健康寿命と自立年齢1

貧困連鎖論批判に流れてしまいましたが、年末〜元旦に掛けてのテーマ・・高齢化による情報処理能力低下に戻ります。
物忘れが早くなるのも能力低下によるもので、能力以上の重いものを持つと長く持っていられないのですぐにどこかに置きたくなる・・キャパシテイを越える情報が入ると保有し切れなくてすぐに投げ出すしかありません。
物忘れと言っても最近の記憶から順に消えて行くの見ると、ドラム缶に積もって行く枯れ葉などを想像すると、子供のころの情報は底の方に入ってしまい簡単に出ないが、だんだんつもって来て70台になって残り5センチくらいしか余裕が無くなってから入ったばかりの情報は風が吹けばすぐに飛び散ってしまいます。
この余裕幅が3センチメートル〜2センチ1センチ〜と縮小してゼロになると、5分前に食べたことも分らなくなるのかもしれません。
長く生きていると物忘れ・・記憶がすぐに消えて行くのは、その間の情報の蓄積が膨大で蓄積能力が限界・・満杯になりつつあるからではないか?と大分前から考えていました。
この考えは我田引水の都合の良い考え方・・全て人は自分に都合良く考えたいものです・・若いころから、あまり記憶して来なかった人の方がいつまでも記憶容量が残って有利になる結論を導けそうで気に入っていました。
私は若いときから人の名前その他、何でも直ぐ忘れてしまう記憶力の酷く悪い方でしたから,記憶が殆ど溜まっていないので入れ物に余裕があって有利な筈と思っていましたが、70歳前後から年齢相応に物忘れが進んでいるようなのでおかしいなと考え直した結果、元々のキャパが小さかったのに気が付きました。
キャパが小さいから直ぐ満杯になってしまわないように、生まれつきあまり覚えないように自己防衛して来たのかも知れません。
私の例から見ると、子供のころからあまり勉強しなかった人の方が記憶容量が残っていていつまでも記憶力が衰えないことになって高齢化時代には有利かと思っていましたが、そうとは限らないことになります。
私より半年か1年ほど年長で若い頃に記憶力の良かった修習同期の弁護士と時おり日弁連の委員会で会うのですが、彼は若いとき同様に特定分野に関する情報に関しては今でも関心旺盛です。
若いときから記憶力のいい人は、その方向で能力も優れているし、キャパも大きいのでドンドン使っているのであって、高齢化してもなお余裕があるのかも知れません。
ところで情報処理能力の低下を考えて行くと、100歳まで生きている場合、最後の1年で処理した情報は若い人の10日分しかないかも知れません。
そうなると長生きしていると言っても、1年で実質10日分長生きしたに過ぎない・・その他はボヤーッとしていたことになります。
100歳と105歳の差も内容では、5年間で得た情報差は20日分くらいしかないのかな?
赤ちゃんや幼児・・あるいは寿命の短い犬や猫その他小動物は、筆記試験出来ないので気楽に遊んでいるように見えますが、1ヶ月に受容し刻み込んでいる情報量は、大人の何千〜何万倍もあるかも知れませんから、生後の1ヶ月がもの凄く長いのでしょう。
こうなると長生きしていても情報処理能力が一定量以下になると実質的に大した意味がないことになりますから、早めに店じまいした方が良いのかも知れません。
客も来ないのに夜中まで開店していてもコストがかかるばかりですが、人生も同じで情報受容・処理能力もないのに120歳まで生きていてもコスト割れ?です。
この一定量は認知症診断の簡易テストに使われている長谷川式の詳細版を作れば良いように見えますが、テストをワザワザ受けなくとも外見的・・あるいは自己判定基準としては、いわゆる健康寿命が分りよい指標になるかも知れません。
健康寿命(自立可能)の限界が来ても、知能は活発な人は当然いるでしょうから、その場合は別に考えれば良いことでここでは概括的基準を書いているだけです。
若いときには、スキーに行って来たとか映画を見て来て良かったとかの自己中心話題で、結婚すると子供がどうしたと言う話題が数十年続くなど、年齢によって話題が変わります。
回りに高齢者が増えて来たせいか?時間が早く感じるのは常識になっているのでこう言う話題は減って来て、70歳代にはいって来ると健康の話題が多くなり、関心を持つようになってきました。
今の時代・・私に限らず多くの方にとっては、重い病気が増えるのは80台になってからのように見えますが、これは元気な高齢者が目立つからであって、体調の悪い人が結構いても、あまり出歩かない・徐々に社会参加が減るので目立ち難いだけかも知れません。

貧困連鎖論批判7

昨日紹介した12月29日論文批判の続きです。
正規と非正規、失業中の家庭の消費格差がせいぜい1割の範囲内と言うことは、一生懸命競争した結果の差としてはこの程度で良いと思う人が多いのではないでしょうか?
格差が開き過ぎていると言うマスコミ報道は・・生活格差ではなく所得格差を言っているのであって、欧米の実態と日本の違いを明らかにしない不正確報道・・実態を表していないことになります。
同論文は続けて大阪府で行なった調査では、豊かな層では職探し意欲が高いが、貧困層では、職探し意欲が低いことが明らかになったと書いています。
これが貧困の連鎖になると言いますが、貧困だからそうなのか、親のレベル(DNA)が低過ぎて職探し出来なくて貧困になっている場合、その子も職探し自体無理がある場合が多いのではないか(一般的に親子の能力は遺伝します)と言う普通に起きる疑問に答えていません。
12月29日の論文では、中学生になっても9x9の掛け算さえ出来ない子が増えているなどのいろんな実態報告をしていて、貧困連鎖の深刻化が進んでいる・・これを断ち切る必要性を書いています。
明治以降能力がなくとも大学に行けたり、能力があっても小作人の子が大学へ行けなかったりなどの格差があったが、戦後平等主義が徹底した結果、各分野において能力差による待遇・社会的地位の決定方法が行き渡って来たのは喜ばしいことです。
現在我が国の格差は素質的能力主義が完成に近づいた・・貧困層とその次世代能力差がキレイに一致して来ただけではないかと思うのは、私だけでしょうか?
この辺の実証研究・・常識的な疑問に答えないままで各種補助金の必要性をイキナリ力説しても,専門家の意見と言えるのか疑問です。
9x9も出来ない親が東大に行くような子供を産めるようなことは普通ではないのであって、「東大生には富裕層が多い」としょっ中出て来るマスコミ宣伝のいかがわしさに迎合しているような論文です。
中学生になっても9x9も出来ないような子に対する特殊教育の嵩上げが必要とありますが、膨大な国富・有能な人材を動員してもその効果は知れています。
1月3日に紹介したように同論文では学校外で3時間も勉強しているが、全く勉強しない豊かな層の子よりも成績が悪いと書いています。
出来ない子に親が苦労しているがどうにもならない実態が現れています・・これは貧困と関係がない・・素質の問題です。
公費で課外学習を取り込んでも、巨額費用投入の割に効果は知れているでしょう。
そこまで国民から徴収した税を使うメリットがあるかと言う国民的議論が必要です。
(出来ない子の立場で考えてもできないことを、懲役のように無理に教えられるのは苦痛ですから早く解放して欲しいでしょう)
9x9が出来ない子供は、貧困で勉強する時間がないから出来ないのではなく、(学校外3時間の勉強と言うのは、親が面倒見ているよりは)塾などに通わせて(プロが教えても)いる時間を言うのでしょうから、お金をかけても素質的に無理があるから出来ない子が一杯いることを表しています。
弱者を蹴散らし踏みニジルことしか知らない・・自分の子でさえむちで打つくらいが教育と思って、何千年も来た社会の・・・社会不正義が蔓延しているのが原則の欧米社会で、時々エリートが頭で思いついて騒いでいる・・人権論・・日本社会よりも何周回も遅れた欧米の議論をそのまま持ち込んでも仕方がないと思います・・。   
反捕鯨運動の文化的な底の浅さを日本人はみんな知っているように、社会参加率を金科玉条にする欧米の受け売り・・フェミニズムのばかばかしさをこの数日書いてきました。
未だに文化人は、欧米の受け売りをすれば論文になると思っている(あるいは、海外基準で日本は遅れていると書かないと海外で紹介されないのかも知れませんが・・。)のではないでしょうか?
変な意見だなと思っても、「難しいことは私らには分りませんが・・」と言うスタイルで、日本人は相手に恥をかかせないようにこれまでやり過ごしてきましたが・・・。
お偉い人たち・マスコミに任せておくとアメリカが誘導する方向ばかり・・慰安婦騒動になって来たので、お任せ出来なくなって来たのが最近の実情です。
その気になって、マスコミ報道を見るとおかしな報道・論説が一杯です。

貧困連鎖論批判6

能力競争に負けた人が富裕層になれないまでも格差が大きくなり過ぎないように下支え・・各種社会保障制度で修正されていることは周知のとおりです。
地域格差については、EUと違って地方交付金などの補填があります。
我が国は米国や中国その他諸国に比べて、元々所得格差が少ない上にその修正も大きいので、格差社会と言うには、結果的平等が維持されている稀な社会です。
日経新聞の「経済教室」には、12月28日と29日に、「貧困の連鎖」のテーマの論文を連載しています。
その論文では、貧困連鎖が存在していることから補助金・・高校授業料無償化・課外授業の公費負担などの補助金の提言をしていますが、補助金等を拡充すれば何故解決になるのかの説明もなく論理飛躍があって意味不明です。
昔から血筋は争えないと言い、犬でも、馬でも血統を重んじているようにDNAなどと言う言葉が普及する前から、「子の素質は親兄弟に似る」のは誰でも知っているとおりです。
学者ならばこの辺の解明・・血統によらずに貧困によると言う実証研究結果を発表してから論を進めるべきではないでしょうか?
アメリカの黒人等では教育の機会均等が保障されていない・・・西洋では移民2世に同様の問題があることは昨日も書いたとおりに当然の議論ですが、我が国にこの研究成果を漫然と当てはめて公理のごとく高校授業料無償化等を提案するのでは意味がありません。
12月28日論文によれば、格差水準の有無は所得・収入によるのではなく、消費水準によってみるべきと書いていますが、この点は私も同感です。
所得が低くとも補助金や借入金・・祖父母が出してくれても、(収入源はいろいろでも結果的に)学校や塾へ行けていれば結果は同じです。
まして、低所得層にとってはいろんな減額免除制度がありますから、実質消費水準が統計よりも高い結果になっているように見えます。
生活保護所帯では、医療費等が無料であるばかりか、身障者や難病者では公的料金も各種減免制度があるので、仮に正規雇用者と同じ額の貨幣,消費支出があった場合でいえば、各種保護のない正規雇用所帯よりも、実質消費内容が豊かになっていることになります。
高所得があっても自分で消費しない限り何ら良い思いをしていないのですから、公平な課税のためには、消費した時点で良い思いをしているに過ぎないから、所得税と消費税のあり方について消費税が合理的であるし、(財政赤字との関係や景気にどう作用するかは別として)公平であることを繰り返し書いて来たところです。
ジニ係数を大げさに騒ぐことについての批判でも書いていましたが、高齢化するとフローの収入(所得)は減少し(最後はゼロになり)ますが、高齢者の多くは自宅があるしローンも終わっているので家賃もいらない、洋服も滅多に買わなくて良いし、子育ても終わっている・・宝石絵画類も充分に買ってあるし豊富な金融資産(世界に冠たる個人金融資産の大部分は高齢者が保有していることも知られています)で余裕の生活が出来ますので、収入ゼロかどうかの議論=所得格差が広がりますが、政策議論としては意味がありません。
日本の場合、所得ゼロの高齢世帯が豊富な金融資産や不動産等を持っているので、次世代が困っていると所得ゼロの高齢者からの次世代への所得移転・贈与などがしょっ中行なわれています。
実際にこれを応援するために、高齢者からの贈与減税政策が年々拡充される一方であることからも、この動き(個人的に親子間で行なわれているので、統計に現れません)が推測されます。
相続税が大幅に上がりましたが、これは生前贈与を早くやらせる・一種の駆け込み贈与をせき立てる政策の一環とも言えます。
格差を放置出来ないとして社会政策を決めるには、実際の消費量の格差(親からの援助や公的補助金等々の結果)を基準に決めて行くべきです。 
そこまでは日経掲載論文と同じ意見ですが、以上を基準にして12月28日論文の掲載表をみると驚きます。
以下のとおりです。
 
    形態    平均消費支出   貧困所帯割合
  正規労働者   25万1840   1、25%
  非正規     22万250    8、47
  自営      25万2610   1、63
  無職・失業   23万8500   4、55

同論文は正規非正規の格差よりも非正規内格差が大きいと言う主張を書くためにこの表を出しているのですが、この表によれば、所得格差と実際の生活水準は比例していない・社会保障等で大幅に修正されていて結果的に消費生活水準では約1割しか差のない社会になっていることが分ります。
実際の消費格差が、1割前後を格差拡大していると騒ぐのがが正しいと見るかどうかです。
非正規に多い母子家庭を例にすれば、母子家庭であることによる公営住宅優遇枠があって実際の家賃消費金額(千葉市で言えば、民間相場7〜8万円のところ1〜2万円になるなど)が少なくて済んでいますから家賃だけ見ても実質正規労働者所帯よりも豊かな消費生活をしていることになります。

貧困連鎖論批判5

この後で紹介する日経新聞連載の平成27年12月29日「貧困連鎖論」に関する論文第3段落によれば、学校外で3時間勉強している貧困層の子の方が、学校外で全く勉強しない豊かな層の子供よりも成績が悪いと出ています。
(昨日まで書いて来たとおり、お金の問題ではなく遺伝子・素質の結果であれば当たり前の結果です)
上記の紹介の後で、貧困の連鎖を食い止めるために貧困層の子に対する底上げ教育が必要と結論付けているのですが、飛躍がある・・どこか論理がおかしくないですか?
中学生になっても9x9が出来ないのは、貧困の結果ではなく遺伝的素質の結果ではないかと言う視点・・実証研究が抜けています。
無理ヤリに格差拡大と貧困連鎖を結びつけたい印象です。
たとえば、魯鈍レベル・・中学の授業について行けなかった親が、親の七光りで富裕層に入っていないのは社会のあり方としてむしろ健全です。
現在の能力主義社会が正しいとした場合、社会正義のために必要な研究は、能力があるのに貧困層になってしまう歪んだ社会構造の連鎖になっていないかの吟味であって、中学の授業について行けないレベルの親の子(次世代)が似たような結果になるのは、貧困が原因とは言い切れません。
貧困層の子がまた貧困層になる「貧困の連鎖」と言うスローガンだけで、どうなるものでもありません。
フランスのテロによって、移民受け入れの問題点がクローズアップされていますが、仏独等の難民の場合は、例えば母国で有していた医師や弁護士資格を生かせなくてタクシー運転手や現場労働になっている・・しかも着替えすらマトモニ持たないで来たので、僅かの稼ぎを先ずそうした補充に資金が使われてしまい、貧困からの生活開始ですし、2世教育もままならない現実が指摘されます。
その上、2世は、言葉の壁で苦労するなどハンデイがあるので、普通に学校へ行ってるだけはついて行けません。
家庭でフォローすべきですが、親は低賃金労働・・一般的に労働時間が長く、家庭教育する時間が少ないのが普通です。
移民2世の社会不適合は、まさに素質と直結しない貧困の連鎖を含みますから、公的資金を使ってフォローすべきですし、すれば一定の浮揚効果がありますが、日本人同士では、(親が医師・弁護資格あるのにタクシー運転手等をしていると言う家庭はあり得ませんし・)そう言う問題はありません。
元々9x9が出来ない親世代の場合、課外学習資金等を補助してもあまり効果がないことは明らかです。
日本のように移民でも風俗(売春目的)などで入って来たり現場労働で入って来た移民2世の場合、日本語さえ教えれば成績上位に行く子供が大量にいるとは思えません。
1昨日日本のフェミニストの例で書きましたが、何でも外国の事例を引いて来て、受け売りすれば研究発表になる・・「日本でもこうすべきだ」と言う時代は疾うに終わっています。
最近の学者は外国の発表による・・「横書きを縦にしたから正しい」・・「ドイツ語の原文を読んでくれ自分の説の方が正しい」と正面切っては言いませんが、仏独等での移民2世の貧困の連鎖研究に触発されたのか?日本の実情を無視した義論をしているように見えます。
能力がないのに世襲や家柄やコネによって、支配的地位・・富裕層につくのは不正義であり、能力がなければ、富裕層になれないのは現在社会の正義の基準です。
平等主義が徹底すればするほどその結果→貧困層=能力競争に負けた人と言う関係が確立して行きます。
能力競争に負けた親・貧困層になった人の子が、富裕層の子に比べて能力競争で負ける確率が高くなるのは普通に想定されています。
難民等特殊事情を除いて日本人だけの問題とすれば、「貧困の連鎖をなくせ」と言う概括的主張は、能力競争をやめろと言うに等しいでしょう。
もしも能力主義の主張を展開するならば、偏差値基準での単線競争だけではなく、出来るだけ多様な世界を作って行くとしても・・・スポーツ芸術、将棋それぞれの分野に入った以上は、その世界の基準の能力競争に徹する・・どの世界にも能力競争があるのは仕方のないことです。
俗世の競争を嫌って宗教界に入ってもその中での競争がある・・どの世界にはいってもその中で競争があります。
モノゴトは徹底し過ぎると良くない結果になる・・平等主義(能力主義)の価値観修正が必要でないか?と言う提案なら私も同感ですから,どのように修正するかの意見なら傾聴に値いします。
私なりに「摘果論・少子化の推進による汎用人材の縮小」+「知育偏重社会を是正していろんな人材の生き易い社会」→「どの分野にも適合できない・・不器用な人も包み込む文化が必要」ではないかと1月9日ころから書いて来たところですが、能力による差別・平等論を前提にしたまま、貧困の連鎖を防ぐために、補助金を増加し、枠を広げろと言う論説には・・?となります。

貧困連鎖論批判4(天皇の無答責)

貧困連鎖論で危機を煽る論調は、ここ数年はやりの格差拡大論の亜流と思われますが、貧困層の素質の連鎖を問題にしない立場で・・解決のために高校授業料無償化、課外補習授業費の補助金制度創設などの経済支援中心論です。
能力差→経済格差修正には補助金補填で辻褄が合いますが、貧困連鎖論→貧困層の・・東大合格者・司法試験合格者比率の低さを問題にし始めても、補助金ではどうにもならないのは目に見えているので結果的に、・・資格試験の結果・・不足点数の補填を始めるとどうなるかと言うことです。
貧困層からの東大等1流大学合格者が少ないと言う結果論から始める議論によれば、その解決のために一定割合だけ貧困層から=バカでも東大に入れろ・医師・弁護士・・社長にしろ、1級建築士・税理士や執行役員にしろと言うことになり兼ねません。
そんなバカなことまでは言わないでしょうが・・身障者一定比率雇用強制など末端労働から始まっています・・結果平等論は突き詰めればそうなります。
クオーター制の結果は、彼ら能力不足による間違いがあっても、責任のないシステムにしないと一貫しませんので、各種制度の信用性が崩壊します。
東芝の社外役員制度は日本で最先端システムだったらしいですが、全く機能していなかったことで,笑い物になりました。
一般的な君主の無答責制度は、(歴史上のことではなく、今でも例えば、天皇・皇族は無答責です)地位の取得が能力によらず世襲による以上は、正当な世襲権利者か否かが要点であって、能力を基礎にしていないのですから・能力担保がないことを前提にしています。
王位継承戦争や跡目争いは全て正当な継承者か否かが争点であって、統治能力があるかどうかが争点になりません。
ただし、現在の選挙で前知事から支持を受けているかどうかが問題になるのは前知事の政策継承・前知事の支持母体の支持を受けていることを主張していることになります。
天皇・皇族の無答責については、実定法的根拠をどう見るかの説が分かれるようですが、兎も角結論として、天皇は無答責である点については、争いがないと思われます。
学説は制定憲法を基準にして議論しているようですが、私は法学者ではないので、直感で言えば、処罰は古来から、(イギリスでは裁判所をKingsベンチ、クインズベンチと言うように)君主の行なうものですから、臣下の国民が君主を処罰するのは観念的に成立し得ない・・処罰するのは天皇制廃止・・革命しかないと思います。
グールグルで調べるとhttp://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu99.html
に、この辺の解説を書いてありますので、関心のある方は上記をお読み下さい。
各種選別が合理的基準によるか貧困層に不利に働いていないかについて、なおきめ細かく見て行く必要・・議論の余地あるとしても、その点を論じないで・・制度に合理性がある限り採用得点が低いならば、細かくスライスされている資格社会に合格しないのは仕方のないことです。
私の感じでは、家庭教育の必要性・・胎教に類する幼児期の家庭教育環境の整備が重要な感じがします。
この考えは、公費補助の拡充など保育所に追いやる政策とは逆の政策の重要性です。
むしろ3〜4歳児までは外で働かなくても良いように補助金を出す政策が求められます。
キャリアー断絶のマイナスに対する政策については、別に考えて行く必要がありますが・・。
貧困連鎖を断つための公教育費の無償化推進論は、お金がないから塾に行けないことが原因で東大に行けないのかどうかの実証的研究をしてから議論すべきであって、塾にさえ行ければ東大に行けたと言う人は滅多にいないと思われます。
もしもお金があって、塾に行きさえすれば合格するならば、塾の定員=東大の合格枠・・東大の定員を何十万人に増やさないと物理的に無理があります。
私のころ(昭和30年台半ば)と違って、大学・高校の進学率が飛躍的に上がっていることからも分るように、貧富差による進学率差はもっと意味が少なくなっている筈です。
社会の補充制度が整っていて、現在では(偏差値基準による)能力主義社会化がもっと進んでいますから、収入の高い人=現在価値社会の成功者ですから、一定の高学歴や優秀な才能を持っている場合が殆どです・・(能力がないのに高収入を得ているとしたらその方がおかしい・・糾弾すべき対象でしょう・・)その子世代が原則として(現在の貨幣価値基準で言えば)優秀な比率が高くなるのは当然です。
親が貧乏なら勉強する機会が少ないかと言えば、ある程度関係があることもあるでしょうが、私のころと違って、貧しいために新聞配達したり、どこかで働いていて勉強する暇がないと言う子供は滅多に見かけません。
今では、東大等一流大学に行く能力があるのに高校へも行けないほど貧しい子供と言うのは直感で言えば1万人に一人もいないのではないでしょうか。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC