社会党の消滅(沖縄基地反対闘争)

現在級革新系野党の系譜を引く野党の多くは原発反対、消費税増税反対、沖縄基地問題にしろ旧社会党のように元民主党の重鎮が直接関与することがなくなった代わりに、外野から見ていると、国政段階で相手にされなかった主張蒸し返しどころか、主張さえしなかった本音を別働隊の利用で鬱憤ばらしをしているような気がします。
正しいことであれば選挙で主張し、国会で堂々と政策主張するのが政党の役割であるのにこれを何故しないのでしょうか?
民主党政権時代の少なくとも県外へ!というスローガンで選挙に勝ったのに政権党になると、県外移設地候補さえ提案できなかったので、今更辺野古移転に反対する名分がなくなってしまったからです。
社会党村山政権当時安保条約の有効性、自衛隊違憲論撤回決定もしていますので、安保条約に反対だから米軍基地の存続自体許さないという論法が成り立ちません。
土井氏の「ダメなものはダメ式」の消費税反対論も、民主党政権主導で消費税増税を与野党で合意している関係で、その時の政権幹部が横滑りしている立憲民主党などは消費税アップに反対できない縛りがあります。
政党間で公式合意したが裏で合意実現妨害するしかなくなったのが、旧社会党の残党で成り立っている元革新系野党の姿です。
こうなってくると、国会論戦することがなくイチャモンづけするしかなくなった・森カケであれ、検事長問題であれ、政党としての論戦=定年延長が必要か否のかのテーマを論じないで、特定検事長個人が有利になると個人問題に矮小化した姑息な論戦?ばかりになっている原因です。
大手メデイアの応援下で盛り上げてもイチャモンだけでは国民は白けてしまい、野党の支持率は逆に下がっていく傾向です。
安保体制を旧社会党が容認して以来、基地の必要性を前提として普天間基地が危険だからと長年移転を求めて運動してきた結果、移転が決まると次は立地論に移りました。
結局民主党は「少なくとも県外へ!」のスローガンで沖縄県内移転論に反対してきましたが、政権党になって沖縄県外の移転候補地の発表さえできない・・スローガンには根拠なかったことがはっきりした後に代わりに辺野古以外にどこが良いという提案なく一方的な移転反対運動(普天間基地を残せというのかな?・表向き反対しているだけ実は基地経済が出来上がっているので周辺住民は出て行かれると困る問題がありそうです。)では論理的ではありません。
そこで社民党を除く革新系野党は表面上反対できなくなってしまいました。
メデイア論調中心は「沖縄の苦しみが分からないのか!という情緒論だけです。
50年ほど前に行っていた成田空港事件での「農地を奪われる農民の苦しみ!と言うのと同じ繰り返しです。
どんな制度も変更によって得する人や企業もあるし、(定年延長でも、病気がちで早く定年退職金を欲しいのに先送りになって困る人もいるでしょう)損する企業もあります。
個別問題は個別対応すべきで、政策論争は、全体として今後の社会のあり方としてプラスマイナスどちらが大きいかの議論が国会論戦であるべきです。
成田事件でいえば、首都圏内で新空港が必要か、あるいは高速道路が必要かの政策必要の政党間議論が終われば、どこに立地するのが日本の産業構造変化として合理的か政党間の論争テーマになります。
千葉での放射能汚染物質貯蔵場所の問題や杉並ゴミ戦争で立地紛争を紹介しましたが、首都圏内新空港の必要性についてはこれと言った反対論争がなかったようです。
そこで、立地問題だけが重要テーマだったようですが、立地論でいえば、どこに立地しても生業に影響を受ける人皆無の場所はありえない(人家のない奥地でも、キノコ採りや薪炭業や植林事業ができなくなる)のですから、政治は、こういう利害調整こそが本領を発揮すべき分野です。
こういう被害を受ける人がいる・・その人の気持ちがわからないのか!という心情論は、どこを選んでも皆無ではないので)そもそも議論の対象でありません。
立地論とすれば、将来の産業構造としてどの産業の多い・・次世代継承が見込まれにくい産業構造中心地域が候補になり(将来性のある産業集積地域を除く・工場地帯や中心市街地丸ごとの用地買収計画が策定されないことがこのような基準が先行していることを証明しています。)、その中で居住人口(産業従事者)の最小地域となっていくのが合理的でしょうか?
高速道路敷設あるいは鉄道敷設でいえば、立退きで損をする人も逆に山間僻地の放置山林が買収対象になって高額買収資金が入って喜ぶ人もいる・・空港用地買収立退く人でもちょうど子供が都会にでてしまい、後継者がなく近い将来農業をやめるしかない時に買収されて喜ぶ人もいれば、40代でこれから約30年農業をやる予定の人もいる・・いろんな人がいるのは当然の前提ですので、個別問題・・引っ越し困難などの個別事情は個別補償実務で解決すべきであって空港や高速道路の立地が適地かに関する賛成反対論のテーマではあり得ません。
この選定基準が誤っているかの論戦をしないで生業を失う人の気持ちがわからないのか!という情緒論で政党が個別問題を争うのは論争のルール違反です。
しかも・・実際の被害者が少ないからか?一坪地主になってよそ者が中心になって工事実現妨害運動をするのは、政党としての存在意義を自分で否定する行為です。
これに対して旧社会党の衣鉢を継いだ社民党は、党の関与を隠さず堂々と沖縄の普天間基地の辺野古移転反対闘争を実行しています。
旧社会党は再軍備自体反対・・非武装平和論でしたから、基地存続自体の反対運動は観念的には一貫していましたが、旧社会党時代の村山内閣でこれを変更した以上はこれを反故にする主張自体論理違反です。

戦国時代2→大和朝廷の実質消滅1

佐倉市にある歴博で、蔵人頭(今で言えば大蔵大臣?)だったかの官人の1日の流れが出ていましたが、朝早くから摂関家で家人として色々な事務をこなしてから朝廷に出仕し、帰りにはまた藤原氏に顔を出すなど忙しい一日を時間表にしたものを見たことがあります。
(生活費を書いていませんでしたが)朝廷の仕事は名誉職みたいなもので、(その頃には荘園に蚕食されて国税・朝廷収入はほとんどなくなっていたでしょうから)生活費は摂関家の下働きで得ていたような印象でした。
荘園収入が減り最後はほぼ全て途絶えるまで、摂関家でも家人をドンドン減らしていったでしょう。
リストラされた方は、食・職を求めて地方に散らばるしかありません。
大坂の陣までは、徳川家旗本や各地大名は、功績を競うために配下武士・足軽を最大限抱えていましたが、平和な時代が続くと無駄なのでどんどん減らしていきます。
関ヶ原で負けた方の戦闘員の大方が失業状態でしていたので、大坂の陣で大阪方は、この受け皿になって、浪人勢が大規模に雇われて大勢力になって大規模戦争になったものです。
真田幸村を代表として大阪方の名だたる武将(大阪城に詰める譜代の家臣は、実践経験の乏しいものばかり)は皆いわゆる関ヶ原浪人でした。
大坂の陣が終わるとオリンピック景気終了後の現場労働者みたいなもので、浪人が巷に溢れ社会不安の現況になります。
大坂の陣に向けて功績を競うために最大限戦闘員を増やしていた勝った方の幕府方大名も旗本も、まずは平時の常雇体制に戻すのが当然です。
学校教育では、福島正則などの改易が続いた結果失業浪人が増えた結果社会不安になったので、大名の改易を縮小したと習いますが、改易になれば、その分誰かの領地になる・新規採用があるので差し引き本来同じはずです。
「日本経済の低迷と会社更生法(非退場のシステム)4」前後のシリーズで不景気対策として銀行や建設業の倒産を救済しないと失業が増えるから救済が必要という一般的な意見に対して、いかのように主張したことがあります。
「国内建設需要・銀行需要が一定の場合、トータル労働力需要が一定だから淘汰される業者は、技術レベル労務管理等々が劣っているのだからその企業の退出を促すのは良いことだ。
年間100棟建設していた業者が倒産すれば近隣他社がその需要を吸収するために人手不足になり、倒産企業から使える人材を雇用するので、競合他社から声のかからない人材はもともと給与以下の仕事しかしていなかった人の証だ。
こういうダラ漢が居座る企業を税を使って温存する必要がない」
と言う意見をこのコラムで書いたことがあります。
外様大名に限らず越前宰相と言われた徳川一門120万石も改易になっていますが、その土地が外国領土になったのではなく、(旗本が加増されて小大名となるなど)いくつか小藩の領地になってそれぞれ必要な家臣を新規採用しています。その機会に内政に必要な人中心に雇用して武断派の人材が再雇用率が低く時代不適合系は、失業していったと思われます。
島原の乱も由井正雪の乱も・・明治初期の秩父困民党の騒動、各地不平士族の反乱事件も皆新時代に適応できず行き場をなくした浪人が集結したのが騒ぎを大きくした元凶でした。
文治政治の江戸時代が進むと平時向けの戦闘力不要ですので、さらにリストラが進みますがこの頃には俳諧師に始まり各種サービス業が発達したので、(平賀源内のように活躍の場があったり、浮世絵師、落語家等々)受け皿があって各地から江戸に人口が集中するほどになっていたことが知られます。
応仁の乱以降に戻しますと、京にいても食えないので実務能力のある者は散在する荘園のうち一つを選んで自ら領地に住み着き自分で管理するようになる・ある程度実務能力のある荘園領主(と言っても当主ではなく一門の実務経験のあるもの?)もいたようです。
しかしそれは、中央と地方の連絡が取れなくなった初期のこと・「預かり所」に任せてられないので、家宰レベルが自分で赴任して直接監督するようになった程度のことでしょう。
近隣の武士同士で日々夜討ち朝駆けの攻防が繰り返され、武士が砦・城で起居しなければならない時代になると、武士である守護大名でさえ地元密着型守護代から見れば役立たずなので駆逐されて行きます。

 幕府権力と執行文の威力

室町時代初期にも、まだ貴族荘園と武家との年貢の取り合い・押領テーマにした幕府への訴訟が多かったこと・・この訴訟の裁定・裁許下知状・執行状に御家人が従わないことなどが尊氏の弟直義・三条殿が裁定していた頃から問題になっています。
この辺は、亀田俊和『観応の擾乱』中公新書、2017年に詳しく出ています。
後醍醐政権の裁定は公卿有利な裁定が多かったので武士の不満が蓄積されて足利政権が生まれたというイメージは、大筋ではその通りでしょうが、武家が荘園管理をするようになった場合、管理者とオーナー(荘園領主)との分配の揉め事は、荘園領主層の支配する中央権門・・朝廷が裁いた方が荘園領主側に有利ですが、武士の力が強くなってきて貴族層による裁定に従わないようになると、公卿会議の裁定は意味がなくなります。
「蛇の道は蛇」ということで、貴族層の方でも武家の棟梁に持ち込んだ方が強制力がある結果、後醍醐政権の方へ訴えるよりも、足利屋敷の方へ持ち込む事件の方が増えてきたようです。
結局後醍醐政権は時代の流れに会わないで市場淘汰されたように見えます。
公家側から見ても足利氏の裁定は無茶に武士に有利ではなかった・・比喩的に言えば、6対4で武士に有利な裁定であっても公卿にとっては、10割勝っても何の実効力もないよりは、4割でも権利を守ってくれる方がよかったということでしょう。
こういう意見(想像)は上記の本に書いていることではなく読後感・私の勝手な憶測です。
またこの本による執行状も興味深い事実です。
武家政権に頼んでも同じことで、執行状を誰が書いているかによって現場の実効性が違ってくる・・三条殿に対する御所巻きで、高師直側に多数武士が集まったのも、高師直が失脚して彼のサインした執行状の効力がなくなるのを恐れてあわてて集まったという読みも(本には書いていませんが)成り立ちます。
ところで、日本の歴史の連続性に関心するのですが、今でもせっかく勝訴判決を得てもこれを執行できないと単なる紙切れです。
判決を得て強制執行するには、さらに「執行文」というものを判決書につけてもらう必要があります。
判決書正本に執行文がついて初めて強制執行の申し立てができる仕組みです。
これを執行力ある、〇〇正本といい、公正証書や調停調書や和解調書など全て執行文付与が必須になっています。
民事執行法
(強制執行の実施)
第二五条 強制執行は、執行文の付された債務名義の正本に基づいて実施する。ただし、少額訴訟における確定判決又は仮執行の宣言を付した少額訴訟の判決若しくは支払督促により、これに表示された当事者に対し、又はその者のためにする強制執行は、その正本に基づいて実施する。
(執行文の付与)
第二六条 執行文は、申立てにより、執行証書以外の債務名義については事件の記録の存する裁判所の裁判所書記官が、執行証書についてはその原本を保存する公証人が付与する。
2 執行文の付与は、債権者が債務者に対しその債務名義により強制執行をすることができる場合に、その旨を債務名義の正本の末尾に付記する方法により行う。

「将軍が良し」と言い、今では裁判官が判決を宣言しただけではダメ・・執行文が必要な仕組みが室町時代には普通になっていたことがわかります。
今は官僚機構が整備されているので、執行文を誰が書いたかで効力に差がない・誰が書いたかに関係なく権限のある人(書記官)が書いていれば画一的権限が保証されています。
民事執行法
執行官等の職務の執行の確保)
第六条 執行官は、職務の執行に際し抵抗を受けるときは、その抵抗を排除するために、威力を用い、又は警察上の援助を求めることができる。ただし、第六十四条の二第五項(第百八十八条において準用する場合を含む。)の規定に基づく職務の執行については、この限りでない。

執行に抵抗すれば、公務執行妨害罪になりそうですから、ひ弱そうな執行官が来ても今の時代ヤクザでもヒルム関係です。
室町時代には執行(せぎょう)状を書いた人が誰かによって「あの人の命令では、聞かないわけにいかない」「あいつの命令じゃ聞く気持ちになれない」などと末端武士が決める時代でした。
判決(正義)に従うのではなく、執行状(ひと)に従う社会でした。
領地の境界争いの場合、負けt方が係争地をすんなり引き渡すのを期待するのは無理ですから、ほとんどの場合、上京した機会に執行状に花押を書いた実力者に、あの件何とかなりませんか・・とお願いする程度で、実力者が「よしわかった」と言って付け届けをもらいながら何もしてくれないと信用がなくなる関係です。

専門家の論文は事実の裏付けというか事実を丹念に拾っているので、私のような不器用なものには、読み応えがあって楽しいものですが、高齢化のせいか?読んでも読んでも忘れてしまうのは困ったものです。
直義が観応の擾乱第1幕では圧倒的に勝利を収めて政敵の高師直が討ち取られますが、直義がすぐに地位を失っていくのは彼は正義感が強すぎて?、あるいは過去の価値観にこだわりすぎて?自分に味方した武士に対するその後の論功行賞をまともにしなかったからのような印象です。
観応の擾乱第一幕では、御所巻きに屈服した直義でしたが、第二幕の直義による全国規模の巻き返しで直義側に馳せ参じた武将らは、自己主張が正しいかどうかは別として命がけで応援した以上は、相応の恩賞(不当な)利益を期待していたのにがっかりしたのです。
もともと室町幕府の威令が届きにくかったのは、足利家は源氏の名門とは言え頼朝のような絶対的名門ではなく相対的名門であった上に、権威の裏付けたる朝廷自体が南北に分かれていたことが、騒乱に明け暮れた基本原因でしょうと形式的には言えるでしょうが、(今でいう国連での決議や・・中国が南シナ海問題に関する国際司法裁判所判決を「紙切れに過ぎない」と一蹴したのと同じです。)上記私の想像によれば、時の流れが速すぎて室町幕府はしょっちゅう政変続きになったとも言えそうです。
建武の中興政権が崩壊して室町幕府成立直後は、高師直・高家一族勢威を張っていましたが、これが急速に武士団の信望を失って行くのは、上記の通り、公卿荘園領主側への遠慮が大きすぎて今度は武士の方から不満が出てきたからでしょう。
足利政権樹立直後は、政治的情勢から公卿側に配慮して上記の通り比喩的にいえば6対4で武士有利に裁定していたとしても、武士の世がはっきりしてくると、武士の方は6では納得しなくなる・7対3の願望が強くなります。
それが、比喩的にいうと数年もすると今度は8対4でないと納得しないような急激な変化の時代でした。
この不満期待感が直義への期待になったようですが、上記著者亀田俊和氏によれば、直義はむしろ守旧派・常識人・・過去の価値基準でいえば、武士が約束違反しているという発想が強かったようですから、直義側についた武士団はあっという間に直義を見放していきます。
ただし、室町幕府自体が武士に対する威令が届きにくい脆弱性を持っていたので、執行状を発給しても現地では守られないのが普通だったとも書かれています。
だいぶ前に非理法権天の法理を紹介しましたが、その時に書いたように粗暴な君主の事例を見ると国民隅々まで威令が行き渡る怖い時代かのように見えますが、逆から言えばそのくらいのことをしょっちゅうしなければならないほど、末端では威令=法令が守られないということです。
こう見ると何のための訴訟か?となりますが、一応幕府に訴えて自分の方が正しいという「正義のお墨付き」を求めるだけの利用価値があったのです。
今の国際司法裁判所の判決を「中国は紙切れだ」とうそぶいていますが、その程度の効力があったのでしょう。

天皇制変遷の歴史2(朝廷財源消滅1)

古代から朝廷=国家(個人事業創業時同様に財政と内廷費の分離がはっきりしないのが原則)ですから、天皇家=朝廷は納税する側にとってはいかにして国税納付をまぬがれるかに知恵を絞る対象であり、朝廷は恩賞を気前よく配る立場でした。
今でも納税者は法人税の減税をはじめとしていろんな分野で如何にしても減税を勝ち取るか、一方で如何にして補助金を多く勝ち取るかが、政治の大きなテーマです。
今から始まっていますが、消費増税をするとなれば自己業界を例外扱いしてもらうために、各業界はしのぎを削るのが普通です。
親子でいえば年金収入しかなくなっても親はいつまでたっても里帰りした子供らに手土産を持たせるかに気を配り子供世代はなにかもらって帰る習慣が抜けないのと同じです。
荘園の発達によって国庫収入・・収入源が細る一方→皆無になっていたのが安土桃山時代でした。
税を取れなくなって、恨まれないかもしれませんが、税のさじ加減の権限・影響力がなくなるしだけではなく、古代も今も経済影響力と権力は比例しますので、天皇権力に経済裏付けがなくなった上に、官僚やその他貴族にとっては事実上の決定権を持つ人に恩を感じても名目上の叙任権者である天皇に何の感謝もありません。
ついでに天皇・朝廷の権限縮小過程・・収入減少を見ていくと、荘園の発達に比例して国衙収入が減っていくので、藤原家の勢威が「望月の欠けたることのなき」栄華を誇る絶頂期になると、天皇家側で自前の資金源を持つ必要に迫られて「毒を以て毒を制する」挙に出たのが院政の始まりだったように思われます。
朝廷自身が荘園を持つのは国家体制と矛盾するので、早くに退位して身軽になった上皇が、院の荘園保有・・経営に乗り出して藤原氏との荘園の系列化争いを演じ始めたことになります。
朝廷には公式の左右の大将や近衛兵など青侍?しかいませんが、院の経営する荘園には藤原氏の荘園同様の武士団が発生します。
この中央武士団が北面の武士ということでしょう。
ところで、荘園の中央系列化の始まりは、地元豪族(いわゆる郡司さん)のものですが、もともと国衙の徴税を免れる(ゼロにして納めないというのではなく徴税のさじ加減を緩くしてもらうため)には中央権門に名目上寄進して交渉を有利に進める(今で言えば政治家に口利きしてもらう?)ために始まったものでしたから、さじ加減の権力の強い方に集中するのは当然の結果です。
このコラムで何回も紹介している千葉氏は元々平家でしたが、伊勢神宮の荘園である相馬御厨の管理権・今で言えば不動産会社がマンション管理する権利に似ています・・あるいはヤクザのショバ争いで、平家に頼んでいたが有利な結果にならず恨んでいたそこへ新興の源氏が食いついて世話になったので源氏に恩を感じるようになっていたという構図です。
老舗は客が多すぎて(双方に義理があって)どっちつかずになって、新興の勢力に負けて行くのは現在の世界の勢力争いでも同じです。
今のアメリカが、中東であちらてればこちら立たずで、一方的な応援できない・どうして良いかわからなくなっていたのと同じです。
古代豪族(のちの公卿)間の荘園系列化で、藤原氏の一人勝ち的(比叡山や興福寺その他寺社勢力も残っています)状態になっていた平安末期に院の庁が荘園経営に手を出すようになると、地方豪族は藤原氏に着くのが良いか院(上皇)に頼む方が良いか(荘園名義をどちらにするか)の選択が始まります。
院の方は新興勢力ですから、対立当事者に何の義理もない・・きた方に味方すれば良いだけである上に朝廷の実力者ですから、この争いに負け始めて藤原氏の影響力が足元から崩れ始め、この経済戦争の表面化が、保元平治の乱であったことになります。
もちろんこのような意見は、素人の私の妄想です。
この最盛期が八条院領を始めとして後白河周辺で荘園取り込みが活発化したことを17年12月31日の大晦日にちょこっと紹介しました。
この時点では、八条院庄園が、藤原氏の荘園経営を凌駕していたようですし、建武の中興後の観応の擾乱のテーマが、八条院領などの荘園経営者と武士層との年貢の取り合いであったことを見ると、鎌倉幕府成立後も八条院東野平安貴族層の荘園経営が続いていたことがわかります。
幕府成立〜武士の時代がきてどうなったかですが、有職故実の研究で知られている順徳帝の履歴を見ると、後鳥羽天皇(後の後鳥羽上皇)の寵愛を受けていた彼は、即位前から経済的バックを固めるために巨大な八条院領の相続人になっていることが出てきます。
天皇家の経済基盤が重視されていたことが分かります。
一般的歴史書では、藤原氏が代々天皇の外戚であったのに、保元平治の乱は藤原氏の娘の産まない皇子が天皇になったのでこういう乱が起きたかのような人脈だけを中心に説明されますが、(外戚支配の危機は何回もあったのですが、その都度藤原氏(長屋の王の事件や弓削道鏡事件が有名ですが、その他にも藤原氏の危機はいろいろありました)がその都度乗り切ってきたのですが、この時に限って危機を乗り切るに足る人材がいなかったということでしょう)そういう背景で天皇家は経済独立のために経済基盤の確立を図る動きが出てきてこれに藤原氏が対抗できなかったということです。
光明皇后が勢威を振るえたのは、紫微中台という役所を作って国家財政の過半を握っていたからという記述をどこかで、読んだ記憶がありますが、政治権力掌握・維持には、人脈も重要ですが経済基盤が絶対的に必要でしょう。
歴史年表的には、鎌倉時代に起きた承久の乱を習うと、源平時代がとっくの昔で、武士の時代になってからのこと思いますが、尼将軍政子の演説が有名なことからしても、その頃はまだ後白河時代の人脈や遺産につながっているのです。
その頃にもまだ後白河の頃に肥大した八条院の荘園がそのまま?残っていて大きな役割を果たしていたことがわかります。
鎌倉時代に問注所・訴訟部門・が発達していたことが知られますが、(室町幕府の所務沙汰)は そこの大きなテーマは所領(結局は武士の管理権?)争いや年貢の横領(管理人とオーナーとの分配)事件だったのでしょう。
大晦日にちょっと紹介した院近臣による荘園設定の場合、(国衙との共同経営的荘園が多かったので)国衙役人が荘園内の年貢徴収を荘園に委ねて一定率を、荘園が国衙におさめる方法でしたが、(このため荘園設定には国衙の同意書添付で中央に申請する仕組み・・・院近臣が各地国司になるとどんどん八条院の荘園が増加していった仕組みでした。
武士はこの荘園経営の現場部門が肥大化して独自性が出てきたものですから、貴族と国衙の年貢取り合いだった平安時代から、鎌倉時代に入ると朝廷の取り分がほぼ消滅していて、武士と公卿の取り合い・都の貴族や寺社にまともに上がりを納めない・収める量が少なすぎるなどの争いに変わっていったのです。
学校教育では合戦を歴史のエポックとして取り上げるので、合戦の結果幕府権力が出来上がったように見えますが、実は荘園経営の実利争いになると朝廷で議論してもラチがあかない・今でいうと「ヤクザ相手にするにはその道の格上・武家の棟梁相手に話をつける方が早い」となるのと同じです。
ヤクザの下っ端にとっては警察も怖いですが、その程度なら「月夜ばかりと思うなよ!」という捨て台詞が効きますが、兄貴分に「あいつには俺がギリがあるので手を出すなよ!」と言われる方が効き目があります。
荘園の用心棒である武士団が横領を始めると、貴族社会で「困ったものだ」と嘆いていてもラチがあかない・武士団の棟梁にけじめをつけさせるのが合理的です。
ヤクザの親分や幹部が内部けじめをつけられてこそ、幹部の地位を維持できて稼ぎの元にもなる訳ですが、武家の棟梁の始まりもこれの原始版でしょう。
千葉氏はもともと平氏一門でしたが、伊勢神宮所領の相馬御厨の管理権をめぐる争いで平家が力添えしてくれなかったので、折から利根川沿いに進出してきた後発の源氏の応援を頼んだことが、石橋山の旗揚げで敗れて安房(房総半島)に落ち延びてきた頼朝の応援につながったことを2004年に 09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」」で千葉氏が源氏に乗り換えた経緯を書きましたが要は管理権・用心棒のシマ争いです。
後醍醐天皇の建武の新政がつまづいたのも、この裁定実務能力がなかったからです。
政治家に必要なのは利害調整能力ですが、革新系は理念先行実務能力に欠けているのが一般的です。

消費者信用の拡大1(商法の消滅?)

中国や米国の車ローンのサブプライム化→節度なく借金にのめり込む状況を見ると国ごとに庶民レベルに大きな差があるように見えます。
新興国・・貧しい環境から脱却できると食べ過ぎて肥満や糖尿病になる人が多いのですが、その場合にもはじめっから自制する人と、一定の経験で学習しますから、肥満比率の上昇がどこまで上がって止まるかは民度次第です。
消費者信用も初めてのときにどの程度まで爆発的に広がるかも民度次第ですが、2回目3回目には学習して広がりが小さくなる傾向も民度次第です。
自然災害でさえ繰り返されたときの対応力はその民度次第です。
消費信用急拡大大傾向を見ておきますと、金融対象変化の側面から見ると、何のために貸すのかと言えば古くから事業資金の不足を補うもの・融資とは実質的に見て投資資金の融通でした。
税や利息の語源から見ても、種モミを貸せば秋には実る前提でその回収をはかる仕組みから始まっていることからもわかります。
株式投資との違いは確定利回りを約束するかどうかの違い(満期に払う能力がなければ結局回収不能になる点は同じ)ですから、投資と金融は(相手の品定めが重要な点でも)元は同根です。
近年では(例えば国債やサブプライムローン販売で知られるように)満期が来る前に換金売りするのが普通ですので、売買価格・市場相場が発行体の信用と金利動向によって変動する結果、確定利回りといっても券面額のない株券と機能的に似て来ました。
金融と証券の分離または融合などとこの数十年騒いでいますが、金融の本質を考えれば本来の業務・・目利き能力が必要になるのは当然のことでしょう。
融資対象の分類では、元々は種もみの貸付から始まった=自営農民が対象であったことからも分かるように従来(戦後だけを見ても)金融を必要とする人・顧客ターゲットは経済合理的に行動する経済人・企業・事業主を主たる対象にしていたものであって、事業主や経営する法人の代表者であっても事業を離れた個人にとっては、銀行はお金を預ける関係であって借りる関係ではありませんでした。
同じお任せでも貸付債権の回収リスクを銀行が負う点で、投資ファンドや保険商品と実は結果がちがっています。
リスクを持ってくれると言っても失敗が多くなって取り付け騒ぎがおきれば預金保険機構ができるまではただになってしまった点では同じです。
(今は1000万円までの保証です)
預金者が銀行の貸付先の信用状態を全く分からないで預ける以上は、銀行にとっては大量の貸付の中から一定率の回収不能債権が発生してもトータルで中和して預金利息以上の利潤をあげれば良い・以下になれば赤字になる関係です。
回収不能・・不良債権率を低く抑えることが銀行にとって生命線ですから、貸付段階の審査能力・目利き能力が最重要です。
リスクの高そうな事業者には銀行が貸せませんが、高度成長期には資金需要が高かったのでグレーゾーンの企業は高利金融業者から借りる(私の弁護士業務での経験では昭和50年始めころには月利5分が標準相場でした)ようになり隆盛を誇りましたが、多くは正規金融機関が相手にしない弱小事業者向けのものでした。
借りる方も事業経営者の場合、それなりの経営能力・自己規制能力を前提としていたし、消費財は買うための資金が溜まってから自己資金で買うのが、原則的生活態度でした。
戦後でも消費者向け融資は例外的で担保のしっかりした住宅ローンのみの時代が続いていました。
その後自動車や耐久消費財の月賦販売が始まってから、耐久消費財と言えない商品購入にまで各種クレジット販売が発達しましたが、いずれも物販の分割払い・・「物(ブツ)」の裏付けを伴うものでした。
純粋に消費目的のクレジット(信販系)や借入・貸付が(以前紹介したように日本でも古くは土倉〜現在の質屋がありましたが)昭和40年ころから徐々に広がり、公然と行われるようになったのは、50年前後頃のいわゆるサラ金の発達以降になります。
大衆社会・・経済主体としての訓練を受けていない一般消費者が経済活動の主役に躍り出た時代の1側面です。
法の世界でも近代法では、商人対象の商法と素人対象の民法の2階層の仕組みでしたが、過去約10数年の法令改正の大筋方向を見ると民商法の垣根を崩していく方向性が顕著です。
民法では特約しない限り無償が原則ですが、今どき他人にタダで物事を頼むことなど想定すらできませんから、今はみんな商法(商行為法)の世界に生きています。
今国会で成立した民法大改正でも時効や金利制度を民商法で共通にするなど垣根をなくす方向が顕著ですから(最近の15年前後では商法から会社法や保険法が抜けてしまうなど空洞化が進んでいます)「商法」という大法典の存在意義がそのうち無くなるように思います。
私のような関心を持った研究論文がすでに2008年に発表されています。
http://wwr8.ucom.ne.jp/sh02/pdf/shiryou0601.pdf
[商行為法WG最終報告書]
商行為法に関する論点整理
(第504条~第558条,第593条~第596条)
2008年3月31日
商行為法WG
(東京大学 山下友信 京都大学 洲崎博史 東京大学 藤田友敬 学習院大学 後藤 元)
【前注】
(1)以下の検討は,民法(債権法)の想定される改正に際して商行為法の規定についていかなる調整が必要かという観点から行ったものであり,商行為法ないし商法全体の立法論的あり方について根本的に検討しているわけではない。例えば,商法の適用範囲を画する基本概念である商人および商行為の概念自体については,根本的な検討が必要であり,その結果如何では,以下の検討結果にも影響が及ぶことがありうる。・・・・
(2)以下において「一般法化」とは,商人・商行為という要件をはずして規定を民法に
移すこと,「統合」とは,何らかの要件(商人性・事業者性・有償性等)を付加した上で民法に組み入れることをいうものとする。
・・以下面白そうですが、長くなり過ぎるので省略します。
このように民=一般人と商人の区別がなくなりつつある社会では、社会の一体化が進んでいるかと言うと逆で、格差社会と言われるように消費者と供給者・企業という隔絶した社会構造になっています。
いわば民商の2階層の社会から消費費者保護法が成立していることが象徴的ですが、フラットな消費者・大衆と事業者の2元社会・・中間の市民がいなくなりつつある社会です。
消費者契約法
(平成十二年五月十二日法律第六十一号)
  第一章 総則
(目的) 
第一条 この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力の格差にかんがみ、事業者の一定の行為により消費者が誤認し、又は困惑した場合について契約の申込み又はその承諾の意思表示を取り消すことができることとするとともに、事業者の損害賠償の責任を免除する条項その他の消費者の利益を不当に害することとなる条項の全部又は一部を無効とすることにより、消費者の利益の擁護を図り、もって国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。

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