PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)

フランス革命では政体がどう変わろうとも(途中王制復活もありましたが共通の敵?)キリスト教の千年以上にわたる思想・内心統制の復活だけは怖かったのです。
何か外形行為をして処罰されるのはまだ防ぎようがありますが,黙って考えている内心を審査されて処罰されるのって,恐るべき支配です。
内心をどうやって第三者が判定出来るのかの技術問題から,証拠裁判主義の原理が生まれて来たし,証拠と言っても自白だけではなく補強証拠がいると言う原理も生まれて来ました。
自白等に関する証拠法則についてはDecember 9, 2014, 「証拠法則と科学技術5(自白重視5)」前後で紹介していますので参照して下さい。
しかしそれは言わば瑣末な技術論であって,そもそも内心自体を支配しそれを理由に処罰出来る原理・・一神教原理の恐ろしさの自覚・・フランス革命当時の市民はこれからの解放を切実に望んでいたことの理解こそが重要です。
内心支配=違反者処罰の思想が多神教社会では起きようがありませんから,破門されると逃げ場のない社会・一神教支配と表裏の関係にあったことが分ります。
フランス革命の経験では,政体がどのように変わろうとも,市民の心の中まで・日常生活のあり方まで根こそぎ規制する教会・聖職者・・これの強制装置である軍の復権に対する恐れがあったので,これのお目付役としての「シビリアンコントロール」をコトの外重視して来たことが分かります。
制度上信教を自由化しても簡単に社会に根付くものではありません・・いつ反動・復活し、権力と結びつくか戦々恐々だったし、革命の混乱中に王党派などの乱立がありましたが,キリスト教支配復活を主張する党派は成立していません・・それほど警戒されていたのです。
欧米でシビリアンコントールを重視する歴史経緯・元はと言えばキリスト教による内面支配に対する市民の警戒感から始まっていることをこのシリーズで書いて来ましたが,これの反革命・・信教の自由違反を潜脱し一神教支配を復活したのがソ連共産党一党独裁制です。
共産党は宗教ではないから,単なる一党独裁に過ぎない・一党独裁に反するから?宗教自体を認めない・・信教の自由を侵害するものではなくこれが近代社会の究極の形・・市民社会よりも進んでいる?と言う変な論理です。
政権の気に入らない人物の行為を咎めて共産主義主張に反する反党行為であると烙印を押しては粛清・・シベリア送りや処刑する・・芸術表現から何から何まで思想統制していたのですから、結果から見れば近世の魔女裁判との違いが不明で実態は排他的新興宗教そのものでした。
結果から見れば,魔女裁判との区別不明・・いわゆる人民裁判と言うやり方で吊るし上げては、徹底的に排撃していた中国の文化大革命を想起しても良いでしょう。
ちなみに専制君主と絶対君主の違いは一般の説明では分り難いですが,私の大雑把な(粗い)独自解釈では過去から積み上げられた宗教解釈のルールに一応従っているのが西洋の絶対君主(王権神授説はでキリスト教の範囲内で支配する意味)であり,宗教ルールも何も基準がない・・君主の恣意的基準で処刑出来るのが専制君主であると言う使い分けが可能です。
ロシア革命の結果出来た共産主義政権は,専制君主制と一神教による絶対君主制との(支配者にとっては)いいとこ取りみたいな専制支配政体です。
こう言う制度が成立したのは,ロシアが古代社会状況に留まっていたところに近代生産技術を上から導入したことと密接な関係・・先進国の技術導入・模倣するのがやっとでその次の自由な発想を必要としていない・・まだ思想表現の自由を求める市民階層が育っていなかった・シビリアンと言う抵抗勢力がなかったことによります。
人民にとっては,(共産主義思想と言う基本基準・スローガンに毛が生えたような程度?はあるもののキリスト教神学ほどの学問蓄積がないので共産主義の外延が不明です)いつ反党分子の烙印を押されるか不明・・自衛するスベがない点では恐怖政治・・いわゆる収容所列島になります。
専制君主制のときは恣意的基準で君主の癇に障ると一瞬にして文字どおりクビが飛びましたが,その代わり強い者にへつらいさえすれば良かった・内面までチェックされることはありませんでしたが,共産「主義」社会になると「主義」に反する思想かどうか・・内面まで規制される窮屈社会になります。
共産主義は経済原理である以上,日々新たに起きる(国内だけでなく国外の変化があります)経済変化対応が必須ですから、共産主義の内容はキリスト神学のように特定時期の理想に固定出来ません。
社会や産業構造の変化に対応して現場で工夫するといつ共産主義の範疇を越えている反党行為として粛正されるか不明になります。
例えばレーニンのネップ政策のように一歩後退路線も政策的には(物事には妥協が必要です)有効でしたが,これを中下位幹部がうっかりやると粛清の標的にされる恐れがありました。
こう言う政体下では,西洋中世以上の暗黒社会ですから,活発な創意工夫が生まれるわけがない・・せいぜいアメリカの技術を盗んでは真似する・・これは国策ですからお墨付きがあって安心です・・のが限度ですから,(ロケットなどは大資本を掛けて盗めますが多種多様な民生技術窃取は無理なので)民生レベルが低下する一方になった原因です。
中国やロシアでロケットを飛ばせても、おいしいご飯を炊ける電気釜やウオッシュレット、クルマのエンジン1つ国産技術で作れないと言われている原因です。
両国共に国民がスポーツを楽しむ余裕が無くてオリンピック種目だけ集中練習させても、国民の体育レベルが上がるものではありません。
ソ連崩壊後にロシアが政治経済の自由化をしたらめちゃくちゃになった・・揺り戻して身の丈にあった,プーチンによる事実上の独裁制に戻って一息ついているところであるのに対し,中国の場合、改革開放政策がロシアよりうまく行っているのは,辛亥革命まで専制支配しか知らない民族とは言え,社会の発展段階がロシアとは格段に違っていたことにあります。
ただし、中国がロシアより社会構造が進んでいるにしても,日本のように千年単位の時間をかけて健全な市民階層(日本の場合武士層)を育てていなかった点は同じですし,これが一党独裁制(形を変えた専制支配)が未だに機能出来ている根拠です。
中国の社会構造は1君万民体制とは言え,極く少数とはいえ士大夫層が数千年単位で存在していたし,政体・・政治権力と関係なく商業活動は活発でした。
これは以前から書いているように中国地域はメソポタミヤ文明の先進商品販路の最東端として,(ずっと後世の名称ですが)過酷な中央アジアの通商路・シルクロードを経由して来て山を越えて初めて出たところ・・山々を越えて黄河上流域から入って来て一旦落ち着いた場所が黄河文明と言う位置づけです。
伝説上の古代王朝殷を中国では「商」言いますが,まさに「商」のクニが始まりです。
そこから河川沿い拠点を広げて行った歴史・・都市国家・・拠点網の形成から始まったこととも関係しています。
黄河文明?はメソポミヤ文明の東端商業拠点として始まったもので,独自文明ではないと言う意見を10年ほど前から書いて来ましたので,参照して下さい。
攻略軍が入城すると城内の有力者が祝いの酒をもって出迎える・・誰が勝っても(異民族でも)商売さえ出来れば良いのですから,これが古代から繰り返された風景で・・日本軍の南京入城も同じですから,出迎えた南京市民を大虐殺するわけがないのです。
どの政体・異民族も,城内進軍しても折角手に入れた都市の商売を潰すわけに行かないので,(上澄みとして商業社会と関係なく祭り上げられて来ただけ・・特に異民族支配のときはこれが顕著)先行している商業社会そのものを破壊する能力がなく,商売人自体は支配者の変更に関係なく連綿と続いていたことをここでは書いています。
03/27/10「農業社会=世襲→封建制と商業社会=中央集権→専制君主制1」以降に書いたシリーズでは,商業と規制は表裏の関係で馴染み易いことを書いたことがあります・・専制支配と馴染みが良いのです。
物造りになると自由な発想が必要ですが,商人は売れ筋情報を逸早くつかんで・・情報収集に励み急いで真似する・・商機を早くつかんだ方が勝ちでその程度の自由があればその他は規制がきっちりている方が便利です。
これが中国の模倣・・ブランド窃取等に繋がりサイバー攻撃が得意なのは中国商人の歴史によります。
中国はロシアより社会構造が進んでいる面で共産主義の思想統制・内面支配が緩いだけのことで単なる専制支配+商業社会の焼き直し・現在的表現です。
この限界・市民社会未成熟=言論重視=約束を守る社会に至らない点で、限界に突き当たっているのが現状です。
先端技術を盗む・模倣し身につけるだけでは追いつくには容易でしょうが、自発的にその先に進むには限界がある・・世界を指導する模範社会になるのは無理があります。

Civilian2とCitizen4(信教の自由2)

フランス革命の意義に戻しますと「市民」が,革命の成果として信教の自由=教会の思想審査の特権を廃止し(特定宗教が信徒の思想審査するのは勝手ですが,異端と判定され破門されても信教の自由があれば市民は別に困りません),同時に教会の経済基盤である・中世以来,領主による領地寄進で成り立っていた教会財産(領地)を国有化してしまいました。
西欧で宗教戦争が何故激しく長く続いたかと言えば,ルネッサンスで人間解放を謳いながらも実際には信教の自由がなかったからです。
信教の自由があれば、命がけで戦争までする必要はありません。
ガリレオだって,信教の自由があれば地動説が正しいと最後まで言い張れた・・節を曲げる必要がなかったでしょう
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、ヘンリイ8世( 1491年6月28日〜1547年1月28日)のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配から思想統制からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか。
我が国で言えば信長による比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日)が象徴的ですが,このトキから宗教の権威・呪縛がなくなり日本社会の合理主義が始まったのと時期的にも似ています。
ただし、ヘンリー8世は個人の粗暴性の故に・・破門されるならば別の宗派を建てると言う単なる開き直りをしただけ・・ローマンカトリックから独立しただけでキリスト教社会に留まった点では、信長が目の前で浄土法華両宗派のエリートを集めて宗論を戦わさせて(安土宗論1579年天正7年)合理的な方に軍配を上げるなど時代変革の意識鮮明だったのとは違いますので、社会に与えた効果が間接的で大きくはありませんが,似たようなことになったと言う意味です。
信長は石山本願寺と熾烈な戦いをしていたことを数日前に紹介したように浄土宗支持者は政治の場面では大敵でしたが,(和解したのは1980年ですからこの宗論はその直前・・まだ戦っている最中です)このときの軍配は浄土宗に上がったと言う、うろ覚えです。
法華〜日蓮系の排他的・・自由な思考を禁止する傾向に自由な発想を重んじる信長の合理主義が許せなかったのでしょうか。
叡山焼き討ちは古代から続く宗教意識の権威を木っ端みじんにすると言う信長による時代変革の意図的なものであったので、その後を受けた秀吉〜家康〜幕末まで時間をかけて徐々に,宗教権威をなくす方向が着実に進みました。
家康の頃までは学問知識が佛教を経由していたので,黒衣の宰相コト崇伝や沢庵和尚がまだ権威を持っていましたが、その後紫衣事件などの政変?を経て「学問知識」の源泉が朱子学に入れ替わり,更には陽明学導入で日本人意識の実践的精神・合理化が進んで行きます。
この合理的実践主義の尊重・・経験が明治維新以降の近代化・・現在の現場力の高さに大きな役割を果たしたのはまぎれもないところです。
佛教が知的権威から切り離されて行った経過については、11/28/05(2005年です)「儒教との距離5(定着していた仏教2)前後の連載で詳しく紹介したことがあります。
信長以降捲まず撓まず各種宗教権威が否定され,宗教界は葬式佛教や寺子屋程度あるいは各種興業(相撲巡業や軽業師その他)の場所貸し・・いまでは観光遺産?に地位低下させるのに成功したのです。
この辺,未だに天動説を信じ,あるいはダーウインの進化論など知らない国民が一杯いると言われる・・真偽のほどは分りませんが・・アメリカなどとの大きな違いです。
繰り返し書いていますが日本の社会変化は武士の勃興に始まり何事も数世紀上にわたって少しずつ着実で後戻りのない点が特徴で,この辺が個人的(トランプ氏もその一人にカウントされるのか?)粗暴性で突発的・革命的に起きる西洋とは基礎レベルが違います。
上記のように宗教の権威をつき破る意識改革が意図的・着実に進んだ日本とヘンリー8世の暴挙とは違いますが,ここではローマの教会の権威をコケにしてしまったことがイングランドでの社会変化の切っ掛けになったのではないかと言う思いつきを書いているだけです。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)従来のルールしきたりを無視する「とんでもない君主だった」と言う悪評価に対する再評価の動きがあるようです。
ヘンリ8世が思い切ったことが出来たのは,1つにはイングランド,アイルランドはローマ文化からの中心地から遠い辺境の地でローマ文化・キリスト思想の浸透が遅く半端であった(ケルト族の習慣・信仰が色濃く残っていることは周知のとおりです)ことから早く離脱出来たコトが大きかったように思えます。
もっと古くにはマグナカルタがありますが,もともとローマから遠い上に海を隔てている結果,ローマの権威が及び難かった・・地元民族固有の考え方や生き方がそのまま残り易かったことを表しています。
中世の特色は修道院文化とも言えますが,スペインやフランスなどに比べてイングランド・アイルランドでは修道院が(私の知る限りですが)それほど発達しなかったように見えます。
この辺は同じ漢字文化圏と言っても思考様式が中韓と全く違っている・日本の場合,都市のあり方・住宅様式から衣類・食材文化までまるで違っていますが、それほどではないにしても・・我が国と似ています。
イギリスでマグナカルタが出来,コンモンローが早くから発達し〜弁護士制度が発達し・・今でも国際的に弁護士業界が世界を席巻出来ている原因も,国教会の独立が大きな契機になったかも知れません。
ちなみに我が国サービス業の生産性が低いと言われていますが,・・ラーメン屋・デパートの生産性かな?どうやって計るのか?と思って内容を見ると,国際金融サ−ビス,コンサル・法律海運その他も含まれています。
法律サービスや金融サービス・コンサルも含まれているのでは、M&Aなどのコンサルなどで巨額報酬を得ているのに比べると我が国では企業買収等のコンサル業が未発達ですから,日本のサ−ビス業の生産性が低いわけです。
落ちぶれたりとは言え,イギリスは今でも法律・金融サービス分野ではだんトツで日本が遠く及ばない・国際競争力のある分野です・・歴史は怖いものです。
日本でのフランス革命の理解は、参政権→意見表明の自由・人権宣言の角度中心ですが,フランス革命に倣った西欧的理解では,参政権は派生的成果であって、信教の自由の獲得・・ローマ教皇支配から脱却こそが絶対に譲れない革命の成果でした。
日本では学校で学ぶフランス革命は政体変更(アンシャンレジーム打破)中心ですが,フランス革命の時系列的変化を見ると,一直線で共和制になったのではありません。
政体・・立憲君主主義か共和制かどのような選挙権を認めるかなどは正に(私に言わせれば)「些末な」革命の成果・・バリエーション範疇でした。
短期間の革命進行途中でさえめまぐるしく変わるので簡単に書ききれませんが,最初は(王制前提の)立憲君主主義宣言でしたし,途中で公安委員会が幅を利かす=議会と行政一体制の時代があり、共和制になったりテルミドールの反動があり,ナポレン帝政になり,ナポレオン失脚後王制に戻ったり更にナポレン3世の時代もあります。
共和制になってもいろんな風に政体が変わって来ました・・現在のフランスの政体はド・ゴール将軍の始めた何と第5共和制です。

Civilian1とCitizen3(信教の自由1)

昨日紹介した記事にあるように教会財産を国有化して経済基盤を奪い,「聖職者に対する統制を強めた」とありますが,聖職者が第1部会で市民が第三部会だったのですから上下逆転して統制される側に回ったことになります。
地位の逆転はナポレオンの戴冠式によっても、ヴィジュアルに見ることが出来ます。
従来国王就任の正式儀式・・法皇(代理の聖職者)から戴冠されて叙任される千年単位続いた形式から見れば天地がひっくり返るような大逆転です。
ウイキペデイアによれば以下のとおりです。
「戴冠式(たいかんしき、coronation)は、君主制の国家で、国王・皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・帝位への就任を宣明する儀式。」
朝廷から叙位されていた徳川家が,逆に禁中並公家諸度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)を定めたのに似ています。
ただ日本ではその後も,将軍宣下があり,上下の格式は変わりませんでした。
西欧では実力差がそのママ出て来る点では、習近平氏が,国力が上がるとそのままイギリス訪問時に威張ったのと似ています。
ナポレオンの有名な戴冠式では,ナポレオンが王冠を自分で自分のアタマに乗せるデッサンが残されているようです。
屈辱的な戴冠式に招かれた法皇が政治妥協の結果(苦渋の決断で)出席したものの何の役割もなく,椅子に座っているだけの有名なナポレオンの戴冠式の絵が残っているのはそのせいです。
ナポレオンが自分で自分のアタマに王冠を乗せたのですが,そのままの絵では法皇に対して露骨過ぎるのでナポレンがジョセフィーヌに戴冠する形式の絵に修正したらしいです・・いずれにせよ法皇のメンツ丸潰れです。
ナポレオンの戴冠式に関する以下の記事からの引用です。
https://ja.wikipedia.
ナポレオン1世(1769–1821)は、ローマ皇帝の即位式に似たローブを身に着けて立っている。他の人物は、受け身的な見物人に過ぎない。絵をよく見ると、絵が修正されていることが分かる。最初の構図は、ナポレオンが頭上に冠を掲げて、自身に戴冠しようとするものであった。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763–1814)は、フランス民法に則りひざまずいて恭順を示している。彼女は、教皇の手からではなくナポレオンの手から戴冠されるところである。」
関心のある方は上記記事を見て下さい・・ナポレオンが自分の手で図上に持ち上げて戴冠するデッサン(これもルーブル美術館所蔵らしいです)が紹介されています。
信長の肖像画の改ざんがここ何年か騒がれていますが,政治意図による修正はよくあることがわかります。
油絵の場合デッサンが残っていることもあって、早くから知られていたことです。
一方で1789年8月26日に憲法制定国民議会によって採択された「人間と市民の権利の宣言」(Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)において,「言論と出版の自由、「[宗教上の意見の]表明は法によって設立された公的秩序を乱さないことを規定された」コトによって(異端審問による刑事処罰が禁止されて)間接的に信教の自由が宣言されています。
以上見て来たとおり,people対置概念としてのCitizenが上位権力に対する抵抗勢力として自己表現するときにはシビリアンと称し,市民革命で漸く制度的に,キリスト教支配・・異端審問・魔女狩りを怖がらなくて良い社会になりました。
我々学校で習った知識では,ルネッサンスで人間解放が出来たと誤解し勝ちですが,1300年(ダンテの神曲)から始まった筈のルネッサンスでも1650年代になってもガリレオが「それでも地球は動いている」と言わざるを得なかった例で分るようにまだ言論の自由に及んでいなかったのです。
せいぜい絵画や彫刻表現の自由化が進んでいたに過ぎないことが分ります。
ルネッサンスとは,まだまだ解放して欲しいと言う気分が出始めただけで、うっかり自由に発言すると破門されて処刑される恐怖下で市民が生きて来たコトが分ります。
フランス革命で「信教の自由」と「思想心情の自由」がセットで宣言されたことは、日本人には気が付かない重要な制度変更・・社会のあり方の根本変更を意味しています。
革命による人権宣言以降,「何を言っても良い」ことの制度的裏付け・・それまでは破門されると地獄に堕ちるだけではなく現世で・・火あぶりにされても仕方がない制度でしたが,信教の自由=破門されても処刑されないしキリスト教徒でなくとも良くなったのです。
ローマ消滅〜西洋始まって以来の一神教社会を廃止して異教徒の生存を認めて,多神教社会に遅ればせながら参加することになったことを意味しています。
何回も書いていますが,フランス革命は日本に比較して進んだ誇れる社会ではなく,遅れていた社会を日本のようにさしあたり制度だけも自由化したと言う程度のことです。
信教の自由化の結果、何か変わったことを言って破門されても・社会から抹殺されなくなった制度変更ですから,フランス革命での信教の自由宣言は制度的に大きな意味を持っています。
(制度が逆転しても民心が変わって行くのは千年単位の時間がかかります・・ナポレンの戴冠式を紹介しましたが,法皇にとって王冠を授ける役割のない出席は屈辱だったかも知れませんが、逆に言えば政治的にはなおキリスト教式の戴冠式を必要としていた現実・・法皇の影響力を無視出来なかったのが実態・・今でも欧米では法皇の政治発言には大きな影響力があります。)
思想表現の自由と信教の自由は表裏一体の関係があり,フランス革命での信教の自由宣言は一神教世界の否定ですから文字どおりキリスト教支配を覆す革命的大転換を意味していたのです。
日本では元々八百万の神・多神教社会ですからこの辺の意味に気が付き難い・・政治に市民が参加出来るようになった身分差別がなくなったと言う外形歴史を習う傾向があります。
戦後アメリカ占領下で制定された日本国憲法では,(欧米系にとっては信教の自由は人権保障の基本ですから入れる必要を感じたのでしょうが・・)信教の自由が憲法に明記されたのでこれを有り難がっている人が文化人や法律家に多いのが現状です。
ところが、我が国では自分と宗派が違うからと言って,実際に弾圧や喧嘩など昔からありません・・葬式に行って初めて宗派を知る程度です。
(他宗派排斥論の強い日蓮系が嫌がられて来た歴史・・これがキリスト教が普及に失敗した原因でもあります・・信教の自由を侵害する危険のある排他的宗教を禁止して来たのですから真逆社会です。)
憲法学者や左翼文化人が占領軍の遺産(今で言うレガシイ?)である憲法の有り難みを宣伝したいのに,新憲法による変化を強調する材料に困ってしまい?「神社に自治体が数百円〜数千円の◯◯料を払ったのが違憲でないか」などとあちこちで争うようになりました。
西洋で信教の自由が宣言されたのと歴史経緯・・本質的意味が違うのですから、国民の多くは「専門的なことは分らないがケチな言いがかりが幅を利かす?変な社会になったな」と思う訳です。
ちょうど現在・前衛?絵画展覧会などに行くと素人には分らなくていいと言うような雰囲気と同じ印象です。
絵画には「日本画」と言うジャンルがあるので助かりますが,憲法学者も欧米価値観の受け売りではなく日本人の気持ちにあった・・欧米と日本双方の歴史を理解した国民のために役立つ憲法論を修得してほしいものです。

PeopleとCitizen2

支配層のピープルに対する差別意識は古代ギリシャ・ローマ〜現欧米がオリエントの異民族から最先端文化受け入れによって成り立っていたこと・・先端文化を吸収したものだけがエリート・支配層と言う意識が基礎にあったからだと思われます。
その上,イギリスのノルマンコンクエラーが有名ですが,イギリスでは支配層は原住民・ケルト族の上に君臨する異民族でした。
イギリスでは支配層と庶民とでは体格からして違うし使っている英語自体が違うと一般に言われていますが,これは元々異民族支配によるものだからです。
この辺はフランスその他のクニでも支配層と庶民はまるで違っている原因です。
フランスに行っても格好いいパリジャンばかりではなく庶民の多くは貧相な体格です。
重層的に支配者が入って来て上にかぶさって来た歴史のあるインドでも、立派な風貌の支配層と庶民とはまるで「人種」が違います。
西欧諸国では長年ラテン語しか公式言語・文書がなかったことからも分るように,あるいは教会に入れるのは地元の有力者だけであったこと・・宗教戦争と言っても領主がどちらかに決めれば,その領内全員がその宗派に変わる程度の信仰でした。
もともと領民は支配対象であって人間の仲間・・意思主体と認めていない社会であったこと・・領民の自己決定権尊重など思いもよらなかったからでしょう。
これが戦国末期に日本に来た宣教師らが日本における庶民の重要性に気付かず、領主中心に布教して失敗した原因です。
キリスト教はローマで国教化に成功した以降、庶民から遊離して儀式を荘厳化するなど庶民の苦しみ救済と関係なく権力に結びついて広げていたコトが,この一事をもっても分ります。
庶民が宗教を支えていた日本の浄土宗系や念仏系、一向宗とは違い,キリスト教徒の言う宗教は、権力をカサに来たものであって,庶民の心・・衆生救済に本当に関係していたか不明です。
救済能力が形骸化の反動で異教徒かどうかに異様に関心がある・・あるいは他の宗教に対する敵意が重要になっているのではないしょうか?
中韓の内政がうまく行かないと矛先を日本に向けるのが常態化しているのと同じです。
西欧や中国の領土論では、行った先に旗を立てて来たら自分の領土だという不思議な主張も領主さえ取り込めば宗教地図上の勝負アリの思想とどこかに共通性があるのかも知れません。
西洋では文化が上からの浸透を基準にしているので、庶民にキリスト教がどこまで浸透していたか不明な状況であったことからも分るように,西欧の庶民はずっとローマ文化の被支配者・アウトサイダーのままだったと思われす。
とりわけ,ローマ滅亡後の中世キリスト教精神は修道院中心になって行ったことから分るように,言わば牢獄的思考停止を強制する(修道院で生まれた食品もありますが原則を書いています)精神世界ですから,新しい発想が生まれ難い社会を強制していました。
ガリレオガリレイの「それでも地球は動いている」と言う言葉が有名ですが,ルネッサンス最盛期でさえ自由な考えや発言が許されない状態だったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 – グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
ルネッサンスの曙とされるダンテの「神曲」は1300年丁度ころから順次発表されたものでしたが,それから約250年後でも,この有様です。
如何にキリスト教神学?が思想の自由を奪い中世西洋社会で圧政の裏付けとなって来たかが分るでしょう。
新しいことを言えば異端審問や魔女狩りの恐怖が待っている・・言わばキリスト教が沈黙を強いられる社会を強制していたのです。
旧ソレンがこの焼き直しで「共産主義」と言う新たなドグマ(「教義」と訳されていますが正に「教義」です)を定立し、政敵が出ると反党的言動(異端審問の焼き直し)として容赦ない粛清対象にされていました。
ソ連政府は,西洋諸国では,フランス革命で信教の自由・・すなわちキリスト教神学に縛られない自由を宣言していて、これを否定出来なかったので,共産主義を宗教ではない・合理主義と称して,非合理な印象の旧宗教を一律禁止しましたが,本質は共産主義と言う新興宗教以外認めない一神教の論理を近代風に言い換えただけのことでした。
ロシア社会は西欧よりも数世紀単位以上遅れた・・一種の古代社会でした(今も安倍総理がロシアと交渉するのに先進国基準で話し合ってもむりです)から,その社会に合わせた一種の反動・・思想信条の不自由を維持する必要に迫られていたものの・・社会主義革命は資本主義の矛盾を解決する新時代をになうもの・・先進性を主張するためのレトリックとしての表現だったことになります。
ルネッサンスを「人間復興」翻訳されているように,1000年に及ぶ中世の暗黒時代・・何も言えない・・黙って牛馬のように農作業等の従事するしかなかった人民が人間が人間らしい生き方を表現したいと主張し始めたのがルネッサンスだったのです。
この圧迫・隷従の時代には,庶民から生まれる文化など想像すら出来なかったし,大衆社会と言われる現在でも欧米では現場力より特別なエリートが集う研究所などで研究すれば足りるという意識が今でも強固に残っている原因です。
芸術(音楽や絵画)も原則として修道院〜大聖堂建築からしか生まれない・・庶民の支持を問題にしない・・前衛と称して庶民のずっと先を行くものと言うエリート思想が定着している源流です。
今でも欧米系展覧会に言っても何が何だか分らない前提で,客の評価は問題にしない「お前はレベルが低くて分らないのだ」と言うのが欧米系芸術展示方法・・専門評論家の批評だけが頼りと言う変なシステムです。
日本の都々逸、端唄小唄,歌舞伎や浮世絵あるいは,古くは源氏物語〜今様や(難しそうな能狂言でさえ神社等で各地民衆に開放されて演じられて来ました)〜各種絵双紙もその時代,時代に普通の読者・観客に受入れられて来たものであって,「時代の先を行くものだから素人が見ても分らない」と言う受け止め方はありません。
どんなにニッポン民族が貶められている時代でも洋画は専門家がそろっている?美術館等が買い上げるものであって,市場では日本画の方が実際に高額で売れていた・・洋画に何千万も自己資金を出す客がいるでしょうか?
宗教に戻しますと,日本では八百万の神が仲良くする社会ですから、他宗教と争い相手を排撃するものと言う前提で宗教観を聞かれると、多くの人は(占領下でうっかり言うと危ないと言う自己保身もあって)無宗教と答える習慣が根付いていますが、神道やお寺は庶民の心底からの支持で成り立っているので神社仏閣に行けば自然に手を合わせる状況は今も変わりません。
西欧庶民にとっては地方に残っている教会に対して日本のように何かありがたく感じるものがない印象ですが、これは上記のとおり千年単位で文化征服・圧政の象徴・出先機関・道具としての歴史があるからではないでしょうか?
日本では各地でお城の復興に熱心ですが,西洋では遺跡扱いになっているのは中世〜近世にかけての領主と人民の関係を表しているのと同じです。

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