再婚7と養育費支払1

 

児童手当法を04/05/10「母子一体感2(児童手当法1)」で紹介しましたが、児童手当を受け取るときは血の繋がった親かどうかを問わない仕組みなのに、養育義務の方だけ同居している再婚相手の男に認めない・・その分別居している元の父に課するのは片手落ちの制度・思想です。
実際刑法的に見ても同居している義理の父が折檻目的で連れ子に食事を与えないなどして死亡させれば、保護義務者として遺棄罪に問われるでしょう。

刑法
(遺棄)
第二百十七条 老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、一年以下の懲役に処する。

(保護責任者遺棄等)
第二百十八条 老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、三月以上五年以下の懲役に処する。

(遺棄等致死傷)
第二百十九条 前二条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。

上記のとおり、養育費支払義務だけいきなり血の繋がった親と言う根拠を持ち出すのは、いろんな法律と整合していない感じです。
妻の再婚相手の男がせっかくの負担適格者・やる気のある人であっても、彼に対して、「血のつながった父親の責任であって、あなたは無責任です」と教育する現在の法理論・制度は全体的整合性から見て誤っています。
子供の躾・教育に関しても同居している次の夫が父親役として責任を持ち、子供もその指導に従うべきであって相互に血のつながりがないから関係がないとするのは許されない筈です。
子供の方も血の繋がりがないからと言って、母の再婚相手を何々さんと名前で呼んだりせずに「お父さん」と敬語で話すのが普通ですが、法的には関係がないと言ってしまうのは、実態と合っていないのです。
犬だって、血は繋がっていないのにその犬の買主をお父さんお母さんと家庭内では呼び習わしていますし、他人に対しても「お宅の何々ちゃん・・」と子供のように表現するのが普通です。
明治の家制度で戸主の扶養義務を後に紹介しますが、「家にある」親族かどうかが扶養義務の基準でしたが、明治の制度では観念的な家・・田舎に残った戸主と都会に出た弟夫婦でも同じ家にあることに擬制していましたので無理がありましたが、本当の一戸の家(今ではアパートやマンションも含め生計を一にしている限り)に同居している限り親族だろうとなかろうと同水準の食事や待遇をするのは人倫の基礎とすべきです。
(他人だって食事時に一緒になれば、一緒に食べましょうと声をかけるのが普通です)
ちなみに現行法でも姻族3親等までは親族ですから、妻の連れ子は当然親族になります。

民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
  第二章 戸主及ヒ家族
 第一節 総則
 第七百三十二条 戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス

第四編 親族(現行条文)
   第一章 総則
(親族の範囲)
第七百二十五条  次に掲げる者は、親族とする。
一  六親等内の血族
二  配偶者
三  三親等内の姻族
(親等の計算)
第七百二十六条  親等は、親族間の世代数を数えて、これを定める。
2  傍系親族の親等を定めるには、その一人又はその配偶者から同一の祖先にさかのぼり、その祖先から他の一人に下るまでの世代数による。

婚姻事情

現在の若手婚姻生活事情の続きですが、夫婦は困った時にこそ助け合うものとする我々世代(これまで書いて来たマイホーム主義)の考えからすれば、夫婦になっても10月30日から31日まで書いたように経済的助け合いさえしたくない世代(いつも書きますが、全部と言う意味ではなく、最近増えて来た傾向を書いているに過ぎません)になってくると、一方が困った状態になると助け合うよりは直ぐに離婚に結びつきやすくなります 。
こうした関係は企業と従業員の関係でも同じで、私が弁護士になった頃は刑事事件になると雇い主が心配して頼みに来たものですが、ここ20年ばかりでは逆に交通違反等で捕まると勤務先に分らないようにしているのが普通です 。
勿論親戚の伯父さんが連れてくることもなければ、親子関係でさえ、いろんな事件が起きても親が息子のために弁護士を頼みにくる人が皆無と言えるほど減って来ました。
こうした風潮の一部でもあるでしょうが、事件を起こすと妻が夫のために骨を折るのではなく離婚事由として追求する立場になって来ます 。
病気しても単なる知人関係では最近見かけないなあ・・・と縁が遠くなって忘れられるだけですが、妻の場合は一定期間看病等してくれる点は有り難いのですが、長期になってくると離婚事件に発展して来ます。
こうして見ると知人・親しい友人・夫婦との差は・我慢してつき合ってくれる期間の長短・・相対的な関係になって来ました 。
こうなってくると、男女が一緒に生活をする関係を結婚と言うか同棲・ルームシェアーと言うか言葉の遊びに似て来ます 。
いずれにせよ今後の夫婦関係は軽い関係が求められ、重たいのは嫌われる関係になって行く様子です。
資金持ち寄りの都合のいいときだけのカップルになってくると子供を産むと一方に大きな負担がかかるのが厭と言うことで結婚しても子供生まない前提のカップルが増えて来ます。
こういう関係の場合、性欲おう盛な初期は良いですが、一定期間経過して熱が冷めると双方ともに何のために一緒にいるのか不明・・疑問になって来ます。
2010-10-30「婚姻率低下3」の続きですが、家に帰ってから、家事労働したり子供の面倒を見るくらいなら一人でいた方が良いと考える男が増えてもおかしくないでしょう。
今でも亭主関白・強気で押せる自信のある男は、恐怖政治同様のやり方・・・暴力系・粗暴な男だけでしょうか?
女性の方は粗暴系と一緒になりたがらないので、その系統の男性はこれからでも結婚したい意識が持続するとしても、そもそも女性が受け入れない・・結婚のチャンスすらなくなりつつあります。
間違って粗暴系が結婚出来ても、家庭内暴力を法的に禁圧するためDV法や児童虐待防止法が施行されていますし、警察も家庭内の暴力でもどしどし取り締まる方向性を打ち出しています。
こうなると粗暴系男子もウカウカと暴力(ちなみに言語の暴力すら今や問題です)で威嚇出来ませんし,せいぜいDVで訴えられるまでの短期間だけの天下です。

マイホーム主義の終焉3

現在の若手法律家は、昔ほどの高収入が保障されていないことは確かですが、(合格者数が我々の時代に年間500人だったのが今や2千数百人以上になっているのですから数字的に明らかです)今よりは高収入の保障されていた私たち世代の前後各15〜20年の女性弁護士や裁判官のほとんどは、出産後もそのまま夫婦で現役を続けています。
最近の女性が何故出産時の現場離脱が出来ないかですが、その頃は世の中の仕組みの変更が今ほど激しくなかったことから、出産前後に数年程度ブランクがあっても大したハンデイではなかったことが大きな違いと言えるでしょうか?
何しろ最近の制度変更はめまぐるしいものがあって、ホンの数年前にやったパターンの事件をやろうとすると裁判所の要求する書類や運用等が大幅に変わっている等で驚くことが多いのですが、毎日目一杯仕事をしていても驚くくらいですから、数年間仕事を完全に休むには勇気がいる時代です。
医師の世界も同じで、(制度変更は時間がかかりますが、現場の技術変更・進歩はもっと小刻みに激しいでしょう)医療技術水準の変更、薬品の変更が日進月歩ですから、(医療過誤の判断基準はその医療行為時の医療水準に合致していたかどうかです)数年もブランクがあると追いつくのは不可能と言えるかも知れません。
例えば薬剤を処方するのに半年前にはたとえば「a,r」と表示すればある薬に決まっていたのが、半年の間にその変化系の薬が何種類も出回っていて、「a,r」の次に別のアルファベットを書かないと従来とは別の薬になってしまうと言う極端な事例が起きてもおかしくありません。
それを知らずに以前の知識で処方すると大変なことになります。
この話は薬剤師から聞いた話ですが、薬剤師も現場を離れてわずかに半年で復帰してみるとちらっと見て知っている薬だと思っていると、実は英語の語尾が少し変わっていて別の薬だったこともあるそうで、過去の知識がじゃまになるリスクもあるようです。
カルテは頭文字だけの略語で書くことが多いので却って誤解が生じるようです・・医師に問い合わせると現役の医師自身でさえ別の薬が出来ているのを知らなかったりするそうで、これは医薬分業のメリットとして聞いた話です。
このように最近の変化はあらゆる分野でめまぐるしいので、現場を離れて数年もすると使い物にならないリスク・・これがいろんな職種・・専門分化しているあらゆる職種に蔓延している様子です。
これが高学歴層の少子化の基礎的原因ですが、これの解決策については04/05/09「ワークシェアリングと医師不足問題」や少子化対策に関して今年の5月初め頃から07/06/10「(1) 保育所の民営化」ころまでののコラムで連載しました。
今回のシリーズは、子を産むことも出来ない結果としての結婚事情の変化についての関心・・・別の視点で書いています。

マイホーム主義の終焉2

我が国の専業主婦層(団塊世代の前後15年くらい?)が豊かな生活を必須の前提としながら、夜中に寝に帰るだけの夫を非難して不満を募らせていた・・これが熟年離婚に結びつき、あるいは女性が外に働きに出る動機になっていたのですが、これは矛盾した願望に基づいていたと評価出来ます。
アメリカのまねをするのは無理だとすれば、貧しくともゆとりのある(老荘型の)生活を選ぶか、稼ぐ方(時間に追われる生活)を選ぶかとなって、多くは猛烈に稼ぐ方に傾斜して行き我が国の高度成長とその後に続く経済大国が実現出来たのです。
このために、昭和40〜50年代には時間泥棒とか老荘型生活へのあこがれをテーマとする話題が多く出て来ましたが、働き過ぎに傾斜する社会心理の葛藤を表していたのです。
研究職や専門職(例えば弁護士や医師その他)では、かなり早くから女性も含めて夜昼なく研究室や事務所へ出入りしたりしていて、家庭生活はおまけみたいになっていましたが、(エリート以外では芸能界は昔からです)今では研究職にとどまらずちょっとした専門職・高学歴層ではみんなそうなっていて夫婦であることそのものの意味が問われる時代が来たと言うことです。
我々の知っているその他の専門職では(学者や法律家その他専門家と言えるかどうか境界的な各種業界まで裾野が広いですが、おおむね)高学歴層の女性が結婚を機に隠退しないでそのまま活躍している(出産しないまま)そのためには夜遅くまで職場に張り付いているのが普通になって来ました。
ただし不思議なこと(今のところ私に原因が分からないだけ)ですが、医師界に関しては家庭に軸足を置く女医さんが今でも多いらしく、一人前になるまでの猛烈修行はするものの、多くの女医さんが結婚・出産を機に引退する傾向にあって、せっかく巨額の国費をかけて養成した医師不足が社会問題になっていますが、これは例外でしょうか?
専門職の中で医師だけが何故例外になるのかと言う疑問ですが、医師同士の結婚が多いので、妻が働かなくとも豊かな生活をするのに困らない以上は、マイホームの夢をそのまま追えるのだからその夢を追いたいと言うことでしょうか。
特別な使命感なく勲章的に受験した女性にとっては、めでたく資格を取得し且つ高収入の医師と結婚してしまえば後は家庭でゆっくりしてその成果を享受したくなるのは当然(の権利)でしょう。
最近の若手女性弁護士・裁判官・検察官が結婚しても出産をせずに夜遅くまで働いているのは、(その結果40代まで子供のいない夫婦が圧倒的多数と言えます)元々こうした資格取得の動機が大分違うことに加えて、その基礎的環境としては若手医師ほどの高収入が保障されていないことが大きいのでしょうか?

マイホーム主義の終焉1

 マイホーム主義の終焉1

そもそもアメリカで、中産層の夫が毎日早めに帰って来て理想的な家庭を築けたのは有り余る資源を元に実際の働き以上の富を手に入れていたからに過ぎません。
日本で言えば近郊農家の息子がアパートの家賃や地代その他の収入があるので軽い仕事をしていても豊かな生活が出来るような状態にアメリカがあったと思えば良いでしょう。
今でこそアメリカは資源輸入国ですが、私が中学生の頃に習ったアメリカは、工業製品だけではなく石油も石炭も鉄鉱石・食料もほとんどの分野で輸出国で資源の有り余る国でした。
有り余る資源を輸出しながら工業製品も輸出競争力があったのですから、猛烈に働かなくとも普通の中産階級が芝生やプールのある豊かな家庭生活を楽しめたのです。
アラブ諸国で効率の良い原油生産が始まってアメリカ国内の原油生産が価格競争力を失い(埋蔵量がなくなった訳ではありません)資源輸入国になって来ると従来通りの贅沢な暮らしを続ければ(農家の息子が家賃収入等がなくなったのに以前同様に自分の働き以上の生活を続けているようなもので、)アメリカが貿易赤字になるのは当たり前です。
この頃から、アメリカでも夢のような豊かな生活が出来なくなって来た筈です。
日本ではアメリカの最も豊かな時代を背景にゆとりのある働き方で家庭を大事にする生活スタイルを見せられて、女性はこれこそあるべき家庭像だと思い込んだのです。
しかし日本は資源がないので豊かな生活をするには、(近郊農家の息子以外は)その分より多く身体で稼ぐしかないのですから、豊かな生活(所得倍増計画)は夫が残業・休日出勤することで叶えられるのですから、家庭で夫婦がゆったりと楽しむ女性の夢は(芝生の庭付きの家庭を築くことと)矛盾していたのです。
またアメリカのホームドラマでは女性が家事に追われる場面が出て来ませんが、周知のように我が国以外では、異民族が混在していることからベビーシッターやメード等が発達しているのに対し、いわゆる同質社会の我が国では中産層では(賃金格差が少ないので)すべて自前ですから、奥さんは大変です。
そこで、アメリカ型を理想とするマイホームの夢はほとんどの場合、環境が整わずに実現出来ないか破綻して行くしかなかったのです。
このように豊かな生活には裏付けがいるとすれば、妻が豊かな生活を求める限り豊かな生活を提供する義務のある夫は猛烈型に働かざるを得ません。

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