次世代の生き方8

2012年8月1日まで書いて来た次世代の生き方に戻ります。
次世代は自分の運命を親世代任せにせずに自分の将来のため新たな生き方を自ら工夫するべきですが、その能力が低いのか時代の変化に対する適応が遅れているように見えることが次世代の苦悩・・ひいては社会問題化していると思われます。
成功して大きな顔をして歩く人と失敗して社会の片隅で小さくなって生きる人がそれぞれいるのは昔から同じですが、今は身障者でも(犯罪者でさえ、社会復帰を助けるために差別しないようにしようという時代ですから、貧乏しているくらい何の遠慮もいらない・・むしろ「俺は弱者だ」と言えば役所や公的空間で大きな顔が出来る風潮です・・これが生活保護受給者の増加に繋がっているでしょう)屈託なく社会で動き回れる時代です。
弱者の社会参加が増えるので身障者や知恵遅れが増えたかのような誤解が起きますが、(実際に増えた面もありますが)社会の片隅で遠慮勝ちに生きていたころよりも増幅して目立つようになっていることを割り引く必要があります。
同様に今は数十年前に比べてフリーター・非正規雇用が多いことは事実ですが、(誤解のないように書いておきますと民間で終身雇用が定着していたのは歴史上ホンの一時期のことです)全員がそうではなくきちんと正規雇用になっている若者も一杯いることからすれば、一種の負け組です。
これがコンビニその他で働いていることから、昔よりは目立ち易くなっていることを割り引く必要があるかも知れません。
数十年前まで多かった安定就職出来ないまでも、新時代に先がけていろんな分野で今までなかったようなことに挑戦している若者が一杯いる筈ですが、それは今のところ(基礎工事段階である以上)目に見えませんが、数十年後に芽を出すのでしょう。
新方面での努力する能力もない・・中底辺層の若者の従来型職場が減って来て正規雇用に新卒で就職し難くなくなっていることは明らかで、しかもこの階層の数は多いので目立つし、彼らが今大変であることも確かな現象です。
新興国の台頭→先進国経済縮小の時代になって汎用品製造工程で働くべき人たちの就職難になっているのは、次世代の責任ではないとも言います。
しかし、何時の時代も前世代の行動の結果、次の時代が来るのですから、いつだって次の新しい時代に適応出来るかどうかはその時々の次世代の能力次第だったのです。
高度成長期に育った我々世代・・焼け野が原から始まって何もないところで育ったので前世代から見れば可哀想な世代でしたし、何もないから失うものがなく何をしても前向きで良い時代ではありましたが、それでも高度成長期には「若いと言う字は苦しいに似ている」という歌詞が流行していました。
未来がある分現在(既得権)が少ないので若いときに苦しいのは、何時の時代でも同じです。
江戸時代に入って平和になって従来の武勇が役に立たなくなったのは俺の所為じゃないと言って暴れていても仕方がなかったし、戦乱で死ぬ確率が減ると直ぐに少子化に転換し、武士も文芸(お城での事務処理作業)に精を出して時代に適合して行きました。
明治維新で士族が没落したのは俺の所為じゃないと主張して食い詰めていた人・・不平士族の乱を起こしてもどうなった訳でもありません。
逆に新しい時代に適応して新たに身を起こした人がいたのです。
戦後も身分の入れ替えがありましたし、高度成長期にも時流に乗れた人と乗れなかった人の入れ替え戦がありました。
バブル期にも損をした人と逆に高く売り抜けて得した人もいたのです。
しょっ中世の中が変わるのは当然で、それを政治や世間・・親世代の所為にして自分で生き残りの努力しない人は置いて行かれるしかありません。
我々の世界でよく議論が出る若者気質として、何か課題を与えると自分でじっくり考えようとせずに、「これに関する文献や答え・判例があるかを直ぐに聞いて来る」というボヤキがあります。
マニュアル化時代とでも言うのでしょうか?
必要は発明の母とも言いますが、少子化で親に充分な時間があるので先へ先へと親が心配して準備してやって来たので、じっくり自分で熟成する時間経験が乏しいように見えます。
これでは本来の智恵がつきませんので、「今の若者は大変だ。何とかしてやらねば・・。」と親世代が30〜40歳になった世代の生き方の工夫をしてやるのではなく、一定期間苦しい状況に置くのも新たな文化が生まれるために必要な試練かも知れません。

国債の増減と景気調節2

私のような論理ですと、一旦発行した国債は永久に削減出来ない・する必要がないのかと心配する人がいるでしょう。
しかし、景気過熱したときには今とは逆に市場から資金吸収するために、国債償還のための大幅増税をすれば大量資金吸収によって景気を冷やせますし、発行済み国債を削減出来ます。
このような理論(と言えるかな・・私個人の思いつきですが・・)であれば、国債大量発行と償還の組み合わせで、インフレとデフレの調整がある程度出来ます。
(ただし、近代生活に渇望している新興国以下と違い先進国では充足状況ですし、一国閉鎖経済と違い、しかも大量生産時代到来によって量的緩和によってもインフレが起こり難い状況になっていることを書きました)
景気変動を調節するための日銀の金利調節の意味・効果が少なくなっていること何回も書いてきましたが、今では、金利調節よりは国債の増減が経済活動に重要な役割を果たす時代です。
資金不足時代には貸し出し金利の上下が重要ですが、資金あまり時代にはその吸収装置の方が意味があります。
結局国債増発するか償還するべきかは、景気対策(国債による紙幣流通量調節政策)として考えるべきことであって、政府財政をどうするかの基準で考える必要がないばかりかその基準で考えては行けないのです。
政府財政は国際収支黒字の範囲を超えるときに議論すべきで、そのとき以外にする必要がなく不必要なときに議論の材料にすると却って害があります。
このような考え方によれば、景気過熱・インフレが来ない限り償還するチャンスがないことになり、累積する一方となりますが、国債はいくら溜まっても国際収支が黒字である限りそれで良いのです。
バブル崩壊後ずっとデフレ状態でしたので、赤字国債が累積したのはこの理屈で説明がつきますし、正しい政策だったのです。
デフレ下で市場から資金吸収して国債を償還すれば大変なことになるのは明らかで、橋本政権で増税して償還財源にしたのは経済原理に反したことをやった結果、景気悪化を招いたことになります・・。
資金吸収・・インフレになるかデフレになるかについては、日銀の仕事で政府に関係がないという学校で習ったとおりの分業論で・・政府が市中から如何に資金を吸収しても関係がないだろう式に考えた頭の良い人(秀才)が失敗したのです。
橋本元総理は蔵相経験者で・・理解力の良いことを取り柄にしていた総理でしたから、大蔵官僚の言うとおりやったのですが、私に言わせれば実際の社会構造が高度化して来て、学校で習った仕組みよりも進んでいる・・経済理論が実態的経済原理に反していることを知らず(秀才はこう言うタイプが多いのです)にやっていたことになります。
野田総理は橋本総理のように事前勉強していた形跡もないので、今国会での消費税増税邁進は彼の考えによるのではなく、まさに官僚の振り付け通りにこれを政局に利用すれば有利と読んで政治生命を賭けているに過ぎないでしょう。
国債残高に関する私の意見によれば、デフレが続くと際限なく国債残高が増えて行くことになりますが、国債発行残高がいくら累積しても国債以上に国内金融資産・・、国際収支の黒字の範囲内ならば何の問題もないこと、世代論としても国債の借金以上に預貯金(プラス資産)があれば問題がないことをこれまで繰り返し書いてきました。
ちなみに国内金融資産の増減は、国際収支の結果によることです。
豊富な外貨準備は政府・日銀が国民・企業から貿易で稼いだ外貨(黒字分)の両替の結果保有しているもので、その分を国民は円貨を保有していることになります。
その他にも企業その他の海外投資残高が、結局その株式等を通じて国民の保有資産になって行きますので国内企業の株主構成は重要です。
マスコミは如何にも外国人株主増加を期待するような記事が原則ですが、何のためにそんな期待感を下地にした意見ばかりになるのか疑問です。
トヨタや日産が如何に世界展開で成功してもその株主の95%が外国人では国民に男のメリットがあるの?となります。

マインドコントロール5(国債の増減と景気調節1)

現在のマスコミは、内需拡大用にもっと政府支出が必要か否かの議論の前に、「財政健全性に反する」という方向に持ち込んで議論を封殺しているのが現状です。
国家の健全性としては国際収支の壁だけを注意すれば良いことを繰り返し書いて来ましたが、その壁の範囲内(黒字)であるならば、財政赤字の程度を議論する余地がなく、内需拡大が必要ならば、(必要があるかどうかを正面から議論した結果、必要となれば)国債または増税によるかに関係なく増収分をドンドン使えば良いと言うのが・・私の意見です。
増税か国債によるかの選択基準は、国際収支黒字の範囲内であれば、財政状態には関係がなく内需を減少させるべきか否か・・即ち景気過熱状態か需要不足状態かの違いによるだけです。
ただし私の意見が絶対に正しいというのではなく、ここではいろんな意見を自由に戦わせるべきであって、独りよがり(合理性のない原則を前提に)マスコミを利用したマインドコントロールの結果、議論すら出来ないような風潮にするのが良くないことを書いているだけです。
増税=景気悪化論が普通ですが、この論は国家の資金源は国債は駄目で税で徴収するならば良い・・国債を減らすべきと言うマスコミが決めた変な議論を前提にしていることに原因があります。
増税すれば不景気が来るのは過去の事例が証明しているという議論が多いのですが、増税するには歳出削減努力を先にすべきだと言う、増税と歳出削減と国債償還=赤字削減論とセットにしているからに過ぎません。
政府支出資金必要を理由に増税したならばそのまま100%使えば民間から吸い上げた資金が100%支出されるので増税しないよりも国内消費が増えるので、景気悪化どころか刺激になることが論理帰結です。
年収一定額で年間増税額が20万円あってもその家計では20万円そっくり消費が減ることはあり得ません。
(生活費ギリギリの人でも教育費や家賃その他減らせないものが一杯あります・・この分は貯蓄の取り崩しや借入(親等の援助)なりますし、多くの人は収入の100%を使い切らないでいくらか余剰を貯蓄していますので、貯蓄分を減らすことでかなりの部分を対応してホンの僅かしか消費を減らしません。
他方で政府支出の必要性があって増税し、100%政府支出すれば、増税額は100%国内消費に回ります。
(それで上記のとおり一定割合の消費が減ります・・この辺のことは8月5日に書きました)
これに対して国債は元々消費に回らなかった余剰資金を吸い上げるだけですから、100%消費が増える仕組みですし、自発的供出によるので民主的で国債の方が内需拡大目的の場合、合理的であると書いてきました。
過去の増税が必ず景気悪化の原因になって来たのは、政府支出資金が足りていて支出資金確保のためには増税を必要としていないのに、財政赤字解消のために増税して来たから景気が悪化したに過ぎません。
(資金需要もないのに赤字削減のためという変な財政健全性の原則論による場合・しかも必ず出て来る批判論・・「その前にやるべきことがあるだろう」式の緊縮財政を求めて・・今回で言えば「国会議員を減らせ、公務員採用を減らせ」(実際減らす必要があるかどうは別の議論で私はそれ自体反対しているのではなく、増税論に絡めるのが不合理だという批判です)事業仕分け論などもその一種ですが、この種の議論が正しいとすれば政府支出を減らすために増税していることになります。
この後で書くように増税は景気過熱を冷やす目的であれば、国内支出を強制的に減らすので合理的です。
そう言う結果を知って増税するならいいですが、こうした結果を無視してあるいは知らずに増税するから景気悪化になってしまったのです。
完全に政府資金が足りているのではなく、半分、3分の1、5分の1だけでも国債償還に回して残りを今年度政府が使いたいと言う場合でも、国債償還に回した分だけ国内支出が減退する点は同じです。
国債償還した場合殆どが再預金等に回してしまい消費が増えないのに反して、他方で徴税された方はその何割かが消費減になることが確かなのでその分だけでも内需減になることは間違いがありません。
この結果過去の増税では必ず不景気になったのです。

財政健全化路線14(信仰2)

我が国の場合第一次大戦後におけるドイツのハイパーインフレ経験があったので、食糧その他配給・統制経済が続きました。
驚くかも知れませんが、物価統制令は今でも生き残っていますので紹介しておきましょう。
(ちなみに、地代家賃統制令・昭和14年10月18日勅令第704号が廃止されたのは、漸く1986(昭和61)年最後の12月31日です。(実質昭和62年まであったということです。)
・・若い人にとっては26年も前のことは、過去の歴史の1つに過ぎないかも知れませんが、昭和40年代終わりに弁護士になったときには、戦後は終わっていると思っていたのに、弁護士になってから実務処理の過程でこの法律がまだ生き残っているのに初めて気がついたのですから、私にとっては驚きの記憶でした。
・・弁護士の職務として当時はまだ、借地借家の紛争は交通事故と並んで大きな比重を占めている時代でした。

物価統制令

(昭和二十一年三月三日勅令第百十八号)

最終改正:平成一八年六月七日法律第五三号

第一条  本令ハ終戦後ノ事態ニ対処シ物価ノ安定ヲ確保シ以テ社会経済秩序ヲ維持シ国民生活ノ安定ヲ図ルヲ目的トス

第二条  本令ニ於テ価格等トハ価格、運送賃、保管料、保険料、賃貸料、加工賃、修繕料其ノ他給付ノ対価タル財産的給付ヲ謂フ

第三条  価格等ニ付第四条及第七条ニ規定スル統制額アルトキハ価格等ハ其ノ統制額ヲ超エテ之ヲ契約シ、支払ヒ又ハ受領スルコトヲ得ズ但シ第七条第一項ニ規定スル統制額ニ係ル場合ヲ除クノ外政令ノ定ムル所ニ依リ価格等ノ支払者又ハ受領者ニ於テ主務大臣ノ許可ヲ受ケタル場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ

3条2項以下省略

経済官僚が赤字国債発行を拒否していれば、戦争をやめさせられたかと悔恨の念を抱くのは間違いとは言えないまでも正しくはないでしょう。
軍資金がないと何も出来ないことは事実ですから・・武器弾薬だけではなく、徴兵して毎日食わせるだけでも大変なお金がかかりますので、観念をこねくればそう言えないことはないというだけです。
国民総懺悔の一環として「そう言えば自分にも落ち度があったかなあ・・」という程度でしかありません。
経済官僚が戦費支出に反対・赤字国債発行に反対したくらいで、戦争への大きなうねりを止めるなどは不可能だった筈です。
官僚としては数時間程度支出行為にサインしないで粘るのがやっとで、法(国会決議)に基づく年単位の長期支出を止めることなどは、官僚が束になっても出来ません。
予算書/原案を作るのを拒否してもどうにもならなかったでしょう。
経済官僚には悲壮な使命感は必要がないことです。
ドッジ・ラインを強制されて経済官僚は自己の無力感・・戦争協力責任を痛感し、それが未だにトラウマとして残っているのかも知れませんが、ドッジラインは占領軍の強制力の後ろ盾があってこそ緊縮財政を強行出来たことで、戦時下で軍に抵抗して戦時国債発行を阻止出来たとは到底思えませんから、彼らの思い過ごしというものです。
各種藩政改革も強力に後押ししてくれる君主がいてこそ成り立ったもので、これががないとうまく行かず後押ししていた君主が途中で死亡すると失脚することが多いに(中国で言えば商鞅の故事が有名)です。
経済官僚は余計な思い込みをしないで、経済の論理・・国民生活を守るために官僚の職務範囲で出来ることは、何かと言う合理主義で決めて行けば良いことです。
ですから、財政健全主義などと言う頑な原則(憲法でも何でもない単なる思い込み)を掲げて柔軟な発想・・本来国民にとってを今何をするのが良いのかの検討を拒む・・何でも反対したり、マスコミを利用して健全財政主義のマインドコントロールに精を出すのは本末転倒です。
景気対策として内需拡大が必要ならば、(これが必要かどうかはまた別の議論が必要ですが仮に今必要とした場合の話です)国際収支黒字の範囲であれば、資金源が国債でも税でも国家経済の持続可能性としては同じです。
財政が赤字であろうとなかろうと、それはコップの中の計算に過ぎず、国際収支が黒字になっている限り日本国内で、対外収入以上の資金を使っていないこと(収入以上に使えば赤字になります)に変わりがありません。

財政健全化路線13(信仰1)

今でも経済官僚が何故貨幣価値維持にこだわるのかという疑問に戻ります。
Aug 18, 2012「健全財政論12(貨幣価値の維持6)」の続きです。
これは戦後直ぐのハイパーインフレに懲りた記憶が最大の悲劇として原始的に刻み込まれていて、これが組織のDNAとして受け継がれ色濃く残っているからではないでしょうか?
これを収束したのは最近(と言っても60年も前ですが)では、戦後のドッジライン(1949)によりました。
財政均衡→超緊縮政策を原則とするドッジライン実施の結果、翌年の株価は大幅下落し(我が国株式市場最安値の記録として今も残ります)大変な不況が到来します。
当時占領下でしたのでGHQの指令として強制力がありました・・この指令を受けたトキの大蔵大臣は後の経済成長路線の池田勇人ですから皮肉なものです。
97年のアジア危機でもIMFは韓国その他アジア諸国に対して超緊縮政策を強制しましたし、(現在のギリシャに対しても同じ傾向です)アメリカの経済学者はこの種の政策発動が好きらしいです。
我が国でも戦時中の軍事費と言う名の無制限財政出動を支えるために行われた戦時国債の無制限発行に協力した結果、敗戦後の超インフレに苦しむことなりました。
これをあっさり退治したのはドッジ・ラインによる超緊縮政策でした。
勿論日銀の頑固な「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」たぐいのインフレ恐怖症も同根です。
超不景気政策に対して当然経済界は反発した筈ですが、(政府は占領軍には逆らえないことから財政出動ではなく日銀貸し出し増加で対処したようです。
・・これが日本企業の借入金過大・・自己資本不足傾向の源流です)他方で内需抑制していても運良く?朝鮮戦争勃発(1950年6月38度線越境開始)が内需の代わりに外需をもたらして景気刺激となったので、ドッジ・ラインのマイナス効果がそれほど国民に意識されない内にうやむやになりました。
このトキのインフレ退治の成功体験ばかりが大きく信仰の一種になっているような気がします。
その後の田中角栄総理による狂乱物価を引き起こした失政の記憶の追加があり、更には平成のバブル発生(物が足りるようになって、あるいは量産追加可能になってから消費材の値は上がりようがなくなったので、量産追加供給の不可能な土地バブルになったのですから、インフレの現在版です)と、記憶が途切れることがなく続いて来たことが大きかったと思われます。
経済官僚が財政健全化にこだわるのには、無謀な軍事費に充てるために国民の財産を供出させて根こそぎ使ってしまったことに対する慚愧の念もあったと思われます。
平和に暮らしていた国民を徴兵して中国等の戦地であるいは太平洋上で特攻その他で多くの人命を無駄死にさせたことに対する軍事関係者の悔恨の念の財産版です。
「過ちは二度と繰り返しません」という広島原爆の碑同様に、経済官僚としては、「赤字国債さえ発行しなければ戦争に突き進むことがなかった」という悔恨の念が沸々と湧いて来たのでしょうか?
日本は戦争で多くの人命だけではなく多くの財産も失ったのですが、財産喪失は戦時中に生じていたものですが、国家が存続する限りに額面だけの国債として残っていたのが、敗戦後遅れてインフレになって実質価値が明らかになったに過ぎないとも言えます。
第1次大戦後有名なドイツの超インフレ・・トラック一台ほどの紙幣を持って行って本が1冊買えるほどであったという話も同じで、戦時中に国内資産が破壊され尽くされていたことに原因があったと理解すれば分ります。
閉鎖された1国経済で考えれば、紙幣量が一定でも国内資産が1000分の1に破壊されれば1000倍のインフレになる道理です。
実際に資産がなくなっていて膨大な国債や紙幣が残っていれば、当然その比率でインフレになるか国債価値の暴落になるしかありません。
とすればインフレになったのが悪いのではなく、実際にはその前に国債で造った艦船や戦闘機が沈没・撃墜され、国内資産はすべて空襲で燃えてしまったことによる財産喪失に原因があった・・負ける戦争をしたことそのものの責任に過ぎません。
火災・爆発事故で工場が燃えてしまえば資産価値(保険をかけていない場合や・・掛けていても工場再起動までの売上)が減少するので株価が下がるのと同じです。
株価下落の責任は経理課職員にあるのではなく、火災や爆発事故を起こした関係者の責任です。

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