憲法論と具体論の重要性(韓独など憲法裁判所の観念性1)

理念の言い合いでは最後は罵り合い・解決になりませんが、私の地元自治会婦人部では「生を受けた以上全うせてやりたい」ということから、「公園に罠を仕掛けて捕獲すると避妊手術して放してやり、避妊手術済みの猫には責任を持って毎日一定の場所で餌やり」しています。
それでも「避妊手術すること自体許されない」という人がいますので、自治会でやるのではなく「有志」が寄付でやっているようです。
避妊手術費用や毎日の餌代等一定の費用がかかるので有志の寄付(私も寄付しています)によっていますが、動物愛護という掛け声だけで野良猫の繁殖放置でも困る矛盾解決努力の結果、避妊していない猫を無くしていく努力がある程度効果を奏しているようです。
近所の野良猫は毎日餌もくれるし目の敵のよう追い回されなくなったからか?入れ替わり立ち替わり来ては(みんな顔見知りばかりで知らない猫はいなくなりました)我が家の庭で安閑と昼寝をしています。
冬には、日の当たる場所に落ち葉をある程度掃き集めると、その上に座って私が残りの落ち葉を掃き集めるのを じっと見ている猫もいます。
佛教〜儒教〜実学(御定書の編集などによる判例重視)への流れについては、03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
この意見の延長で、儒学の深遠な哲理では、赤穂浪士を裁く基準にならず困ってしまった例を引いて「非理法権天と野党1」December 25, 2016でも書きました。
なお、そこでは最近盛んになっている近代立憲主義の萌芽について、「非理法権天」の法理主張が始まった流れ・公儀に対する政策批判道具として用いられた経緯も少し紹介しています。
18年1月27日日経新聞土曜夕刊10p(最終裏)には、「法廷劇が問う撃墜の是非」の題名で面白い記事が載っています。
以下は私の要約です。

満員のサッカー場に突入予定のテロ犯によるハイジャック機を、空軍少佐が独断で急発進してこれを撃墜し乗客等合計164人の命が奪われ、他方7万観衆の生命が救われた。
少佐は英雄なのか殺人罪で処罰すべきかの判断を観客が、芝居が終わるまでに一人一人回答する・一種の陪審劇です。
ドイツで実際に10年ほど前に起きた航空安全法の議論を下敷きにしたものだそうです。
この法案は連邦憲法裁判所によって違憲とされたらしいのですが、2015年の公演開始以来世界各地の「評決」では、無罪にすべき・合憲論が圧倒的多数で、ロンドンやウイーンでは全公演で無罪だったと出ています。
ちなみに作者のシーラッハは、違憲判断支持らしいですが、作者の思惑・意図とは逆の結果になっているようです。
ちなみに日本公演結果は、(現在も進行中らしいですが)上記新聞記事記載まで12回の公演では6対6で欧州と違いどっちつかずになっている・・・テロの脅威実感の低さがこの結果になっているとの記事の解説です。

ドイツや韓国では、具体的事件に関係なく観念論で成否を判定する憲法裁判所があるようですが、具体的事件に関係なく判定するのでは、裁判所というよりは学問所みたいな仕組みです。
慰安婦騒動や徴用工問題がこじれる原因になったのも、韓国の憲法裁判所が政府が日韓条約で権利放棄しても国民を拘束できないと観念論で判決したことが始まりです。
国政の重要事項を現実に即して考えるか、観念論で決めるのが良いかは国によって違いますが、わが国や英米法のように「争訟性」具体的事件の当事者が訴訟提起できる・・現実に即して考えるのが正しいと言えるでしょうか?
具体的事件が起きる前からある法律が憲法違反かどうかを決めるのでは、例えば現亜pつ訴訟やその他多くの裁判は政治効果の大きなものがありますが・特に憲法判断は政治効果に直結する高度な政治行為です。
このように政治に直結するので実務(商売人ほどその商売)に詳しくないとはいえ、裁判実務に精通した裁判官が判断するし、詳細事実認定をした上で判定するものです。
憲法裁判制度は、具体的事象が起きない内に判定するものですから、原則として抽象論で決着しがちです。
集団自衛権論でいえば、具体的事件が起きて政府の他国援助が自衛権の範囲を超えているかどうかで具体的に判定する必要がある・事案が発生しない段階で「こういう違憲の場合しかない」と前もって言えないはず」という意見を書いてきました。
憲法裁判所制度は、神様のようにあらゆる事象を前もって見通す能力を前提に「違憲」になるという断定するものですから、そもそも無理があります。
民族性として「一般人とエリートでは格段の能力差がある」→エリートの指導に従って行動すべきという思想を前提にした制度です。
我が国では憲法裁判所制度ではなく具体的事件があって初めて・前提となる法律が憲法に違反しているかどうかを判断する仕組みです。
これは、ボトムアップ社会に適合した議院内閣制などと共通した制度設計というべきでしょう。
以下に紹介するように、憲法81条では「最高裁判所は一切の・・終審裁判所」となっているので最高裁判所以外の憲法裁判所の設置は予定されていません。

憲法
第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

次に抽象的に憲法判断を求めらるか?というと、76条で「すべて司法権は・・」となっています。
司法権とは具体的事件を法に基づいて裁くものですから、争訟性がないと末端裁判所に訴え提起しても却下される仕組みです。

裁判所法(昭和22・4・16・法律 59号)
3条 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。

いわゆる「板マンダラ事件」に関する最高裁判例です。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/84-3.html

寄附金返還請求事件
最高裁判所 昭和51年(オ)49号
昭和56年4月7日 第3小法廷 判決
[1] 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和39年(行ツ)第61号同41年2月8日第3小法廷判決・民集20巻2号196頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
[2] これを本件についてみるのに・・・以下略
・・・・本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
[3] そうすると・・論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。・・被上告人らの本件訴は不適法として却下すべきである・・・」
※寺田治郎裁判官の補足意見は多数意見とは違い争訟性があるが、宗教教義に立ち入れないので、結局原告は錯誤内容を主張できない・許されない?ことを理由に棄却すべき・だが被告が控訴していないので高裁に差し戻しても棄却できないので、結局的に却下という結論を同じくするというもののようです。
(勉強不足の私にとっては、補足意見の処理の方がわかり良いように見えますが、ちょっと技巧的にすぎるということでしょうか?)
日弁連の事例では、ある単位弁護士会で懲戒処分したことに対して対象弁護士が弁明を聞く手続違反があるとして異議申し立てしていたところ、日弁連がこの手続き違背を理由に破棄して単位会に差し戻した事例があります。
ところが、その事件では対象弁護士が単位会の懲戒処分後他の弁護士会に移籍していたために原単位会に差し戻されても原単位会では(対象弁護士はもはやその単位会の会員ではないのですが・懲戒処分後日弁連に継続した後に事件が原単位会に戻った場合には、その手続きの範囲内でその間に移籍していてもなお原単位会で処分できるような規定が整備されていなかった・今も同様です)再審査できない状態だったので、日弁連で自判しないと事件が宙に浮いてしまう事例であったのに、日弁連が差し戻してしまったことがあります。
上記最判の運用を見れば、こういう場合差し戻さずに「自判」すべきだったことになります。

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