健全財政論8(中央銀行の存在意義2)

話題を貨幣価値維持に戻します。
武士上がりの経済官僚の使命感は前回(8月13日に)書いたとおり、弓鉄砲で侵略して来る外敵から郷土の妻子・一族を守ることから、貨幣増発・悪改鋳による生活苦から領民を守ることに変わって行ったのです。
徳川政府は武士に支えられながら、武士の中の武士・言わば正義の士は、武士でありながら悪改鋳・・インフレにしたがる徳川政府=主君に対抗すべき勢力に変わって行ったことになります。
どんな政権でも対外競争の関係で有能な人材が欲しいので、外国帰りの学者等を政権内に抱え込む・・あるいは国力の底上げを図るためには一般人の外国留学を奨励するしかないのですが、有能な人材ほど政権批判能力が高くなるジレンマがある点は、専制君主制あるいは中国共産党一党支配の国でも同じです。
政権が有能な人材を抱え込みたければ、民主化・・国民のための政治にしない限り矛盾に苦しむことになります。
貨幣価値を守るために存在する中央銀行の役割に戻します。
現在の先進国では、グローバル化以降新興国からの低価格品の洪水的輸入によって恒常的デフレ状態に陥っていて、インフレを心配するどころかデフレ克服すら出来ない状態に陥っています。
(貨幣をじゃぶじゃぶ供給しても、物価は上がらず輸入品が増えるだけでせいぜい輸入に馴染まない不動産バブルが起きるくらいです)
デフレは国民にとって(ミクロでみれば)良いこと尽くめですが、他方で全体のパイが縮小・「角を矯めて牛を殺し」たのでは何にもならないので、パイを大きくする経済成長も欲しいところです。
デフレ(低価格品の輸入攻勢)に悩む先進国では積極経済政策をどのようにしたらGDP上昇効果が出るかの智恵比べですが、景気過熱・物価上昇を押さえ込むDNAに特化している中央銀行官僚にはこの方面での能力適性がありません。
日本の官僚は元々武士上がりで「勤倹」には慣れていますが、「一所懸命」の語源でも分るように、愛する郷土を死守する「城を枕に討ち死に」とか「玉砕」など現状を守ることが武士の本領であって、積極的に投資して儲ける才覚がありません。
中央銀行を「物価の番人」とは言いますが、経済政策官庁とは言いません。
前向きな政治をやるには、郷土の守りに強い武士のDNA過剰体質から、積極的才覚のある人材に官僚を入れ替えて行く必要があります。
かと言ってアメリカのようにユダヤ系人材に頼って金融方向ばかりでは困りますので、物造り兼商才のある(積極性のある海洋民族系の混じった)人材と言う欲張った方向性が必要です。
こうした人材はパラパラといるのですが、偶然に頼ると官僚世界の内部で孤立して浮き上がってしまい能力発揮が出来ないので、高級官僚の採用制度から根本的に変えて行く必要があります。
江戸時代以降学校で習う・・賞賛される3大改革はすべて、質素倹約政策ばかりで積極財政派はいつも賄賂ばかりが強調されて悪役扱いでした。
積極財政を頭から悪と決めつける全体の雰囲気・・教育からして変えて行く必要があります。
積極財政には相応の不純物も副産物として生じますが、だからと言ってマイナス面ばかり強調するのでは経済が成長して行きません。
車が危険であれば、ブレーキを付けたり免許制にすれば良いように、積極財政の副作用についても制御の工夫を怠っているだけです。
こうした視点で考えると、静的チェック能力を求められる司法官と動的考察が求められる行政官僚とでは制度目的が違うのですから、国家公務員採用試験科目が司法試験の焼き直しみたいでは、おかしいのであって試験科目からして変更して行く必要があると思われます。
厳格な科挙制(丸暗記中心)によっていた中国や李氏朝鮮では発展性がなく、江戸時代の日本の発展に大きく水を開けられたのが明治以降の格差が生じた原因です。
司法試験や国家公務員試験は科挙ほどではないにしても、科挙の流れを汲んでいてアメリカ型ケースメソッド方式とは大きく違う暗記を主体にする方式である点は否めないでしょう。
大恐慌以降の中央銀行の独立制度は、経済政策・GDP向上策と物価の番人役を兼ねていた明治までの経済官僚を積極政策をする大蔵省と番人(ブレーキ)役(中央銀行)に分離したとも言えます。
(大蔵省の外局として途中で経済企画庁が出来ましたが・・平成に入って金融行政の金融庁と財務省に分離しました)
原子力政策推進官庁と安全を監視する役所の分離と同じ発想ですから、そもそも日銀に経済活性化のための協力を求める今の政治は、元々の機能分離体制が今でも正しいとすれば間違っています。
日銀が政府の言うとおりやるならば、推進派から協力を求められて、何でも安全と(津波の心配が既に指摘されていたのに、そんな100年に1回の津波まで心配していたら何も出来ないよ・・と)お墨付きを与えていた原子力保安院のようなものになります。
ただし、一国閉鎖社会と違う現在では日銀だけで物価を安定出来ないし、日銀の金利上下や量的緩和だけでは経済をインフレにもデフレにもしようがないので、行政府の積極財政に協力する量的緩和くらいしか出来ない時代です。
・・貨幣価値を守るべき日銀制度自体不要ではないかという意見を2012/03/30「日銀の国債引き受けとインフレ3」2012/03/31「日銀の国債引き受けとインフレ4」前後、最近では2012/06/19「新興国の将来11(バブルとインフレ1)」のコラムで書きました。
経済のグローバル化が進んでいる現在では、1国だけでの金融調節による経済運営機能が低下あるいは消滅する一方で、積極施策・財政出動・・これの基盤となる量的緩和に関しては、日銀には歴史的に経験がないので政府の言いなりになるしかないとすれば、日銀の存在意義がなくなっているのではないかと言う意見をこれまで書いてきました。
国民の生活を守るには貨幣価値を守ることが重要ですが、対外的にみれば貨幣価値は国民経済の実力(国際収支)の反映であって、官僚や中央銀行が観念的な気概さえあれば守れるものではありません。
為替の変動相場制が普通になって来ると、今ではある国の貨幣価値はその国の経済力(国際収支黒字または赤字のトレンド)によって日々決まるのであって、官僚の気概や日銀の金融政策(紙幣発行量や金利)とは殆ど関係がなくなったことも明らかです。
(仮に為替介入しても効果は一時的です)
貨幣価値=為替相場は市場原理(国際収支黒字または赤字による貨幣需給)によることについては、ポンド防衛の歴史のテーマ(連載中に横へそれたままでまだ途中で完結していません)でも連載してきました。
金利を下げて紙幣量を増やすと消費が活発になる傾向があるので、(金あまりの日本では大方が預金に回るとしても少しは消費拡大になるので)輸入量が増えて貿易黒字が縮小しあるいは赤字になり易い・・その結果円が高くなる速度を緩めたり安く出来るかも知れません。
しかし、これも国産化率が高い(エコカー補助金の恩恵を受けたのは国産車が大部分だったでしょう)とその関係が低くなるなど、間接的な関係しかありません。
(ただし、エコカー補助で売れたのが国産車中心でも、内需が増えればその原材料輸入が増えるのですが、風が吹けば桶屋が儲かる式の間接的関係です)

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