親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)

余裕のない所帯・・貧農では結局は追い出してしまうしかないのですが、江戸時代には郷里を追い出された後も、(法的には縁を切られて無宿者になっているのですが・・・)何時呼び戻してくれるかといつも気にして都会生活をしていたことについては、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」までのコラムで書きました。
いざと言う時に後継者に選んでもらえるように・・盆暮れには欠かさず顔を出していつでも後を継いでやって行ける元気な様子を見せて親や兄のご機嫌を取り結んでおく必要があったので、盆と正月には実家に顔を出す習慣が定着したのであって、宗教心や孝行心がそれほど篤かった訳ではないでしょう。
明治に入ると次男三男が(勘当や無宿者・・アウトローとしてではなく、)正規の働き口があって正々堂々と都会に出て行けるようになったし、お金持ちの次男等は進学等で都会に出ますし、居候・厄介として親の家に残っているのは、外に働きに出られない病者・障害者等ごく少数の例外に限られた筈です。
都会に出た多くの人は、江戸時代と違ってきちんとした勤め先を得て所帯を持てるようになったので、居候や厄介として親の家に残る・・ギリギリの限度までしがみつく人が減っただけではなく、出て行った人も実家に呼び戻してくれるのを期待する意識が薄れます。
むしろ都会で成功した人(とまで言えなくともある程度の生活安定が出来上がると)が増えると、実家の兄が亡くなったと言われても都会で得た地位を捨てて郷里に帰って農業を継がされるのは迷惑と考える人が増えて来ます。
現実の都会生活が充実してくれば、あえて現実の生活を捨てて遠くの郷里の生活(実家とは言いますが、郷愁・バージョンの世界です)に戻りたくなくなるのが人情です。
まして都市での近代的生活水準が進む一方ですから、(食べて行けさえすれば都市の生活は田舎に比べて便利この上ないものです)遅れた田舎の生活に戻りたくなる人は滅多にいなくなったでしょう。
特に薩長土肥の下級士族出身者にとっては、多くは政府で良い職についていたので、田舎の足軽長屋を継ぐために郷里に帰りたい人は皆無に近かったのではないでしょうか?
今でも過疎地の田舎から出て来た人にとっては、田舎の土地その他の相続に興味・関心をなくしている人が殆どでしょう。
明治中期頃の社会意識の変化は、現在の過疎地出身者の相続期待意識喪失の前段階・先駆的問題ですが、よほどの豪農の子弟以外は、都会でせっかく得た勤務を捨ててまで田舎のあばら家・貧農の相続をするために帰りたい人の方が少なくなって来たのが、明治中期頃の実情だったでしょう。
(現在マイホームを持てなかった敗者が親の家に戻れるのを楽しみにしているのと同様に、何時の世にも・・好景気でも倒産したり食い詰めている人もいますので例外はあります)

親族制度4(身分法・強行法規)

近代法の原則は「身分から契約へ」の標語で示されるようになったことを、12/24/03「刑罰の種類6「公事方御定書4」(身分とは?1)」以下で連載しました。
財産法の分野はまさに自由な契約の精神(前回紹介したように当事者の特約が優先)ですが、親族相続法は、私たちが司法試験を勉強していた頃には、「身分法」として括られていました。
(今では身分法と言う呼称をあまり聞かなくなったように思いますが・・・事務所に行って修習生に聞けば直ぐに分るでしょう)
身分法と言う講学上の概念が成立していたのは、個人の努力ではどうにもならない「生まれによってすべて決定されてしまう」近代法以前の身分・・親族相続法では血縁が原則です・・・としての理解だったからです。
親族か否かあるいは相続させるか否か相続人としてもどの割合で相続出来るか・相続分を決める基準は、血縁を唯一の基準(例外的に養子制度によって血縁の親子に擬制する仕組み)にしており、親族編では、まず嫡出子か非嫡出子かが大きなテーマであり、あるいは認知制度が整備されているのは、この血縁重視の結果と見ることが可能です。
近代法の血縁重視精神が浸透して来た結果、アメリカで盛んな子育てのための養子もなくなったし、(今ではせいぜい相続税対策や先妻・後妻の子間の対立や、相続分の比率変更のための養子が中心です)兄弟の契りを交わして、これを終生守るような話は三国志や任侠伝の世界でしか存在しなくなりました。
ちなみにアメリカでは、親族制度の強化(限られた範囲ではあるけれども身分制の復活)に向かわず血縁に関係なく孤児を引き取って育てたり,寄付をする慣習が広がった(・・すべて主体的個人の判断によることになります・・・)のは、元々新開地であって近隣相互扶助の長い歴史がなかっただけではなく,上記のように自立心の旺盛な人たちが多かったからではないでしょうか?
アメリカ移民の開拓をつぶさには知りませんが,我が国の北海道への開拓の歴史では,内地並みの集団移住方式でした。
(映画北の零年が正しいとは限りませんが・・・)
これに対して映画などで見るアメリカ移民は一人一人自分の力で自然を開拓して行く方式であまり集団を頼っていない感じです。
アメリカ移民は伊達藩家老一族,あるいは蜂須賀家家老一族が北海道に追いやられたような集団疎開ではなく、個人の意志で「こんな国はオレの方から見捨ててやらあ・・」と言う意志の強い人が祖国を捨てて主体的に移民して行った人が多かったことによるのでしょうか?
元々我が国で子育てを主目的(跡継ぎ目的で養子をとれば結果として養育もしたでしょうが・・・)にする孤児を引き取る養子制度が存在していなかったように思いますが,正確には知りません。
どの水準で子供を扶養するかの程度問題も関係者だけで決めても、その妥当性に不満があれば、別途裁判所に訴え出れば妥当な金額に変更してしまえるようになっています。
すべて国家が決める仕組みです。
すべて、生まれによって大枠が決まっている(例外的に遺言や養子などで修正出来るだけの)制度とすれば、これを学者が「身分法」としてまとめていたのは,(江戸時代だって身分を超えるのに養子制度が多用されていました)至極当然の結果と言えます。

相互扶助の崩壊と親族制度3

親族相続編は、人と人の財産関係の規律には直接関係なくどちらかと言えば、社会の基礎的構成単位とその構成員同士の関係を定める分野です。
財産法関係では、法の基準は原則にとどまり当事者間の特約が優先する(意思表示の内容で決める)関係です。
当事者の合意に委ねて行き過ぎが起きてくると別の法律で規制する(借地借家法や利息制限法や労働法・割賦販売法など)だけです。

民法
(任意規定と異なる意思表示)
第九十一条  法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。

ところが、親族相続法ではどこまでを親族とするとか、相続人の範囲をどこまでとかどこまで扶養義務があるなどを当事者の気持ち次第で勝手に決めることが出来ない・・ハードな仕組み(強行法規)です。
どの範囲まで扶養するかは親の勝手(親が気に入った子供しか食わせない)などとしてしまうと、食べて行けない人が出てくるので、法で誰(夫や親、子供などの関係になった以上はその身分に応じて)がどの範囲まで扶養する義務があるかを決めてしまうようになったものです。
どのような関係を夫婦とし、親子とするか、親族とするかも法で強制的に決めていて(養子縁組をしない限り)契約で自由に決めることは出来ません。
夫婦のあり方についても、婚姻届け出をした場合だけを夫婦として法で認める仕組みになったのも、故なしとしないでしょう。
明治の民法制定以降は、婚姻届をした場合だけ法で夫婦と扱うことになったことについては、05/31/03「婚姻制度 (身分法とは?1)4」前後のコラムで紹介しました。
近代法以前にはいろんな形の夫婦があり得たのですが、これを政府に届け出た唯一の方法に限定したのです。
それ以外は当事者やその周辺がいくら夫婦と認めていても、法的には認めない内縁関係にしてしまい、今でも相続権を一切認めていません。
(ただし、各種死亡弔慰金などは内妻がいれば内妻に支給する制度設計です)
全く相続を認めない制度が良いかどうかは別問題ですが、ここでは論じません。

近代社会と親族の制度化2

 

民法の親族相続編は、このシリーズで書いているように社会保障の代替物として制度化・強化されて来たと見れば、時代精神・・社会のあるべき姿をそのまま反映する傾向があるので、社会意識の変革期には大改正を受けざるを得ません。
財産法関係と親族相続関係は別々の法律が合体した歴史があってこそ、(元々別ですから)価値観の大転換した戦後すぐに第4編5編だけを切り離して全面入れ替えの改正が出来たゆえんです。
ちなみに1〜3編の財産法関係は敗戦にも関連せずちょっとした条文の手直しが時々あっただけで、明治以来のまま現在に至っていて、(2005年4月施行の改正で文語体のカタカナまじり文が口語化されただけです)ここ数年漸く現在社会の取引実態に合わせて大改正しようとする気運が盛り上がって来て(内田貴東大教授が大学を辞めてこれに専念している状況で)改正試案が公表されて、債権者代位権制度や危険負担制度・瑕疵担保など分野別の改正に対する意見を弁護士会その他各分野に求めている段階です。
現行民法制定後約10年以上も経過していても財産法に関してはこんな程度です。
例えば民法で,「借りたものは期限が来たら返さねばならない」「ものを買ったら代金を払う」と言う規定は500年や1000年で変わることはないでしょう。

民法
(売買)
第五百五十五条  売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。
(使用貸借)
第五百九十三条  使用貸借は、当事者の一方が無償で使用及び収益をした後に返還をすることを約して相手方からある物を受け取ることによって、その効力を生ずる。

「借りたら返す」「買えば代金を払う」原理自体をいじることなく,借りるにして(友人同士の貸し借りは民法の原理通りですが,高利貸しの場合などは貸金業法や利息制限法の規制があります)も買うにしても割賦販売その他多種多様な複雑な取引形態があるので,これを民法に取り込もうと言うだけで,言うならば民法を複雑化しようとする改正です。
ですから民法制定後110年もたっているのだからと言う理由で大きく変えようとはしているものの、身分法関係の戦後改革のような価値観の転換によるものではなく,技術的な要因によるものがほとんどです。

近代社会と親族の制度化1

近代社会化の進行は地域共同体が崩壊して行く過程でしたから、子育ての社会化が準備されるまでの受け皿として親族のあり方が重要視され、その親族は血縁の親疎によって構成される原理となっているのは、前回書いた社会インフラの不備を親族・家族の協力責任に求めたからです。
民法は本来市民の民事取引に関する法であるのに親族相続編がほぼ同時に施行され、結果的に一体化されているのは、今の価値観から言えば社会で責任を持つべき分野を(国家に経済力が伴わないために)私人に委ねざるを得なくなり、私人とその周辺・・親族の責任とした結果、民法の一部にするしかなくなったと思われます。
民法は大きく分けると財産編と親族相続編の二種類からなっていて、しかも国会でも別の法律として成立しているのですが、結果的に一つの法律として合体して運用されているのは、こうした歴史経過に由来するのではないでしょうか?
何回も民法の冒頭部分を紹介していますが、法典の成り立ちを見直していただくために現行民法の冒頭部分をもう一度紹介しておきましょう。

民法
  明治29・4・27・法律 89号(第1編 第2編 第3編)
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス
  (別冊)
  
明治31・6・21・法律  9号(第4編 第5編)

上記のとおり財産法に関する第1〜3編は明治29年に成立しており、その際の上記文言からも明らかなようにこれに先立つ明治23年の民法(財産関係法・・ボワソナード民法)があって、これの改正版であったのです。
この辺のいきさつについては、これまで06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1」や民法制定の歴史で詳しく紹介して来ました。
これに対して、親族相続に関する第4編5編は2年遅れの明治31年に別の独立の法律として成立しており、これを後から先行する財産法に合併させたもので、元々一体ではなかったのです。
ナポレオン法典もボワソナード民法も原典を見たことがないので自信がないのですが、明治23年の民法(すなわちナポレオン法典を基礎にしたボワソナードの起草になるものです)に、親族相続編がなかったとすれば、親族相続関係の強化は、まさに産業革命の進行によってナポレオン時代の後に必要になった制度であったことが分ります。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC