軍・警察とシビリアンの緊張関係1

これまでシチズンとシビリアンの違い・・シビリアン意識は対キリスト教の思想圧迫と軍事支配に対する抵抗のために生まれて来た経過を書いて来ましたが,我が国ではシビリアンコントロールとは軍に対する言い方が普通です。
最早異端審判や魔女狩りの復活リスクは考えられなくなったので、市民にとって残った脅威は軍事支配=権力による人権侵害のリスクだけになって(数世紀経て)から、米軍支配のときに日本に入って来たからです。
憲法
第五章 内閣
第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
上記の「文民」とはいわゆるシビリアンのことでシビリアンコントロールの原理の現れである説明されています。
ところで、日本では組織は家の子郎党・血族・同胞から始まった歴史があり,武士は自分達の集落や組織を守るために自然発生的に生まれたものであって,集落内の庶民を弾圧すべき暴力組織として対立した歴史がありません。
当然明治憲法も武士が政治に参画してはいけないという発想がありませんでした。
これを遅れた社会と見るか,周回進んでいると見るかの違いです。
家長・集団の長は家族や集団を守る責任はあっても,集団内の弱者を抑圧するためにあるのではありませんし、組織構成員も軍は自分を守ってくれるものと理解して来ました。
一族を守るための武士団ですから,戦いに敗れれば,城主が一族代表として腹を切り,城兵・一族の助命嘆願と引き換えにする習慣が生まれたのです。
野生の猿その他集団リーダーも,集団内の弱い者苛めをするためにあるのではなく逆に集団内の苛めの他の不協和音をなくし外からの脅威に役立つ能力が問われているのが普通です。
西洋で軍事力が市民と対抗関係になっていたのは,異民族支配で軍・支配権力と被支配者の乖離が進んでいる場合に生じる現象です。
ソモソモ支配道具として異民族発祥のキリスト教を利用していた点に問題があったのではないでしょうか?
学生時代に民法の講義だったかで,ローマは3度世界を支配したと聴いたことがあります。
曰く、1回目はローマ帝国による(地中海)世界支配?であり、これが滅んだ後の2回目はキリスト教支配であり,3回目はローマ法(ナポレン法典)・・現在の「法の支配」であると言うのです。
「西洋は異教のキリスト教に支配されていた被害地域である」とこのシリーズで私独自の意見を書いていまるのは、西洋はキリスト教のクニと思っている方にとっては違和感があるかも知れませんが,それほどどっぷり支配され尽くしていたと言うだけのことです。
ユダヤ教徒とキリスト教の関係はよく分りませんが,(全て私の思いつきですからそのつもりで・・)ユダ個人の裏切りが強調されますが不自然です・・キリスト教の母体・であることは動かない事実でしょう。
民族宗教から脱皮させて(ローマの版図に入った地中海世界への広がりに合わせて)普遍性を持たせたのがキリスト教(新約聖書)であるとしてみれば,元々地中海世界とは全く気候風土の違うゲルマニアの地に生きて来た諸民族が地中海地域の価値観強制でさえ鬱陶しいのに,もっと気候環境の違うメソポタミヤ地域限定版の旧約には)付き合い切れないと言う意味で忌避観を持たれているのかも知れません。
では軍が何故民族を守るための軍ではなく,市民抑圧機関になってしまったのでしょうか?
結果から見るとローマが当初市民が自ら兵役につく権利だったのが,いつの間にか義務化して行き最後は傭兵に頼るようになったことと,西欧諸国の近衛兵などの多くは北欧系人種・・兵の多くを傭兵が占めていた事実にヒントがありそうです。
フランス革命は当初第1〜2部会との部会別決議ではなく全体数での議決を求めたので、議決方法で対立して収拾がつかなくなり,いわゆる「テニスコートの誓い」(王権に従わない・実質反乱的行動開始)になりますが、三部会制の否定が当初の争点であり,王制否定ではなかったのです。
国王が,仲裁的に聖職者や貴族部会の第1〜2部会を第三部会に合流させる・議決権同等化を求めたのが革命運動の最初でした。
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.htmlからの引用です。
「1789年6月17日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。 」
「 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。」
「1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。」
「緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止・・た」
こう言う経過で制憲議会設立当初は(イギリスを参考にした?)立憲君主制への改革目的だったのが、途中で国王夫妻がギロチンの露と消えるほど激しく変わってしまった契機は外国兵を引き入れる国王の計画がバレたことによります。
ベルバラで有名な恋人も北欧系青年将校との恋物語でしたし,バッキンガム宮殿の近衛兵の儀式も元はと言えば(体格が良く金髪で)格好いい北欧系近衛兵だったことによる名残です。
話が変わりますが、20年ほど前に台湾に行ったときに中山陵だったかで近衛兵の交代式を見たことがありますが,アジア人を卑下するようで心苦しいですが,バッキンガム宮殿の衛兵交代式ほど格好良くはありませんでした。
上記引用の続きです。
「革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。」
この時点で漸く(今で言う外国人雇い兵)傭兵軍に頼るのをやめて国民・・自分たちを守るための軍が形成されたのですから,日本古代の防人とは千年以上の差があります。

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