海外進出と構造転換1

グローバル化前の日本の従来型産業の殆どは、時間の経過で国内生産を縮小して海外で代替生産する方向になって行くので、国内生産の縮小・・これに関連する国内需要減退は留まるところがありません。
内需と言っても末端消費よりは、国内生産あるいはこれに必要な投資に伴う内需・消費が大きいので、これが縮小して行くと内需も大きく減少して行きます。
(白物家電の国内生産撤退どころか、今年になってテレビ生産すらパナソニックが全面撤退したように、従来型産業の国内生産は最近の超円高もあってドンドン縮小しています)
金利を下げたり紙幣供給を増やしてもどうなるものではありません。
最初はどうして良いか分らずにバブルを招きましたが、その後は賢くなって円キャリー取り引きなどで海外へ資金を逃がしていたのです。
昭和50年代初めころにコリー犬を飼っていたことがありますが、お腹が大きいのにこちらがパンをやると喜んで食わえるのですが、どうするかみていると庭の暗闇に行って土を掘って鼻で土を押し付けて埋めているのです。
埋め終わると如何にも食べたかのような顔をして戻って来て、尻尾を振っているのには驚いたことがあります。
政府は、バブル崩壊後不景気となれば、バブルで失敗したのを忘れてバカみたいに再び金利下げをして紙幣大量供給しますが、国民はバブルで一度懲り懲りしているので、喜んでお金を受け取りますが、最早宝飾品や土地にお金は向かいません。
(笛吹けど踊らず・・日本人は犬に負けていませんよ!)
犬が庭にパンを埋めていたように低金利を利用して円キャリー取引等で利ざやを稼いでいたのです。
政府はいくらゼロ金利にして量的緩和をしても景気が良くならない、消費が増えないというのですが、国民の方が政府の言うとおりに踊らない・利口であっただけでしょう。
以上の経緯をみれば金利の調節が悪くて平成バブルになったのではなく、国民の意識がまだ稚拙だったことが原因でバブルになったことが分ります。
以上の推移を見る限り国内産業構造の転換がない限り金利を下げても紙幣大量発行しようがしまいが,国内総生産・・これに必要な国内需要が現状維持どころか急激に減少して行かざるを得なかった筈です。
日本経済は、バブル崩壊後国内生産力の海外展開が進み、物によっては逆輸入が普通になってきました。
(日産マーチが全量タイ生産になった・・裏返せば輸入に頼るようになったニュースも数年前にありました)
上記のように従来型国内生産が縮小し、逆輸入が増える一方でしたが、October 18, 2011「国際競争力低下と内需拡大1」その他で国際収支表を紹介したようにバブル崩壊後リーマンショックまでの約20年間の日本の貿易黒字は縮小ではなく、ほぼ現状維持でしたし、この間の国内総生産はそれまでの高度成長ではなくなったというだけであって、次に紹介するように約25%ものプラス成長を続けていました。

内需拡大とバブル発生

日本は海外展開に伴う国内生産の急減速(前年比増がなくなっただけでしたが・・・)を埋めるために急いで内需拡大に舵を切ったのですが、(内需拡大するための資金はたっぷりあるので・・・)内需の準備・受け皿のないところに紙幣供給ばかり増やして金利を下げたので、(家電製品その他は行き渡っていたので買うものがないという国民の意識もあって)さしあたり実需の伴わない宝飾品や絵画・不動産に需要が集中してしまいました。
ちなみに日本のバブルの約20年後、リーマンショック後の成長率の急減速に耐えられない中国が、国際貢献名目に内需拡大政策に切り替えて、何十兆円か巨額支出しました。
中国では都市部を除けばまだインフラも充分ではなく、家電製品すら行き渡っていない状態でしたから、(事故を起こした高速鉄道網の急拡大もその一環でした)それなりの効果がありましたが、既に家電製品等が行き渡っている都市部では、豚肉等の生活必需品の高騰や不動産・マンションや貴金属美術品バブルに転化しました。
このために今年春頃から引き締めに転じていたものの、欧州危機に関連して経済が低迷(日経新聞12月14日朝刊7面によれば膨大な裾野のある造船業界では、今年10月の受注は昨年同月比2割しかない・・3割の造船所では今年に入って受注がゼロほど落ち込んでいます)して来たので、まだバブルが終わっていないのに金融緩和するなど迷走しつつあります。
東南アジア諸国では欧州危機による景気急減速に備えて内需拡大政策が一斉に発動されていますが、既にリーマンショック後の内需振興によってバブル状態になっている中国が同じことをやると、バブルの二乗倍になって大変なことになりかねません。 
貧しい中国人民がいきなり贅沢しろ、豊かな生活をしろと言われても、家電製品等が一定量充足すれば、豊かな生活に慣れていない国民は量をこなすくらいしか出来ません。
上海等都市部では2戸目3戸目の投資用マンションを買うようになっているのはその結果です。
(田舎の料理は量で勝負すると言われているのと同じです)
我が家では、10年ほど前に比べてずっとおいしくなったほうれん草、小松菜その他の国産農産物の味を楽しんでいますが、いきなり内需拡大と言っても品質が向上するものではなく、10〜20年して効果が現れて来るものです。
徐々に生活水準を引き上げるしかないのが、生活文化と言うものです。
いきなり湯水のようにお金を使えと言われても、使ったことのない国民は、従来型の消費を拡大するのが関の山で、品質改善・生活水準向上には時間がかかります。
手っ取り早い消費は量で勝負するしかない・・インフレになるのは当然です。
せいぜいこれまで買ったことのないもので贅沢品と言えば、貴金属や美術品・土地ですから、これに資金が集中したのは当然です。
(どうってことのない中国の絵が馬鹿高い値段になっていたようです)
本来の需要を越えて政治の力で無理に消費を煽っても空回りしてバブルになるしかなく、金融引き締めが遅かったからバブルになったというのは後講釈に過ぎません。
金利政策も内需拡大政策の一環ですから、勿論重要ですが、我が国の場合国を挙げて実際の需要以上に内需拡大するしかないと思い込んでいたことに原因があるのです。
海外展開と内需減少の関係に話題を転じますと、国内生産を維持したままの海外進出は前年比増の誤摩化し・・迂回輸出目的であれば続きますが、海外でもそこそこのものが造れるようになって来ると同等品については国内生産が割高・・国際競争力がなくなってきます。
現地生産能力の漸増に連れて、低級品から順次国内生産比率を下げて行くことになるのは必至です。
今まで国内生産はそのまま維持し、増産分だけ海外生産するというポリーシー通り国内生産を維持して来たのは、有名どころではトヨタ自動車くらいしか残っていないでしょう。
その分、トヨタは現地生産の進んでいる日産等に比べて新興国での競争に遅れを取っている感じです。
トヨタでさえも今年急激に進んだ超円高には耐え切れずに、国内生産を縮小せざるを得なくなりそうな雰囲気です。

為替相場と貿易収支・金利

為替相場は、貿易収支・所得収支の結果によるだけではなく金利相場によっても(資本移動によって・・国際収支のの項目で言えば資本収支項目のプラスマイナスによって)変動することについては 03/17/09「為替相場の妙味」その他の 円キャリー取引のコラムで書いた通りです。
ここで貿易赤字と金利政策(資本収支)・および為替相場の関係を書いておきますと、貿易赤字・輸出の縮小が始まると輸出不振・輸入品が増加して国内生産が減少して、国内が不景気になるので、金利引き下げによって国内景気刺策を行うのが一般的です。
低金利政策を為替相場の側面からみると、円キャリー取引で説明したように、低金利国で借りて(資金調達して)高金利国で運用したら利ざやを簡単に稼げることから、低金利=資金流出→為替相場安に繋がります。
海外進出も同じ原理でゼロ金利の日本国内で海外投資資金を調達して、中国やタイ(が仮に高金利であっても)で工場建設すると安い金利で新規工場を立ち上げられます。
低金利政策は貿易赤字による両替需要による為替相場の下落力学と低金利による資金流出と連動して為替相場の下落を加速するので、貿易赤字の改善にも効果的です。
為替が安くなれば結果的に輸出産業界も息を吹き返し、ひいてはここに納入する国内産業が活発になって、景気回復に向かうシナリオとなります。
輸出が伸びて好景気になって物価が上昇し始めると、インフレの過熱を抑えるために金融引き締めによってこれを抑制するのが普通です。
(今年の中国の物価上昇や不動産バブルに対して、中国政府は金利引き上げをして引き締めました)
高金利にすれば高金利国に資本が流れ込むので高金利国の為替相場も上がり、この面でも貿易黒字傾向が冷やされ、貿易黒字を前提とした生産力が過剰になって景気が冷やされます。
以上が為替と金利関係・景気循環の一般理解ですが、我が国の場合は、貿易黒字がまだ続いていたのに低金利にした理由は何でしょうか?
バブル発生と崩壊がその原因と言えるでしょう。
これまでの膨大な貿易黒字継続に対する世界のブーイングによって無理が出たために、この解決のためにアメリカ国内への工場進出加速や(欧米への迂回輸出のために)生産設備のアジア諸国への海外展開が進みました。
国内生産増加率の低下ないし減少の穴埋め分として、欧米からの要求もあって焦って内需拡大に向かったのでバブルを引き起こしたものです。
海外展開は国内生産をそのまま維持して増産分だけ海外展開するのが最初の頃の殆どの企業のポリシ−でしたが、それでは前年度比国内生産はゼロ%成長ですから、それまで年率7〜8%増の売上を前提としていた日本経済にとっては、大変なことでした。

ポンド防衛の歴史12(ポンドの威信1)

イギリスの場合、ポンドの基礎体力が回復した訳ではなく、12月10日に紹介したように成長率は低いままでしたが、戦勝国・老舗として参加しないのは格好が悪いということでのIMF8条国参加ですから、自由市場に参加すれば市場の実力試しの洗礼を受けます。
1947年の自由化のときに比べれば49年に大幅に切り下げた後ですし、既にスターリング諸国その他によるポンド保有資産(ポンド売り圧力の源泉です)が減っていたので売り圧力が低いとみたのでしょうが、それでも直ぐにポンド売りの攻勢を受けます。
これが61年から始まる外国為替市場でのポンドの売り浴びせ、と買い支え・・私が新聞に関心を持つようになった中学生〜高校ころのポンド防衛に関する連日報道に連なっていたのです。
ただし、その頃は90年代のソロス氏のようなファンドマネージャーが発達しておらず(手法も限られていたでしょう)まだ「チューリッヒの小鬼」という程度のメンバーでしたので、短期間に巨額の売り浴びせが(当時も空売りの手法があったとしても規模が小さかったでしょう)出来なかったので、かなり長期間の抵抗が可能だったようです。
1961年から長期化するポンド防衛戦争(市場の洗礼に曝されるようになった)が始まるのですが、遂にはこれに耐え切れずに1967年にポンドを1ポンド2、80ドルから2、40ドルへと約14%切り下げて漸く落ち着きます。
ただし、このときは南アフリカやインド、オーストラリアなど多くの諸国がリンクしませんでした。
こうしていわゆる英連邦諸国プラスαのスターリング地域にとって閉鎖的なポンド経済を維持するメリットがイギリス本国も構成国どちらからも次第に失われて行く流れが定着し、イギリス本国のEU加盟(1973)に繋がって行きます。
72年以降イギリスは変動相場制に移行したので、以降は市場の実力相応の変動によって上下する筈でしたので、国の威信がかかった「切り下げ」という政治ショウが不要になったはずでした。
ただ、イギリスは欧州の経済統合への参加という戦後の宿命的課題があり、(欧州の一員になるか英連邦にこだわるか)欧州には統一通貨ユーロ成立前段階の欧州通貨制度(EMS)があって、イギリスはこれとポンド相場の連動性・ERM(欧州為替相場メカニズム)を採用していました。
と言うことは、実質的にはイギリス単体の実力による変動相場制を修正して欧州全体相場にリンクする半端な変動相場制度だったと言えます。
イギリスは、一時北海油田の御陰で国際収支が堅調になったのですが、その枯渇に連れて再び戦中戦後連続していた国際収支赤字基調に戻っていたらしいのですが、上記連動性の結果、相場が経済力の変化に比例して修正されないままとなっていたのです。
東西ドイツ統一(1990年)後の復興資金需要によって高金利化していた欧州諸国の為替相場が上昇基調にあり、連動してポンド相場も上がっていました。

ポンド防衛の歴史11(ポンド管理政策の破綻2)

12月10日に紹介したように、イギリスとOECD諸国との成長率格差が広がる一方で、為替取引自由化の部分を多くして行くと硬直的なポンド維持・為替管理が難しくなります。
この打開のために1949年9月には、1ポンド4、03ドルから1ドル2、80ドルへ約3割に及ぶポンド切り下げを行います。
大恐慌時のポンド切り下げと違い、戦後は域内諸国が多額のポンド預金を強制されていた(債権保有者になっていた)ので、49年の切り下げは指定諸国(元のスターリング諸国)にとっては(ポンドでの)外貨準備の対ドル価値が大幅減額・大損害になってしまいました。
今の日本や中国がアメリカドルで保有している外貨預金が3割切り下げられたようなものです。
その上イギリス及び指定諸国(主に英連邦諸国)全体が戦後では貿易赤字基調なので、今後もじり安になるリスクのあるポンド預金をするのはリスクが増えるので指定諸国のポンド離れ(ポンドにつきあっていると損をする意識)が始まりました。
大恐慌時のスターリング地域設定時には構成諸国トータルの国際収支は黒字であったので、この黒字分をロンドンに集積するメリットをイギリスは受けていたし、その結果ポンド相場が維持出来たことを既に紹介しました。
戦後はスターリング地域(戦後は指定地域)全体が対ドル圏に対して赤字機基調になって来たので、ロンドンで外貨交換してもドルを集積しなくなり(トータルで赤字であればロンドンで交換してもドル支払いの方が多くなって持ち出しになります)、むしろイギリス本国が参加国を援助しなければならなくなる方向になってきました。
参加国全体がじり貧になって来ると、参加国もイギリス本体も相互にこのシステムを維持するメリットがなくなってきました。
言わば親戚みんなが貧乏人の集まりになって来たので、お互いに他所の金回りの良い他人とつきあう方がメリットが大きくなって来たと言えます。
その結果、域内貿易よりは域外貿易の比重は上がる一方になってきます。
他方でポンドの両替が不自由・使い勝手が悪いとその不満から域内諸国のポンド離れをいよいよ加速するので、イギリスとしてはポンドの自由化を進めるしかない展開になってきます。
徐々に為替自由化を進めて行った結果が、西欧諸国一斉に行われた1958年の非居住者の換金自由化に繋がり、61年の居住者に対する制限撤廃になります。
ポンド両替が完全自由化された1961年にイギリスはIMF8条国(貿易収支の悪化を理由にする為替取引制限を出来ない国)に移行して漸く先進国のメンツを保てました。
ちなみに日本の8条国移行は1964年(昭和39年)で、戦前の一等国から敗戦による4等国への格下げ・(子供の頃には何かと言うと「4等国になったのだから・・」と大人の自重気味の話を聞いて育ちました)ここから漸く挽回しての再度の先進国(戦前の言葉で言えば列強諸国)入りを果たしたことになります。
(東京オリンピックもこの年ですし、新幹線開通もこの年でした)
日本の場合は十分な実力を蓄えた結果の8条国入りですので、参加したからと言って円の売り浴びせはなく・・、むしろ以後値上がり圧力のまま現在に至っています。

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