ポンド防衛の歴史5

イギリスは1939年対ドイツ戦開始後数次にわたる為替管理政策の結果、域内の基軸通貨国としてウマい汁を吸って来たので、戦後もこれを維持をしたかったし、するしかなかったのがイギリスの立場でした。
(いきなり解体すると100億ポンドものポンド預金残高・債務の決済をしなければならないので破産してしまいます)
自由貿易主義のアメリカは戦争中からスターリング地域の解散・解体を求めていたので、(アメリカ主導のIMFの基本合意が出来たのは戦時中でした)アメリカに助けてもらっているイギリスとしては戦争が終わるまでは特別扱いを許されるとしても、戦争が終わった後もいつまでも為替規制によるブロック経済を存続し続けることは不可能な政治情勢でした。
IMFを国際通貨基金と訳しているように、国際的な為替規制ルール不備が貿易戦争・・ひいては大戦の引き金になった反省で戦後の最も重要なスキームとしてアメリカ主導で戦時中に基本協定が成立していることから分るように、為替規制が必要なときのルール化が創設目的でした。
学校では戦後体制として国際連合の創設しか教えられませんが、国際連合は政治の枠組みであって、政治を規定する経済の枠組みの創設がその前提として重視されていたのです。
ですから、IMFは国連が出来ると直ぐに国連の正式機関として位置づけられます。
国際通貨基金が実効性を持つには大きなグループであるスターリング地域の解消・・なわちポンドの為替規制の解除・自由化が求められていたのです。
大戦突入の経済要因としてブロック経済化と教科書で習いますが、その技術的基礎は為替規制にあったからです。
ブロックの名称をイギリス貨幣の名称である「スターリング地域」というのは、まさに通貨の共通化・・貨幣交換性拒否による閉鎖経済を意味することになるからです。
IMFは戦時中の1944年のプレトンウッド協定で合意された戦後の経済枠組みで、発足は1946年3月29カ国で創設・・日本は52年加盟と同時に理事国になっています。
私たちは、ミッドウエー沖海戦・レイテ島沖海戦やノルマンディ上陸作戦等の戦争現場ばかり目を奪われていますが、連合国内部(血は水よりも濃い筈の英米間)では、戦後経済のあり方に関する熾烈な経済戦争・政治交渉が続けられていたのです。
アメリカは悲惨な戦争の原因がブロック経済化にあると考えていたことは・・これが戦後アメリカ支配下の我が国の歴史教科書の基本思想になっていることからも明らかです。
これに加えてアメリカは戦時中に連合国援助向けに拡大した供給力のはけ口として戦争が終われば世界市場の自由化・拡大を求めていたので、閉鎖経済の象徴のようなスターリング地域の存続はアメリカの意志・思想だけではなく、経済利害にも反していたのです。
イギリスはいつかはポンド交換性を回復をするしかないことも分っていたので、前回紹介したようにケインズによる「国際清算同盟案」を策定したりして努力していましたが、スターリング地域内での借金が増えるばかりで解体・ポンド交換性回復の具体案が出来ないまま終戦を迎えたのです。

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