会の発達によって小単位の部族別習俗的地場宗教では間に合わなくなったので、海洋・商業系ルールである点で生活習慣が全く違うにも拘らず、規模が大きく普遍性を持っていたキリスト教を導入したものと思われます。
アルプス・ピレネー山脈を境界とする別世界・=習俗が違う(ただしフランスが一部地中海に面しているように大きな切れ目があります・・ガリア地域はローマ化が早くから進んでいたし、新旧の争いでもカトリック系が強固だった所以です。)点を我慢して?も導入するメリット(文化格差)の方が大きかったのでしょう。
ゲルマニア・ガリアの地は本来は農業牧畜社会ですが,日本と違って大平原→単純地形・単純気候風土であることが,海洋・商業系民族の1神教を受入れても何とかなっていた基礎でしょう。
西洋にも山があり海(漁業・日本のオランダ国名の語源?の海岸沿い民族の固有性など)がありますが、全体的に見て無視できる程度差であったことによります。
西欧ではスイスのウイリアムズ・テルの抵抗が有名ですし今でもEU非加盟ですが、アジアでも中東でもロシアでも山岳民族が中央政権に簡単に従わないのは,勇敢であるだけはなく生活習慣が大幅に違っている面を無視出来ません。
日本の場合東西南北に長く気候差があるコト,地形が複雑なのでちょっとの距離で一山越えればも習俗が違う上に山が海に迫っているので,海洋系と山岳系が同居(海彦・山彦の神話で象徴表現されています)しているので,大和朝廷も各地神々の統合と言うよりは和合を経て(各地神々を残しながら包摂して行く・・ヤオヨロズ方式)伊勢神宮になって行ったものと思われます。
それでも社会規模が大きくなって来た聖徳太子の頃には17条憲法が必要になっていたことが分りますが、多神教社会ですから「和をもって尊しとなす」などの精神規定を決める程度でした。
日本中世にはまだ権力基盤が弱くて具体的規制をするほどの法を制定するまでには至っていなかったと言う方向で法制史の本に書いてあったので、私もそのように理解して10年ほど前に「非理法権天の法理」を紹介しましたが,いま考えると権力の強弱によるよりは「日本は多神教社会であって,細かいことまで各地の神々に強制するのは無理があったし必要もなかった」からであると言う(私独自の)解釈も可能です。
「権力さえ強ければ何でも強制出来る」と言う専制支配の中国や欧米式思考法によれば、本に書いてあるとおりの結果になるでしょうが,(学問的ではなく私の独自思いつきですが)むしろ多様な思考を融和して決める・・ボトムアップ社会の特質から考え直す方が合理的かも知れません。
例えば(日本初めての成文法かな?)鎌倉幕府によって御成敗式目が制定されたと言っても(承久の変の後で)武家権力が強くなったからと言う解釈は,強制力の視点が強過ぎます。
https://kotobank.jp/wordによれば、御成敗式目の条文の害要は以下のとおりです。

〔1〕寺社関係―1、2条。
〔2〕幕府の組織、(イ)守護―3、4条、(ロ)地頭(じとう)―5、38条、(ハ)その他―37、39、40条。
〔3〕土地法、(イ)土地所有―7、8、36、43、47条、(ロ)所領支配―42、46条、(ハ)所領売買―48条。
〔4〕刑事法―9~17、32~34条。
〔5〕親族相続法―18~27条。
〔6〕訴訟手続―6、28~31、35、41、44、45、49~51条。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/の口語訳によれば

第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
第2条:「寺や塔を修理して、僧侶(そうりょ)としてのつとめを行うこと」

などで、まだ基本精神の宣言でしかなかったのは、「権力基盤が弱かったから・・」と言うのが(欧米式思考による)以前紹介した日本法制史の一般的解釈ですが,日本社会は古代から権力が強ければどんなことでも強制出来る思考方式ではなかったうえに、当時の紛争は農地の帰属や水利権争いが中心であり,(一所懸命の熟語がこの頃出来ました)この解決に各地の長年の慣習・習俗を無視出来なかったコトが大きな原因でしょう。
この後で紹介するように御成敗式目は,幕府の設けた門注所(今で言う裁判機関)への訴えが増えて来たの基準造りの必要に迫られたことによりますが,(有名な十六夜日記は訴訟のために都から鎌倉に出掛けた女性の日記です)当時の民事訴訟テーマは,主として領地に関する争い(十六夜日記も当時長子単独相続制ではなかったことから起きた領地の相続あらそい)だったからです。
農地・農業・水利権・相続のあり方などは地域ごとの習俗習慣・数十年前に灌漑工事をしたときの取り決めなどを無視出来ませんので、地元の習慣ごとに決めて行った方が良いし、第2条の社寺の修理でも今のように建築基準まで細かく決めなくとも各地の財力と気候や地形に合わせて・・あるいは宗派ごとの自由な思考でやってくれと言う・・僧侶の勤め(労働法?)方もまじめに励みさえすれば良い、修行の仕方はお寺ごとに決める)現実を表しているように見えます。
まさに多神教世界の融通無碍な決め方であって、権力が弱かったからではないと解釈すべきです。
上記〔2〕以下条文を見ると具体的で思い切った条文になっているのに驚きますが,引用が長くなり過ぎるので残念ながら割愛しますが,関心のある方はご自分で引用先へアクセスして下さい・・面白いですよ!

軍・警察とシビリアンの緊張関係1

これまでシチズンとシビリアンの違い・・シビリアン意識は対キリスト教の思想圧迫と軍事支配に対する抵抗のために生まれて来た経過を書いて来ましたが,我が国ではシビリアンコントロールとは軍に対する言い方が普通です。
最早異端審判や魔女狩りの復活リスクは考えられなくなったので、市民にとって残った脅威は軍事支配=権力による人権侵害のリスクだけになって(数世紀経て)から、米軍支配のときに日本に入って来たからです。
憲法
第五章 内閣
第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
上記の「文民」とはいわゆるシビリアンのことでシビリアンコントロールの原理の現れである説明されています。
ところで、日本では組織は家の子郎党・血族・同胞から始まった歴史があり,武士は自分達の集落や組織を守るために自然発生的に生まれたものであって,集落内の庶民を弾圧すべき暴力組織として対立した歴史がありません。
当然明治憲法も武士が政治に参画してはいけないという発想がありませんでした。
これを遅れた社会と見るか,周回進んでいると見るかの違いです。
家長・集団の長は家族や集団を守る責任はあっても,集団内の弱者を抑圧するためにあるのではありませんし、組織構成員も軍は自分を守ってくれるものと理解して来ました。
一族を守るための武士団ですから,戦いに敗れれば,城主が一族代表として腹を切り,城兵・一族の助命嘆願と引き換えにする習慣が生まれたのです。
野生の猿その他集団リーダーも,集団内の弱い者苛めをするためにあるのではなく逆に集団内の苛めの他の不協和音をなくし外からの脅威に役立つ能力が問われているのが普通です。
西洋で軍事力が市民と対抗関係になっていたのは,異民族支配で軍・支配権力と被支配者の乖離が進んでいる場合に生じる現象です。
ソモソモ支配道具として異民族発祥のキリスト教を利用していた点に問題があったのではないでしょうか?
学生時代に民法の講義だったかで,ローマは3度世界を支配したと聴いたことがあります。
曰く、1回目はローマ帝国による(地中海)世界支配?であり、これが滅んだ後の2回目はキリスト教支配であり,3回目はローマ法(ナポレン法典)・・現在の「法の支配」であると言うのです。
「西洋は異教のキリスト教に支配されていた被害地域である」とこのシリーズで私独自の意見を書いていまるのは、西洋はキリスト教のクニと思っている方にとっては違和感があるかも知れませんが,それほどどっぷり支配され尽くしていたと言うだけのことです。
ユダヤ教徒とキリスト教の関係はよく分りませんが,(全て私の思いつきですからそのつもりで・・)ユダ個人の裏切りが強調されますが不自然です・・キリスト教の母体・であることは動かない事実でしょう。
民族宗教から脱皮させて(ローマの版図に入った地中海世界への広がりに合わせて)普遍性を持たせたのがキリスト教(新約聖書)であるとしてみれば,元々地中海世界とは全く気候風土の違うゲルマニアの地に生きて来た諸民族が地中海地域の価値観強制でさえ鬱陶しいのに,もっと気候環境の違うメソポタミヤ地域限定版の旧約には)付き合い切れないと言う意味で忌避観を持たれているのかも知れません。
では軍が何故民族を守るための軍ではなく,市民抑圧機関になってしまったのでしょうか?
結果から見るとローマが当初市民が自ら兵役につく権利だったのが,いつの間にか義務化して行き最後は傭兵に頼るようになったことと,西欧諸国の近衛兵などの多くは北欧系人種・・兵の多くを傭兵が占めていた事実にヒントがありそうです。
フランス革命は当初第1〜2部会との部会別決議ではなく全体数での議決を求めたので、議決方法で対立して収拾がつかなくなり,いわゆる「テニスコートの誓い」(王権に従わない・実質反乱的行動開始)になりますが、三部会制の否定が当初の争点であり,王制否定ではなかったのです。
国王が,仲裁的に聖職者や貴族部会の第1〜2部会を第三部会に合流させる・議決権同等化を求めたのが革命運動の最初でした。
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.htmlからの引用です。
「1789年6月17日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。 」
「 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。」
「1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。」
「緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止・・た」
こう言う経過で制憲議会設立当初は(イギリスを参考にした?)立憲君主制への改革目的だったのが、途中で国王夫妻がギロチンの露と消えるほど激しく変わってしまった契機は外国兵を引き入れる国王の計画がバレたことによります。
ベルバラで有名な恋人も北欧系青年将校との恋物語でしたし,バッキンガム宮殿の近衛兵の儀式も元はと言えば(体格が良く金髪で)格好いい北欧系近衛兵だったことによる名残です。
話が変わりますが、20年ほど前に台湾に行ったときに中山陵だったかで近衛兵の交代式を見たことがありますが,アジア人を卑下するようで心苦しいですが,バッキンガム宮殿の衛兵交代式ほど格好良くはありませんでした。
上記引用の続きです。
「革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。」
この時点で漸く(今で言う外国人雇い兵)傭兵軍に頼るのをやめて国民・・自分たちを守るための軍が形成されたのですから,日本古代の防人とは千年以上の差があります。

シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)

フランス革命では政体がどう変わろうとも(途中王制復活もありましたが共通の敵?)キリスト教の千年以上にわたる思想・内心統制の復活だけは怖かったのです。
何か外形行為をして処罰されるのはまだ防ぎようがありますが,黙って考えている内心を審査されて処罰されるのって,恐るべき支配です。
内心をどうやって第三者が判定出来るのかの技術問題から,証拠裁判主義の原理が生まれて来たし,証拠と言っても自白だけではなく補強証拠がいると言う原理も生まれて来ました。
自白等に関する証拠法則についてはDecember 9, 2014, 「証拠法則と科学技術5(自白重視5)」前後で紹介していますので参照して下さい。
しかしそれは言わば瑣末な技術論であって,そもそも内心自体を支配しそれを理由に処罰出来る原理・・一神教原理の恐ろしさの自覚・・フランス革命当時の市民はこれからの解放を切実に望んでいたことの理解こそが重要です。
内心支配=違反者処罰の思想が多神教社会では起きようがありませんから,破門されると逃げ場のない社会・一神教支配と表裏の関係にあったことが分ります。
フランス革命の経験では,政体がどのように変わろうとも,市民の心の中まで・日常生活のあり方まで根こそぎ規制する教会・聖職者・・これの強制装置である軍の復権に対する恐れがあったので,これのお目付役としての「シビリアンコントロール」をコトの外重視して来たことが分かります。
制度上信教を自由化しても簡単に社会に根付くものではありません・・いつ反動・復活し、権力と結びつくか戦々恐々だったし、革命の混乱中に王党派などの乱立がありましたが,キリスト教支配復活を主張する党派は成立していません・・それほど警戒されていたのです。
欧米でシビリアンコントールを重視する歴史経緯・元はと言えばキリスト教による内面支配に対する市民の警戒感から始まっていることをこのシリーズで書いて来ましたが,これの反革命・・信教の自由違反を潜脱し一神教支配を復活したのがソ連共産党一党独裁制です。
共産党は宗教ではないから,単なる一党独裁に過ぎない・一党独裁に反するから?宗教自体を認めない・・信教の自由を侵害するものではなくこれが近代社会の究極の形・・市民社会よりも進んでいる?と言う変な論理です。
政権の気に入らない人物の行為を咎めて共産主義主張に反する反党行為であると烙印を押しては粛清・・シベリア送りや処刑する・・芸術表現から何から何まで思想統制していたのですから、結果から見れば近世の魔女裁判との違いが不明で実態は排他的新興宗教そのものでした。
結果から見れば,魔女裁判との区別不明・・いわゆる人民裁判と言うやり方で吊るし上げては、徹底的に排撃していた中国の文化大革命を想起しても良いでしょう。
ちなみに専制君主と絶対君主の違いは一般の説明では分り難いですが,私の大雑把な(粗い)独自解釈では過去から積み上げられた宗教解釈のルールに一応従っているのが西洋の絶対君主(王権神授説はでキリスト教の範囲内で支配する意味)であり,宗教ルールも何も基準がない・・君主の恣意的基準で処刑出来るのが専制君主であると言う使い分けが可能です。
ロシア革命の結果出来た共産主義政権は,専制君主制と一神教による絶対君主制との(支配者にとっては)いいとこ取りみたいな専制支配政体です。
こう言う制度が成立したのは,ロシアが古代社会状況に留まっていたところに近代生産技術を上から導入したことと密接な関係・・先進国の技術導入・模倣するのがやっとでその次の自由な発想を必要としていない・・まだ思想表現の自由を求める市民階層が育っていなかった・シビリアンと言う抵抗勢力がなかったことによります。
人民にとっては,(共産主義思想と言う基本基準・スローガンに毛が生えたような程度?はあるもののキリスト教神学ほどの学問蓄積がないので共産主義の外延が不明です)いつ反党分子の烙印を押されるか不明・・自衛するスベがない点では恐怖政治・・いわゆる収容所列島になります。
専制君主制のときは恣意的基準で君主の癇に障ると一瞬にして文字どおりクビが飛びましたが,その代わり強い者にへつらいさえすれば良かった・内面までチェックされることはありませんでしたが,共産「主義」社会になると「主義」に反する思想かどうか・・内面まで規制される窮屈社会になります。
共産主義は経済原理である以上,日々新たに起きる(国内だけでなく国外の変化があります)経済変化対応が必須ですから、共産主義の内容はキリスト神学のように特定時期の理想に固定出来ません。
社会や産業構造の変化に対応して現場で工夫するといつ共産主義の範疇を越えている反党行為として粛正されるか不明になります。
例えばレーニンのネップ政策のように一歩後退路線も政策的には(物事には妥協が必要です)有効でしたが,これを中下位幹部がうっかりやると粛清の標的にされる恐れがありました。
こう言う政体下では,西洋中世以上の暗黒社会ですから,活発な創意工夫が生まれるわけがない・・せいぜいアメリカの技術を盗んでは真似する・・これは国策ですからお墨付きがあって安心です・・のが限度ですから,(ロケットなどは大資本を掛けて盗めますが多種多様な民生技術窃取は無理なので)民生レベルが低下する一方になった原因です。
中国やロシアでロケットを飛ばせても、おいしいご飯を炊ける電気釜やウオッシュレット、クルマのエンジン1つ国産技術で作れないと言われている原因です。
両国共に国民がスポーツを楽しむ余裕が無くてオリンピック種目だけ集中練習させても、国民の体育レベルが上がるものではありません。
ソ連崩壊後にロシアが政治経済の自由化をしたらめちゃくちゃになった・・揺り戻して身の丈にあった,プーチンによる事実上の独裁制に戻って一息ついているところであるのに対し,中国の場合、改革開放政策がロシアよりうまく行っているのは,辛亥革命まで専制支配しか知らない民族とは言え,社会の発展段階がロシアとは格段に違っていたことにあります。
ただし、中国がロシアより社会構造が進んでいるにしても,日本のように千年単位の時間をかけて健全な市民階層(日本の場合武士層)を育てていなかった点は同じですし,これが一党独裁制(形を変えた専制支配)が未だに機能出来ている根拠です。
中国の社会構造は1君万民体制とは言え,極く少数とはいえ士大夫層が数千年単位で存在していたし,政体・・政治権力と関係なく商業活動は活発でした。
これは以前から書いているように中国地域はメソポタミヤ文明の先進商品販路の最東端として,(ずっと後世の名称ですが)過酷な中央アジアの通商路・シルクロードを経由して来て山を越えて初めて出たところ・・山々を越えて黄河上流域から入って来て一旦落ち着いた場所が黄河文明と言う位置づけです。
伝説上の古代王朝殷を中国では「商」言いますが,まさに「商」のクニが始まりです。
そこから河川沿い拠点を広げて行った歴史・・都市国家・・拠点網の形成から始まったこととも関係しています。
黄河文明?はメソポミヤ文明の東端商業拠点として始まったもので,独自文明ではないと言う意見を10年ほど前から書いて来ましたので,参照して下さい。
攻略軍が入城すると城内の有力者が祝いの酒をもって出迎える・・誰が勝っても(異民族でも)商売さえ出来れば良いのですから,これが古代から繰り返された風景で・・日本軍の南京入城も同じですから,出迎えた南京市民を大虐殺するわけがないのです。
どの政体・異民族も,城内進軍しても折角手に入れた都市の商売を潰すわけに行かないので,(上澄みとして商業社会と関係なく祭り上げられて来ただけ・・特に異民族支配のときはこれが顕著)先行している商業社会そのものを破壊する能力がなく,商売人自体は支配者の変更に関係なく連綿と続いていたことをここでは書いています。
03/27/10「農業社会=世襲→封建制と商業社会=中央集権→専制君主制1」以降に書いたシリーズでは,商業と規制は表裏の関係で馴染み易いことを書いたことがあります・・専制支配と馴染みが良いのです。
物造りになると自由な発想が必要ですが,商人は売れ筋情報を逸早くつかんで・・情報収集に励み急いで真似する・・商機を早くつかんだ方が勝ちでその程度の自由があればその他は規制がきっちりている方が便利です。
これが中国の模倣・・ブランド窃取等に繋がりサイバー攻撃が得意なのは中国商人の歴史によります。
中国はロシアより社会構造が進んでいる面で共産主義の思想統制・内面支配が緩いだけのことで単なる専制支配+商業社会の焼き直し・現在的表現です。
この限界・市民社会未成熟=言論重視=約束を守る社会に至らない点で、限界に突き当たっているのが現状です。
先端技術を盗む・模倣し身につけるだけでは追いつくには容易でしょうが、自発的にその先に進むには限界がある・・世界を指導する模範社会になるのは無理があります。

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