核家族化と大家族制の創設1

戦国時代までのように多くの子供を産み育てる場合、信長が兄弟で戦ったことが知られていますし、そもそも古きを尋ねれば源平合戦の始まりである保元の乱が藤原氏の兄弟間の争いに端を発し、応仁の乱も畠山兄弟間の争いから起きたことですし、(上杉家の家督争いも有名です・・)兄弟間の相続争いが起きてくる率が高まります。
徳川家の場合家光の相続に関連して春日局の活躍で、長子相続がルール化され、これが各大名の世代交代の承認のルールにもなって行ったので、ひいては大名家家臣・武家の相続にも及んでいましたが、相続の承認制度のない庶民の相続形態は前回書いたとおり、実情に応じて様々のままでした。
明治政府としては、庶民に対して子沢山奨励策をとり、大きな家の制度を構想すると庶民にもその家の財産管理権とその相続のルールを国で決める必要が出て来たのです。
そこで、法(国家権力)で戸主の財産管理権(家督相続)を決めざるを得なくなり、戸主に財産権集中を決めたセットとして構成員に対する扶養義務も法定せざるを得なくなったと言えます。
ところで、明治時代に観念的大家族制が創設されたのは、子だくさんの実情に合わせて実際に大家族家庭が多くあったからではないかと思われ勝ちですが、大家族制・・・兄弟姉妹の家族まで実際に同居する大家族形態がこの時に始まったり、あるいはその前から続いていたのではありません。
むしろこの時に親族共同体が崩壊に向かいつつあったからこそ、(醇風美俗を守るために?)この制度が出来たとも言えます。
江戸時代でも二三男や嫁に行き損ねた女性などが、働きに出るところがないからと言って、全員無宿者として放り出されたのではなく居候としてそのまま居着いていた人が存在した・・親としては可愛い子供を(のたれ死に前提で)放逐するのは耐えられないことですから、養える限度まで努力していた筈です。
厄介については、04/02/05「夫婦別姓21(子沢山と家父長制の矛盾1)厄介者」のコラムで紹介しましたが、これが居候とか厄介者と言う熟語が残っているゆえんです。
この場合でも、ワンルームの掘っ立て小屋では成人した弟妹を抱えるのは無理ですから、一定規模以上の家に限られ、それでもせいぜい一人か二人に過ぎず、しかも彼らは結婚しませんので、1代限りで末広がりに大家族になることはなかった筈です。
厄介者を抱えるのはひと世代で懲り懲りですから、次の世代以降は一人っ子に成功する確率が高くなりますので、厄介者を抱えている所帯は一つのムラで1所帯あるかないかだったでしょう。

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