明治民法4(家制度1)

 

前回紹介した条文に出てくる家族とは、「其家ニ在ル者」すなわち現実に一つ屋根の下に同居していなくとも、「観念的な家」・・戸籍上同一戸籍に属すれば(分家しない限り)足りるようですから、戸主の弟夫婦が都会に出て別に住んでいても分家して一家を創立しない限りその家族・妻子も同一家族となりますので、今で言う同一世帯より広い意味となります。
本家分家の表現を聞いた方が多いでしょうが、一軒の家を分家・・物理的に解体して分けることはあり得ませんので、(今でこそマンションの発達で区分所有制度がありますが・・・明治時代の小さな木造家屋では考えられなかったことです)この表現は具体的な建物としての家ではなく観念的な家の制度を前提にしていることが明らかです。
また「家族」とは親子以上の広がりを持った感じです。
今で言えば端的に親子と書けば良いものを「家の族」・属にも通じる漢字を使ったのは、家の制度に包摂される親子以上に広がありのある一族「族=やから」を意味したからではないでしょうか?
ところで、明治の初め頃には生活・居住実態を表現する住民登録制度がなかったので、元は親子として一緒にいた子供や兄弟が元の具体的な家・建物を出て行ってしまった後までみんな血統に基づいて登録したままにしておくか、江戸時代のように目の前にいなくなったものを無宿者に(除籍)してしまうかの二者択一制にする必要がありました。
明治政府は、国民の管理上前者の制度を選択したのです。
ですから離れて住んでいて親兄弟にすら生きているのか死んでしまったかすら分らなくなったものまで家族を擬制していたので、その咎めがこの秋頃からマスコミを騒がせていた超高齢者が生存中であるかのように登録されたままとなった結果になったと言えます。
個人の識別特定のためには、血統に基づく戸籍制度によるのではなく、実態に合わせた住民登録制度あるいは、社会保険・年金番号制等個人識別制度に移行すべきであり、それで足りると言う意見を次々回以降のコラムで書きます。
明治民法で観念的な家の制度を法定し戸主の扶養義務をセットとして法定し、大正〜昭和と来たのですが、この矛盾が大恐慌に始まり国民の困窮が頂点に達した戦中戦後に頂点に達したと言えるでしょうか?
この点については、政府による宣伝・教育を信じて「いざとなれば故郷の兄が面倒を見てくれる」と思って実家に仕送りして来た次男や三男あるいは嫁に行った娘達が、大恐慌による失業や米軍の空襲に焼け出されてふるさとに帰ってみると、実家ではこれを吸収する能力のないことが証明されてしまいました。
この辺のことについては、04/04/05「都市労働者の増加と家父長制の矛盾2(厄介の社会化1)女性の地位低下2」その他で何回か書いています。
こうした矛盾激化と戦後民主主義との総合結果として、敗戦直後に民法改正前の民法応急措置法が制定され、戦後改正民法のあるべき家族のあり方として両性の本質的平等・家の制度の廃止・戸主や家督相続性の廃止を定めました。
戸主=男子による一方的な財産管理権とセットになった扶養義務は否定され、夫婦相互協力義務に変化したのです。

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