国債発行と金融機関救済3

現在の大量国債発行問題は、金融機関の側面から見ると大量生産し過ぎて在庫に困っているテレビや資材等を、政府資金で買い上げて一時的に企業の資金繰りを楽にしてやっているのと同じです。
これが短期間なら分るのですが、約20年も続けて来てしかも受け入れ拡大一方と言うのは、如何にも異常な姿です。
ちなみに、個人金融資産約1500兆円の内約950兆円を国債に当てているということですから、国内金融機関は商品仕入の内約3分の1しか有効利用・金融仲介機能を果たしていないことになります。
(正確には個人金融資産には株式や公社債を買っている分もあるので、個人金融資産の内全部が金融機関に向かっている訳ではありませんが、その代わり国内国債保有者も金融機関だけではなく株式投資や社債購入してもらった事業会社も含まれています・・・。)
仕入れ商品(預金)のほぼ3分の2を民間で捌けずに政府に買い上げてもらっている・・しかもこれが一時的ではなく約20年も続けている業界ってこの世に存在意義があるのでしょうか?
国債発行減論は、そろそろ政府が面倒見過ぎだからその役割を縮小すべきだと言う立場からならば意味があります。
銀行が金融仲介機能を喪失してするべき仕事がなくなって悪あがきしたことから、バブルが生じたとしてバブル発生の責任論を連載したことがあります。
04/27/03「銀行とは?4(農協的問屋機能の衰退、1)」に始まって、05/12/03「銀行の存在意義 (証券化)1」、10/21/08「銀行の存在意義10 」ころまで連載しています。
バブルの後始末の中心課題は金融機関淘汰と救済の兼ね合いだったことは明らかですが、・・生き残るべき金融機関への公的資金注入が大政治問題になりました。
国債発行残高をこのときから内需拡大と称してイキナリ急増させたのですが、これは生き残った銀行が悪いことを再びしないように余ったお金を政府が失業対策事業的・・救済資金の変形として銀行が有効利用出来ない預金を吸い上げてやって、安定的に儲けられるようにしてやっている関係にもなっています。
原発事故で危機に陥っている東電に対して、公的資金注入と同時にセットとして電気料金引き上げを許可しているのと同じ構図です。
銀行への輸血・点滴装置である国債を本当になくしたら、(あるいは減少させて行っても)銀行や年金がやって行けるのかを予め議論しておく必要があるでしょう。
「インフレになれば政府の借金が目減りして得だからインフレにすれば良い」というマスコ意見が主流(と言うよりそれしかマスコミにはでないだけ)ですが、インフレになれば債務者が得して債権者が損するということは本当にインフレが実現した場合、その多くを占める金融機関(今でも年金赤字問題が喧しいのですが、年金関連機関は巨額の積立金の運用に困って国債を買っています)の経営がどうなるという問題を抜きに考えられません。
もしも財政赤字解消目的で増税して本気で国債を減少させたら日本の金融機関(生保年金を含めた)の預かり金の内1000兆円の行き場がなくなるのですから、殆どの金融機関(銀行に限らず生保・年金その他)が参ってしまう筈です。
もしも今国会で増税した分で同額分だけ仮に国債を減らすことを決めれば、金融機関が大変なことになるので、政府はそんなことは元々する気がないし、したくとも出来ません。
増税分が多分国債縮小には向かわない・・と言うことは、「財政赤字が大変だから増税しなければ大変なことになる」というマスコミを通じたアッピール・マインドコントロールは、消費税増税は財政赤字解消とは関係のない目的に使う予定・・元々欺瞞行為だったことになります。
公約違反で増税したことが民主主義のルール違反であると言うだけではなく、内容実質からみても国民を欺いて増税の果実・・国債を削減する気もないのに国債残高削減のために必要とマスコミに宣伝させて増税だけしてしまい、政府支出増加権だけ手に入れたことになります。

国債発行と金融機関救済2

国債残高の累増問題は財政赤字の問題ではなく、もしも少しでも金利が上がればたちどころに金融機関の大幅赤字発生・・再び金融危機が来るリスクにマスコミが怯えている事によると思われます。
昨年は金利がじりじりと下がったので金融機関は債券評価益が出て、大幅黒字の好調決算でしたが、もしも金利上昇局面が来るとこれが逆転する心配です。
インフレ期待の誤り(インフレは国民生活に害がある外、金利の上げ下げでどうなるものでもなく結果は国際収支→為替相場=国力次第にかかっていること)をAug 11, 2012「健全財政論12(貨幣価値の維持6)」あたりまで連載しました。
またインフレ懸念が現実的になってくれば、インフレになるのが分っていれば、債券が大幅下落・金利アップしないと誰も買いませんので、結果的に政府が得する前に高金利が先に来てしまうことも書きました。
ところでこの後で例を書きますが、インフレ→金利上昇局面では、金融機関が保有する巨額国債の大幅評価損→金融機関倒産続出になり兼ねないのに、何故インフレを業界が期待しているかと思う方がいるでしょう。
インフレ期待論は、私の意見同様に金利を下げても何をしても、国際収支黒字が続く限り効果がないことを見越した上で、そのように主張さえしていれば、金利下げ政策が是認されることを期待しているのです。
金利が下がりさえすれば、金融機関が座視していてもこの後で書くように巨額評価益が出ることを期待しての議論になります。
政府にとっても金利が下がれば国債評価が上がるので、同じ額面発行でも多くの資金が入ります
タバコの値上げ前の駆け込み需要期待と同様で(その後反動減があります)インフレになる前に一時的評価益が出るのを期待した(駆け込み需要の反動減の怖さは今回のテレビ売れ行き激減で電気業界が実験済みですが、・・そのときのことを考えない)無責任な議論になります。
あるいはインフレ期待をはやして金利下げだけ誘導して評価益だけ得ることが目的で、実際には金利を下げたくらいでは(私が何回も書いているように)インフレになりっこないことを見越しているのかも知れません。
このインフレ期待論のマスコミ合唱に引きずられて日銀が徐々に金利引き下げ・量的緩和をして行ったことは周知のとおりですが、その結果、昨年度国債保有者に巨額評価益が出て、(無能でも誰でももうけが出る仕組みです)銀行経営者にとってはホクホク状態です。
しかし、日本国債は世界最低金利更新中で、これ以上下がる見込みが少なくて、あっても残り僅かでその内に底を打つしかありません。
今後はジリジリと金利が上がるしかないとすれば、金融機関にとって今後評価損が恒常的に発生することになって行きます。
分り易い数字で例を単純化して(中間利息控除せずに)書くと、額面100万円の10年国債を90万円で買うと(複利計算しない単利で仮定する)と年1%の利回りです。(実際にはもっと複雑計算です)
金利相場が2%に上がると80円で買わないと2%になりませんから、既発債(金融機関が保有している国債その他債券)の相場が同じ利回り・・残期間によりますが買ったばかりのものですと約80円まで下がって行きます。
1000兆円の95%が国内保有ですからその1割でも評価が下がると大変なことです。
(実際にはイキナリ一%も上がることはないでしょうが、スペインの例を見ても分るように上昇局面が来ると一年間でそのくらいの上昇は簡単です。)
昨年に限らずここ何十年も、政府と金融機関は二人三脚でこの逆バージョン(一%金利下げで一割の評価益)で金利引き下げを繰り返して良い思いをして来たのです。
実際には下がり過ぎていて今では0、何%の小刻み金利下げの連続しか出来ないのですが、それでも元本が巨額ですから大変な利益でした。
もうそろそろ金利下げも限界ですので、今後は金利上昇しかないとすれば金融機関と政府は大変なことになります。
このリスクを軽減するには、政府の財政赤字解消→発行量を増税によって減らせという合唱になっているのでしょうが、発行量に問題があるのではなく、(政府がいくら発行しようとも)銀行が自ら顧客・資金運用方法を開拓して国債の購入比率を引き下げて行けばいいし、それしか解決方法はありません。
資金運用能力がないままで発行量だけ減らすと、銀行・その他金融機関は預金その他仕入れ資金の運用先がなくなって倒産してしまうか、受け入れ停止または預かり料を取る(マイナス金利)しかなくなります。
もしもマイナス金利となれば金融仲介機能がなくなって、倉庫・保管業者になったことになります。
今は資金の運用先がなくて困って買っているのですから、発行量から手をつける論法は本末転倒です。
自分(銀行)が仕入れた資金の自主運用努力しないで、発行する政府が悪いという意見は、泥棒が自分が悪いのではなく、品物が置いてあった方が悪いと開き直っているようなものです。

国債発行と金融機関救済1

金あまり時代と言うことは国民の平均的な能力のある人はおおむね預貯金その他資産が充分にあるし、企業でも一定レベル以上になると自己資金が豊富な時代になったことを意味しています。
大手企業で言えば海外投資する資金は各企業が貿易で儲けた資金の運用で間に合う傾向があり借金をそれほど必要としていません。
今では、生活費不足によるサラ金的顧客や企業では、借金借り換え・延命目的的な後ろ向き需要が比較的多くなってきます。
資金の安心した行き場が少なくなり、我が国ではここ10〜20年あまり安全な逃避先として国債や地方債で大枠を吸収している状態になっています。
現在欧州危機により避難先として日本やアメリカの国債へ資金集中が起きていますが、わが国では20年ほど前から経験済みのことです。
公共工事の投資効率に関する21日のコラムでも書きましたが、生活習慣だけではなくこうした分野でも世界最先端の実務が存在しているのが我が国ですから「外国ではこうしている・・・・」と学んで来て論文を書いている学者の意見は役に立たなくなっています。
国債の大量発行・・銀行その他金融機関に国債を売ってやるのは、集まった預金その他の資金の使途に困っている銀行の救済・・一種の失業対策事業みたいになっているので、財政赤字だけの問題ではなくなっています。(いわゆるコインの裏表の関係です)
マスコミは国債残高累増を心配していますが、国債残高の増加は金融機関の不健全性の裏返しになっていることこそが問題です。
国債を銀行が買うことによって、銀行は巨額利益を得ている・・銀行救済に関しては、09/13/08「金融機関の存在価値3(金融機関引き受けのからくり2)」のコラムで書きました。
今では国債残高が約1000兆円・・その内約95%が国内消化ですから、書類操作だけで(約1%の利ざやとすれば年間9、5兆円の巨利)膨大な金利差益が金融機関(銀行だけではありませんが・・)の収益になっています。
もしも現在の国債を政府が全部返還したら、銀行業界は大赤字に転落し、大量の預金の使い道がなくなって日本の金融機関はたちどころに倒産騒ぎになってしまうでしょう。
(政府に仕入商品・預貯金の3分の2を引き取って貰わないと、仕入れた商品の有効利用が出来ない・・バブル崩壊後約20年も経過しているのに、金融機関は今なお自分で仕入れ商品をさばくための顧客開拓出来ないほど脆弱ということです。
ある地域だけで見れば、特定産品が多過ぎて地元で売りさばけないことがありますが、その場合域外輸出して普通は特産地になって行くものです。
銚子漁港のイワシは地元では食べきれませんからホシかにしたりして販路を広げましたし、自動車産業だって最初は大変でしたが、海外輸出していますし今やや紙おむつですら国内だけで物足りないとなって輸出で稼いでいます。
すべて産業というものは、(ブラジルのコーヒー、産油国の原油その他すべて)古くからそう言う時代を経て来たものです。
金融業も国内では金あまりだから客が少ないと手を拱いていないで、資金の足りない国に進出して貸してやれば良い話です。
海外に出て行って貸すのは怖い、リスクが高いと言い出したら、建築屋でも何でもどんな商売でもみんな初めはそう言うものだったのですが、勇気を出して進出して行って何とかして来たのです。
銀行は今まで自分で商売せずに役所べったりで来たから、リスクをとりながら商売して行く訓練が出来ていないだけでしょう。
いわゆる日銀の買いオペを実施しても応札率が低く札割れになることが時々報道されますが、金融機関は政府のために保有しているのではなく、保有していることが自己に利益だから保有しているのですから当然です。
バブル崩壊=金融機関の危機でもあったことを想起しても良いでしょうが、国債累積の問題は、金融機関救済目的でそのころから急激に膨張した面を無視出来ません。

投資効率2(量から質へ)

そば屋その他個人事業主で言えば、儲かった資金で支店を次々と出していると更に総売上が増えますがその段階を過ぎると、そろそろ自宅を綺麗に建て替える、建て替えたら内装を綺麗にし、(妻や娘に着物を買ってやる)美術品を楽しむなどの需要中心に変わって行きます。
「衣食足りて礼節を知る」と昔から言いますが、経済収入が一定水準に達すると礼節・文化度の向上に向かうのが普通の人間です。
最初は1週間に1回しか酒場で飲めなかった人が数日に1回、2日に1回と回数が増える段階があっても、そのまま続けて行く人は滅多にいなくて、その内もう少し高級なところへ飲みに行く、あるいは飲むことを卒業してもう少しレベルの高い消費に転換して行くものです。
消費の内容が高級化して行く方へ投資・支出が向かう時代になると、投資が投資を呼ぶような拡大再生産を余り期待で来ません。
インフラが充実した後でも既存施設の維持管理工事・橋梁の架け替え工事などの公共工事がこれからもありますが、これらも新たな道や橋を作るのと違って、産業効率が向上することはありません。(効率低下を防ぐ後ろ向き投資です)
エコノミスト(コンクリートから人へ)は我が国が過ぎ去った時代に必要としていた基準で投資効率が悪いと評論していることになります。
民主党は民生充実こそ党是である以上、投資効率を言うならば、民生向上に資する効果があったか否かの判定こそが重要ですから、評価の基準を変更すべきです。
ところが民主党は経済学者・公共政策学者等の時代遅れの論理を鵜呑みにして公共工事は投資効率が悪いと主張して事業仕分けを実施しています。
自民党と同じ価値基準で政治をするなら、経験がないだけ政治手法がお粗末なだけですから、政権交代の意味がありません。
いつも書きますが秀才(学者)の陥り易い罠で 何十年前に学校で習った既存基準(価値基準)で判断するから、却って世界最先端で進んでいる我が国実務から言えば、数十年遅れの意見を述べていることになります。
国民個人はこれ以上の儲け・量の拡大を求める方向から、生活水準向上・精神性の高さに向かっているので、量的拡大を基準とする国民総生産伸び率が下がるのは当然です。
精神文化、・・江戸時代で言えば、俳句その他の文芸が発達しましたが、それが国内総生産を引き上げる効果が殆どなかったでしょう。
国内総生産はそれほど伸びなくとも、我が国ではGDPに占める家計消費比率が次第に大きくなっていることは顕著ですし、その分国民が豊かな生活を出来るようになっています。
GDPという量重視の指標は新興国向け、あるいやいくら豊かになってもよりうまいものの味が分らないアングロサクソン向け指標に過ぎません。
ところで個人生活が如何に豊かになっても、個人で使うのは自宅改修や個人個人がオシャレしたり美術館巡りや文芸/精神文化のレベルアップを楽しむくらいが関の山です。
道路や駅前を綺麗にし、美術館、公園を整備するなどのインフラ(ハード)分のコストまで個人で負担する人は滅多にいません。
東京の庭園巡りをすると三菱創始者の岩崎弥太郎邸の跡や旧財閥系屋敷、庭園が散在するのですが、今では個人が公園を寄付することはあり得ないでしょう。
今は財閥がないので、一人からのまとまった寄付に頼れないのですが、一口馬主あるいは小分けした株式の集合の結果、巨額資金導入を図るのと同様に、国債は一口寄付の一変容(大勢から少しずつ集めて大きな資金にする)としてみることが可能です。
こうしたインフラ整備資金は今では大口寄付に頼れないので、広く薄く集める税金か国債でやるしかないのですが、(産業効率化投資のように目に見えるものではないので)増税が難しいので、国債に頼って来たのが現在の財政赤字累積問題になっているのです。
生活水準向上のために都市部の各種都市改造だけではなく地方においても立派な公民館等の建設、山奥の僻地まで道路を綺麗に舗装して快適なドライブが出来るようにして来たのですが、それでも使い切れなかった余った分について年間約20兆円も国際収支の黒字が続いていたことになります。
黒字の期間が長いので蓄積が巨大ですが、これを(法人で言えば本社社屋の建て替え・工場を綺麗なものに改良)自宅改装等をしても使い切れないので、余った資金(国際収支黒字分)は銀行預金等金融資産を積み上げて行くばかりでした。
余剰資金・・年間約20兆円を使い切れなくて預金が積み上がっている・・多くの人が使い切れない状態ですから、この状態でいくら金利を下げても健全な借り手がいないのが普通です。
国全体が資金不足の時代・・高度成長期には能力があっても資金不足の人や組織が一杯あって借金してでも学校へ行けば何とかなるとか、借金してでも起業すれば何とかなる時代では、健全な借り手がいくらでもいました。
(育英資金は文字どおり貧しくて教育を受けられない英才に教育を受けさせる資金でしたから、進学さえ出来れば社会の中堅以上になれる人材が利用していました)
現在の資金需要は、国民生活レベルアップに自力ではついて行けない階層による・不足分の穴埋め資金(サラ金や無理な住宅ローン設定)需要中心になっています。
奨学金も秀才なのにお金がなくて進学出来ない子供が需要の中心ではなく、中学のときからマトモに授業について行けない子供でも、高校や大学だけは?はせめて人並みに出してやりたいという親心が需要の中心です。
バラマキ等が必要になったのは、豊かになった「人並みに」について行けなかった階層の願望を満たすためですから、投資効率と言う基準では効率が悪いものの国民の階層的分裂を防止する意味があったことになります。
結果として政治がうまく機能して来たことになります。

投資効率1(量から質へ)

我が国は高度成長の当初・・儲かり始めた最初はまだ各種家電製品等不足の(と言うよりは出来初めのころで普及していない)時代でしたから、収入が増えれば嬉しくてドンドン買いました。
今ではすべての分野で飽食で手持ち品が溢れていて少しくらい収入が増えても既存商品については、多くの国民が渇望していない・・急いで買わねばならない物品がない状態です。
より良い物・サービスが出れば消費出動する状態ですので、この間国内製造品・サービスがもの凄くレベルアップしました。
衰退産業の代表のように言われる農業でも、各種果物や畜産物、野菜を約20年前と比べると分りますが、品質が2倍以上良くなっていると思います。
(標準価格米が中心の頃に比べればお米もうまくなっています)
各種サービス業・・美容院や商店街のしつらえを見ても(代表例として、東京駅周辺・・旧丸ビルがあったころと今の丸の内界隈の変貌・・)20年前に比べれば隔世の感があることは誰でも認めるところでしょう。
このように日本は余った資金をつぎ込んで国内生活水準レベルアップに取り組んで来た結果、今や世界一快適な社会生活が送れる国になっていると思います。
国民個々人が余剰資金を生活水準引き上げに使う・・良いもの・サービスを消費するだけでは社会インフラ整備と整合しません。
「掃き溜めの鶴」で満足する人は少なく、自宅周辺の町並みを綺麗にしたい・・あるいはそう言うところに住みたくなるのが普通ですし、出掛けて行っても汚いところでも味さえ良ければよいのではなく、丸の内の新ビル街のようにオシャレな空間で買い物や食事をしたいものですので、公共工事・インフラ投資も平行しないとバランスの取れた生活水準引き上げにはなりません。
良い美術品を見た後で併設されたオシャレなレストランで、食事した方が満足感が高いものです。
卑近な例では、新しくなった東洋文庫を今年の5月に訪問して康熙字典などの所蔵品に圧倒されましたが、見学後併設されていたオシャレなレストランで食事を楽しみました。
バブル崩壊後の公共投資は投資効率が悪いと批判されていますが、平成以降は国民の生活水準上昇目的の公共投資に切り替わっているのであって、この辺を理解しない時代遅れの論説です。
August 7, 2012「財政健全化路線1(無借金経営論と知能レベル)」で財政赤字論は教育投資や公園、ロケット投資などの支出をプラス評価しないで支出面だけで見ている変な議論だと書いたことがあります。
現在マスコミを覆う議論は、投資の内容が質に変化している点を故意に無視した議論です。
すなわち曲がりくねった未舗装道で移動するのに1時間かかっていたのを直線道路にして10分で行けるようになる・・砂浜を浚渫して港湾設備を整えるような後進国型公共工事は投資効率・産業へ効果が大きく上がるのは当然です。
平成以降の公共投資は更なる儲け・産業効率化を図るよりは、歩道を石畳に変えたり電柱の地中化を進める、並木の植木を良いものに換える・道路の縁石を立派な物に換えるなど街路のたたずまいを綺麗にする・・老朽化していた美術館を建て替えて快適にし所蔵品の充実を図るような生活水準向上型・精神性の高さを求める時代になりました。
大震災時における国民の対応力の素晴らしさ、津々浦々まで行き渡っている我が国の精神性の高さ・・長年磨き抜かれた我が国国民性の精華が世界的に証明されました。(国粋主義的表現かな?)
生活水準・精神性など引き上げても何の役に立つのだと批判する・・そこまで考えた上の公共投資の効率性低下批判ならば立場の違いですから話は別です。
投資目的が変化していることに気づかずに、投資による目先の経済効果が低いことばかり議論して「公共工事は」無駄だと言う議論は、時代変化を理解していないので論理がかみ合っていません。
老人ホームや病院を作っても産業活性化率が低い・・乗数効果が少ないと議論しているとお笑いになるでしょうが、これらは元々産業活性化・効率化のための公共工事ではないことを誰でも知っています。

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