人生を味わう2

日々限界に挑戦しているスポーツ選手などは、以前より多く練習してもそれぞれの分野で選手寿命の限界があるのを誰でも知っていますが、凡人の日常生活は限界に挑んでいない楽な生活をしているから,体力の下り坂に入ったことが分り難いものです。
あと一歩も歩けない程、限界まで歩く人や寝不足や大食いの限界に挑戦する人も滅多にいないので、凡俗には限界値が下がっていることには気づくチャンスがありません。
厄年とは、普通の人は体力の下り坂になる転機に気づかずに従来とおりの生活をしていると、転んだり病気するよ!と言う戒めです。
この程度のことは、誰でも知っていますが、理屈が分るだけで、実感を伴わない・・限界能力の3〜4割しか使っていないつもりがいつの間にか限界の8〜9割に迫っているのに気が付かないからこそ(疲れが溜まってしまう・・)「転ばぬ先の杖・気をつけろ!」と言う厄年の教えなのでしょう。
無意識でいろんな厄年をくぐり抜けて来た私のように鈍い人間でも、70歳を過ぎると日常生活で日々体力・能力の衰えが目につくので、(具体的にどこかからだの具合が悪い訳ではないですが・・)寿命が細り始めているのを身近に感じるようになります。
厄年以降、体力が下り坂になってからの負けん気の発揮は、無理するとつまづいて転ぶだけですから、徐々に能力がゼロに近づいて行くのを従容として受入れて行く・・これが高齢者が自然に身につけて行く達観力・・特技と言うべきでしょう。
イヌを飼っていましたが、犬も高齢化して寿命が近づいたときには、私よりもずっと達観した顔をしていました。
能力の下り坂を口惜しいと思って「何を!っと、頑張れないのが可哀相」と思うのは将来のある若い人の発想で,高齢化するとこの先に良くなる未来がない代わりに「終わり」に近づくことを達観して行く過程・味わう能力が身に付いて行くのが不思議ですし、楽しいものです。
これから草木の萌えいずる春も良いですが、枯れて行く秋の夕暮れも良いと言う違いです。
古来から「秋の夕暮れ」の味わいを讃えている詩歌がいくらもありますが、この境地を表してるのでしょう。
悟りの境地などお釈迦様または特別な高僧でないと無理かな?と思っていましたが、図らずも高齢化して日々能力低下の進行を実感し、これをそのまま受入れる境地になって来ると、悟りに近づいていると思われていた昔の高僧は大方高齢者だったことが実感出来ます。
特別な人格者の悟りの境地とは内容・レベルが違うでしょうが、年さえとれば、凡俗も犬猫も皆「死」に向かって、おのずから悟りに近づくようです。
その気になって、周りの高齢者を見るとみんな元はどうだったと言わずに、弱くなった立場・・自分の体力気力の衰えをそのまま受入れて,・・、人の世話になればそのまま弱者として感謝して生きているのに驚きます。
これを惨めと言うか悟りに近づいていると言うかは、人の気持ち次第です。
老化を知って「惨め」と思う人は年齢進行に抗ってスポーツジムに通ったりして、「若い者に負けないぞ!」と頑張るなど人それぞれですが、私は(「己を知る」などと言い訳して)易きに就く方・・「年寄りの冷や水で鍛える」などもっての外ですから、秋が来たら早めに腹巻きするなどお腹を冷やさないようにしています。
易きに就く私の生き方からすると、元気に働いていた人が、(現役で)イキナリ亡くなると「可哀相」・・寂しいと言うのは、秋から冬に掛けての味わいを楽しむ期間がなくて、・盛夏にイキナリ「終わり」が来るのを勿体ないと言う意味かも知れません。
他方最後まで元気印の生き方を良しとする人は、「最後まで現役ですごい!と言う評価になるのでしょう。
私流の価値観では、お芝居でも音楽でも起承転結があるように、途中で幕引きになるのでは物足りないように思えます。
歌舞伎の1〜2幕だけ見る人もいますが、理解力が高いから理解出来るのかも知れませんが、私のレベルではやはり3〜4時間ものならば、3〜4時間かけてみた方が良いと思います。
ベート−ベンも「じゃじゃじゃじゃジャーン」と言うところまで聞かないと聞いた気がしないのが、凡人の辛さです。
今年は、元旦に書いたように悟りの境地の入口に立ったように思う自分に驚き、且つこれを味わえるようになった自分をほめながら,今後人生を味わい・楽しい1年を過ごして行く元年にして行く予定です。
ただし、若いときに自分の能力の限界を知るのはどうか・・悟っていられるかと言う別の問題がありますから、若い人にはこう言う生き方を勧めてよいかどうか分りません。
・・悟ったフリと言うか能力縮小・・最後にはゼロになることを自覚して気にならなくなるのは、下り坂に差し掛かった老人の特権・・生きて行く智恵と言うべきでしょう。
若いとき・・まだ上り坂の途中にあると思っている時期には、「これからは、下り坂しかありません」「達観しろ」と言うのは無理がありそうです。
(それぞれの能力に応じた目標としていた)登山に成功して、これから景色をゆるゆる眺めながら足下に気を付けて下りましょうと言うのと、目標途中で登山を諦めて下りましょうと言うのでは、意味が違います。
先のあるときには他人に負けるのに我慢出来ない口惜しさ、あるいは絶望は・・負けっぱなしでは将来が不安ですから当然の反応であって、これが向上力のバネにもなるし正常な気持ちです。
私たち老人の達観力?を若者が急いで真似する必要はありません。
達観や悟りの境地は高齢者のものですから、今年も若い人は悟らずに?頑張って前に進んで下さい。

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