PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

非理法権天と野党1

非理法権天の思想は江戸時代の学者が言い出したことですが,徳川支配が盤石になって各種御法度などの具体的規制が始まっただけではなく、綱吉の時代になると生類憐みの令など(「殺生するな」と言うだけならば誰も疑問を持ちませんが,)具体的・細かくなって行くとその命令に対する道徳性に対する関心も高まります。
綱吉の生類憐れみの令はまだ過去の道理や道徳(宗教観)の延長の域・・具体化の域を出ませんが,次の正徳の治は儒家でありながら新井白石が経済や貿易政策に関与するようになり,その次の吉宗になるとサラに一歩踏み出して(儒家の時代が終わり)経済政策→規制(たとえば1730年の堂島の米先物取引許可があればその表裏の関係で取引所のルール規制も生じます)にまで進みます。
自由放任・積極経済主義の田沼政治の反動として定信の改革になると規制だらけの政治開始・・緊縮経済の一環として文化作品にまで口出しして,山東京伝が手鎖の刑に課せられています。
いつものエリート批判ですが,定信は若い頃から秀才の誉れ高かったと言われますので,才能を伸ばすより既存知識・・新たな風俗を好まない・規制を好む・・現実政治向きではなかったのではないでしょうか?
この辺は秀才の慶喜が(大政奉還)政権を投げ出すと、案に相違して諸候会議を主宰出来なかった(人望がなかったことも明治維新の原動力に関係したでしょう)のが日本のために良かったとなります。
政治の具体化が進むにつれて・・忠臣蔵で言えば忠孝の倫理と幕府秩序の相克で右往左往した末に切腹に決まったように,抽象論の理解(宗教家や儒家・荻生徂徠だったか?の議論)だけでは政治が動かなくなり、政治の表舞台から退場して行ったのです。
佛教〜儒教〜実学への流れについては03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
江戸時代に宗教哲学や有職故実を持ち出してもどうにもならなくなって来たのが正徳の治〜享保の改革以降の政治ですが、・・戦後から現在に至る革新系野党は日本社会が江戸時代に卒業した筈の抽象論から卒業しきれないグループ・・高邁な平和論・憲法論・あるいは近代法の精神だけをぶって満足している印象です。
最初は欧米では・・と言えば何でも立派に見えましたが・・。
国会で必要とされている具体的な議論をする能力に欠けているのか?スローガンの域を出ないので・・(今でも抽象論で満足するレベルの人が一定数いるのでその支持を受けているものの)多数の支持を得られないのです。
たとえば、土井元党首の「ダメな物はダメ」鳩山氏の「少なくとも県外へ」年金についても野党のときに厳しく追及していたのに・・何をどう改革するかではなく,やっていたのは集計ミスなどの揚げ足取りばかりだったので・・民主党が政権についても何ら目に見える改革が出来ませんでした。
昨年の安保法制国会でも憲法違反かどうかの抽象論(民意無視・国会に反対デモが何万人集まったとか)ばかりで、安保法制の必要性の有無について国際環境に対応した具体的議論を国民に示せませんでした。
山尾氏の「日本死ね!」は現在進行形ですが,同氏はこれが政府の保育園増設に弾みがついたと自画自賛しているようですが,いずれも具体的政策は与党任せで政治家に必要な具体論・・どうやって保育園を増やして行くか・・保育所政策がどうあるべきかの具体論がありません。
格差反対論も左翼系の十八番(おはこ)ですが,安倍総理の方が非正規の賃上げを要請したり,「同一労働同一賃金」の実現に努力しているのに,野党や連合からは格差是正のための具体論が全く上がって来ません。
生活保護基準や最低賃金を上げろと言うだけでは,格差が発生する基礎構造の改変・根本解決にはなりません。
最近成立したばかりの通称「カジノ法」でも「ギャンブル依存症」が増えると言うスローガンで野党が反対していますが,現実のギャンブル依存症ではパチンコ関連しかなくこれが今でも問題なのに・・と言いながら,これの改善策について、同党がこれまで具体的にギャンブル=パチンコ依存症対策を講じて発表しているのを見たこともないし,(逆にパチンコ業界から資金を受けてるのが左翼系ではないかと言う指摘すらあります)逆に努力しているのは政府の方です。
グローバリズム反対論も同じで,どうすべきと言う主張がない・・結果的に不満を煽っているだけになります。
乳幼児がぐずったり犬が騒げば,親や飼い主が解決してくれるのと同じで,野党は政府が何か解決してくれるためのアラーム装置と言う役割分担・・万年野党を自己目的にしているのでしょうか?
自分で政権運営するのが政党の目的とすれば,「何でも反対するだけ」「国民不満を煽って政府の是正策を求める」のが仕事では,政党としての将来がありません。
江戸時代に戻しますと,各方面で法令が具体化して来ると,具体的適用の蓄積と安定運用の期待から判例集(御定書)整備・熟達した官僚機構形成が白石→吉宗の頃から進みます。
日常生活に直結する法令が次々と出るようになると(「殺生するな」と言うだけなら誰も反対しませんが・・)これに対する賛否の意見が,利害のある関係者から起きます→反対論からすれば悪法か否かの議論が起きて来ます。
仮に悪法とした場合従うべきか否か?など・・「法と道徳・道理の関係」を研究する学問が発達して来ます。
非理法権天を記載している伊勢貞丈家訓はhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/ise.002.htmlによれば,宝暦13(1763)成立と出ていて,吉宗の死亡が1751年ですから,綱吉〜正徳の治,享保の改革など過去3代で日常生活に入り込む形で急激に増えて来た法令が研究対象・・重要関心事項にはいっていたと思われます。
ただ彼は,ウイキペデイアによれば
「伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通し、江戸幕府3代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された。」
「28歳で御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった。」
彼は有職故実・今で言えば法制史のプロですが,当時は忠臣蔵で有名な吉良家のように有職故実=現役指導係でもあった筈です。
ただ,彼の役職は,「儀式の周旋、将軍出行の随行」などで,具体的法令執行や研究に当たる公事方・吟味与力に採用されていません。
古いことを知っていても(法制史の学者が裁判出来ないし立法に関与出来ないのは今でも同じです)時代に合わないので役立たずだったのです。
室町幕府以来の家系で有職故実に通じていることによって成り立っている家柄?ですから、次々と打ち出される新法令・生活様式の変革は家業の存続に関係し・冷や飯を食っている環境から批判的立場だった可能性があります。
いずれにしても次々と法令が出て来る時代になって,「権力さえ強ければ,何をしても良い社会でない」と言う思いがあるからこそ、こう言う議論・・大公儀に対する明からさまな批判が出来ないので,「権力が法に勝つ」(勝って良いのか?)と言う反語的研究が起きて来たと見るべきです。
「非理法権天の法理」は最終的には「権力も天に勝てない」と言う意見ですが,天と道理の区別がはっきりしない(私の理解不足?)ところから見ると、将軍家の発する法令を旗本である貞丈が正面から違法とは言えないものの、結局「道理に反した法は無効だ」と言いたかったのではないでしょうか?
幕末に開国の必要性に直面したときに約200年前に決めた「(鎖国の)祖法を守れ」と時代錯誤な反対した攘夷運動と同じです。
今で言うと護憲論・憲法違反論で・・具体的な国際環境を前提に政策の可否を論じるよりは,もっと超越した有り難い物・・近代法の精神に反するとか言って,・・・野党が反対するのと似ています。
共謀法やスパイ防止法で言えば,先進国でこれらのないクニがないのですから、現在ある諸国で,どう言う弊害が起きているかの具体的議論が必要なのにその紹介がないまま単純に近代法(1800年代のことか?)の精神や原理違反とか言うだけでした。
日銀の異次元緩和が実行されると(「異次元」とは先例から一歩踏み出すことですから)日銀がそこまでやっていいのか!の議論がほうはいと起きるのと同じです。
過去の踏襲だけならば政治家はいりません。
天皇退位(譲位ではありません)問題も過去の知識を中心とする歴史家や学者の意見は参考にとどめるべきであって、現在から近い将来に合わせてどうするかは政治家の仕事です。
将来まで縛るのは行き過ぎとすれば,特例法にとどめる謙抑性も1つの選択肢です。

クリスマス(信教からの自由とシビリアン)1

イブには,例年日頃書いているコラムと全く関係のないことを書く習慣でしたが,今年はキリスト教による西洋の民に対する内面支配とこれに対する自我の目覚め→抵抗・シビリアンの発生→フランス革命を書いている内にクリスマスが来てしまいましたので,今年はクリスマス特番でありながら延長的コラムになります。
近代的な法の支配が成立していない社会では,法の代わりに何か基準になる生活のルールが必要です。
集団がある限り動物界でも植物界でも暗黙のルールがあって,人間社会の場合最初に生まれるルールブックが民族ごとの(地場)宗教・習俗となります。
明文がなくとも民度レベルに応じた生活をすれば「動物界の掟」同様に社会レベルに応じた暗黙のルール・習俗が成立していてトラブルが起きても解決出来る訳ですが,組織・社会規模が大きくなったり,生活様式の違う部族が統合されて・・支配者が出来ると,生活に根ざしたボトムアップによる自然発生的ルール造りでは煩雑過ぎるので,(習俗の違う部族を含めた)広範な支配地域の統一性を持たせるための新たなルールが意識的に欲しくなります。
このルールの一体化のために日本のように八百万(やおよろず)方式で柔軟対応するか、(合議制ですので決定に時間がかかる・・漸次的変化社会になる)1神教で画一強制(革命的急激変化)するかで社会意識のあり方が大きく変わります。
数段階も進んだ文化を一気に取り入れる場合、(ドイツ啓蒙的君主制〜ロシアや中国の共産党独裁〜新興国に多い独裁政治)効率が良いでしょうが,その分内部はぎくしゃくする上に自民族の文化による政治ではない→共通土俵がない・話し合い解決不可能→強権支配になります。
外来文化至上主義者が権力を握ると強権・恐怖政治になり,野党になれば現実の社会を対象にしないので(非武装平和論や「少なくとも県外へ」など・・)現実に即した・マトモな議論になりません。
社会形態で見れば,商業系では画一ルール化の必要性が高いし,農業社会では画一性の必要性がそんなに高くないだけではなく、地域別気候に左右されるので画一化は無理だと言うテーマで西洋の単一気候や中国は商業系社会であったという推理で連載したことがあります。
(気候が少しずつズレている日本では、朝廷の配る暦通り農作業出来ないので神棚に棚上げされていたことも別の機会に書きました)
西洋中世社会の発達によって小単位の部族別習俗的地場宗教では間に合わなくなったので、海洋・商業系ルールである点で生活習慣が全く違うにも拘らず、規模が大きく普遍性を持っていたキリスト教を導入したものと思われます。
アルプス・ピレネー山脈を境界とする別世界・=習俗が違う(ただしフランスが一部地中海に面しているように大きな切れ目があります・・ガリア地域はローマ化が早くから進んでいたし、新旧の争いでもカトリック系が強固だった所以です。)点を我慢して?も導入するメリット(文化格差)の方が大きかったのでしょう。
ゲルマニア・ガリアの地は本来は農業牧畜社会ですが,日本と違って大平原→単純地形・単純気候風土であることが,海洋・商業系民族の1神教を受入れても何とかなっていた基礎でしょう。
西洋にも山があり海(漁業・日本のオランダ国名の語源?の海岸沿い民族の固有性など)がありますが、全体的に見て無視できる程度差であったことによります。
西欧ではスイスのウイリアムズ・テルの抵抗が有名ですし今でもEU非加盟ですが、アジアでも中東でもロシアでも山岳民族が中央政権に簡単に従わないのは,勇敢であるだけはなく生活習慣が大幅に違っている面を無視出来ません。
日本の場合東西南北に長く気候差があるコト,地形が複雑なのでちょっとの距離で一山越えればも習俗が違う上に山が海に迫っているので,海洋系と山岳系が同居(海彦・山彦の神話で象徴表現されています)しているので,大和朝廷も各地神々の統合と言うよりは和合を経て(各地神々を残しながら包摂して行く・・ヤオヨロズ方式)伊勢神宮になって行ったものと思われます。
それでも社会規模が大きくなって来た聖徳太子の頃には17条憲法が必要になっていたことが分りますが、多神教社会ですから「和をもって尊しとなす」などの精神規定を決める程度でした。
日本中世にはまだ権力基盤が弱くて具体的規制をするほどの法を制定するまでには至っていなかったと言う方向で法制史の本に書いてあったので、私もそのように理解して10年ほど前に「非理法権天の法理」を紹介しましたが,いま考えると権力の強弱によるよりは「日本は多神教社会であって,細かいことまで各地の神々に強制するのは無理があったし必要もなかった」からであると言う(私独自の)解釈も可能です。
「権力さえ強ければ何でも強制出来る」と言う専制支配の中国や欧米式思考法によれば、本に書いてあるとおりの結果になるでしょうが,(学問的ではなく私の独自思いつきですが)むしろ多様な思考を融和して決める・・ボトムアップ社会の特質から考え直す方が合理的かも知れません。
例えば(日本初めての成文法かな?)鎌倉幕府によって御成敗式目が制定されたと言っても(承久の変の後で)武家権力が強くなったからと言う解釈は,強制力の視点が強過ぎます。
https://kotobank.jp/wordによれば、御成敗式目の条文の害要は以下のとおりです。

〔1〕寺社関係―1、2条。
〔2〕幕府の組織、(イ)守護―3、4条、(ロ)地頭(じとう)―5、38条、(ハ)その他―37、39、40条。
〔3〕土地法、(イ)土地所有―7、8、36、43、47条、(ロ)所領支配―42、46条、(ハ)所領売買―48条。
〔4〕刑事法―9~17、32~34条。
〔5〕親族相続法―18~27条。
〔6〕訴訟手続―6、28~31、35、41、44、45、49~51条。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/の口語訳によれば

第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
第2条:「寺や塔を修理して、僧侶(そうりょ)としてのつとめを行うこと」

などで、まだ基本精神の宣言でしかなかったのは、「権力基盤が弱かったから・・」と言うのが(欧米式思考による)以前紹介した日本法制史の一般的解釈ですが,日本社会は古代から権力が強ければどんなことでも強制出来る思考方式ではなかったうえに、当時の紛争は農地の帰属や水利権争いが中心であり,(一所懸命の熟語がこの頃出来ました)この解決に各地の長年の慣習・習俗を無視出来なかったコトが大きな原因でしょう。
この後で紹介するように御成敗式目は,幕府の設けた門注所(今で言う裁判機関)への訴えが増えて来たの基準造りの必要に迫られたことによりますが,(有名な十六夜日記は訴訟のために都から鎌倉に出掛けた女性の日記です)当時の民事訴訟テーマは,主として領地に関する争い(十六夜日記も当時長子単独相続制ではなかったことから起きた領地の相続あらそい)だったからです。
農地・農業・水利権・相続のあり方などは地域ごとの習俗習慣・数十年前に灌漑工事をしたときの取り決めなどを無視出来ませんので、地元の習慣ごとに決めて行った方が良いし、第2条の社寺の修理でも今のように建築基準まで細かく決めなくとも各地の財力と気候や地形に合わせて・・あるいは宗派ごとの自由な思考でやってくれと言う・・僧侶の勤め(労働法?)方もまじめに励みさえすれば良い、修行の仕方はお寺ごとに決める)現実を表しているように見えます。
まさに多神教世界の融通無碍な決め方であって、権力が弱かったからではないと解釈すべきです。
上記〔2〕以下条文を見ると具体的で思い切った条文になっているのに驚きますが,引用が長くなり過ぎるので残念ながら割愛しますが,関心のある方はご自分で引用先へアクセスして下さい・・面白いですよ!

シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)

フランス革命では政体がどう変わろうとも(途中王制復活もありましたが共通の敵?)キリスト教の千年以上にわたる思想・内心統制の復活だけは怖かったのです。
何か外形行為をして処罰されるのはまだ防ぎようがありますが,黙って考えている内心を審査されて処罰されるのって,恐るべき支配です。
内心をどうやって第三者が判定出来るのかの技術問題から,証拠裁判主義の原理が生まれて来たし,証拠と言っても自白だけではなく補強証拠がいると言う原理も生まれて来ました。
自白等に関する証拠法則についてはDecember 9, 2014, 「証拠法則と科学技術5(自白重視5)」前後で紹介していますので参照して下さい。
しかしそれは言わば瑣末な技術論であって,そもそも内心自体を支配しそれを理由に処罰出来る原理・・一神教原理の恐ろしさの自覚・・フランス革命当時の市民はこれからの解放を切実に望んでいたことの理解こそが重要です。
内心支配=違反者処罰の思想が多神教社会では起きようがありませんから,破門されると逃げ場のない社会・一神教支配と表裏の関係にあったことが分ります。
フランス革命の経験では,政体がどのように変わろうとも,市民の心の中まで・日常生活のあり方まで根こそぎ規制する教会・聖職者・・これの強制装置である軍の復権に対する恐れがあったので,これのお目付役としての「シビリアンコントロール」をコトの外重視して来たことが分かります。
制度上信教を自由化しても簡単に社会に根付くものではありません・・いつ反動・復活し、権力と結びつくか戦々恐々だったし、革命の混乱中に王党派などの乱立がありましたが,キリスト教支配復活を主張する党派は成立していません・・それほど警戒されていたのです。
欧米でシビリアンコントールを重視する歴史経緯・元はと言えばキリスト教による内面支配に対する市民の警戒感から始まっていることをこのシリーズで書いて来ましたが,これの反革命・・信教の自由違反を潜脱し一神教支配を復活したのがソ連共産党一党独裁制です。
共産党は宗教ではないから,単なる一党独裁に過ぎない・一党独裁に反するから?宗教自体を認めない・・信教の自由を侵害するものではなくこれが近代社会の究極の形・・市民社会よりも進んでいる?と言う変な論理です。
政権の気に入らない人物の行為を咎めて共産主義主張に反する反党行為であると烙印を押しては粛清・・シベリア送りや処刑する・・芸術表現から何から何まで思想統制していたのですから、結果から見れば近世の魔女裁判との違いが不明で実態は排他的新興宗教そのものでした。
結果から見れば,魔女裁判との区別不明・・いわゆる人民裁判と言うやり方で吊るし上げては、徹底的に排撃していた中国の文化大革命を想起しても良いでしょう。
ちなみに専制君主と絶対君主の違いは一般の説明では分り難いですが,私の大雑把な(粗い)独自解釈では過去から積み上げられた宗教解釈のルールに一応従っているのが西洋の絶対君主(王権神授説はでキリスト教の範囲内で支配する意味)であり,宗教ルールも何も基準がない・・君主の恣意的基準で処刑出来るのが専制君主であると言う使い分けが可能です。
ロシア革命の結果出来た共産主義政権は,専制君主制と一神教による絶対君主制との(支配者にとっては)いいとこ取りみたいな専制支配政体です。
こう言う制度が成立したのは,ロシアが古代社会状況に留まっていたところに近代生産技術を上から導入したことと密接な関係・・先進国の技術導入・模倣するのがやっとでその次の自由な発想を必要としていない・・まだ思想表現の自由を求める市民階層が育っていなかった・シビリアンと言う抵抗勢力がなかったことによります。
人民にとっては,(共産主義思想と言う基本基準・スローガンに毛が生えたような程度?はあるもののキリスト教神学ほどの学問蓄積がないので共産主義の外延が不明です)いつ反党分子の烙印を押されるか不明・・自衛するスベがない点では恐怖政治・・いわゆる収容所列島になります。
専制君主制のときは恣意的基準で君主の癇に障ると一瞬にして文字どおりクビが飛びましたが,その代わり強い者にへつらいさえすれば良かった・内面までチェックされることはありませんでしたが,共産「主義」社会になると「主義」に反する思想かどうか・・内面まで規制される窮屈社会になります。
共産主義は経済原理である以上,日々新たに起きる(国内だけでなく国外の変化があります)経済変化対応が必須ですから、共産主義の内容はキリスト神学のように特定時期の理想に固定出来ません。
社会や産業構造の変化に対応して現場で工夫するといつ共産主義の範疇を越えている反党行為として粛正されるか不明になります。
例えばレーニンのネップ政策のように一歩後退路線も政策的には(物事には妥協が必要です)有効でしたが,これを中下位幹部がうっかりやると粛清の標的にされる恐れがありました。
こう言う政体下では,西洋中世以上の暗黒社会ですから,活発な創意工夫が生まれるわけがない・・せいぜいアメリカの技術を盗んでは真似する・・これは国策ですからお墨付きがあって安心です・・のが限度ですから,(ロケットなどは大資本を掛けて盗めますが多種多様な民生技術窃取は無理なので)民生レベルが低下する一方になった原因です。
中国やロシアでロケットを飛ばせても、おいしいご飯を炊ける電気釜やウオッシュレット、クルマのエンジン1つ国産技術で作れないと言われている原因です。
両国共に国民がスポーツを楽しむ余裕が無くてオリンピック種目だけ集中練習させても、国民の体育レベルが上がるものではありません。
ソ連崩壊後にロシアが政治経済の自由化をしたらめちゃくちゃになった・・揺り戻して身の丈にあった,プーチンによる事実上の独裁制に戻って一息ついているところであるのに対し,中国の場合、改革開放政策がロシアよりうまく行っているのは,辛亥革命まで専制支配しか知らない民族とは言え,社会の発展段階がロシアとは格段に違っていたことにあります。
ただし、中国がロシアより社会構造が進んでいるにしても,日本のように千年単位の時間をかけて健全な市民階層(日本の場合武士層)を育てていなかった点は同じですし,これが一党独裁制(形を変えた専制支配)が未だに機能出来ている根拠です。
中国の社会構造は1君万民体制とは言え,極く少数とはいえ士大夫層が数千年単位で存在していたし,政体・・政治権力と関係なく商業活動は活発でした。
これは以前から書いているように中国地域はメソポタミヤ文明の先進商品販路の最東端として,(ずっと後世の名称ですが)過酷な中央アジアの通商路・シルクロードを経由して来て山を越えて初めて出たところ・・山々を越えて黄河上流域から入って来て一旦落ち着いた場所が黄河文明と言う位置づけです。
伝説上の古代王朝殷を中国では「商」言いますが,まさに「商」のクニが始まりです。
そこから河川沿い拠点を広げて行った歴史・・都市国家・・拠点網の形成から始まったこととも関係しています。
黄河文明?はメソポミヤ文明の東端商業拠点として始まったもので,独自文明ではないと言う意見を10年ほど前から書いて来ましたので,参照して下さい。
攻略軍が入城すると城内の有力者が祝いの酒をもって出迎える・・誰が勝っても(異民族でも)商売さえ出来れば良いのですから,これが古代から繰り返された風景で・・日本軍の南京入城も同じですから,出迎えた南京市民を大虐殺するわけがないのです。
どの政体・異民族も,城内進軍しても折角手に入れた都市の商売を潰すわけに行かないので,(上澄みとして商業社会と関係なく祭り上げられて来ただけ・・特に異民族支配のときはこれが顕著)先行している商業社会そのものを破壊する能力がなく,商売人自体は支配者の変更に関係なく連綿と続いていたことをここでは書いています。
03/27/10「農業社会=世襲→封建制と商業社会=中央集権→専制君主制1」以降に書いたシリーズでは,商業と規制は表裏の関係で馴染み易いことを書いたことがあります・・専制支配と馴染みが良いのです。
物造りになると自由な発想が必要ですが,商人は売れ筋情報を逸早くつかんで・・情報収集に励み急いで真似する・・商機を早くつかんだ方が勝ちでその程度の自由があればその他は規制がきっちりている方が便利です。
これが中国の模倣・・ブランド窃取等に繋がりサイバー攻撃が得意なのは中国商人の歴史によります。
中国はロシアより社会構造が進んでいる面で共産主義の思想統制・内面支配が緩いだけのことで単なる専制支配+商業社会の焼き直し・現在的表現です。
この限界・市民社会未成熟=言論重視=約束を守る社会に至らない点で、限界に突き当たっているのが現状です。
先端技術を盗む・模倣し身につけるだけでは追いつくには容易でしょうが、自発的にその先に進むには限界がある・・世界を指導する模範社会になるのは無理があります。

Civilian2とCitizen4(信教の自由2)

フランス革命の意義に戻しますと「市民」が,革命の成果として信教の自由=教会の思想審査の特権を廃止し(特定宗教が信徒の思想審査するのは勝手ですが,異端と判定され破門されても信教の自由があれば市民は別に困りません),同時に教会の経済基盤である・中世以来,領主による領地寄進で成り立っていた教会財産(領地)を国有化してしまいました。
西欧で宗教戦争が何故激しく長く続いたかと言えば,ルネッサンスで人間解放を謳いながらも実際には信教の自由がなかったからです。
信教の自由があれば、命がけで戦争までする必要はありません。
ガリレオだって,信教の自由があれば地動説が正しいと最後まで言い張れた・・節を曲げる必要がなかったでしょう
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、ヘンリイ8世( 1491年6月28日〜1547年1月28日)のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配から思想統制からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか。
我が国で言えば信長による比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日)が象徴的ですが,このトキから宗教の権威・呪縛がなくなり日本社会の合理主義が始まったのと時期的にも似ています。
ただし、ヘンリー8世は個人の粗暴性の故に・・破門されるならば別の宗派を建てると言う単なる開き直りをしただけ・・ローマンカトリックから独立しただけでキリスト教社会に留まった点では、信長が目の前で浄土法華両宗派のエリートを集めて宗論を戦わさせて(安土宗論1579年天正7年)合理的な方に軍配を上げるなど時代変革の意識鮮明だったのとは違いますので、社会に与えた効果が間接的で大きくはありませんが,似たようなことになったと言う意味です。
信長は石山本願寺と熾烈な戦いをしていたことを数日前に紹介したように浄土宗支持者は政治の場面では大敵でしたが,(和解したのは1980年ですからこの宗論はその直前・・まだ戦っている最中です)このときの軍配は浄土宗に上がったと言う、うろ覚えです。
法華〜日蓮系の排他的・・自由な思考を禁止する傾向に自由な発想を重んじる信長の合理主義が許せなかったのでしょうか。
叡山焼き討ちは古代から続く宗教意識の権威を木っ端みじんにすると言う信長による時代変革の意図的なものであったので、その後を受けた秀吉〜家康〜幕末まで時間をかけて徐々に,宗教権威をなくす方向が着実に進みました。
家康の頃までは学問知識が佛教を経由していたので,黒衣の宰相コト崇伝や沢庵和尚がまだ権威を持っていましたが、その後紫衣事件などの政変?を経て「学問知識」の源泉が朱子学に入れ替わり,更には陽明学導入で日本人意識の実践的精神・合理化が進んで行きます。
この合理的実践主義の尊重・・経験が明治維新以降の近代化・・現在の現場力の高さに大きな役割を果たしたのはまぎれもないところです。
佛教が知的権威から切り離されて行った経過については、11/28/05(2005年です)「儒教との距離5(定着していた仏教2)前後の連載で詳しく紹介したことがあります。
信長以降捲まず撓まず各種宗教権威が否定され,宗教界は葬式佛教や寺子屋程度あるいは各種興業(相撲巡業や軽業師その他)の場所貸し・・いまでは観光遺産?に地位低下させるのに成功したのです。
この辺,未だに天動説を信じ,あるいはダーウインの進化論など知らない国民が一杯いると言われる・・真偽のほどは分りませんが・・アメリカなどとの大きな違いです。
繰り返し書いていますが日本の社会変化は武士の勃興に始まり何事も数世紀上にわたって少しずつ着実で後戻りのない点が特徴で,この辺が個人的(トランプ氏もその一人にカウントされるのか?)粗暴性で突発的・革命的に起きる西洋とは基礎レベルが違います。
上記のように宗教の権威をつき破る意識改革が意図的・着実に進んだ日本とヘンリー8世の暴挙とは違いますが,ここではローマの教会の権威をコケにしてしまったことがイングランドでの社会変化の切っ掛けになったのではないかと言う思いつきを書いているだけです。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)従来のルールしきたりを無視する「とんでもない君主だった」と言う悪評価に対する再評価の動きがあるようです。
ヘンリ8世が思い切ったことが出来たのは,1つにはイングランド,アイルランドはローマ文化からの中心地から遠い辺境の地でローマ文化・キリスト思想の浸透が遅く半端であった(ケルト族の習慣・信仰が色濃く残っていることは周知のとおりです)ことから早く離脱出来たコトが大きかったように思えます。
もっと古くにはマグナカルタがありますが,もともとローマから遠い上に海を隔てている結果,ローマの権威が及び難かった・・地元民族固有の考え方や生き方がそのまま残り易かったことを表しています。
中世の特色は修道院文化とも言えますが,スペインやフランスなどに比べてイングランド・アイルランドでは修道院が(私の知る限りですが)それほど発達しなかったように見えます。
この辺は同じ漢字文化圏と言っても思考様式が中韓と全く違っている・日本の場合,都市のあり方・住宅様式から衣類・食材文化までまるで違っていますが、それほどではないにしても・・我が国と似ています。
イギリスでマグナカルタが出来,コンモンローが早くから発達し〜弁護士制度が発達し・・今でも国際的に弁護士業界が世界を席巻出来ている原因も,国教会の独立が大きな契機になったかも知れません。
ちなみに我が国サービス業の生産性が低いと言われていますが,・・ラーメン屋・デパートの生産性かな?どうやって計るのか?と思って内容を見ると,国際金融サ−ビス,コンサル・法律海運その他も含まれています。
法律サービスや金融サービス・コンサルも含まれているのでは、M&Aなどのコンサルなどで巨額報酬を得ているのに比べると我が国では企業買収等のコンサル業が未発達ですから,日本のサ−ビス業の生産性が低いわけです。
落ちぶれたりとは言え,イギリスは今でも法律・金融サービス分野ではだんトツで日本が遠く及ばない・国際競争力のある分野です・・歴史は怖いものです。
日本でのフランス革命の理解は、参政権→意見表明の自由・人権宣言の角度中心ですが,フランス革命に倣った西欧的理解では,参政権は派生的成果であって、信教の自由の獲得・・ローマ教皇支配から脱却こそが絶対に譲れない革命の成果でした。
日本では学校で学ぶフランス革命は政体変更(アンシャンレジーム打破)中心ですが,フランス革命の時系列的変化を見ると,一直線で共和制になったのではありません。
政体・・立憲君主主義か共和制かどのような選挙権を認めるかなどは正に(私に言わせれば)「些末な」革命の成果・・バリエーション範疇でした。
短期間の革命進行途中でさえめまぐるしく変わるので簡単に書ききれませんが,最初は(王制前提の)立憲君主主義宣言でしたし,途中で公安委員会が幅を利かす=議会と行政一体制の時代があり、共和制になったりテルミドールの反動があり,ナポレン帝政になり,ナポレオン失脚後王制に戻ったり更にナポレン3世の時代もあります。
共和制になってもいろんな風に政体が変わって来ました・・現在のフランスの政体はド・ゴール将軍の始めた何と第5共和制です。

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