核家族化の進行と大家族制創設

クリスマス特番から12月22日のテーマの続きに戻ります。
明治維新による開国・・近代工業社会化への幕開けに応じて都会での就業機会の増加や炭坑・製鉄や造船・繊維工場などの労働力として田舎の家を出てしまった息子や娘が、田舎の親の家・遺産を当てにしなくなったと言えば、明治時代と似たようなことがここ数十年繰り返されました。
以前不動産市場のテーマで05/01/03「プロとは?2」に書いたことがありますが、都会でも我々よりちょっと上の世代はまだ親の家を相続するのを楽しみにしていた時代でしたが、親が長生きするようになってくると、平均的経済力のある人は親の家を相続するまで待てないので郊外に自分のマイホームを買ってしまう人が増えました。
長寿化が、長男夫婦まで別居・核家族化を進行させた原動力でした。
(このためにどこでも宅地需要が一時的に2倍に増えて郊外に市域が広がり活況を呈していたのでは、(宇都宮を再訪したときに僅かな期間に市域が2倍近くに広がっていることを紹介したこともありますが、こうした特需によるものでした)
親が90代になって漸く亡くなっても、息子世代では最早郊外の自宅で根を張ってしまっているので、市中心部の親の古家は売却する方向に行くのが普通です。
この理は、地方から出て来て都会に自宅を保有してしまった人が、60代になって90代の親がなくなっても田舎の家の相続をするために田舎に帰りたい人が少なくなっているのと同じです。
これからは都市中心部の土地放出が増えるので、(市中心部の再開発が中心になり)郊外の宅地開発業・デベロッパーは成り立たなくなると言う意見を、昭和末頃から不動産業者に説明していたことがあります。
男性だけではなく都会に出た女性も、江戸時代と違って都会に出た男性ときちんと結婚出来る時代になったので、姉が死亡したら姉の夫の後添えになれる期待はなくなりました。
次世代が親の遺産を当てにしなくとも自分で稼げるようになった明治以降は着実に実家離れ・・共同体意識の希薄化が進んでいたことになります。
江戸時代には帰りたくとも盆と正月しか親元に帰れなかったのですが、明治以降の所帯持ちは盆と正月しか帰りたくないように意識が逆転し始めたのです。
現在では毎年帰るのはきついと思っている夫婦が大半でしょう。
明治時代(明治31年法律第9号で民法成立)に大家族制の家の制度が法で定められたので、このときが実態として最大の大家族社会だったかと誤解しがちですが、明治も30年代になると逆に親元に頼ることがなくなり始めていたのです。

次世代同居のメリット

娘や息子が独身のまま同居している場合だけではなく、結婚しても娘が実家にいたままで自分の両親と同居したまま・・夫は通い婚あるいは娘が時々夫のアパートを訪問するくらいが、娘の親にとっては便利です。
自分の都合だけを考えれば(自己中心に考えられれば苦労がないのですが・・・)親にとってはこんな良いことがないのでしょう。
結婚した娘が結婚後もずっと家にいて時々夫に逢いに行くパターン(勿論何日か泊まっては来ますが・・)の場合、従来の一般的習慣から言えば変な夫婦関係と言えますが、夫婦お互い忙しければ、これもありです。
若手弁護士で女性裁判官と結婚している場合、妻の転勤中夫の弁護士は実家に戻って生活しているパターンもあります。
妻が弁護士で夫が裁判官や検事のパターンではこの逆になります。
昔はこんなパターンは成り立たなかったでしょうが、今ではこうした逆転関係も結構あります。
法律家に限らず専門職で忙しい夫婦の場合、たとえば医師の妻でも夫の夜勤(若手医師に夜勤等が集中しています)が多いのでこうしたことが結構起こっています。
この場合、夫婦間の懐具合はどうなっているの分りませんが、一人や二人家でよけい食べていても生活には困らない家庭では、(普通のサラリーマン家庭でも、娘から食費程度を入れてもらえば文句ないでしょう)親としては娘が普段家にいるのは何かと便利には違いありません。
ここまで進んでいるのは専門職で忙しい夫婦だけでしょうが、一般家庭でも2〜30年前から妻の実家近くに新居を構えていて、妻は実家に入り浸りで、夫は仕事の帰りに妻の実家に立ち寄って妻や子と一緒に自宅に帰る習慣の夫婦が結構いました。
専門職系の通い婚的夫婦の事例は、2〜30年前から多くなっていた実家入り浸り妻の発展系と言えるかも知れません。
こうなると男の親は割が悪いと思うでしょうが、男の子も家にいれば高いところの電球取り替えなどちょっといじったりするのに少しは役立ちますし、(今の時代、男の役に立つ分野が少ないことが明らかとなり、男が何のために家にいるのかの疑問が起きます)損だと思うなら(乱暴な意見かも知れませんが・・・)今後男の子を産まなきゃ良いのです。
独身のままで大丈夫か、こんな夫婦関係で大丈夫かなどと色々心配したくなるのが親のサガですが、それはそれぞれの世代の考え方に委ねれば良いことです。
これからの夫婦・あるいは男女関係のあり方は、我々がおせっかいに心配しなくとも(この秋から連載していますが)次世代自身が一番良く知っているのです。
ともあれ、我が家の今年のクリスマスは娘が二人いて(長年海外にいた娘が帰国しているので)賑やかで楽しいので、それだけで満足です。

クリスマス・イヴ

今年もクリスマス・イヴがやって来たので、恒例にしたがって今回と明日は特別番組です。
クリスマス・イヴは、若い人が幼い頃から慣れ親しんだ行事ですので、老夫婦だけよりは娘達参加の方が盛り上がります。
私に限らず、私たち世代は自分の時代は高度成長期でうまくやれたが、広く言えば日本の将来狭く言えば自分の子供など次世代の将来を心配している向きが多いと思いますが、目の前に複数の娘や息子がいて幸せな家庭団らんがあれば、それを素直に喜んでいれば良いのではないでしょうか?
子供ら次世代の職業不安、結婚していても子供がいないことを理由にする子供ら夫婦の将来不安等々、子供の将来を心配するのは、現実にはあり得ない杞憂かも知れません。
杞憂と言う言葉が生まれた意味を考えると実際にはあり得ない想定ですから、現にあった事柄と言うよりは人間は先々のことを心配してクヨクヨしがちだから、先のことを考えるのも程々にしなさいと言う教訓でしょう。
次世代には次世代の考えがあって生きているのでしょうから、6〜70代の世代の考え・自分の育って来た生き方を基準に彼らのことまでくよくよと心配してやる必要がありません。
クリスマス・イヴくらいは子供のことまで心配しないで、逆に子供たちがいることを最大限利用して楽しく過ごすのが良いでしょう。
次世代がしっかりしないのは心配と言えば心配ですが、先のことをくよくよ心配しないで考え直せば、私の場合身近に娘が2人もいるのは親にとっては幸せなことです。
何しろ、何だかだと言っても(今の若いもんは・・式の議論を良く聞きますが・・・)やはり世代が違う分新しいことには敏感ですし、パソコンがちょっとでも調子が悪いと、ちょっといじって直してくれるし(その分まるでコチラの実力がつきませんが・・・)いろんな分野(食事の嗜好なども違うので、食べたことのないものを食べさせてくれるし)にわたって便利です。
2世代相互関係は、将来のことは別として生活が便利であることが確かです。
若い方も親世代の智恵や財力を利用出来るし、多世代同居・身近にいることは賑やかで悪いことは殆どありません。
男女関係の将来をテーマにこの秋から書いて来ましたが、昔は力仕事の関係などで、一家に男手が必須だったこともあって同世代の男女関係維持が中心的テーマでした。
しかし今では、パソコン操作等軽作業が中心になって来てジェンダーが不要な時代ですから、ペアーを組むなら世代間協力関係よりは2世代相互助け合いの方が(高齢者と次世代の組み合わせを考えても・・介護問題はあらかた解決できます)当面の生活は(次世代の将来を心配しなければ)合理的でしかも便利です。
次世代と別居しているから、他人の訪問介護や買い物援助などが同居している場合に比してより多く必要になっているとも言えるでしょう。

親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)

余裕のない所帯・・貧農では結局は追い出してしまうしかないのですが、江戸時代には郷里を追い出された後も、(法的には縁を切られて無宿者になっているのですが・・・)何時呼び戻してくれるかといつも気にして都会生活をしていたことについては、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」までのコラムで書きました。
いざと言う時に後継者に選んでもらえるように・・盆暮れには欠かさず顔を出していつでも後を継いでやって行ける元気な様子を見せて親や兄のご機嫌を取り結んでおく必要があったので、盆と正月には実家に顔を出す習慣が定着したのであって、宗教心や孝行心がそれほど篤かった訳ではないでしょう。
明治に入ると次男三男が(勘当や無宿者・・アウトローとしてではなく、)正規の働き口があって正々堂々と都会に出て行けるようになったし、お金持ちの次男等は進学等で都会に出ますし、居候・厄介として親の家に残っているのは、外に働きに出られない病者・障害者等ごく少数の例外に限られた筈です。
都会に出た多くの人は、江戸時代と違ってきちんとした勤め先を得て所帯を持てるようになったので、居候や厄介として親の家に残る・・ギリギリの限度までしがみつく人が減っただけではなく、出て行った人も実家に呼び戻してくれるのを期待する意識が薄れます。
むしろ都会で成功した人(とまで言えなくともある程度の生活安定が出来上がると)が増えると、実家の兄が亡くなったと言われても都会で得た地位を捨てて郷里に帰って農業を継がされるのは迷惑と考える人が増えて来ます。
現実の都会生活が充実してくれば、あえて現実の生活を捨てて遠くの郷里の生活(実家とは言いますが、郷愁・バージョンの世界です)に戻りたくなくなるのが人情です。
まして都市での近代的生活水準が進む一方ですから、(食べて行けさえすれば都市の生活は田舎に比べて便利この上ないものです)遅れた田舎の生活に戻りたくなる人は滅多にいなくなったでしょう。
特に薩長土肥の下級士族出身者にとっては、多くは政府で良い職についていたので、田舎の足軽長屋を継ぐために郷里に帰りたい人は皆無に近かったのではないでしょうか?
今でも過疎地の田舎から出て来た人にとっては、田舎の土地その他の相続に興味・関心をなくしている人が殆どでしょう。
明治中期頃の社会意識の変化は、現在の過疎地出身者の相続期待意識喪失の前段階・先駆的問題ですが、よほどの豪農の子弟以外は、都会でせっかく得た勤務を捨ててまで田舎のあばら家・貧農の相続をするために帰りたい人の方が少なくなって来たのが、明治中期頃の実情だったでしょう。
(現在マイホームを持てなかった敗者が親の家に戻れるのを楽しみにしているのと同様に、何時の世にも・・好景気でも倒産したり食い詰めている人もいますので例外はあります)

核家族化と大家族制の創設1

戦国時代までのように多くの子供を産み育てる場合、信長が兄弟で戦ったことが知られていますし、そもそも古きを尋ねれば源平合戦の始まりである保元の乱が藤原氏の兄弟間の争いに端を発し、応仁の乱も畠山兄弟間の争いから起きたことですし、(上杉家の家督争いも有名です・・)兄弟間の相続争いが起きてくる率が高まります。
徳川家の場合家光の相続に関連して春日局の活躍で、長子相続がルール化され、これが各大名の世代交代の承認のルールにもなって行ったので、ひいては大名家家臣・武家の相続にも及んでいましたが、相続の承認制度のない庶民の相続形態は前回書いたとおり、実情に応じて様々のままでした。
明治政府としては、庶民に対して子沢山奨励策をとり、大きな家の制度を構想すると庶民にもその家の財産管理権とその相続のルールを国で決める必要が出て来たのです。
そこで、法(国家権力)で戸主の財産管理権(家督相続)を決めざるを得なくなり、戸主に財産権集中を決めたセットとして構成員に対する扶養義務も法定せざるを得なくなったと言えます。
ところで、明治時代に観念的大家族制が創設されたのは、子だくさんの実情に合わせて実際に大家族家庭が多くあったからではないかと思われ勝ちですが、大家族制・・・兄弟姉妹の家族まで実際に同居する大家族形態がこの時に始まったり、あるいはその前から続いていたのではありません。
むしろこの時に親族共同体が崩壊に向かいつつあったからこそ、(醇風美俗を守るために?)この制度が出来たとも言えます。
江戸時代でも二三男や嫁に行き損ねた女性などが、働きに出るところがないからと言って、全員無宿者として放り出されたのではなく居候としてそのまま居着いていた人が存在した・・親としては可愛い子供を(のたれ死に前提で)放逐するのは耐えられないことですから、養える限度まで努力していた筈です。
厄介については、04/02/05「夫婦別姓21(子沢山と家父長制の矛盾1)厄介者」のコラムで紹介しましたが、これが居候とか厄介者と言う熟語が残っているゆえんです。
この場合でも、ワンルームの掘っ立て小屋では成人した弟妹を抱えるのは無理ですから、一定規模以上の家に限られ、それでもせいぜい一人か二人に過ぎず、しかも彼らは結婚しませんので、1代限りで末広がりに大家族になることはなかった筈です。
厄介者を抱えるのはひと世代で懲り懲りですから、次の世代以降は一人っ子に成功する確率が高くなりますので、厄介者を抱えている所帯は一つのムラで1所帯あるかないかだったでしょう。

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