朝廷と徳川幕府の価値観相違2

戦国時代が終わってから大名等武家は、領内支配によって独自産業育成して新たな収入を得る自由があるとしても、国法としての貿易禁止に背けないのと同様、幕府の決めた分野については勝手な官位授与等をしてはならないという「禁中並びに公家諸法度」を決めた以上は、幕府を通さないで(献金に報いて?)勝手に官位授与等をしてはならなくなったのですが、高僧への紫衣の許可制は武家に対する官位授与とは系列を異にするものでした。
その経緯もあり、それまでの習慣による(臨時収入の欲しさ?に)紫衣着用を許可した事件ですが、これは「幕府法が朝廷決定に優先する」という権力構造の問題だけではなく、価値観の変化(金で地位を買うのが許せないという武家の倫理観)を朝廷が無視した点に大きな問題があったということでしょう。
武士社会の立身出世・取り立てと降格の基準は、忠節・勲功の実績次第でした。
信賞必罰=いわば適材適所が基本社会・・能力のない者に義理人情等で軍勢を指揮する地位を与えると負けてしまう・一族滅亡のリスクを抱えギリギリの攻防を繰り返して戦国時代を生き抜いてきました。
武家の倫理観は、秀吉が草莽の身からお天下様になっていった例を見ても分かるように、賄賂や家柄によらず能力がすべての基準になるものでした。
戦国武将にとっては、昇進や格下げ処理基準に個人事情や献金等の情実が入り込むのは一族の滅亡を招きかねないリスキーな行為ですから、最も忌み嫌うべき道徳として、確固たる共通意識になっていたでしょう。
とは言え、実際には接待上手や献上品の豪華さなども重要でしたので、要は比重の置き方の問題です。
官位をありがたがる世間一般よりは、長期にわたって名誉職でしかなくなっている官位など能力の有無に関わりがない・・という朝廷の方が逆に、醒めた意識になっていたでしょう。
長期にわたって安定収入源のなくなっていた朝廷にとっては、献金によって、あるいは内裏等の造営をしてくれることによる貢献度の高さに従って官位を敍し、あるいは高僧認定(今で言えばノーベル賞受賞・・国内的には学術会議員や人間国宝〜特定技能認定?)するのは当然の論理だったのでしょう。
私が関係していた学生時代(今は知りませんが・・)の経験では、家元制度のあるお花やお茶お琴等を習っている場合では、一定段階に進み師範等の認定を受けるには(一定レベルであることが前提であっても)認定料?を払うのが普通でした。
家元制度は民間版ですが、公的機関では許されないというのが徳川政権の示した規範だったのでしょう。
今ではノーベル賞や博士号、一級技術者資格などが、献金額やコネで決まるとすれば、国民全部が承知しないでしょう。
このような現代価値観に反したという名目で韓国のパク前大統領がリコールされたばかりでしたが、このパフォーマンスは前近代的怨念政治にこだわっている韓国が前近代どころか日本で言えば、前中世的価値観を国民が許容できなくなった程度に進化していたことの国際表明だったことがわかります。
ただしパク政権打倒のローソクデモは、親北朝鮮勢力・左翼系による政変企図による煽り成功の意見もあり・・煽り/メデイア操作による扇動に簡単に乗せられる国民レベルの脆弱さ・・が背景にあるので、純粋民度アップの証左とは断定できませんが・・・。
文政権成立後慰安婦合意に対する事実上の空洞化運動やに追い打ちをかける徴用工訴訟の挑発にとどまらず、自衛隊機に対するレーダー照射事件等国内法だから何をやっても韓国政府の勝手だという韓国の態度を見ると、人間としてのレベルがどうなってるの?と首をかしげる日本人が多くなってきました。
まだまだ普通の会話が成り立つレベルではないのではないか?という疑問・・普通の付き合いをするのは無理でないか?と思う日本人が増えてきた印象です。

朝廷と徳川幕府の価値観相違2

こうしたメカニズム構築によって古代からの大豪族や中級貴族がどんどん没落(菅原道眞の左遷や伴大納言事件)していき、ついには朝廷すら収入源を失う事態になっていたのが道長の頃と言えるでしょう。
「毒を食らわば皿まで」の考えで天皇家自身が荘園確保に乗り出すと、何と言っても藤原氏自身天皇家の権威利用の地位(外戚利用)でしかないので、院政=治天の君が荘園運営するとなれば急速に八条院の荘園への寄進が増えていきます。
八条院の経済力についてはJan 24, 2019 12:00 am「社会変化=価値観・ルール変化1」に書いたことがあります。
キングメーカーであった藤原彰子が死亡すると藤原氏の勢力が急速に衰退していったことを摂関家支配の構造変化(彰子死亡)PublishJul 26, 2019に書きました。
清盛も平滋子死亡後急速に衰退して行きました。
保元平治の乱の経済背景を見ると、荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元〜平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に武士勢力に荘園収入を蚕食されていき、応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位すらできない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、自衛武力=反撃力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。
他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後この程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源であった叙位のお礼が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになった意味もあります。荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に蚕食されて応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位自体できない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、武力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。

他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後のこの程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになったという意味もあります。

朝廷と徳川幕府の価値観相違

鎌倉幕府が、守護地頭等を各地派遣するようになった・・遠慮ガチな態度から始まった幕府の権限行使が、室町時代〜応仁の乱〜戦国時代を経て荘園領主〜守護地頭〜守護代〜戦国大名支配に変わり、朝廷には国内各地の支配権を名目上も一切ないことを鮮明にした側面があります。
これには、収入を徴税によらず寄進や献金等の不明朗資金に頼ることに対する武家がわの嫌悪価値観相違も大きな原因でもあったでしょう。
ところで官位を金で買う〜寄進等で手に入れる仕組みは、戦国時代に始まったのではなく平安末には平忠盛が熊野本宮造営により、次の清盛が三十三間堂で知られる蓮華王院の造営と荘園寄進で後白河上皇を懐柔した例が知られています。
清盛に関するウイキペデイアの引用です。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。
・・・・継室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。
院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。
二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。
後継者の六条天皇は幼少であり・・・後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。
10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが[9]、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

後白河・平滋子の子・憲仁親王の即位後白河の院政復活に向けた布石として蓮華王院 (三十三間堂)を寄進しておいたのでしょう。
寄進は新興勢力(中流貴族は昇進できても最高位が4位であったと言われるようにガラスの天井を飛び越える)の格上げ実現するときの常套手段だったかもしれません。
清盛もいきなり寄進したのではなく、その前から朝廷の税収減を補う為の寄進が始まっていたようです。
平安時代に入って寄進が増えた理由は朝廷の徴税収入が減ってきたからです。
平安時代に入って不ユ不入権が保障された荘園増加により朝廷の収入源がほとんどなくなった以上、財政を寄進〜寄付に頼るしかなくなったのは平安中期〜末からのことでした。
天皇退位後の仙洞御所を国費で賄えないので里内裏・皇后の実家の経済力に頼る状態・・退位後の仙洞御所を皇后の実家にするのが常態化していました。
この状態脱却のために八条院など皇室系が荘園経営に乗り出していた事を以前紹介しました。
平安初期以降の荘園囲い込み競争では、国司の介入(徴税権確保のための調査立ち入り阻止等→不輸不入権獲得→一円支配化→一円支配拡大競争・地元での争いですから、中央の裁定を待っていられない・・現場実力優先時代→武士発達につながります・・この象徴的事件が平将門の乱だったでしょう。
このためには実際に荘園や農地を耕作する地元勢力がどの中央貴族に名目寄進し保護を頼ろうか?という競争になって摂関の地位が実力による入れ替わりがなくなり、摂関家として世襲化(これに対する抵抗が菅原道眞の事件)すると、摂関家と対立する貴族に寄進しても意味がない・・勢い摂関家へ荘園寄進が集中するようになって藤原氏の永続的地盤が再生産される仕組みになって行ったものです。

 幕府権力と執行文の威力

室町時代初期にも、まだ貴族荘園と武家との年貢の取り合い・押領テーマにした幕府への訴訟が多かったこと・・この訴訟の裁定・裁許下知状・執行状に御家人が従わないことなどが尊氏の弟直義・三条殿が裁定していた頃から問題になっています。
この辺は、亀田俊和『観応の擾乱』中公新書、2017年に詳しく出ています。
後醍醐政権の裁定は公卿有利な裁定が多かったので武士の不満が蓄積されて足利政権が生まれたというイメージは、大筋ではその通りでしょうが、武家が荘園管理をするようになった場合、管理者とオーナー(荘園領主)との分配の揉め事は、荘園領主層の支配する中央権門・・朝廷が裁いた方が荘園領主側に有利ですが、武士の力が強くなってきて貴族層による裁定に従わないようになると、公卿会議の裁定は意味がなくなります。
「蛇の道は蛇」ということで、貴族層の方でも武家の棟梁に持ち込んだ方が強制力がある結果、後醍醐政権の方へ訴えるよりも、足利屋敷の方へ持ち込む事件の方が増えてきたようです。
結局後醍醐政権は時代の流れに会わないで市場淘汰されたように見えます。
公家側から見ても足利氏の裁定は無茶に武士に有利ではなかった・・比喩的に言えば、6対4で武士に有利な裁定であっても公卿にとっては、10割勝っても何の実効力もないよりは、4割でも権利を守ってくれる方がよかったということでしょう。
こういう意見(想像)は上記の本に書いていることではなく読後感・私の勝手な憶測です。
またこの本による執行状も興味深い事実です。
武家政権に頼んでも同じことで、執行状を誰が書いているかによって現場の実効性が違ってくる・・三条殿に対する御所巻きで、高師直側に多数武士が集まったのも、高師直が失脚して彼のサインした執行状の効力がなくなるのを恐れてあわてて集まったという読みも(本には書いていませんが)成り立ちます。
ところで、日本の歴史の連続性に関心するのですが、今でもせっかく勝訴判決を得てもこれを執行できないと単なる紙切れです。
判決を得て強制執行するには、さらに「執行文」というものを判決書につけてもらう必要があります。
判決書正本に執行文がついて初めて強制執行の申し立てができる仕組みです。
これを執行力ある、〇〇正本といい、公正証書や調停調書や和解調書など全て執行文付与が必須になっています。
民事執行法
(強制執行の実施)
第二五条 強制執行は、執行文の付された債務名義の正本に基づいて実施する。ただし、少額訴訟における確定判決又は仮執行の宣言を付した少額訴訟の判決若しくは支払督促により、これに表示された当事者に対し、又はその者のためにする強制執行は、その正本に基づいて実施する。
(執行文の付与)
第二六条 執行文は、申立てにより、執行証書以外の債務名義については事件の記録の存する裁判所の裁判所書記官が、執行証書についてはその原本を保存する公証人が付与する。
2 執行文の付与は、債権者が債務者に対しその債務名義により強制執行をすることができる場合に、その旨を債務名義の正本の末尾に付記する方法により行う。

「将軍が良し」と言い、今では裁判官が判決を宣言しただけではダメ・・執行文が必要な仕組みが室町時代には普通になっていたことがわかります。
今は官僚機構が整備されているので、執行文を誰が書いたかで効力に差がない・誰が書いたかに関係なく権限のある人(書記官)が書いていれば画一的権限が保証されています。
民事執行法
執行官等の職務の執行の確保)
第六条 執行官は、職務の執行に際し抵抗を受けるときは、その抵抗を排除するために、威力を用い、又は警察上の援助を求めることができる。ただし、第六十四条の二第五項(第百八十八条において準用する場合を含む。)の規定に基づく職務の執行については、この限りでない。

執行に抵抗すれば、公務執行妨害罪になりそうですから、ひ弱そうな執行官が来ても今の時代ヤクザでもヒルム関係です。
室町時代には執行(せぎょう)状を書いた人が誰かによって「あの人の命令では、聞かないわけにいかない」「あいつの命令じゃ聞く気持ちになれない」などと末端武士が決める時代でした。
判決(正義)に従うのではなく、執行状(ひと)に従う社会でした。
領地の境界争いの場合、負けt方が係争地をすんなり引き渡すのを期待するのは無理ですから、ほとんどの場合、上京した機会に執行状に花押を書いた実力者に、あの件何とかなりませんか・・とお願いする程度で、実力者が「よしわかった」と言って付け届けをもらいながら何もしてくれないと信用がなくなる関係です。

専門家の論文は事実の裏付けというか事実を丹念に拾っているので、私のような不器用なものには、読み応えがあって楽しいものですが、高齢化のせいか?読んでも読んでも忘れてしまうのは困ったものです。
直義が観応の擾乱第1幕では圧倒的に勝利を収めて政敵の高師直が討ち取られますが、直義がすぐに地位を失っていくのは彼は正義感が強すぎて?、あるいは過去の価値観にこだわりすぎて?自分に味方した武士に対するその後の論功行賞をまともにしなかったからのような印象です。
観応の擾乱第一幕では、御所巻きに屈服した直義でしたが、第二幕の直義による全国規模の巻き返しで直義側に馳せ参じた武将らは、自己主張が正しいかどうかは別として命がけで応援した以上は、相応の恩賞(不当な)利益を期待していたのにがっかりしたのです。
もともと室町幕府の威令が届きにくかったのは、足利家は源氏の名門とは言え頼朝のような絶対的名門ではなく相対的名門であった上に、権威の裏付けたる朝廷自体が南北に分かれていたことが、騒乱に明け暮れた基本原因でしょうと形式的には言えるでしょうが、(今でいう国連での決議や・・中国が南シナ海問題に関する国際司法裁判所判決を「紙切れに過ぎない」と一蹴したのと同じです。)上記私の想像によれば、時の流れが速すぎて室町幕府はしょっちゅう政変続きになったとも言えそうです。
建武の中興政権が崩壊して室町幕府成立直後は、高師直・高家一族勢威を張っていましたが、これが急速に武士団の信望を失って行くのは、上記の通り、公卿荘園領主側への遠慮が大きすぎて今度は武士の方から不満が出てきたからでしょう。
足利政権樹立直後は、政治的情勢から公卿側に配慮して上記の通り比喩的にいえば6対4で武士有利に裁定していたとしても、武士の世がはっきりしてくると、武士の方は6では納得しなくなる・7対3の願望が強くなります。
それが、比喩的にいうと数年もすると今度は8対4でないと納得しないような急激な変化の時代でした。
この不満期待感が直義への期待になったようですが、上記著者亀田俊和氏によれば、直義はむしろ守旧派・常識人・・過去の価値基準でいえば、武士が約束違反しているという発想が強かったようですから、直義側についた武士団はあっという間に直義を見放していきます。
ただし、室町幕府自体が武士に対する威令が届きにくい脆弱性を持っていたので、執行状を発給しても現地では守られないのが普通だったとも書かれています。
だいぶ前に非理法権天の法理を紹介しましたが、その時に書いたように粗暴な君主の事例を見ると国民隅々まで威令が行き渡る怖い時代かのように見えますが、逆から言えばそのくらいのことをしょっちゅうしなければならないほど、末端では威令=法令が守られないということです。
こう見ると何のための訴訟か?となりますが、一応幕府に訴えて自分の方が正しいという「正義のお墨付き」を求めるだけの利用価値があったのです。
今の国際司法裁判所の判決を「中国は紙切れだ」とうそぶいていますが、その程度の効力があったのでしょう。

ロシアの脅威11(北方防備と幕府財政逼迫)

松前藩の上知は寛政11年(1799年)とのことですから、寛政の改革(1787年から1793年)で知られる松平定信失脚後のことになります。
その後を継いで(昇格して)老中首座になった松平信明は、(寛政の改革の)遺老と言われ定信の改革踏襲者として引退後の定信の意向に従ってやっていたので、いわばバックいる定信の英断によっていたことになります。
信明に関するウィキペデアの記述です。
「寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ[1]、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく享和2年(1802年)に非開発の方針に転換し、蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した[2]。しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ、享和3年(1803年)12月22日に病気を理由に老中を辞職した[2]。
信明辞職後、後任の老中首座には戸田氏教がなったが[2]、文化3年(1806年)4月26日に死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった[3]。しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され[3]、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から老中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている[3]。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている[3]。
文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地として永久上知した[2]。また幕府の対応に憤激したレザノフの指示を受けた部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で文化3年(1806年)9月に樺太の松前藩の番所、文化4年(1807年)4月に択捉港ほか各所を襲撃する事件も起こり、信明は東北諸藩に派兵させて警戒に当たらせた(フヴォストフ事件、文化露寇)[4]。またこのような対外的緊張から11月からは江戸湾防備の強化に乗り出し、砲台設置場所の選定なども行なっている[5]。
経済・財政政策で信明は緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた。しかし蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落し、文化12年(1815年)頃に幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという[7]。
評価
松平定信にその才能を認められた知恵者で、定信失脚後は老中首座としてその改革精神を継承し、将軍・家斉の奢侈を戒め、その側近らの規律を正した逸話が伝わる[8]。ただ松平定信は信明について「発生した事柄には対処できる。しかし、長期的視野に欠けて消極的であるばかりか、決断力が乏しかったので、補佐する者がいればよかった。とはいえ、才能があって重厚でもあるので、今彼に勝る人はいない」と自らの日記に記している。一方で対外政策が30年も手遅れになったのは信明の責任であると評している[7]。
定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、信明が老中を務めていた当時の政治は定信と信明、それに若年寄の本多忠籌の3人で行われており、老中の牧野貞長や鳥居忠意はお飾りに過ぎないというのが市中の評判であった。」
幕府は松前藩支配地を松前城の周辺付近を除いた蝦夷地を全面的に上知・・取り上げて直轄支配地にしていた様子を昨日紹介しましたが、今日は幕府側の動きの紹介です。
中学高校の日本史ではこの種の教育を全く受けませんでしたが(今では変わっているのかな?)古代の防人のように幕府は北方警備のため東北諸藩に出兵を命じていたことが分かります。
このため出兵しないその他の藩にも資金拠出を命じたこと(・・幕府財政赤字)が幕末諸大名の不満の下地になって行ったようです。
この辺は日本史の授業では出てきませんし、幕末西欧接近の危機感ばかり・薩長の活躍ばかりですが、ロシア対策によって財政支出・ひいては諸藩への負担協力を求めたことに対する不満が蓄積していたことが分かります。
将軍家の奢侈を戒める松平信明を将軍家斉は疎んでいたのですが、彼が病死すると好き勝手な奢侈に走り、いわゆる「化成」文化が花開きます。
財政危機のためにロシアに対する危機対応が不十分になっていたのに、家斉は逆ばり政治・奢侈に精出したことになります。
日本が世界に誇る浮世絵その他多様な文化爛熟期でしたが、背後から「怖いものが迫っているのを見ないことにしていた」時代であった・・これが幕府財政崩壊を早めたことになります。
西欧ではギロチンのつゆと消えたフランスのルイ16世や中国北宋最後の徽宗皇帝、わが国では室町幕府・政治を投げ出していた足利義政の東山文化を連想させられる動きです。
家斉政治に関するウィキペデア記述です。
「文化14年(1817年)に信明は病死する。他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老達がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。」
「怖いものを見ない」ことにしても北から南から迫ってくる世界情勢・日本を取り巻く危機は変わりませんし、貨幣改鋳しても幕府財政赤字は変わりません。
たまたま9月10日と16日の2回千葉市美術館で開催中のボストン美術館所蔵の浮世絵・・鈴木春信(享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)展を見てきましたが、可愛い子供や娘を大事にする江戸市民の気風が当時の流行絵画になっている・・鈴木春信の錦絵が最盛期を迎えたのは明和年間(1760年代末)のようです。
この錦絵によって庶民は江戸開府以来約百五十年以上に及ぶ平和の恩恵を享受している様子・・その後の浮世絵の本格 発展の萌芽を目にすることができましたが、その裏(一般市民はそんな物騒なことが遠くでおきているとは知る由もなく)で同時進行的に太平の世を脅かすロシアによる侵略の危機が遠くからヒタヒタと迫っていたことになります。
国防の基礎は自国の実態把握です。
まずは最上徳内から見ておきましょう。
以下アフィキペデアの記述です。
「実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。」
「幕府ではロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785年)には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年(1786年)には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。」
同年に江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となる。徳内と青島は江戸へ帰還。徳内は天明7年(1787年)に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明8年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。

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