中国式世界秩序1(泥棒の開き直り)

領土を武力で奪い取ってはいけないと言う法理は、アメリカが勝手に作ったのではなく、両次の世界大戦を経て人類(国家間において)の智恵として形成されて来た普遍的な法理です。
元々個人間でも腕力で他人のもの奪い取って良いという道徳教育している国は古来からどこにもありません。
個人間の普遍的原理を国家間にも及ぼすべきだというようになっただけです。
中国はまだ国としては未成熟で子供のような段階(ギャングエイジ)ですから、この法理を理解出来ないで腕力に任せて世界秩序に挑戦しようとしているようにみえます。
中国の世界秩序破りは新たな価値観を主張しているのではなく、子供で言えばいじめっ子、大人の世界で言えば警察力の低下に乗じて山賊・海賊・ヤクザ集団が町中でのさばっているような状態です。
人の作った知財を剽窃しても気にしない価値観の中国は、(法律上は禁止していますが実際には守る気がないのですから・・)単的に言えば泥棒(に限らず汚職蔓延→各種規制潜脱・・例えば知財であれ公害規制であれ、一応あるもののお目こぼしが多いので殆ど守られないなど・・)が許される意識が蔓延している社会です。
これらを放置し事実上奨励しているうちに国民が違法行為に自信を持って来て・・泥棒がこそこそしなくても良くなって徒党を組むようになって、強盗集団化=軍事行動化して・・国外にのさばるようになってきたことになります。
大気汚染・公害も周辺国に流出し始めました。
現在の周辺国侵略行為は公害輸出同様に泥棒グループが強盗集団=国家に転化して、国家としての強奪行為を堂々と始めた状態と言えるでしょう。
国民を専制支配したり、弾圧してはいけないという原理・民主制・人道主義の原理も、欧米が勝手に作った不当な秩序ではなく、個人間で言えば至極当然の法理を国家規模に引き上げたに過ぎません。
中国は古来からの専制支配が中国的価値観であり、これが正しいと自信を持っているのか?腕力に任せて、人類の到達した普遍的原理に対して挑戦しようとしています。
知財は剽窃し放題・・・領土は侵略し放題・・少数民族や国民の反抗に対する過酷な弾圧をする社会・・このような価値観の中国が自国並みの専制支配地域を広げようとすることが、正義の観念に合致するのか・・中華帝国の栄光の復活というスローガンを掲げるのみで、正義の根拠を示せていません。
ウイグル族に対する支配強化・一種の人種浄化・・漢語を話さないと就職出来ないように仕向けて次世代からウイグル語を駆逐しようとして長い期間が経過しています。
これに対する反抗に対して容赦ない弾圧政策を実行しています。
漢民族にのみ都合の良い専制政治が出来る空間を世界中に広げようとするのが、中華帝国の栄光復活?政策です。
ソ連の場合コミンテルンという組織を通じて、国内の相次ぐ粛清や世界支配の野望を(真実は正しくないとしても一応)正当化していましたし、日本の知識人・文化人はこれを信奉して北朝鮮を含めて共産主義社会が如何に素晴らしい理想の社会を実現しているかを宣伝していました。
大躍進政策の大成功の宣伝や文化大革命が如何に偉大で素晴らしいものであるか、毛沢東語録が如何に素晴らしいかを若者に宣伝教育していたので、これに乗ってしまった純真な若者(被害者)が多くいたように思います。
旧ソ連が根拠としていたコミンテルン思想とは違い、解放後の中国の場合、国内異民族や周辺国に対して露骨な圧迫をすることに対する正義の根拠を、日本の左翼文化人に対しても示せていないらしく、トンと中国礼賛論を聞かなくなりました。
中国が現在国際秩序に取って代わるべき新たな正義感を何ら提示できないまま、強引に周辺国への侵略を開始しつつある以上は強盗の論理で理解するしかないでしょう。
中国支持者は、中国の内政での異民族弾圧や対外的侵略行為について正当化する議論が出来ないために、これを直視する議論が不要であるとして、集団自衛権に関する解釈変更自体が違憲で許されないという入り口論に固執しているようです。
現在の中国膨張主義の実行に対して、何の議論もいらないし行動指針の変更も不要という立場は、結果的に現状(中国の侵略行為)を放置すべきだという政治的立場の意思表示に外なりません。

異民族との同居コスト1(アフリカ等独立国)

部族・民族に独立せずに国内にいろんな部族が併存している結果、アフリカ諸国では、今でも国内の部族間紛争が中心で、隣国との戦争というパターンは仮にあっても例外です。
国内部族間戦争の結果、正式戦争でない結果、捕虜や非戦闘員に対する戦時条約の適用もないし、(コソボ等の戦乱もそうでしたが・・)却って大量虐殺に発展しがちです。
そもそも異民族がグループで同居し、且つ家計(財政)を1つにするのは、無理があるでしょう。
特に後進国では、資源のある地域に住む部族と、資源の恩恵を受けない地域の部族間で紛争が絶えないのは財政(ふところ)が1つであることによります。
クルド族問題やウイグル族などの紛争が絶えないのも、豊富な資源があるのに、中央政府に収奪される点に問題があります。
ウクライナの分離問題も東側の独立を求める地域は工業化が進んでいて西ウクライナと発展形態が違う点に基礎的な問題がありそうです。
スーダン内戦もつまるところ資源争いだったような面があります。
違う部族や宗派のグループが入り組んだ形の独立をさせたのは、よくある陰謀論によれば、アフリカの発展を長期的に阻害するために欧米が仕組んだ罠と言えるかも知れません。
アフリカに限らず多民族混在の結果、長年バルカン半島が欧州の火薬庫と言われてきましたし、最近(と言っても10数年経ちましたか・・?)でもセルビア・モンテネグロ・クロアチア・コソボなどの(今では別の国になったので)内戦と言うか大紛争があったばかりです。
ドイツがEU内で一人勝ちの勢いに乗って南欧諸国から大量に移民(異民族)を受入れていますが、いつか景気が落ち始めた時点で異民族大量流入のマイナス効果(二代目の教育コスト・治安など)が出て来るので、そのときには不景気との二重苦になりかねません。
日本ではアベノミクスの効果で労働力不足が喧伝されていますが、働きたい国民がみんな働けるのは良いことでこれほど幸せなことはありません。
人手不足だから外国人を入れろと言いますが、国民のために政治をしている筈ですし、企業も国民を食わせるためにあるのですから、国民がみんな働ければそれで良いじゃないですか?
好景気の後は一定期間経過で必ず不景気が来ますので、この後不景気が来たときに失業者が増えるよりはいま我慢しておけば、不景気が来ても失業者が多くなりません。
経世済民・・経済政策は、民を豊かにするためにあるのですから、国民が目一杯働いても労働力が足りないほど職場が一杯あるのは目出たいことです。
企業が国民の福利のためではなく、異民族を使ってでももっと儲けたいならば、海外展開してそこで現地人=異民族を使えば良いのではないでしょうか?
国内に異民族を引き入れて国内生産すれば、見かけの国内総生産は増えますが、国内労働者にとっては何のメリットもありません・・。
関係があるとすれば、水増しが入って来ることによって賃金上昇が抑えられるなど労働条件が低い方に引き寄せられる可能性があるくらいでしょう。
導入論は賃上げが進めば、困るという立場の主張でしょうが、賃上げが困るならば省力化の工夫が進むメリットがありますし、その他労働条件改善の工夫(女性や障碍者が働き易い環境にする工夫を凝らすなど)も生まれてきます。
これが面倒だから、海外脱出が進むという危惧があるでしょうが、そうなっても人手不足・・失業者がいないならば国民はそれで困りません。
タマタマ今朝の日経朝刊の27Pの経済教室には、日頃から私が書いているのと同様の意見が、学者らしくまとまって紹介されています。
人手不足とは言ってもまだ200万人も失業者がいるのに人手不足(例えば介護現場)になっているのは、待遇改善努力が足りない・・これを放置して劣悪待遇でも働きたい外国人を入れようとするのでは解決にならない・・その他いろいろ、普段から私がこのコラムで書いている意見(おこがましいとは思いますが・・)同様です。
私の意見よりまとまっていますので詳細は上記記事をお読み下さい。

集団自衛権4(予測の複雑さ)

過去にあった社会現象ならば認識が簡単かと言うと、慰安婦問題、太平洋戦争の原因は何かなど過去の歴史事実だっていろんな意見があるので簡単ではないと言えます。
ただ、歴史論争は、過去にあった大量の資料のうちどれを重視するかの問題ですが、将来の事象になると現存する客観資料の取捨選択だけではなく、将来が到来するまでの間に、相手方も日本の防衛準備を見て変更余地がある分、不確実性が増します)
一般に予測というものには、客観事実を前提にその先を予測するもの・・たとえば東京駅で何時何分発新幹線に乗れば大阪に何時に着くという予測は、いろんな人間の営みに支えられているとは言え関係者の自由意志によって遅れるようなことは滅多にないので、言わば自然現象の予測に似ています。
雨が降りそうだからと傘を持って出たら、雨雲が人間がカサを持っているから雨を降らすのやめようと変更しません。
ところが政治や経済現象の将来予測は、その間に自由な人間の意思力によって相手の出方によって途中の方向転換が可能なので、どんな風にも変わってしまいます。
選挙で優勢の予想が出れば支持者が安心してしまって運動エネルギーが弱まる外、双方から頼まれていた人は絶対優勢の方は大丈夫だろうからきわどい人に投票しようとなって最下位予想の人がトップ当選し、絶対優勢を予想された方が落選するようなことが起きます。
自衛力を充実すれば、相手は方向転換して日本より弱そうなところに勢力を伸ばそうとします。
その他の国も充実すると、どこにも攻めて行けずに平和国家のフリ(養光韜晦)に戻るかも知れません。
日本に攻めて来ずフィリッピン等にも攻めて行かなかったから、無駄な自衛力だったと言えるかと言う議論になります。
集団自衛権の是非の議論に戻りますと、国防に関しては、非嫡出子判例のように過去のある時点の社会実態調査ではなく、現時点の判断である分だけ(情報が充分に行き渡る期間がない結果、前提事実なしの「解釈変更は是か否かという単純質問の場合、)意見も分かれるし難しいところがあります。
国防に関しては、具体的危機が迫ってからの世論変化→与党内擦り合わせに半年〜1年→法改正→同盟国との協議開始→実戦配備の訓練等をやっていたのでは間に合いませんので、5〜10年先の動向を見据えて今から議論しておく必要があります。
そこで10年先の動向を踏まえた現状がどうかですが、2014/04/18「無防備平和論と周辺国の実情2」前後で書きましたが、今やアメリカに頼って無防備のままではどうにもならないほど危険な国際情勢になっています。
今朝の日経朝刊では、多数の中国漁船(多分漁船を偽装した軍関係者でしょう)がベトナム漁船を取り囲んで体当たりを繰り返した結果、ついにベトナム漁船が沈没した(別のベトナム漁船に救助された)と報じられています。
相手が抵抗できないとなればどこまでもエスカレートして行くのが中国のやり方です。
同じく日本の哨戒機の何十メートル近くまで中国戦闘機が接近したと1昨日から報道されていますが、日本の抗議に対して「撃墜されなかっただけ有り難いと思え」というのが中国の反応です。
現在〜近い将来はアメリカ一国による安全保障の提供では物足りなくなって来たことが背景にあって、「弱小国同士が相互に助け合いましょう」となって来たのは当然の議論です。
圧倒的武力をもっている国や組織が治安維持してくれるときには、個々人は丸腰・非武装でも安全です。
戦後アメリカが警察官役を果たして来たので、我が国に限らず東南アジア諸国・・フィリッピンあるいは島嶼諸国は、元々国境観念が少なく国単位で隣国と大規模に紛争して興亡した経験がなかったこともあって、国防意識が希薄だった結果外敵の侵攻に対する備えが足りない・・準備不足である分、余計に助け合いが必要になっています。
アフリカの国境線は植民地支配国の勢力範囲の線で決まったものであって、民族や部族の生活圏とは一致していないことが有名ですが、インドネシアやフリッピンも植民地支配の範囲を1つの国にしたと言う点では変わりません。
多数の島々が植民地になる前から一体感を持って行動して来たことがありません。
インドネシアでは島ごとに言語が違って大変だったらしいですが、日本支配のときに日本得意の教育制度を取り入れたことで急速に言語の統一化が進んだと言われています。
ただし、ウイグル人等に対して漢語を強制する中国のように日本語を強制したのではなく、日本のばあい、台湾やフィリッピン、インドネシア等では、現地の多数言語の教育システムを構築しただけです。

中国の膨張策と集団自衛権3

集団自衛権の政府解釈変更の是非についての議論は、政府答弁をしたときと現在の国際情勢に変化があるのかないのか?あるとしたらどの部分でどのような変化があって、集団で自衛をしないと(日本一国だけの自衛が可能か)どうにもならない状態になりつつあるのか等について実証的に議論することが必須です。
集団自衛権行使の是非については、強引な中国の領土・領海拡張要求に直面しているアジア諸国における弱者連合の必要性・合理性の有無を議論すべきです。
実態に関する議論をタブー視・無視して、解釈変更をすること自体が違憲になるという議論は、必要性の有無程度に関する実証的な議論に入らせない効果を期待しているのでしょう。
今朝の日経新聞朝刊1面には、世論調査結果が出ていて、議論自体を許さないというマスコミ宣伝が効いたらしく、解釈変更に反対と言う意見が多数であるような報道でした。
国民の多くはプロパガンダ次第というところがありますから、マスコミ支配力は恐るべき効果を発揮します。
解釈変更自体が「議論の余地なく何故許されないか」の掘り下げた議論がマスコミ報道ではどこにも出ていないで「変節は許さない」とか祖父の岸信介の自主憲法制定怨念?を引き継いでいるかのような個人資質を強調するムード報道が目に着きます。
こう言う報道を煽って来た結果
「何十年も守って来た政府解釈の見直しは許されますか?」という問いかけは一見中立的ですが、これだけでは、中立的な人の多くは解釈変更は御都合主義でおかしいと感じてしまうでしょう。
「現状はこうなっていますが、これに対処するための解釈変更をすべきだと思いますか」という質問ですと、答えはかなり変わってきます。
そもそも集団自衛権の是非の前に、解釈変更の是非を第一のテーマとして問うているとした場合、この質問形式自体中立的ではなく、一定の立場で質問していることになります。
マスコミが世論(誘導するつもりがなくて)を知る必要があるのは、集団自衛権を認めるべきか否かの国民意思であって、その必要性があると言う回答の場合、解釈変更をどう思うか、どうすべきかの質問に移るべきでしょう。
解釈変更の是非を集団自衛権行使の必要性以前・・入り口の議論にしているとすれば、世論調査が一定の立場・・内容の議論に入らず変更自体を攻撃している特定の偏った立場で調査していることになります。
(世論調査質問内容・順序を知りませんので仮定の議論ですが、今朝の1面の書き方を見れば、大見出しに「解釈変更反対51%」と大きく出ていますので、これに焦点を絞った質問をいたと想定されます。)
私は法律論・・公平な議論をするための意見を書いています。
すなわち解釈変更違憲論は、どう言う場合には許されるか許されないか、どこまでの行使なら合憲で、(正月ころにスーダンでのPKO派遣軍だったかで、韓国軍が反政府軍の進撃対象になっている状態下で、小銃の弾薬が不足して自衛隊が緊急事態として弾薬を貸したことがありました・・こうした具体的な事態ごとの議論が必要です)どこまでならば違憲かと言うまじめな議論をすることすらを許さないという立場ですから、戦前で言えば「非国民」というレッテル貼りで言論を圧殺して来たのと同じ論法です。
実態観察の議論を抜きにした頭っからの反対論は、中国の目指す弱者連合打破論(中国にとっては都合の良い理論です)に裏で通じている疑いすら持たれることになり兼ねません。
実務家・法律家である以上は、政府答弁時と現在では立法事実(社会実態・・今回のテーマでは10年先の国際情勢)の変化があるか否かの実証的論争こそすべきであって、これを回避すべきではありません。
昨日書いたとおり、非嫡出子差別の違憲判断は現時点(と言っても訴え提起した人の相続開始時点ですから、かなり前・・過去の社会実態がどうであったかの判断)で、合理的差別か否かを判断したものですから、将来予測に比べれば簡単です。

中国の膨張策と集団自衛権2

アメリカは自力で友好国の安全保障を(日本等の自助努力による補完がない限り)「完全には」出来なくなったことから、中国がこの隙をついて既存秩序破りに動き出したのが現在アジア情勢です。
警官が来るには来るが直ぐには来られないとか警官一人では強盗を追い出す力まではないので家人と協力してならば可能という状態です。
こうなれば、自分の家族を守るにはある程度自衛するしかないのは理の当然ですし、自力だけではおぼつかなければ隣組で連帯して(集団で)強盗や山賊に対抗するしかありません。
それでもどうにもならないとなれば外部から助っ人を頼むしかない・・太平洋の彼方のアメリカに応援を依頼するのが(数日前の上海での習近平の演説) 何故悪いのか、理解できません。
戦闘力のない農民が100人集まってもどうにもならないとなれば、村を守るために戦闘集団を雇った映画7人のサムライのパターンです。
ココで集団自衛権の議論が出て来ます。
「政府が憲法解釈を変えるのは違憲だ」という変な議論を最近読みましたが、解釈を変えるのがいけないと言い出したら最高裁が判例変更すること自体違憲になってしまい、最高裁の存在意義がなくなります。
法解釈というのは、これを支える社会実態の変化にあわせて解釈変更して行くことになっています。
古くはチャタレイ事件における猥褻性の判例・・判断が社会意識の変化によって徐々に効力を失って行きましたし、最近の事例では非嫡出子の相続分差別が違憲か否かに関する連続した最高裁の判例です。
何回かにわたって最高裁が合憲判断を繰り返してきましたが、昨年だったか遂に違憲判例となったものですが、これはまさに社会実態・法律用語で言えば「立法事実」の変化に合わせて、最高裁内での違憲を主張する少数意見が徐々に増えて来て最後に多数意見になったものです。
この判例の変化は、判事の人材が入れ替わったことによるのではなく、この間に社会実態の変化がかなり進んだことがこの判例定着性の評価になっています。
(判例評釈など学説は概ね・・と言っても1つ二つしか評釈を読んでいませんが・・非嫡出子差別に対する違憲判断に対して肯定的評価になっていますが、その理由とするところは社会実態・意識の変化をどう捉えるかと言う視点であってゲスの勘ぐりのような判事の個別的思想傾向を論じたものではありません。)
自民党内保守派は当初反発していましたが、思想信条の問題というよりは社会実態の問題とする上記学説の動向などを参考にしたらしく、最高裁の判断に従って法改正する方向に変更したと報道されています。
判例変更の理由をこのように読み解くと、10〜20年前から違憲を主張していた人が10〜20年前から正しかったのではなく、(むしろ当時の社会実態に合っていなかったとすれば間違っていたことになります・・)今の判決を獲得した人がジャストミートした・・正しいに過ぎないことが分ります。
逆に言えば20年前に合憲だと主張していた人が、今の時代・実態を見て(時流にあわせて)違憲と言うようになっても変節したことにはならないということです。
いつも喩える例ですが、野球のボールが届く前にバットを振れば空振りですし、その次の人がちょうど良いところに来たときにバットを振ってホームランになった場合、俺がそのタマを狙って早くからバットを振っていたが空振りしたと自慢しても仕方のないことです。
寒くなって多くの人がオーバーを着るようになれば、温かいうちからオーバーやセーターを来ていた人が正しかったと言えません。
非嫡出子相続分差別の違憲の判断では、現時点を基準にすることから、それ以前は合憲だったことを前提にその前の相続事例には適用がない(・・過去の相続事件が全部やり直しになるのではない)ことを上記判決では明記しています。
昨年暮れに大阪地裁判例ですが、地方公務員災害補償法に関する違憲判決が出ていますが、これも考え方は同じです。
遺族年金は女性の場合年齢制限難しに受給できるのに妻を亡くした夫の方は55歳まで受給権がないと言う規定の合憲性が問題なった事件です。
上記判例は、法制定時の昭和40年代の専業主婦率等当時の男女差と現在の社会状況を詳しく比較した上で、非正規雇用が多くなっている(その他育児休業が男子にも認められているなどいろんな制度変更が書かれています)現在では、男性だからと言って55歳まで受給権がないのは非合理な差別に当たると判断したものです。
この判例の思考形式も法制定時は合憲であっても、当時と現在では社会状況が変わっているから今は差別する合理性がないので違憲だと言うものです。
上記のように法解釈は社会実態の変化に合わせて変化して行くべきものであって、解釈を変えるのは恥ずかしいことではありません・・法は万代不変のものではないことを前提に、いろんな事件でしょっ中判例変更を求めて裁判しているのです。

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