天皇象徴性の定着と無答責3(連署制1)

そもそも古代からの詔書、院宣や綸旨には、天皇の署名がなくお聞きした内容を役目によって書き止める形式が主流です。
貴人のお顔や声を直接お聞きするなど「畏れ多い」・・・御前にまかり出る資格のある高位の公卿でも御簾で隔てられた拝謁が原則だったイメージの文書版です。
この結果証書であれ、綸言であれ署名がなく聞き取った関連部署長官(蔵人頭など)の署名で行う形式でした。
明治憲法から御名御璽が必須の制度になっていますが、世上言われてきた天皇神格化の正反対の方向です。
多分中国歴代王朝の形式を真似たのでしょう。
中国では、専制君主ですごいように思われますが、皇帝が何から何まで親裁・自分で威厳のある大きな印(玉で作った持ちにくい巨大な印)を押していたので終日押印作業に追われて肩がぱんぱんであったと言われますが、江戸時代中期以降に役立たずになっていた観念的儒者がこれを理想としていたからです。
(中国皇帝の場合事実上流れ作業的押印に追われるので皇帝お気に入りの高官処刑の決済文書が紛れ込むことがあったようです)
この結果、現天皇陛下の年間署名数は膨大です。
https://diamond.jp/articles/-/112777?page=4

2017.1.4
天皇陛下の1年、知られざる膨大な仕事量
週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集「日本人なら知っておきたい皇室」より
・・・・陛下は昨年、約1000件の上奏書類を決裁されたというが、注意すべきは、例えば1回のご執務で処理される、数百人分の功績調書を含んだ叙勲関係の書類が、まとめて「1件」とカウントされていたりすることだ。
しかも、決裁を翌日以降に遅らせると政治への介入(一例を挙げると、「法律の公布」を1日遅らせると、法律の発効に関する手続きを天皇の都合で1日ずらしたことになり、立法権への介入=憲法41条の国会単独立法の原則などに抵触)となるので、体調が悪くても、ご執務を簡単に休むわけにはいかない。
御用邸で静養中や地方訪問中であっても、火・金曜にぶつかると、内閣官房の職員が午後、新幹線や飛行機で書類を東京から持参し、御用邸やホテルの部屋で決裁していただいている。執務は週2回なので、年間約100回になる。

日本ではこんなバカなことを古代からやっていません。
詔書等に関するウイキペデイアの記事からです。

・・詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。

ウイキペデイアによる宣旨についての記事です

天皇の命令・意向(勅旨)が太政官において太政官符・太政官牒などとして文書化される際、文書作成を行う弁官局の史が口頭で命令・意向を受ける。このとき、弁官史は、命令・意向の内容を忘れないために自らのメモを作成した。このメモが、当事者へ発給されるようになり、文書として様式化していき宣旨となった。文書には、弁官・史などの署名しか記されなかったが、天皇の意を反映した文書として認識され、取り扱われた。

足利時代の「観応の擾乱」の本を読むと施行状等の署名者が誰かが重視されたとあります。
施行状だったか?に誰が署名しているかでその信用力・・・この人が署名しているなら実効性が高いという信用で武士が動いたのです・・を有難がる実務があったということです。
日本社会では古代から、高貴なお方は自ら文書を発しない慣習があるようですし、高貴でなくとも今では知事、市長、社長、理事長等の名義で役人や文書係が代わって大量文書発行することが多いので、(生命保険証書などに社長の印が押されていますが、多分全部社長等が自分で署名や押印をしていないでしょう)公文書を発するには相応の順序(副署しないまでも内部的に稟議決裁文書を保管しておくなど)を踏むようになっているのもこの結果でしょうか?
一つには御璽であれ、市長公印であれ社長印であれ、各種公印は天皇や、市長、知事、社長がいつも携帯していない・保管者が別人である実態があります。
社長等の印の他に社長等が直筆署名すれば真実性担保できるようですが、膨大な文書発行が日常化している実務では、全件社長等が、署名するのは無理があります。
保管者が乱用しないように社長や市長印を押すには、相応の手続きを踏んだ形式(稟議書とそこへ至る各種会議議事録)を残すのが必須(いざとなれば印保管者による冒用か?の検証容易)であり合理的です。
江戸時代には将軍家に対面すること自体「畏れ多い」ほどの貴人ではないですが、それでも公式文書は老中奉書で布告していました。
江戸時代の老中奉書は 幕府文書で天皇家の詔勅や綸旨や院宣とは違いますが、以下の通りです。

老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。
老中が連名で発給する連署奉書と、単独で発給する奉書がある。前者の例としては大名や遠国奉行への命令伝達、後者の例としては将軍家への進物の受け取り確認等があげられる。寛文4年(1664年)4月1日に制度が改定され、小事については老中一判の奉書となった。

江戸期の老中制度になると明治憲法下の内閣とほぼ同様老中の合議であり、老中首座は同格者の筆頭でしかなかった点は明治憲法下の内閣同様ですが、閣議を経た文書は連署形式でした。
ちなみに現在幕閣とか、閣老、閣議というのは、後の内閣制度を老中に当てはめていっているようで当時から幕府とか閣老とかいう名称があったものではないようです。
秋篠宮様記者会見に戻ります。
自分の意見が通らない不満=自分の意見を重視すべきという論建ては、皇室が政治責任を負う体制への変革を主張することにつながり、天皇制維持には危険な主張です。
政治責任を負ってでも政治活動したいならば、皇籍離脱してから私人として行うべきでしょう。
こういう人が後嗣では(一世代約30年後に天皇になると?)皇室の永続性に疑問符がつきます。
この発言に呼応して早速市民団体?が12月中に(宗教行事への公費出費が違憲という)違憲訴訟提起すると発表したようです。
https://www.ootapaper.com/entry/2018/12/02/160930″

秋篠宮さまの誕生日と同じ30日に、市民団体が大嘗祭違憲訴訟を起こすと一斉に報道

あたかも事前に示し合わせたかのような発言とメデイア発表のタイミングに驚きます。
憲法上、予算案・・内廷費で賄うべきか内廷費としてどの程度の出費を認めるべきかは内閣の高度な判断に委ね最終的には国会議決・政治家総体の判断を経て実現する仕組みですから、秋篠宮様公式発言は高度な政治判断・・内閣の助言承認や国会審議に影響を与えようとしているように見えます。

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

現在の議院内閣制でも天皇の名において国会を召集しますが、詔書には内閣総理大臣の副書が必要です。

官報で見る国会召集の詔書


日本国憲法第七条及び第五十二条並びに国会法第一条及び第二条によって、
平成二十五年一月二十八日に、国会の常会を東京に召集する。
御 名  御璽
平成二十五年一月十八日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生 太郎
法令を公布する場合には内閣総理大臣と担当大臣の連署が必要です。
連署を拒むことはありえないと思いますが、仮に内閣総理大臣や担当大臣の副署しない詔書が発行されても、公布の効力がないとされるでしょうか?
徳川時代でいえば、将軍家の同意がないということで無効(紫衣事件)でしょうし、現在でも天皇が独断で任命したら内閣の助言承認がないという点では同じです。
いわゆる天皇の大権と内閣の助言承認との違いですが、実際の実力関係・実質決定権は徳川時代も明治時代も現在も変わらないように思うのは私だけでしょうか?
天皇と周辺に実務能力がなくなった結果天皇大権の場合、周辺を握ったものが天皇の名で政治権力を行使できる点に問題があった点は確かです。
禁中並公家諸法度以来、政府高官の任命に至るまで幕府の同意が必要になったことを紹介しましたが、明治憲法も国務大臣の輔弼プラス副署が必須にされていた点では、禁中並公家諸法度の幕府同意権の明治版ですし、現行憲法の内閣の助言.承認を要するのとほとんど同じです。
以下明治憲法を見てください。
いかにも仰々しく天皇大権を謳っていますが、実態は内閣の輔弼によるものでした。
捕弼する仕組み・・君側の奸がはびこるかどうかで天皇制危機が起きるだけでしょう。
今のような民主制が確立すると補弼すべき内閣が悪いかどうかは、国民が選ぶことですから天皇制の問題ではなくなります。
天皇(君主)無答責という原理がトキに言われますが、実務を握るものが責任を負うべきである組織・機関決定にそのまま署名するしかないものが責任を取るのは無理があるという当然のことを言うにすぎず、保元の乱や承久の乱のように、上皇が先頭切って行えば責任を取るのは当然です。
皇子も同じで以仁王や護良親王のように自己の意思で行動すれば、相応の責任を取るしかありません。
現在サウジ国籍ジャーナリスト殺害事件が国際政治を揺るがしていますが、皇太子の地位があるから責任があるかどうかではなく、実効的関与があったかどうかで決まることです。
このように見れば、天皇の戦争責任論・・あるいは天皇制があったから戦争回避できなかったかの問題ではなかったことがわかるでしょう。
これまで日露講和条約反対論に始まる過激主張煽りの極限化が国会での良識的言動を葬る役割を果たし、ひいては戦争に持ち込んで行ったのですが、これは天皇制の結果ではなくジャーナリズムによる國民扇動行き過ぎの結果です。
※日米開戦自体をジャーナリズムが煽っていたというのではなく、第一次世界大戦後の国際情勢変化に合わせて対外活動を軌道修正すべきところを逆方行為へ煽って行ったことを書いています。
例えば、今回の米中覇権争い、あるいは米ロの核軍縮条約破棄で言えば、米国トランプ氏による過去の約束全てのちゃぶ台返しで始まっていますが、その非を咎めても仕方がない・・ロシアは再度米国と無制限軍拡競争する力がないことが明らかである以上、ロシアとしては表向き自国に非がないと言いながらも、米国との再交渉・新条約締結に応じる構えを見せています。
カナダやメキシコも過去の条約違反だと喚いても仕方ない・・再交渉に応じてきました。
中国も米国の強硬要求に応じるのが大人の知恵でしょうが、中華の夢実現という国粋主義思想家のいう通り自力更生路線で断固アメリカと対決すると戦前日本の二の舞です。
多分表面的強硬路線とは別に妥協を探っているでしょうから、日本としてはいきなり頭越し米中和解をされると困るので安倍総理が10月25〜26日に訪中して首脳会談をしたばかりです。
欧州情勢は複雑怪奇と言って政権を投げ出した時代とは違い、安倍政権は複眼的どころか多層的国際戦略を実行しています。
明治憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
以下省略
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ   憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第2章 臣民権利義務
第18条日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第19条日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ・・以下省略
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
御名御璽
明治二十二年二月十一日
内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
枢密院議長 伯爵 伊藤博文
以下省略
1921年に軍部の同意が得られず組閣すらできないで「うな丼の香りを嗅いだだけだった」とし、「鰻香内閣」と揶揄された清浦奎吾内閣がありましたが、組閣が天皇の大命降下によるならば、軍部も天皇大権・・統帥権を盾にした組閣非協力は許されないはずです。
皆、自己主張を通すために天皇制を悪用していただけなのです。
上記の通り、官吏任免権があっても法の特例を除くのですが、法に根拠のない官吏任免がほぼゼロですし、基本的人権もすべて「法律に従い」という限定があって、天皇は立法権があるとはいうものの、法は国会の協賛が必須ですから、天皇が勝手に何も決められない点では中世以来の天皇の権限と変わりません。
幕府の同意なしに叙任し、幕府に取り消された後水尾天皇の例とどう違うか?です。
また、現行憲法と比べても法令交付や政府高官任命その他すべてに国会の指名や内閣の助言承認がいる(憲法6条7条)のと結果が同じです。
このように天皇権力は明治憲法でも禁中並公家諸法度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)以来長期的に象徴的機能・名前を貸すだけ?以外に実際にはなくなっていたのです。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

裁判(裁定)に勝てば、相手が引き渡さなくとも武士は実力で取り返せるので(取られる一方の弱い武士は淘汰されていく・戦国時代に入っていく所以です・・)それでもいいのですが、公卿は実力装置を武士に頼っている状態で、荘園のアガリの分配を武士と争うとなれば、実力行使できないので勝ち目がありません。
徐々に荘園からの上がりが減っていき最後は盆暮れの付け届けくらいになっていく・・藤原氏を頂点とする公卿・朝廷は干上がっていきます。
室町初期の直義の頃の状況を見るとこういう荘園の収入の分配(平安時代初期には荘園成立過程での初期競争では、藤原氏が貴族(古代豪族)間で圧倒的地歩を固めましたが、それが天皇家自体の参入によって八条院領に蚕食され、鎌倉期になるともとからの荘園領主同士の争いよりは内部に地盤を築いて来た武士層に内部蚕食されて行く(合理的交渉で言えば、管理費の値上げ?要求すべきところを集金した管理費を実力で払わないとなれば横領?)時代に入り、公卿や八条院系)と現場管理者の武士層との紛争が多発する時代に入っていたのです。
鎌倉以降武家の時代になってだいぶ経つのに、観応の擾乱を見るとなお貴族や朝廷の荘園収入があったことが逆にわかりますが、応仁の乱を経て戦国時代に入ると中央の訴訟機関自体が機能しなくなっているので、収入ゼロに追い込まれていたであろうことは容易に想像がつきます。
10月26日に天皇家の収入減少を書きましたの一部繰り返しになりますが、さらに詳しく書きますと、公卿の中には大内氏などに縁を頼って地方に落ち延びていくか?文化を売る・天皇家は落ち延びられないので、天皇御真筆でお礼を貰うなどで食いつなぐ中で、地方有力武将への叙任や、大寺の実力者に僧正などの称号を付与するのは貴重な収入源だったし、ひいては乱発気味になっていました。
これが目に余って来たので、紫衣事件になったのですが、その背景には絶対的な収入減があったことがわかります。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&action=edit&section=1

紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

幕府権力確立によって、旧来同様にすべて幕府を通すべきとなると朝廷の収入源がなくなります。
これを禁止しっぱなしでは朝廷関係者が生きていけませんので、家康が1万石、次に秀忠が皇女誕生を祝って1万石、綱吉が1万石、慶喜が15万石寄進しています。
現憲法下でも天皇家の生活保障のために26日紹介したように「内廷費」が予算計上されているのと同様です。
生活補償するので生活費稼ぎのために「ハシタないことをやめてください」朝廷の権威が下がってしまうことを恐れた意味でもあったでしょう。
話題が逸れましたが、朝廷の文化活動に戻りますと、昭和天皇の活動も「雑草』研究などに限定されていますが、敗戦でそうなったのではなく、家康以前から「文化を売り物にするしかなかった」そういう仕組みになっていたのです。
家康に言われて初めてそうなったのではなく、当時すでに「朝廷や公卿が政治に口を出すべきではない」という価値観が一般化していたからでしょう。
明治維新でなぜ王政復古になったのかですが、薩長が幕府追及・倒幕の言いがかりに「尊王攘夷」を主張しただけのように思えます。
倒幕運動の大義名分が王政復古だったので、倒幕成功・維新後は表向き天皇親政形式・・政体書体制・二官八省体制を作ります。
(これも6省から8省へ変遷がありますが、重要なことは太政官と神祇官をトプ2としたことです)
しかし、もともと公卿・朝廷には鎌倉幕府以来実務経験も能力もないので、実務をやれるわけがありません。
薩長政府は当初二官八省体制を作りますが、神祇官などが政治をやれるわけがなく、目まぐるしく統治体制変更を繰り返し、最終的には、内閣制度を創設して行きます。
結局は実務政府とお飾りの天皇家・公卿を切り離す方向だったのです。
明治初期の政府組織については、2005年07/21「政体書と中央組織」前後で連載しました。
ちなみに内閣制度は明治憲法によってできたのではなく、その前の明治18年に創設されて伊藤博文が初代総理に選任されています。
明治憲法は22年ですから、約4年間先行して実績を積んでいた内閣制度を憲法に取り込んでいったことになります。
言わば幕府の実務機関である「幕閣」を内閣(幕閣の閣「老」を「大臣」と王朝風に)と変えた上で、朝廷と場所的に合体したようなものでした。
武家が朝廷の影響を避けるために鎌倉に政府を開いた時には幕府が何かするには幕府が京へ使者を立てる必要があったのに対して、徳川体制では十分強くなっていたので・・朝廷が何かしようとすると幕府の同意・許可を取る必要があった・・幕府が京へ参内するのでなく朝廷の方が江戸に下向する(これが忠臣蔵の背景です)必要のある社会体制でした。
薩長藩閥政府も今後の国策として開国しかないとすれば、新政府を京に置くわけにはいきません。
実務政府を江戸に置くしかないとなれば、王政復古を唱えた手前、全て天皇の名において発令するには日常的緊密な連携が必要です。
その都度・・京都まで行って参内する手間を省くために朝廷に江戸へ引っ越してもらった・・実務政府幕府→内閣が朝廷を内部に引きこんで、天皇の名において機動的に実務を行えるようにしたことになります。
ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
10月26日に憲法を紹介して少し書いた天皇権力の本質を示す連署に戻りますと、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
王朝時代にどうであったかの記録は今のところ私には分かりません。
連署制は北条泰時が始めたと言われますが、少なくとも江戸時代には幕府正式文書には老中が連署する習慣になっていたようです。
三田市の資料では以下の通りです
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。
※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、今年8月頃にサーバーの不具合で過去の事前掲載用送信分が皆消えてしまったので、今コラムに再アップしようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は国立公文書館に入って確認してください。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
連署については、10月26日に憲法を紹介して少し書きましたが、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
北条泰時が始めたと言われますが、江戸時代には老中が幕府正式文書には連署する習慣になっていたようです。
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。

※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、コラムに掲載しようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は公文書館に入って確認してください。

現在の議院内閣制でも天皇の名において国会を召集しますが、詔書には内閣総理大臣の副書が必要です。http://ryoichiinaba.jp/?p=110からの官報の写し引用です。 

日本国憲法第七条及び第五十二条並びに国会法第一条及び第二条によって、
平成二十五年一月二十八日に、国会の常会を東京に召集する。

  御 名  御璽

    平成二十五年一月十八日

                     内閣総理大臣臨時代理

                       国務大臣 麻生 太郎

法令を公布する場合には内閣総理大臣と担当大臣の連署が必要です。
連署を拒むことはありえないと思いますが、仮に内閣総理大臣や担当大臣の副署しない詔書が発行されても、公布の効力がないとされるでしょうか?
徳川時代でいえば、将軍家の同意がないということで無効(紫衣事件)でしょうし、現在でも天皇が独断で任命したら内閣の助言承認がないという点では同じです。
いわゆる天皇の大権と内閣の助言承認との違いですが、実際の実力関係・実質決定権は徳川時代も明治時代も現在も変わらないように思うのは私だけでしょうか。

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