シチズンからシビリアンへ2

元ローマ帝国版図を除く中世の西洋では,戦争は領主の個人事業で(スペインの王様フィリペ2世は2回も破産しています)領民には関係がなかった(ナポレオン戦争で初めて民族意識が生まれたものです)し,領主同士の結婚でスペインの王様がオーストリアやネーデルランドを相続するような日本では想像もつかないような関係の基礎です。
ヨーロッパ大陸の原住民が,族長がローマに参考して現地参向して承認して貰う・本領安堵・・支配下に組み入れられて行くのと平行してその配下豪族も日本で言えば[将軍家お目見え」になるような関係が起きます。
一般市民も資産家の場合,キリスト教の受入れによってローマ文化を勉強したら市民にしてやると言われて第三身分に昇格して行くのですが,ソモソモ同じ民族の周辺農民が市の立つ町を襲うイメージがない・・市民になったからと言って郊外の農民と戦う必要性がありませんし、領主が勝手にやっている戦争に参加する必要性もありませんでした。
ちなみにイタリアでは知られている名家はメデイチ家のように商人の成功者が基本ですが,西洋諸国の領主は日本の領主同様農業・牧畜支配が基本です。
このため貴族化してパリに詰めている夫に変わって(元々結婚は領地目当てが中心だったと言われるように奥方固有の領地が多かったこともあります)奥方は領地を巡回して領地支配に精出していたと言われます。
日本でも義経を助けた金売り吉次のような商人は古代からいましたが,社会的力持つのは室町〜安土桃山を経て江戸時代に豪商の力で港湾,新田開発や土木工事をするようになってからです。
西洋でも商人・第三身分が力を持って来るのは、先ずは海岸沿い・ドイツのように大河川沿いに商業の発達もありましたが,水運中心に商業が発展した西欧中心に中世も大分下がってからのことです
商人が資産を有するようになると信長の矢銭のように戦費調達の協力金(課税)要求が起きて来る・・戦争によって利益を得る商人の外には税を払いたい人はいませんので・関係のない戦争反対の立場ですから、これがうまく行かないスペインでは王様一人が(勝手に?)破産していたし、これが一環しています。
このコストを市民に負担してもらおうとなると,(王権神授説では)無理・矛盾が生じます。
イギリスであれ,フランスであれ,軍事費調達のための増税反対が革命に発展していることから見ても、(軍護衛のもとで未開地進出するのが原則の)ギリシャ・ローマの「市民」とは成り立ちの違いが分ります。
自分の住んでいる都市・進出拠点を異民族からを守るための戦争ではなく、王様が勝手に遠くへ出掛けて行って損をしたのに、何故その費用負担させられるかの根本問題があるからです。
王家が勝手に戦争していた以上は,スペイン王家のように増税出来ずに破産するパターンが本来ですが,これを避けて増税に踏み切るパターンになると、これに対する抵抗が始まり・・真っ先にイギリスでの革命になって行ったと理解すべきです。
後で[資金出して」とお願いするようになると,戦争する前に資金を出す市民の同意が得た方が無理がない・・これが現在のシビリアンコントロールの経済原理と思われます。
あらかじめ同意を得るには,商人に旨味があった方が同意を得易いのでこれが[産軍複合体」の先がけ・・)革命を経てイギリスが世界最初に海外に市場・植民地を求める重商主義政策になったのはこの原理によります。
スペイン王家は自分の商売のために?海外植民地を得て金銀を得て・・士族の商法で勝手に消費してしまい破産しました。
西欧ではイギリスが(1628年権利の請願に始まる)真っ先に革命が起きたのは、真っ先に国外戦争で勝ち進んだ→そのための戦費が拡大したことによります。
学校で習うところでは,最初は海賊行為をしていただけなので収支トントンだった可能性がありますが,1588年にスペインの無敵艦隊を破り世界史のプレーヤーとして(その後は海賊ばかりとは行きません)登場します。
それまでは,スペインとフランス(日本のイメ−ジでは国と国との争いと誤解しますが,婚姻で領地が動くので婚姻の絡んだ王家同士の王位継承争い)の覇権争いが中心でした。
その後イギリスに本来関係のないフランス王家とハップスブルク家の大陸における覇権争い・・今のドイツを主戦場とする30年戦争に参加し,(アメリカが世界の警察官をやめたいと言うのと同じで覇権を争うと金がかかります)ここで戦費を無駄遣いします。
西欧全体ではアメリカがベトナム戦争を30年もやったようなもので(イギリスは最後に参加しただけですが)西欧中が疲弊します・・この反省を元に世界史上初の国際条約・・ウエストファーリア条約(これについてはキリスト教国の取り決めに過ぎない限界・・異教徒が遵守出来るかのテーマで大分後のコラムで書く予定です)が成立します。
権利請願を無視していたところにスコットランドの反乱が起き,議会を無視した以上・・充分な戦費調達出来なかった王は鎮圧来ずに賠償金支払を余儀なくされ,その支払のために議会に頼むしかなくなるなど悪循環で結局革命になって行くのですが,こうした増税要求に対する抵抗が、清教徒革命の始まりです。
教科書では,清教徒革命、30年に及ぶ宗教戦争と言い,宗教争いに焦点を当てていますが,増税対象者には・新興商人・資産家に(どこのクニでも)清教徒が多かったと言うだけのことです。
信長は堺の商人に矢銭を要求しています。
フランス王家はカトリック支持でしたが、ドイツ30年戦争ではカトリック支持のハップスブルグ家に対抗するために新教徒を応援していますし、今のシリア情勢・・スンニ派やシーア派の外にクルド族、アメリカ・ロシアの思惑,トルコやイラン,サウジの思惑が入り乱れるのと同様に主義主張とは別に入り組んだわけの分らない戦争だったので、30年も続いてしまった・・長引くとイギリスや北欧諸国まで参戦して来て,いよいよ混乱してしまったのです。
ちなみにイギリスは新教徒が多いのに,カトリック側に参加したことも新教徒の不満を買いました。
イギリスは30年戦争では損するばかりで、結果的に革命になったので今度は商人の同意を得られるように智恵がついて?革命後は産軍複合体で行動します。
これがいわゆる東インド会社に代表される(世界一の海軍力の援護を受けた)重商主義政策です。
ちなみに東インド会社はオランダとの競争を中心に逐次発展を経ていますが,ウイキペデイアによれば,「1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。」と言う大成功ですから以後いくら戦争しても勝ち進む限り革命騒動は起きません。
革命を経て?商人の賛同がいることを国王も分って来た・商人が国策の前面に出る→士族の商法の時代が終わったので、スペインは世界競争から脱落して行きます。
その後の英仏第二次百年戦争では、イギリスが勝ち進むと同時に市場獲得の利益を伴っていたので税を負担してもおつりが来る・・イギリスでは市民(資産家)の反対がありませんでした。
同じ重商主義国でありながら,負けの込んだフランスで(市民に利益があったルイ大陽王の頃とは違い16世のときには軍費負担不満で)革命が起きたのは必然です。
ちなみに英仏の第二次百年戦争でフランスが敗退したのは,イギリス東インド会社は,単純株式投資方式を開発して経営自由化が進んでいた・・これが産業革命を誘発して産業資本家の育成に進んでいたのに対し,フランスはスペインの士族の商法の改良版?王家関与の古い形態・・開発独裁形式・・新製品が生まれ難い限界・今でもフランスは国家関与の強い社会ですが・・この行き詰まりにあります。
戦争が商売になると言う時代が終わった・・欧州で反戦思想が生まれて来たのは、戦争しても疲弊するばかりで何のメリットもなかった第一次世界大戦以降のことです。
ウイキペデイアからの引用です。
「不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。パリ不戦条約とも」
ところがナチス台頭によって,第二次世界大戦になりましたが西洋全体ではやはり損しただけで終わったので,西欧は遂にEU結成(究極の不戦条約)に結びついて行きます。
アメリカは,対日戦開始で不況脱出し,しかも世界の覇者に躍り出て良い思いをしたので戦争意欲が衰えず,戦後戦争ばかりして来ましたがイラク侵攻以降泥沼化するばかりで産軍複合体にとって経済結果が面白くないのでイヤになって来た・・,平和主義かどうかではなく,要は経済結果によるのです。
第2次世界大戦時のアメリカのように,新興国は既存秩序破壊に旨味があるので戦争の利益はなお存在します・・これが中露の戦争期待感です。
新興国が生まれて来る限り戦争がなくらないのかも知れません。

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