人民〜国民1(私擬憲法)

「市民」を名乗るのは、トキの政府から距離を置く立ち位置を強調するには西洋文明由来なのでおしゃれな印象・・人民より語感印象が良い程度のことではないでしょうか?市民の対語かな?人民についてウイキペデイアで見ておき見ます。
何も知らないで余計なこと言うなと市民活動家に叱られそうですが、ま、いつも書いているようにこのコラムは、思いつきコラムで専門家の論文ではないので、間違いがあればご容赦ください。
ウイキペデイアで見た限りの付け焼き刃知識ですが、人民という熟語は中国古代からあり、共産主義者のオリジナル発明ではないようです。
人民に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

文献上は戦国時代の『周礼』や『孟子』に既にみられる。『周礼』には、君主や群臣などの支配者と相対する被支配民としての「人民」の概念が述べられている。『孟子』の「盡心下」篇によると、孟子曰く、「諸侯の宝は3つある。土地・人民・政事である。珠玉(真珠や宝石)を宝とする者は、殃(わざわ)い必ず身に及ぶ。」(孟子曰、「諸侯之宝三。土地・人民・政事。宝珠玉者、殃必及身。」)
日本語の文献においては、古く8世紀の『古事記』、『日本書紀』の中に現れる。当時は、「おおみたから(大御宝)=天皇の宝」・「みたから」、「ひとくさ(人草)」という和訓が当てられていた。
「おおみたから」の訓をあてる語は、他に「黎元」や「庶民」もあり、「ひとくさ」は語義のまま青人草(あおひとくさ)と書く例がある。同じ意味で使われる言葉には、「衆人」「世人」「百姓」「諸人」「万民」などがある。「人民」は『古事記』に少なく、『日本書紀』と六国史において一般的な語であった[1]。
「人民」は特別な用語ではなく、君主の統治対象という以外の限定を付けない幅広い概念であった。たとえば「庶人」・「庶民」は無位か低い位階の人々を指し[2]、「平民」は奴婢・浮浪人・蝦夷を含めない身分的な概念だが[3]、「人民」にそのような線引きはない。また「人民」は、統治の良否や自然災害・事件の影響で富んだり悩まされたりする文脈で記され、「人民反乱」のような使用例は古代にない[4]。権利や行動の主体にはならず、もっぱら受け身の文脈で用いられた。

我が国でもこの流れで青人草や庶民等の和語になりこれが中世には土民となり、江戸時代には百姓となり、基本的に支配対象としての呼び名であって、時に土一揆、百姓一揆などの呼び名にもなっていきます。
政治の対象を表現する概念だった「人民」を政治主体者概念に一変させたのが、リンカーンのゲテスバーグ演説だったようです。
いわゆる「人民の人民による人民のための政治」(「government of the people, by the people, for the people」) です。
この演説が、人民をそれまで政治の対象でしかなかった人民を政治主体者と宣言したことになります。
これを受けた明治の自由民権運動期には、運動家の間では「人民」が流行し、憲法草案華やかなりし頃には、多くの私擬憲法では「人民」という用語を主張したようです。
例として植木枝盛の憲法草案の一部を見ておきます。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51592

自由民権運動の潮流から私草された憲法案には、基本的人権を認め、国民主権を明確に定めるものも少なくなかった。なかでも最も急進的だとされるのが、植木枝盛(えもり)の『東洋大日本国国憲法按』(1881年起草)である。
植木の憲法草案の先進性は、全220条中36か条におよぶ人権規定と、第72条に示された政府への抵抗権に表わされている。
第5条「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」、第42条「日本人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」、第49条「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」と人民の自由・平等を保障。
第72条には「政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ 擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ 建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ 日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」と定めて、国民による革命の権利まで認めている

上記の通り民間の草案は今でも普通にありそうな(政府に気兼ねせずに考えればこうなるのが普通ということでしょうか?)人権重視草案でしたが、人民→政府転覆の権利まで突き進む点で政府の警戒を受けたらしく、すでに明治14年旧刑法で採用されていた「国民」用語も使わずに政府案は「臣民」という後戻り的発想の定義になってしまったようです。
明治憲法で「臣民」という用語が採用された後、人民用語は臣民という用語を不当とする反抗的ニュアンスで使用されたり反政府運動家愛用の特殊用語化し、なんとなく一般人が使いにくくなり、社会の片隅に追いやられていったようです。
現在用語法もこの延長上にあり、人民という響きになんとなく現行秩序否定したいイメージを感じるのはこうした歴史に由来するのかもしれません。
また私が育った戦後から昭和終わりころまで「我々人民は〜」と叫んでいた人たち自身も、現秩序に対する否定的感情をそのまま表す人が普通でした。
これが余計社会から孤立化を進めたので現在日本では「人民」を使う人が減ってしまった原因でしょう。

市民と人民〜地球市民?3(姉妹都市?)

地球市民というフレーズの広がりと軌を一にしているのか不明ですが、メデイアの主導に従うのか?近年多くの市で国家の枠を超えて国外の市との姉妹・友好協定を結んで市民交流事業を推進しています。
外交は国家の専権事項ですが、事実上政府外交権を空洞化したい思惑があるのでしょうか?
千葉市の姉妹都市に関する説明の例です。
https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/kokusai/sistercity-index.html

姉妹都市のおこりは、第2次世界大戦後、再び戦争を起こさないために国際関係はもとより、市民の相互理解と友情を深めることを目的として始まりました。
日本で最初の姉妹都市提携は、1955年に長崎市とアメリカ合衆国ミネソタ州セントポール市との間で行われました。現在では、多くの自治体が世界各国の都市と姉妹都市提携をして、市民間の交流を中心に経済、文化、スポーツなど、多くの分野で交流が行われています。

交流さえすれば戦争が起きにくいのであれば、国家間文化交流等を広げても同じ筈ですが、国を飛ばして市が行うとどういう効能があるのでしょうか?
企業や個々人が外国人とどういう関係を日々持つか・・海外に行くと一人一人が日の丸を背負っている感じで日本全体が悪印象を持たれないように気をつけるものですが、それとわざわざ市長や市議会議長などが相互訪問してパーテイなどやることとどういう違いがあるか?です。
国家間の場合、輸入規制の緩和要請や投資保護や在留日本人保護(現地旅行者等への情報提供などの日常業務)その他日々外交ルートを通じて懸案解決に努力していますし、あらゆる国との関係で複雑に絡み合った貿易上の条件交渉や事務方レベルの協議や合意が行われ、これに基づく処理が日々発生しています。
・・事務方任せでは解決困難な政治決着の必要な案件では首脳会談で解決する必要があるのですが、市町村が直接国外の自治体と取引条件の基礎になる相手国の法令変更等について交渉したりする場面は皆無に近い・・まして市長や県知事の権限が違うのでやれる次元が違います。
国内隣接自治体間でも自治体トップ会談で懸案解決に迫られるテーマはあまりないでしょうし、国外の自治体間でトップ会談で何かを決めなければならないような懸案事項はほぼ皆無でしょう。
舛添前都知事が交流と称して諸外国都市訪問してメチャ高いホテルに泊まっていたのだったか?ファーストクラスの飛行機代がめちゃ高かったなどがメデイアで問題化して辞任に追い込まれた記憶(うろ覚えで記憶違いがあるかも?)ですが、こういう相互訪問的自治体間交流に何の意味があるのか実は不明です。
ネット検索すると以下の通りでした。
https://www.sankei.com/politics/news/160620/plt1606200033-n1.html
2016.6.20 18:12

【舛添氏公私混同疑惑】
海外出張9回7カ国訪問 舛添氏、経費2億5千万円
舛添氏は9回の出張で英国や米国、韓国など7カ国を訪問。ファーストクラス、スイートルーム使用で批判を集めた舛添氏の航空運賃は9回で計約1230万円、宿泊費は計約340万円だった。
米国出張は4月12~18日で、随行職員は15人。往復にはファーストクラスを利用。ワシントンでは1泊15万円超、ニューヨークでは約14万円のホテルに泊まった。

直接費用だけでなく、これら準備コスト(随行職員の出張手当や日程調整等の人件費)も膨大でしょう。
千葉市の場合7都市との交流らしいです。
千葉市のことではないですが、韓国や中国と何かある都度、「今は実行できる雰囲気でないので・・」というような理由で交流予定事業中止・ドタキャン報道が目立ちましたが・・。
こういう報道の受け止め方はいろいろですが、反日運動では効き目が低いので?お前の国が悪いからこうなる!という見せしめ的なドタキャンが中国の反日暴動時には目立ちました。
韓国の場合も交流事業中止が続きましたが、ボイコット対象追加措置を受けた印象を受ける・こんなことまで中止(テイの良いボイコット)を求めてくるのか!と腹の立つ人もいるでしょう。
慰安婦像設置したアメリカ・グレンデール市に対しての友好・姉妹関係にある大阪市が抗議しても返事もないなどから友好・姉妹土地関係を解消したとニュースで見た記憶ですが、日頃の交流ってなんのためだったの?となりませんか?
日韓関係で言えば、在日の数が多いのに比例して個人的に交流が多いことが、日韓関係をよくしているのか?
の実証研究が必要です。
韓国は日常日本への観光客が多かったことが、あるいは日本製品愛好者が多いので友好関係を深めていたように見えてイザ国家間対立が起きると逆に日本製品ボイコット運動等の報復材料に使う・輪番制の総合訪問の首脳会談や各種団体の交流その他すべてドタキャンするなど・・日本は在日いじめをする・・相互に見せしめ的報復合戦になると、人間関係が入り組んでいる分、関係悪化・感情的対立を深める要因になりそうな印象です。
第二次世界大戦の場合で見ると、米国で日系人というだけで米国籍があるのに収容所へ入れられてしまいました。自由を奪われただけでなくせっかく軌道に乗っていた事業活動が全て倒産です。
米国の人口構成で言えば、南北戦争以来ドイツ系が主流と言えるほどの人口を擁し、支配勢力を構築していましたが第一次第二次両大戦で米国はドイツを敵にして戦いました。
過去現在の実態を見ると、いざという時に何の役に立たないばかりか、逆に報復連鎖を誘導して足りる激化材料を付け加えるためにあるようなものです。
個々人の生き方で言えば気候の挨拶以上深入りしないのが生きる知恵・・これが社会のコンセンサスです。
遠隔地の南米やアフリカ等と貿易上の不都合が起きても、その問題に限定した合理的交渉だけであってその国に対する感情論までわきおこりません。
ヘイトスピーチ禁止などが必要になること自体異民族混在が進むマイナス問題を表しています。
こういう関係がない方が良いのではないでしょうか?

市民と人民〜地球市民?2(白樺派)

日本のNGOは出自・スポンサーの多くが日本であるという事実によって、国際的発言力があり国際的行動力(日本のパスポートは世界最強と言われています)が担保されている点を軽視すべきではないでしょう。
一方で世界市民・・一方で日本の経済力や日本人というだけでイメージされる信用力を背景に事実上日本の良心代表のような発言や発表しているのは、良いとこどりではないでしょうか?
武者小路など白樺派の同人らで「新しき村」を作って移り住みましたが?彼らお坊ちゃんたちの理想主義は、それをやれる財力を背景にしていた点でほとんどの日本人はその偽善性を内心感じていたのではないでしょうか。
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91-25865

〈新しき村〉の精神は,自他を犠牲にすることなく自己を生かすことにあり,村民は,みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで,自由を楽しみ,個性を生かせる生活を全うすることをめざした。ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱,大正デモクラシーの運動など多様な社会的要因に,実篤のトルストイズムが結合した白樺派人格主義の実践は,とくに青年層に大きな反響を呼び起こした。

白樺派に関するウイキペデイアの解説です。

大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した
同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている[3]。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。
彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であり、トルストイの影響を強く受けたことや有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路の「新しい村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよくあらわれている[4]。

私自身青春期に思想背景など知らずに武者小路を中心に白樺派の文学を愛読しましたが、一方で財閥系の子弟中心でおぼっちゃん文学の批判もあったかも知れませんが、お坊ちゃんの良さが横溢してい文学作品が私の青春期の心を捉えたのかもしれません。
いわゆる空想的社会主義に対する偽善性を抱くのと同様の無意識の疑問もあったでしょうが、若い頃はともかく白樺派の青春もの?に惹かれて愛読していました。
その後大人になってこの種の文芸を卒業していたので遠い歴史事実と化していたのに、弁護士になってから武者小路実篤の死亡記事が出て、驚いたことがありました。
10年ほど前になるかな?大阪へ行ったついでに奈良ホテルに2泊した時に、夫婦で新薬師寺に詣でた帰路偶然志賀直哉旧宅を見学したことがあります。
子供部屋に気を配った今風の斬新な考えに感じ入ったものですが、大正デモクラシーの陽光を目一杯吸収した時代の申し子らの集まりだったのでしょう。
ただし、文学的にはそうですが、絵画方面では椿貞夫など白樺派文学主流と出自が違うイメージで、それほど一般化しなかったのではないでしょうか?
民族主義対グローバリズムの潮流に話題を戻します。
英国EU離脱の動きは、まさにグローバル化行き過ぎに対する英国民の我慢の限界を示したものですが、これに対して時代錯誤の動きであるかのような批判を滲ませるメデイアなどのトーンは、彼らにとって親和性のある世界連邦化=非武装社会実現の夢に逆行する点で許しがたいのでしょうか?
中国や旧ソ連のように巨大権力を握った方は国内粛清やりたい放題になりますが、世界支配していない限り、香港の場合、国外の目があるのでまだ政府も弾圧するには思い切ったことができないようですが、これが世界支配になると世界中がウイグル族のような弾圧を受けても逃げ場がなくなります。
左翼系文化人はソ連の厳しい粛清にだんまりを通し、中国の文化大革命という狂気の粛清に対しては手放しで賛美してきました。
メデイア界は基本的に民族主義を毛嫌いする傾向があり、その延長で英国のEU離脱を馬鹿げた行動であり時代錯誤であるかのような批判的論調が普通です。
ところが、ロシアや中国の民族主義的主張や行動が前面に出た周辺領土領海拡張主義や威嚇行動には何も言いません・・一刻も早い世界国家が出現のためにはやむを得ない一里塚という評価なのでしょうか?
でもこういう国々が世界支配するときの状態って、本当に怖い気がしませんか?
日本は古代から合議制の国であり幕藩体制も大名の連合体のヘゲモニーを徳川氏が握っている程度でしたから(徳川政権内も合議制)独裁による恐怖政治の経験がありません。
いわゆる大陸の中央集権体制自体に馴染みがないのです。
イギリスのEU離脱の方向性は、海洋国日本にとって将来の可能性を残す試みであって、好意的に見たい・・育って欲しい気持ちの日本人が多いのではないでしょうか?
日本の進歩的文化人はソ連支配が最上という刷り込みで育ったDNA・・三つ子の魂百までと言いますが、ソ連創設の共産主義国家の世界拡大の道具思想・・同時革命論〜コミンテルンの運動を進めていた本家ソ連が崩壊し、その後継政権のロシアは民族主義の権化みたいな行動をしています。
本家本元のロシア・プーチンの行動原理は、民族主義一辺倒に戻っている・・コミンテルン指令?はもともと自国勢力伸長のための道具思想だった本質を表していますが、ソ連勢力拡大のお先棒担ぎこそ見果てぬ夢・・深層意識への埋め込みがまだ効いているのではないでしょうか?

市民と人民〜地球市民?1(NGO)

中国も中東由来の商業都市国家から始まったことをこのコラムで書いてきましたが、その後の農業社会化の進展で城壁外の土民も支配・市場取引の相手方として始まり、支配下に入ると搾取対象になってきたので、共通項的には政治の対象として視野入っただけのことで、もともと日本のように同胞から始まっていないので国民と違った「人民」という言語にこだわっています。
ただし、ここでの人民論は旧共産圏のみで使われるようになっている現状・実態を前提にした語感を書いているものであって、歴史的には色々変遷してきた結果いまの利用例に絞られているようですからその程度の意味で書いているとご理解ください。
この辺は市民概念も同様でしょう。
共産圏以外では、「人民が〜人民がぁ」と繰り返すのがなんでも反対運動のようなイメージなって疎まれるようになったので、ソ連崩壊後は進んだ文化人?を意識するグループでは、国家の枠を超えた「市民活動」をする人?を強調する意味で自己の立ち位置を「市民活動家」行動を「市民運動」等表現するのが流行になったようです。
地球市民というキザな(進歩的?)表現もこの一種です。
地球市民とは、都市国家の上に民族国家が出来上がった現状を否定したい現存の主権国家を無用な中二階化したい・・「グローバリズム」意識が含まれているイメージです。
本来都市とは、その上の組織である民族国家が出来上がる前の小単位でしかないのですから、日本で言えば、何々の国や郡という制度ができる前の何々ムラ人と言うのと同じです。
村人と言わず「市民」といえば、なんとなく国家対立を超越した進んだ人になるようなイメージになってきたようです。
日本では、市と町村とでは、元は人口集中している程度の違いであり、今では市町村合併により山奥の方まで何々「市」になっています。
伊豆諸島や奥多摩地域住民も東京都民と言うのと同じで、みやこの人というイメージとはだいぶ違っています。
日本では行政上の区画を意味するだけなので「市民」にこだわる意図がピンときませんが、日本や東南アジア等の海洋系民族を除けば、世界的に城壁内の住民=「市民」と城壁外の土民とはまるで違うエイリアンそのもの意識があるようです。
内外での異質感が連綿とつながっている都市国家由来の社会では、人種差別や階級差別が身についているでしょうし、欧米系差別意識の好きな進んだ系の人たちには自分は「市民」だ!という特殊表現が気に入っているのでしょう。
中国では今でも法的に農民戸籍と都市戸籍で厳重に区分され、上海など都市部への出稼ぎ農民は、各種保障の埒外・・一種の外国人扱いです。
https://toyokeizai.net/articles/-/70555?page=3

中国人が逃げられない、「戸籍格差」の現実
これが「努力しても報われない」の実態だ  2015/05/26 6:00
すべての中国人の戸籍は、農村戸籍(農業戸籍)と都市戸籍(非農業戸籍)に分けられている。農村戸籍が約6割、都市戸籍が約4割で、1950年代後半に、都市住民の食糧供給を安定させ、社会保障を充実させるために導入された。
以来、中国では農村から都市への移動は厳しく制限されていて、日本人のように自分の意思で勝手に引っ越ししたりはできない(ちなみに都市で働く農民工、いわゆる出稼ぎ労働者がいるではないか、と思われるだろうが、彼らは農村戸籍のまま都市で働くので、都市では都市住民と同じ社会保障は受けられない)。

日本でも千葉県人が東京で働いても千葉の住民税を払うし、国民健康保険や生活保護、子供の学校区域など居住自治体の責任ですが、それは行政区域の関係でそうなっているだけで、都民となるのには誰の同意もなんお条件もありません。
中国の場合行政区割の関係を表すのではなく、「農民」戸籍と「都市」戸籍に画然と別れるところがすごい発想です。
古代都市国家時代から制度が続いているわけではないとしても、城壁の内外では霧別れる古代からの精神そのまま体現している社会です。
市民標榜問題に戻ります。
香港の人は日本で中国人と言われるのを嫌う・・「香港からきました」と自己紹介するのが普通・・イタリア人もイタリア人と言わず、出身地域を名乗るのが普通と言われていますが、ここまでいけば本物です。
日本人の世界市民論は「いいとこ取り」自分らは日本人であることによる国際的恩恵を受けながら、都合よく世界市民を使い分けているように見えます。
慰安婦問題に連動してNGOなどが国際機関などで日本の児童売買春を誇大宣伝していたか?の騒ぎがありましたが、いかに日本の性道徳がひどいかを世界でアッピールしてかのように(事実不明ですが)注目を浴びたことがありましたが、意図はどうであれ、こういう運動をしてれば中国や韓国等から日本の良心と持ち上げられて気持ち良かったかも知れません。
国際舞台で華やかに活動できるのは、母体になる日本の信用があってこそ出会って、母体を貶すのがかっこ良いと喝采を受けているに過ぎず、彼、彼女らがアフリカ等の小国のNGOであれば同じこと言っても注目を得られないはずです。
NGOを担っている人物像(イメージだけで根拠ありません)を見ると、もともと国際的に活躍してきた経歴で信用を得たり活動資金が国際的に幅広く集まっているのではなく、日本国内の支援による資金で国連等へ出っ張って行き日本道徳の否定的主張や日本企業の海外進出企業の環境破壊や劣悪労働条件を告発するパターンが中心のようです。
日本の経済力は巨大ですので、国民の0、0何%未満の支持でも国連に出張する程度の経費を集められるということでしょう。
このような活動は国民から信任も受けていないので自らを世界市民(ここでは逐一の文言チェックしている暇がないので、正式にそのような発言をしているというのではなくそういう表現に親和性・傾向があるように私には感じられるという程度です)と称するのが合理的なのかもしれません。

都市国家(天守閣復元と地域密着度)2

四国各地は、秀吉の四国征伐後に入封した大名(蜂須賀家や)関ヶ原で敗軍の将となった長宗我部氏の支配地であり、主に関ヶ原後に各地に徳川家の論功行賞によって大名家が入ってきて支配した・・地元民信条としては徳川体制下での反徳川機運の強い地域だったことになります。
特に高松城は、全国的に知られた大規模な天守閣が自慢のようですが、自慢の天守閣なのになぜ今だに復興できないかをネットで見ると、もともと地元に保存意欲がなかったようで、明治に入って解体されてもともとなくなっていたもので、米軍空襲によって無くなったものではないようです。
入封した大名家は、四国の抑えとして徳川一門松平氏の入封によるもので、もともと敵地占領支配の象徴的役割を担っていたので現地民に威容を示す必要から天守閣もご大層なものにしたように見えます。
山内一豊の場合、掛川から土佐への移封後長宗我部遺臣のいわゆる一領具足が怖くて、何年も領地入りできなかった故事が有名ですが、山内家だけでなく四国中の大名家全部が占領軍の気分そのままで地元民敵視・警戒のままで、幕末まできたような印象です。
そういう目で見れば、徳島の蜂須賀家も秀吉の四国征伐の恩賞でもらったもので地元自然発生的武士団ではない・・徳島に行っても城跡があるのみで、天守閣が復元されていません。
よそ者支配といえば、和歌山城も徳川御三家でよそ者ですが、現地地生え大名を滅ぼしての入封ではない点の違いでしょうか?
徳川家家臣団が付いてきたでしょうから、支配層上部は地元代表の武士団でないものの、紀ノ川平野は根来寺や高野山領など宗教系支配地が入り組んだ地域で(雑賀衆、根来衆という戦闘プロ集団が有名ですが・・)地生えの戦国大名=一円支配大名が育たなかった?結果、国規模の支配層がいなかった空白地に入り込んだので平和裡に入れ替われたのかもしれません。
地元小豪族の乱立状態のお国入りの場合、佐々成政の肥後国支配の失敗の例にあるように、地元小豪族・国人層との折り合い能力にかかってきます。
上記のように紀伊家の領地は複雑な地域を包含した特異地域でしたが、(穀倉地帯の紀の川沿いだけでなく、紀伊半島全体で見るとほぼ海外線中心ですから、産業的には九鬼水軍を筆頭にした漁業専門地域で、陸戦向けに特化している三河武士団にとって最も不得手な産業構造の地域です。
にも関わらず現地融和が進んでいたのは、多分紀伊家初代以降の政治力が高く地元融和に成功したのでしょう。
「てんてん手毬の手がそれて・・紀州の殿様お国入り・・・・」の童謡が知られるように、敵意に囲まれてのお国入りではなかったのでしょうか。
子供の頃になんとなく耳に残っている童謡を思い出してここに書きましたが、念のためネット検索して見ると意外に新しいようです。
毬と殿さま   作詞 西條八十  作曲 中山晋平
とわかりました。
昭和4年の作品らしいですが、戦後全盛期だった作詞家ですから、子供の頃から耳に残っているわけで、江戸時代からの地元民の気持ちを表すとは言い切れませんが、東京生まれの西條八十が、紀州の殿様と手毬唄をどういう時代考証あるいは直感で?結びつけたか不明ですが、人口に膾炙するような童謡の詩にしたのは、紀州の殿様に対するなんらかの好感度があったのでしょうか。(全く根拠ありません)
日本では異民族支配を受けたことがないので、上は天皇から下は路上生活者まで同胞としての一体感は古代からのものですが、西洋では民族国家概念はナポレン戦争に始まる新しい概念にすぎません。
日本書記の仁徳天皇の「民の竈」を気にかけた故事は事実かどうかが問題ではなく、その時代の書物にこのようなことを気にかけた人徳のある方であったと書いていることが、こういう人こそ「帝王の鑑みである」とする価値観で編纂されている・民族的価値観の基礎が古代からあるという事実です。
これが平成天皇が重視した同胞意識・・絆重視の姿勢につながっているのでしょう。
明治憲法前文も似たような趣旨・・・祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民・・で貫徹しています。
大日本帝国憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・

ナポレオン戦争以降は近代植民地(市場獲得)戦争に勝ち抜くための総力戦には支配対象であった土民の協力が必要なので、単なる支配対象ではない・民族一緒にがなバルという掛け声が必要になり、民族意識を便宜上持ち出し利用してきたに過ぎないので未だピンと来ない人が多い・・希薄なのでしょう。
この代表格で、まだ民族国家より地元中心意識が強いのがイタリアというイメージです。
現在のEU設立は過剰民族国家意識緩和のための揺り戻しではないでしょうか?
この視点で見れば、13日英国の総選挙で保守党大勝→ブレグジット・EU離脱条件取り決めないままの離脱が現実化してきましたが、ナポレン戦争以前から島国の関係で大陸諸国より早く民族性が形成されていたイングランド(同じキリスト教社会に入っても国教会をローマ法皇から独立させるなど)では、もともと民族意識強固なのでこれに我慢して付き合ってきたが、我慢の限界がきたということでしょう。
離脱するための事前交渉がまとまるかどうかに関わらず早く縁を切りたいのが、保守党支持者中心であり、EU残留に色気があるのが労働党というのは、世界市民意識の強い革新との違いがはっきりした選挙結果です。

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