ヘイトスピーチ10(米国憲法論の推移2)

https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf
アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
昨日引用の続きです。

こうした中で、大学でのスピーチコードを支持する立場を明確にしていたのが、「批判的人種理論」と呼ばれる立場に立つ法学者たちである。
・・・・彼らの主張はアメリカの法学界ではあくまでも少数派であり、連邦あるいは州レベルの議論に目に見える影響を与えるには至らなかった・・
ローレンスの議論は、言論と行為の区分を安易に前提にすることの問題点を示すことで、ヘイトスピーチ規制を否定する一方でヘイトクライム法については認めるアメリカの法制度を批判するものである。

※「言論と行為の区別」批判論の前提とするヘイトクライム法は、既存の刑事罰行為をヘイトに基づく場合に刑を加重する仕組み・客観「行為」を必須要件とするものらしいです・・。
本日現在のヘイトクライムで検索するとでるウイキペデイアによると以下の通りです。
ヘイトクライム判決強化法(1994年)[34] — 1994年暴力犯罪制御法執行法の一部として成立しており、差別犯罪をした場合は通常の犯罪の刑罰より反則レベルを3段階厳しくし重い刑を適用するよう米国判決委員会の判決ガイドラインを修正するもの[35][36]。マシュー・シェパード法(英語版)

、殺人罪でいえば、アメリカの場合、1級殺人2級殺人が当てそのほか謀殺とか故殺など細かく分かれているので、これに殺人動機によって刑を重くするように足していくのは比較的簡単です。
ヘイト批判が起きるとヘイト自体を罰するかではなくヘイトに基づく犯罪の場合には、加重要件に加えるかどうかというだけのあんちょこな議論に収束していき易い制度と思われます。
日本の場合、例えば殺人で言えば死刑〜無期懲役〜有期懲役〜執行猶予までの範囲で裁判所が介護疲れなどの動機原因や行為態様や計画性〜被害感情などすべての事情を総合判断して量刑を決められます。
ですから議論としては、ヘイト犯罪の刑を何年にするかの議論よりは、そういう犯罪類型を認めるかの議論が先になりがちです。
ヘイト犯罪が認められれば、千差万別の態様に応じて裁判所が法定刑の範囲内で量刑をを決めれば良いことになります。
この結果ヘイトスピーチが犯罪にするかどうかが、先決的大きな議論になります。
法定刑の幅が広い日本では、日本で罰則を伴わないまでも「ヘイト取り組み法」(私の勝手な略称)ができたことによる価値観的影響・・国家意思としてヘイトを許さないことが公認される(予定でも先取り可)と、量刑に当たって裁判所が犯情に自動的に組み込む仕組みですので、その実務的影響は甚大なものがあります。
不法行為慰謝料も同様で、何をしたらいくらと言う機械的基準がなく裁判所の総合判断で決める仕組みですから、「ヘイトが許されない」という社会的合意が出来ると裁判所は自信を持って高額慰謝料を認定しやすくなります。
実際に京都朝鮮人学校事件ではまだ法制定前ですすが、世論の後押しがあって?1000万円以上だったか?巨額認定があったという報道があった記憶だけで正確ではありません。
川崎の公的施設使用不許可事件もそのような文脈で読み取るべきでしょう。

② 憲法学者のロバート・ポスト
「表現の自由」を擁護する観点から規制反対論を打ち出している。その際にポストが提示するのは、表現の自由の意義は民主主義の維持発展のために不可欠だという議論であり、表現の自由の規制は、仮にそれがヘイトスピーチに対するものであっても、民主主義にとって不可欠な自己決定の概念を掘り崩すものだと主張する(48)。

③ ACLU)(自由人権協会)前会長の(36)ナディーン・ストロッセン
(1)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムの抑止にとって必ずしも効果的ではないこと、またさらに進んで、(2)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムをむしろ悪化させうること、である。ストロッセンがこの2つのテーゼを示すに(1)についてはイギリスにはヘイトスピーチに対する法的規制があるにもかかわらず、それが効果を上げているという証拠が必ずしもないこと、(2)についてはイギリスで1965年に人種関係法がはじめて制定された後、最初にこれが適用されたのがブラック・パワーの指導者であり、その後も黒人や労働組合員、あるいは反原発の活動家に適用されていると述べている(49)
。また別の箇所では、先に触れたミシガン大のスピーチコードについて、白人が黒人を訴えたケースが20件以上あったこと、また実際に罰則が適用されたのは黒人の学生の2例だけであったことを指摘し、やはり規制がむしろレイシズムを悪化させうることを指摘している(50)

3-3 90年代アメリカにおける公民権運動の「継承」
表現の自由の原理は、公民権運動との文脈で強調されたにすぎないという視点の強調?
4 日本の文脈への含意──結びに代えて
・・・2章で言及した政治学者のエリック・ブライシュは、ヘイトスピーチ規制を考える際には、その国ごとの歴史的な文脈性を考慮することが重要になるとしている(57)。また日本の著名な憲法学者である奥平康弘も、アメリカの表現の自由の歴史をまとめた大著のむすびで、次のように書いている。
「ぼくが言いたいのは、従来の問題の局面、すなわち、人びとがそのために犠牲を払いながら挑戦し獲得してきた表現の自由の文脈とはかなり異なるところで、同じ表現の自由を主張するばあいには、それを念仏みたいに唱えるのではなく、その歴史的な正確に適切な形で再構成して語る工夫が必要だろう、ということである。」(58)
・・・日本においてヘイトスピーチをめぐる議論を成立させている歴史的な文脈とは、どのようなものなのだろうか。
日本には一方でアメリカと同様に規制に対してきわめて抵抗が強い土壌があるが、その背景にあるのは、やはり第二次世界大戦の経験ということになるだろう。
ドイツの場合は同様の経験からヘイトスピーチに対して他国よりも強い態度をとることになったわけだが、日本の場合はむしろ言論統制こそが戦争への道を開いたという意識から、逆に「表現の自由」が支持されることが多いように思われる

以上紹介した論文は、アメリカには公民権運動があってそれを保護するためのの表現の自由の強調であったが、(公民權運動が規制されない・昨日引用した通りユダヤ人知識層でも「集団誹謗規制は却って不利」と考えていたことが紹介されています)ためにはヘイト規制を求めると自分たちの運動にもその規制が及ぶマイナスを考慮したと言うようですが、日本にはそういう歴史がないと強調したいようです。
しかし、日本でも米国理論の「相手批判が自分たちにも及ぶ考慮→朝鮮人の過激な日本批判・・天皇や総理の顔写真に竹槍を突き刺すような過激な表現が許されるかの非難がブーメランのように起きてくるのを無視できないでしょう。
「双方ともに行儀良くしてください」というのが、今の国民世論ではないでしょうか?
怒声や罵声を浴びせるような下品な言動は嫌われる筈・放っておけば、市場原理で淘汰されるのではないでしょうか?
実際に在特会に対するカウンター的組織であったしばき隊も、粗暴イメージが浸透した結果、事実上消滅してしまったようにに見えます。
在特会も高額賠償命令に懲りて粗暴な言動を慎むようになったように見えます。

ヘイトスピーチ9(米国憲法論の推移1)

日本の学会では、個々人(法人を含む)の人格批判ではなく「日本民族全体の品格を貶める運動は名誉毀損にならない」としていたので、結果的に、「日本批判し放題」法理論を提供してきました。
ただし法理論がどうであれ、「相手民族を事あるごとにこき下ろしていて」民族間感情ががうまくいくかは別問題です。
これに対する反発が在特会批判として勢いを増したのです。
このあとで市川教授の論文を紹介しますが、憲法上規制が可能かどうかと、規制強化が民族和解に有益かどうかは別問題という意見の通りでしょう。
以下米国憲法判例を紹介するように「集団に対する名誉毀損を問題にしない」判例法理の確立は、公民権運動等のためには集団誹謗を不問にする方が運動に有利とする基礎的考えがあったようです。

以下紹介論文一部の先行引用です。

「同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。」

人権とか憲法学といっても党派的利益の都合に合わせて議論してきたことがわかります。
憲法学をこき下ろす立場から言えば、憲法学なんて政治的イデオロギーを学問らしく装っている政治論争に過ぎないと、20年あまり前に事務所にいた修習生が自信を持って話していました。
今更「朝鮮民族批判だけ許されない」とは言いたいがあからさまに言いにくい状態・・どのように修正すべきか百家争鳴状態・憲法学会でもまだ定説のない状態と言えるでしょうか。
そこで日本民族に対する誹謗中傷が良くて「在日批判だけ許さない」論理として「少数民族批判を許さない」・ヘイトとしたようですが、そうであればちょっと論理が粗雑かもしれませんが、国際世界で日本民族は多数派ではない→「国連での日本批判はヘイトにならないか」の疑問が起きます。
極論すれば、いわゆる被害者ビジネス・・・ヘイトになるか否かの基準は、「被害を訴える方は何を言っても良い」というものではないでしょうが、・・天皇の拡大顔写真に竹槍を突き刺すようなデモ行進をするなど・・・いくら激しくてもこれらに対するヘイト・憎悪表現批判が聞こえてきません。
今後ヘイト論議が深まると「少数派は何をしても良いか?」の議論も俎上に登るべきでしょう。
素人の私が「ああだこうだと考える」よりも、この辺でヘイト規制に関するプロ・憲法論の状況を知っておく必要がありそうです。
まず言論の自由の本家、アメリカではどうなっているでしょうか?
日本の憲法学界論文はアメリカ判例を下敷きにした議論が多かったので、理解の前提としてアメリカの連邦最高裁判例の変遷〜現状を以下の論文引用により紹介しておきます。
結果的にヘイト規制を認めないというのがアメリカ憲法判例の現状ですが、テーマ自体に歴史的文脈」とあるようにこアメリカの結論は公民権運動保護の特殊性による・・(「日本では公民権運動などの保護すべき対象がないので認めるべき?」といいたいけど今は言わない?)と言うのが筆者の意見のようです。
論文は長文のため以下は、要約整理やつまみ食い的引用ですから、気になる方は以下引用先に入って直接お読みください。
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf

アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
──90年代の規制論争における公民権運動の「継承」
キ ー ワ ード :
ヘイトスピーチ、公民権運動、表現の自由、リベラル、批判的人種理論
明戸隆浩 大阪経済法科大学 アジア太平洋研究センター
内容は膨大ですので、項目的に列挙し要約的な引用をしています。
1. 問題と背景
2.アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
2-1 先行研究の検討
2-2 ヘイトスピーチ規制に関する連邦最高裁の判例の変遷
① 1942年のチャプリンスキー判決→喧嘩言葉に表現の自由を認めない判例
② 1952年のボハネ判決→「集団に対する名誉毀損(group libel)」の論理
に依拠してヘイトスピーチ規制を根拠づける・・「集団にも適用可能だとした」リー ディング・ケース
③ 1969年のブランデンバーグ判決は クー・クラックス・クラン(KKK)が集会で十字架を燃やし(23)、扇動的発言を行ったことが、州法に基づいて違法とされたことの合憲性である。
連邦最高裁の判断は、州法を修正第1条に照らして違憲とし、KKKの指導者の有罪判決を破棄するというものだった。KKKという典型的な差別主義者の差別扇動さえ修正第1条の保護を受けるという、現在につながる流れが成立した瞬間である。
そしてこうした判断は1977年のスコーキー事件をめぐる判決でも基本的に踏襲されることになる。そこではホロコースト生存者が多く居住するスコーキー村周辺でのネオナチのデモが条例違反とされたことの合憲性が争われたが、連邦最高裁の判断は、やはり条例を違憲とし、ネオナチのデモの権利を支持するものだった(24)。
その後もこうした傾向は変わることがなく、むしろそれは
④ 1992年のRAV判決によってさらに強化されることになる。
このケースは、ミネソタ州セントポール市の白人家庭が大多数を占める住宅地で、白人少年RAV等が、黒人家庭の住居敷地に侵入し十字架を燃やしたことに対するものである(25)。セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」にはこうした十字架を燃やす行為を規制する条項が含まれており、RAV等の行為に対してもこの条項が適用されたが、RAV等はこの条例が表現の自由を定めた憲法に違反すると主張して争った。
これに対して州最高裁はこの条例を合憲としたが、連邦最高裁は州最高裁の判断を覆し、同条例が喧嘩言葉一般ではなく一部の喧嘩言葉のみを対象としている点で表現の内容に踏み込んでおり、修正第一条に反するとした。
この判決はヘイトスピーチに対する規制を限りなく狭める方向に働き、以後アメリカではヘイトスピーチは事実上規制できないという状況が成立することになる
2-3 転換点としての公民権運動
・・・・・1960年代以降にアメリカで「表現の自由」の原則が厳格に適用されるようになったのは、公民権運動の過程において「表現の自由」が運動を後押しする重要な理念となっていたことが大きい(26)。
ブライシュによれば、当時のアフリカ系アメリカ人や公民権運動の活動家にとって、名誉毀損に対する規制はむしろ障害となると認識されていたという。実際60年代には、公民権運動の運動家の発言がとくに南部の諸州においてたびたび名誉毀損で有罪とされ、その度に連邦最高裁が「表現の自由」の原則に基づいてそれを覆す、ということが生じていた。また、同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。
「表現の自由」の原則はマイノリティの利益を守るためにこそ必要だという考え方が、アメリカ社会において次第に普及していったのである(27)

政党と内閣支持率推移3(劇場型政治から安倍政権へ)

3月2日に紹介したグラフを見るとバブル崩壊後小泉政権を除けば政権獲得後すぐに幻滅に見舞われ短命内閣が続いたのを見ると、新時代に応じた人材養成期間が必要であったことがわかります。
キャッチアップ・調整型政治に慣れ親しんできた社会でいきなり構想力・実現力を求められても、そういう人材が産業界を含めた各種分野で中堅幹部等にしか昇進していなかった・・そう言う人材は海外子会社に飛ばされているなどすから、創意工夫・企画力のある人材が中枢に抜擢され昇進してくるまでの期間が必要です。
その間目くらまし的に劇場型・イメージ・パフォーマンス戦略に走るしかなかったのは・・・政治の足腰・前提たる実業界自全体が従来型キャッチアップ商法からどうやって脱皮・転換するかに苦しんでいたのですから、政治分野だけ成果をあげるようなアイデアがある訳が無い・堅実な裏付けのないパフォーマンスに終始したのは当然です。
パフォーマンス政治=実現性のない格好付け政治スローガンの意味とすれば、バブル崩壊後安倍政権に至るまでの各内閣を見ると、小泉氏以外のパフォーマンスが全て失敗した原因と小泉政権との相違点を見ると小泉氏以外は、鳩山氏の「少なくとも県外へ」同様にすべて前向き政策の提示でした。
バブル崩壊後政治家だけではなく、超円高と中国の開放による超低価格攻勢に実業界もどのように対応するか模索中でしたので、どう言う構造改革が必要か不明のまま「蛮勇を振るって改革する」という期待感を煽るだけでは(裏付がなく実行力を伴わなかった結果)政権発足直後失速した点では鳩山氏に限らず結果からみると保革を問いません。
鳩山氏は何をするか不明の構造改革論と違って「少なくとも県外へ」と焦点を絞った点で小泉劇場同様にインパクトがあったのですが、郵政民営化は国民がそのスローガンに熱狂さえすれば一定の法改正自体可能ですが、基地移転は相手が米国ですし、国内的に見ても移転先の同意・用地獲得などの手当てが必要ですから、熱狂・国内をいくら煽ってもどうにもならない・・スローガンの実現不可能性は素人にもすぐに判明した点で目立ったにすぎません。
小泉劇場の成功の秘訣は、野党の「〇〇反対」と同じ「ぶっ潰す」というだけで新たに何かする提案をしていない、出来もしない前向き政策を提案していません。
現行政策をストップするだけで具体的政治に対する期待感を煽らなかったので、既存政治家にいじめられているイメージだけ膨らませて、いじめられている人に対する同情心・判官贔屓で成功したものです。
「ぶっ壊す」のは、新たな制度構築に比べて権力者にとっては楽なことです。
たとえば道路をつくるといえば道路用地買収から予算までいろんな手順・実務能力が必要ですが、(「少なくとも県外へ」が失敗したのは受け入れ先の同意その他の実務がいるからです)中止ならば実行中の工事の次の工事の発注さえしなければ済みます。
小池氏はその真似をすればいいと思った・・まず最初の大政党を敵に回しての孤軍奮闘のイメージ戦略で有権者の同情心を掴み、都知事になって実際に何かする必要が出てくると築地市場の移転では、豊洲の粗探しで工事中断に持ち込みました。
オリンピックのエンブレムに始まる騒動も全て粗探しに始まって手続き中断を狙ったものでした。
築地移転もオリンピックも目先の注目期間が終わり、何のための中断だったか(停滞の損失)に関心が移る頃に総選挙になったので失速してしましたが、ともかく工事中断効果があったことは間違いがありません。
このように「やめる」だけならば、トップの権限で公約通りに実行可能な点が前向き政策との違いです。
民主党政権での「事業仕分け」が華々しかったのは、事業廃止だけだったので強引無茶な仕分けが可能だったにすぎません。
(馬に水を飲ませないことはできるが)「飲ませることはできない」という箴言の応用です。
革新系のように反対・粗探しによる議事・進行妨害だけならば国民の納得不要で簡単ですが、前向きの政策の場合には国民が自発的に動いてくれないと進まないので難しいので自己満足ではどうにもなりません。
小池氏のオリンピック問題のカラ騒ぎや築地移転のいちゃもん騒動では、以下の通りの大損失ですが関係者の協力不要で先送り可能でした。
オリンピックでは東京都以外の競技場検討というだけ言って大騒ぎした結果、競技場が元の予定に戻るなど関係者は不満だらけですが、国益のためになんとか間に合わすしかない・仕方なしの協力関係になっています。
築地移転に至っては具体的損害が出ています。、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201707/CK2017073102000110.html

2017年7月31日 朝刊
東京都の築地市場(中央区)から豊洲市場(江東区)への移転延期が長引き、築地市場の建物解体工事を都から受注した業者が困惑している。移転時期が不明なため、都が契約解除を求めているためだ。業者にとっては大きな仕事を成し遂げて実績にしたいとの思いがあり、「落札した契約を都の都合で破棄されるなんて聞いたことがない」と反発している。 (唐沢裕亮)

http://ytanaka.g.dgdg.jp/toyosubook/ebook-8.pdf

大騒ぎをし、数百億円の損失を残した、豊洲移転延期騒動は何だったのか

上記では各分野の中断による損害を弾いていますが、省略します。
小池氏は、次の予定された次の工事着工OKの印鑑を押さないだけでは格好がつかないので、過去の決定手続き過程調査が必要と言って時間稼ぎをしていたように見られてしまいました。
パフォーマンス政治脱却に成功した安倍政権(BtoCからBtoBへの実業界の対応が進んできたことが背景)時代になっても、まだパフォーマンス劇場型の小型版・・二番煎じで支持率を維持できると誤解していたのでしょうか。
バブル崩壊後次から次へと政権が交代してもその都度支持率急落の連続でしたが、3月2日紹介のグラフで第二次安倍政権の支持率を見ると、派手なパフォーマンス不要で内閣支持率が党支持率を長期安定的に上回っている初の本格政権になっていることが分かります。
安倍政権が次々次繰り出す政策が良いから経済順調・支持率維持なのか、経済が息を吹き返した時に政権獲得したから支持率が安定しているのかの関係は不明ですが・・。
内閣支持率の安定こそ政敵・野党に限らず中韓等敵対国は、政権党を攻撃するよりは先ずは安倍政権打倒に必死になっているのでしょう。
60年安保以降〜高度成長期以降の野党の動きを見ると体制(政策)選択の主張で競争するのは無理が出てきたので、各種反対運動や国会議事妨害目的になって行き、清水幾太郎がそのように変化していった丸山真男ら主流的文化人らと反目するようになっていったことをFebruary 23, 2018,に紹介しました。
「何でも反対」論は、四日市の公害や熊本の水俣病などによる公害反対激化したころまでは社会的意義のあるものもありましたが、駅前商店街(零細商店)を守れなどの反対になってくると市中心部の空洞化の原因となり、空港立地や高速道路反対・工場立地反対など地域経済に対するマイナスが目に見えてきました。

政党と内閣支持率推移3(小泉〜小池劇場)

バブル崩壊以降は長期低迷打破・・局面打開期待に応じて、就任当初の期待感人気で内閣支持率が高くなるものの実際にはどうして良いか不明時代ですから、就任直後から内閣支持率が急減し政党支持率以下に下がる短命内閣が続いたことが3月2日に紹介したグラフでわかります。
小泉内閣になって初めて恒常的に党支持率を逆転するようになったのは、社会構造の何を大胆に構造改革できたのか、単なるパフォーマンスの連続・目眩し「劇場型政治」が成功したに過ぎなかったかは、(小池劇場はこの模倣と言われましたが失敗しました)私にはわかっていません。
「1内閣1テーマ=郵政改革の成果」だけで「よし」とするかの評価の問題です。
ゆうちょ民営化の原型はすでに中曽根内閣の民営化路線でレールが敷かれていたのですから、無数にある公的事業民営化流れの一つに挑戦しただけです。
小池新党の選挙公約のお粗末さについてその頃に連載しました。
中曽根内閣の民営化は、国鉄民営化等いわゆる3公社5現業に限らず、その後各種広範な国営事業民営化改革に連なり、今や国立大学や国立病院も博物館も今は「国直営の国立」」ではありません。
この動きは国関連の道路公団その他各種公団の民営化につらなり、地方自治体の公益事業や公民館等の民営化や民間委託部門の拡大など今なお裾野を広げつつあります。
上記に比べて郵政民営化騒動は何であったか?日本社会に何を残したのかどのような波及効果があったのかまるで見えません。
金融部門に限定しても、郵貯が民営化されたことによって、日本の金融業務慣行がどのように変わってどのような利便性を持つようになったのか、国際競争力強化にどういう効果があったのか?他の金融機関の進化にどんな影響を与えたのでしょうか?
金融部門の中の1業態・たとえば信用金庫制度をなくす程度?の部分改革・・改革と言えるのか不明ですが、ともかく世の中の不満・閉塞感に訴えるために既存権力システムに挑戦しているパフォーマンスを示しただけではなかったでしょうか?
小泉改革は社会の構造変革ではなく、その後に野党の主張・流行となった隠れ資金・特別会計などの埋蔵金がある筈!運動の先駆け・・財投資金を明朗化する程度で終わったのではないでしょうか?
財務省は豊富な郵貯資金の取り入れによる財投政資金なくなり、その分赤字国債に頼るようになります。
ただその頃に書いた記憶ですが、郵貯資金でも国民に返すべき貯金ですから、いつか返さねばならない国債と実は同じです。
郵貯の場合満期が来てもそのまま更新する人が多いので事実上返さなくて良いのですが、国債だって企業の社債だって借換債を前提にしている点は同じです。
国債や社債の場合、満期時の市場の信認に頼る点が大きな違いのように見えますが・・.郵貯だって高金利時代になれば、相場に金利を合わせないと更新してくれない点は同じです。
小泉政権は自己を目立たせるため自民党の支持基盤解体に挑戦し、支持基盤の弱体化に成功した結果、その後遺症・・支持基盤の再構築に自民党が苦しむようになって短命政権が連続し、ついには野党に転落した原因です。
小泉氏が今でもメデイアや野党系に人気のある所以です。
「自民党をぶっ潰す」というスローガンを掲げて党首になった小泉氏が、自民党の強固な支持基盤であった各地の特定郵便局の解体に向けた郵政民営化攻撃・・・周囲から冷ややかに見られている中でドンキホーテばりの突撃は反自民のメデイアの賞賛・脚光を浴びる文字通りのパフォーマンスで人気取り・メデイアの支援を受ける相乗効果を狙ったものでした。
この辺は「小池劇場」と言われた一連の騒動も如何にも強いものに挑戦するかのような方向性は小泉氏と同じですが、実は相手は本当に強い安倍政権に正面から挑戦せずにすでに15年以上前に退陣した元総理と、猪瀬舛添2人の後任都知事の前に退陣している80代の高齢元都知事をやり玉にあげる点で異常でした。
すでに小泉政権の前の2000年ジャスト頃に退陣した森元総理の主催するオリンピック委員会の既存路線のひっくり返しによりそのボスである森元総理に恥をかかせることから始まり、この決着がつかないうちに築地市場移転問題もひっくり返し、何期(猪瀬〜舛添)も前に高齢化を理由に現役を退いた老人・・社会弱者になっている石原元都知事を公開の場に引き出して(100条委は強制力があります)何年も前の細かな決定経緯を問い詰めるなどでした。
ウイキペデイアの記事です。

百条調査権の発動に際しては、証言・若しくは資料提出拒否に対し禁錮刑を含む罰則(同条第3項)が定められており、国会の国政調査権(日本国憲法第62条)に相当するものである。議会の議決にあたっての補助的権限、執行機関に対する監視機能、世論を喚起する作用等を有している。

不正行為の有無等であれば事実経過確認が重要ですが、政治決定の妥当性については結果に対する政治責任で評価するしかないのが原則です。
結果の妥当性に文句をつけられないから、手続き関与者に質問してイヤがらせしようとしたのでしょうが、パフォーマンスとは言え・・私なども数年前の言葉のやり取りを聞かれても書類記録に残っている以上の個人的記憶はほぼ100%ありません・・・ちょっと筋悪すぎた印象です。
個人が都知事に会った場合には滅多にないことなのでその時の記憶が強いでしょうが、都知事は超多忙で膨大な書類決済しているのですから、何年も前の決済事項を議会証言をさせるために呼びだすこと自体が異常です。
国民や(このままではオリンピックがどうなるのか)都民(市場関係者にとっては移転時期変更のために事業計画が止まったママになっている)ので早くきめてほしいのですから、必要なことは決定手続きが杜撰であったか否の確定(司法手続き)ではありません。
一見して都知事選挙に勝った勢いで弱った相手を吊るし上げようとした「弱いものいじめ」で決定でき兄弱さを隠すための時間稼ぎをしている印象を受けました。
退陣したパク大統領をすぐに逮捕拘留した韓国現在政治の印象を受けます。
議会で老人を吊るし上げても結局何も出ないで、築地移転がどうなるかについては約1年間工事が遅れたただけで終わり、オリンピック計画も見直しすると騒ぎを大きくしただけでほとんど変わりなく終わった印象です。
(地下水問題を解決した功績を言うでしょうが、こう言う不具合は工事進行過程でその程度出るのが普通ですから、その都度修正して行けばいい程度の問題であり選挙の争点だったか?という疑問です)
小池氏の選挙戦略はマスメデイア出身者らしくいかにもイメージ戦略過剰で裏づけになる政策が皆無であったように見えます。
(小池新党の公約は内容空疎であったことを連載しました)
何をするという責任ある政策提言ができないことから、60年安保以降革新系野党の国会戦術・資料が足りないとか審議時間が少ないなど手続き問題ばかり主張するようになった戦術と同じです。
都知事選自体が大政党のバックがないまま健気に闘うイメージで票を集めたものでしたし、その後は勢いに乗って個別に敵役を作りターゲットにする戦略で注目を浴びただけでその先何の展望・どうするかの政策が一切なかったのですぐに失速しましたが、国民はすでに内容のない小泉劇場を経験していたこと・個人攻撃に特化した点を嫌った・・見る目が肥えていたことが大きかったでしょう。

政党支持率と内閣支持率推移2

福田内閣で安定成長軌道に乗ると再び党高政底(リーダシップ政治不要?)に戻ります。
あ〜とかう〜とか何を言っているのか、まるで不明な発音が普通であった大平氏を筆頭に鈴木善幸〜最後は(大平氏に比べて発音ははっきりしているが)「言語明瞭意味不明」と言われた竹下など基本的に「寝業師」中心で何をどうするのか不明の時代が続きました。
この間、政治目標をはっきり主張していたのは「青年将校」と言われていた中曽根氏だけです。
若い頃から総理公選制を唱えるなど主張のはっきりしていた彼が遂に政権を入手すると長期政権になったのは、三角大福中の政権争奪者の中で年齢が一人大幅に開いていた(若かった)からと言われていますが、日本の経済力が警戒されて国際包囲網が形成されていく中で、相応のビジョンを持って国際的人脈形成をして世界に飛び込んで適応できたことがわかります。
人脈的にはいわゆるロン・ヤス関係を構築し、貿易面では国営企業を減らして国内経済では国鉄その他の民営化実現などの自由経済化を進める改革を行うなど国内で痛みを受け入れるべきは受け入れ流などの成果をあげました。
国鉄とJRとのサービス精神の違い超赤い自他室が黒自体室に変わっただけではなく・・その頃を期して公務員の姿勢が民間並みに変わったのを見れば結果的に大きな改革でした。
国際政治的には不沈空母発言等で西側諸国になくてはならない存在を強調するなど第二次世界大戦前夜のような孤立の再現を防ぐのに成功していたことがわかります。
プラザ合意でひどい目にあったという意見が主流ですが、一定の痛みの受け入れによって円高でも稼げる筋肉質の企業に変身させ、他方黒字を稼ぐばかりではなく、儲けを国内還元する・・内需拡大→生活充実・文化度アップに切り替えた功績は偉大です。
このコラムで「失われた20年というが、日本の身近な生活水準が目に見えてよくなっている」ことを繰り返し書いてきました。
内需無視で輸出で儲けるばかりでは国民も不幸ですし、商人や製造業者は一定の儲けがあったらその段階で家族・従業員国民にその利益を還元し国民の消費・文化度アップできてこそ、儲ける意味があります。
韓国の苦しみを見るとここ1〜2年貿易統計上空前の黒字を稼いでいる筈なのに、国民に還元せず国民の多くが低賃金や失業や負債増加に苦しんでいるアンバランスがあり、そのはけ口として文大統領が率先して自分が不法占領している竹島問題を持ちだして日本を刺激し、あるいは解決済みの慰安婦騒動の蒸し返しを図っています。
中国も実は貿易黒字が大きいのですが、国威発揚のために戦略的に無駄な海外投資(軍港確保目的にインフラ融資をして返済できないと港湾を取り上げる高利貸し商法)をしたり、内需(無駄なインフラ投資ばかりで国民を豊かにする消費支出)に回せないために、国民の生活レベルが低いままです。
この不満のはけ口にするために対外強硬主義に走るしかなく、何でも「死活的国益だから譲れない」と息巻いて相手国を恫喝する傾向です。
いくら威張っても、日常レベルの低さを知っている日本人の多くが気にしない・中国人民自身が日本の豊かな生活が憧れの対象になっている要因です。
何かあると譲るのを拒み「国難」だといきり立ってその都度仕返しだと騒いで対外的強硬策で孤立するのが良いものではありません。
中国は国内改革・痛みを拒んで・・開き直って、逆にこの1〜2年で見ると成長が止まった生産過剰分を民間に圧力をかけてどんどん潰して国有企業温存策に転じた上で、国内不満対策で対外強硬策になっているのを見ると、日本が戦前に突き進んだ轍を踏んでいるように見えます。
日本の対米戦は、短期的に見ればアメリカに戦争に追い込まれた面がありますが、その前に「満州死守が我が国の生命線」というような頑なな対応が遠因になっているという反省が必要です。
今になっての後講釈ですが、そのとき少し譲っておいても生命線でも何でもなかったことがわかります。
中曽根氏は小派閥の長でしかなかったために、時の主流派に正面から抵抗できないために妥協を重ねて政界風見鶏と言われ続けましたが、ともかく潰されないで生き残ったことで国鉄その他民営化の大業を歴史に残せました。
この時期には、もはや共産主義か自由主義の選択の時代が終わり(勝敗がついていたので)自由主義陣営内の競争選択の時代が来ていたのです。
内閣支持率が下がっても日本経済が上昇基調にある限り、党の支持率(体制選択不要・社会党/革新系支持率が上がらない)変更にはならなかったことがわかります。
一方で日本の国力増大(1968年西ドイツを抜いてGNP世界2位)→国際的地位・関係が微妙になり始めた時期でもありました。
ニクソンが電撃的に中国訪問(1972年)し、自陣営に引き入れて共産主義陣営の中ソ分断に成功し、一方で西側陣営内で頭角を現わしてきた日本外し(中国による日本批判を裏で承認する方向性)に動いていたのですから、複雑な国際政治経済が始まっていました。
国内政治が複雑になっただけではなく、自由主義陣営参加で占領軍支配以来のやり方・・・アメリカのいうとおりしていれば済む時代でなくなってきたのです。
一方で欧米諸国は、第二次世界大戦の教訓もあって日本を重視する方法も用意していました。
世界の重要事項を決める大国の首脳会議の場・サミットが結成され日本が創立メンバーに入ったのもこのころですがいわば、欧米多数の中に一人アジア人が入っても何も言えない・・「一緒に決めましたよネ!という約束させれる場を作られたようなものです。
その意味はいわゆるプラザ合意も同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
第1回先進国首脳会議は、1975年11月15日から17日までフランスのイヴリーヌ県ランブイエで開催された先進国首脳会議。通称ランブイエ・サミット。
参加者 ヴァレリー・ジスカール・デスタン
ヘルムート・シュミット
アルド・モロ
三木武夫
ハロルド・ウィルソン
ジェラルド・フォード
ニクソンショック〜プラザ合意以降自由陣営内で日本包囲網が形成される時代ですが、日本の選択として中ソ陣営に鞍替えする余地のない時代でした。
キャッチアップ時代が終わって以降現状維持・調整型政治では困る・・構想力・現状打破力プラス国際政治の荒波をくぐり抜ける能力が問われる時代が到来していることになります。
戦前独ソ不可侵条約締結に際して「時の平沼騏一郎内閣は、『欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた』という声明を出し、総辞職してしまった。」http://www.y-history.net/appendix/wh1505-010.html)ようなことの繰り返しでは困ります。
プラザ合意により、超円高〜バブル崩壊後「失われた20年」が始まりました。
「失われた20年」(ただし私は成長の足踏みが続いた結果、より良き日本文化が成熟できた良き時代であったと考えていることを繰り返し書いてきました)の始まりの閉塞感打破を期待されるようになって、トップ交代に対する期待感が再び強まったものの誰がやってもうまくいかない時代が続きました。

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