都市住民内格差5

話を1月29日の格差問題に戻しますと、地方出身者か否かよりは非正規雇用・底辺労働者かどうかによる外に、非正規雇用の場合に親(とその親)が大都市にマイホームを持っているかどうかによって、大きな格差が生じることが分ります。
非正規雇用(その他その日暮らしに近い)者でも、親の家から通える非正規雇用者等は月15〜20万円の収入殆ど全部を小遣いに使える(その気になれば貯蓄も出来る)上に、仮に職が途切れても親の家ですからどうってことがないのです。
千葉の田舎に類する八街市(千葉市から電車で40分くらい)郊外の分譲住宅に住む高齢者がいますが、息子の職が途切れたと言って帰って来ているので生活費がかさむと嘆いていました。
八街の郊外からでは、仕事に通うのがきついので職のあるときは船橋や市川方面でアパートを借りて生活していたのですが、職が途切れると家賃を払いきれないので親の家に帰って職探しをしているらしいのです。
早く職を見つけて、家を出て行って欲しいのが親の願望ですが、千葉県の場合、親の家に帰ってもそんなに遠くないので(毎日の通勤には遠すぎても職探しくらいは出来ますが、・・と言っても塗装工その他現場系ですが・・・もっと遠くなると(例えば青森や岩手の)実家に帰ると職探しすら出来なくなります。
この種現場系では遠距離からの求職活動は無理と思われていますが、実は弁護士でも同じで、地方で修習中の修習生は就職活動ではかなりの苦戦を強いられています。
実際の就職、求人現場ではメールだけでは相手にされないのが実態・・相応のコネや訪問等の活動が必要になっていますので、遠隔地からの就職面接を繰り返すための旅費だけでも大変なハンデイです。
何をするにも就職先の多い大都会とその周辺に住んでいる方が便利な時代です。
地方出身者や働き先の近くに親の家のない若者は、僅かな収入を家賃その他基礎的生活費に食われていて、日頃から苦しい生活が続いているので、職が途切れるとたちまち住む家さえ維持出来なくなるリスクがあります。
非正規雇用の問題点としては、非正規雇用全般に広げてボカスのではなく、出身地域別格差あるいは親世代がマイホームを持っているか否かによる格差が大き過ぎる点の是正策に着目すべきではないでしょうか?
非正規雇用でも過疎地や地方に豊富な職場があれば、親の家から通えるので地方の次世代も助かります。
とは言え、現在(多分将来もそうですが・・・)は地方に仕事がなくなる一方で、この傾向は変わらないと思われますので、地方に立派な親の家があってもその家に住めずに遠く離れた東京・大阪などに出て行かねばならず、出て行けば狭いアパート家賃を払うのにギリギリの貧窮状態に陥る点が問題です。
江戸時代には跡取りはそのまま親の家を相続して生活して行けたのですが、今は次男だけではなく長男や一人っ子まで都会流出しないと生きて行けない・・結局は地方にいたままでは生活費を稼げない時代です。
その上今では県庁在地でさえも脱出しないと、マトモな職業がなくなりつつあります。
「田舎は良いぞ!」式の地方分散居住の奨励・・国土の均衡ある発展論を私はこのコラムで繰り返し批判していますが、全国に散らばって住む形態は、農業社会に妥当していたに過ぎない事実を無視して、(過去・・農業社会に郷愁を抱いている個人の好みにとどめるべきで、政治目標として誘導すべきではありません)若者を誤導しているのは、時代錯誤の思想で無理があります。
宣伝に載せられてUターンしてしまった若者は、中高年になってみると子供の進学や就職などで困っているのではないでしょうか?

淘汰と自己規制

ちなみに、江戸時代の底辺労働者(都会流入者)はエリートでも若いうちは住み込みが原則で、自分で独立して住まいを借りられるようになるのは番頭などの上位者として残れた人に限られます。
結果的に高齢化してからだけでした・・一定の地位になって初めて部屋住みを脱しうる仕組みは、今の相撲部屋がその原形をとどめているでしょうか?
ちなみに、当時のフリーターは長屋住まい・・身元保証付きの正規被雇用者だけがお屋敷等に住み込み就職出来たので、住み込みの出来る使用人は、労働者中の一種のエリート・・今の大手企業就職者に類するエリートでした。
江戸時代の長屋住まいの場合、東海道中膝栗毛の主人公弥次郎兵衛・喜多八がその代表選手で、江戸に流入した人は生涯独身が原則(竃さえなかったと言われています)で、仮に男女一緒になっても子供を持てないのが普通でした。
今ではマイホームを持てない人でも子供を持っているので、少子化の再来と言っても貧しいから子を持てない極限の時代・・経済原理による淘汰の時代ではありません。
社会保障の充実した現在は子を持ちたければ持てるのですから、再生産したい願望のある人は実現出来る点では、江戸時代とはかなり様相が違っています。
庶民にとってお金がないからお酒を飲めない時代から、庶民でもみんながお酒くらいは浴びるほど飲める時代が来ると庶民にも自主規制・自律心がないとアル中になってしまいます。
社会保障が充実すると、経済原理による歯止めがなくなるので社会思想として子沢山が良いか悪いかの思想の軸を決めて社会教育して行かないと、(アル中やニコチン中毒者の増加みたいに)いくらでも子供が生まれてしまいます。
江戸時代では、長屋の八っつあん熊さんみたいな底辺層でも生まれて来た以上は、生きて行く権利があるとしても再生産するまでは行き過ぎ・・とする思想が確立していたのでしょう。
この思想では一生独身で終わるか結婚しても子孫まで残さないのが普通・・優れた種だけが子孫を残せてそれ以外は子孫を残さない・・・これが本来動物的世界では合理的なのかも知れません。
ケイバ馬では種牡馬になれるのはホンの一握りで、(牛だって豚だって皆同じで)これを実践しています。
これは人為的な例ですが、人為の加わらない自然界でも各種動物が交尾相手を一生懸命選ぶようになっているのは優れた種を残したいからであって、その本質は変わりません。
せっかく必死になって選ぶ仕組みになっているのに、大学全入みたいにどんな劣った種でも劣った同士で子孫を残せるのでは、自然の掟として相手を選ぶ仕組みにした意味がないので、オス(もメスも)は下層から一定割合まで子孫を残せないような仕組み・自然の掟になっている筈です。
選ばれた種牡馬だけが、あるいは女王蜂だけが子孫を残せてその他は子孫を残せない仕組みはその原理を可視的に実現している極致と言うべきでしょう。
一夫多妻制・・あるいは我が国古代の通い婚(実家の経済力のある貴族だけの合理性ですが・・・)の仕組みをこの原理の一場面としてみれば、男女平等の理念に反するかどうかは本来関係のない問題です。
ただし、この考えは、男女間の経済社会格差がない完全対等を前提としているので、実際には男女平等に反する結果になっていました。
より多くの女性が子を産むためではなく女性の経済的地位の脆弱性に基づき花魁の身請けや、愛人を囲うのは、(彼女らは子を産みません)その病理現象の最たるものですが、この種の関係が中心になっていた江戸中期以降を見れば男尊女卑・・両性の本質的平等に反することなります。
上記病理現象を捨象して雌雄対等の社会があるとした場合・・仮に上から順に結婚出来て一定レベル以下が男女ともに結婚出来ないのが本来の動物的姿であるとした場合、1対1では子を生めない筈の女子が、第2第3夫人としてならば子を産めるだけオスよりは有利な制度となります。
比喩的に数字化すれば、男女一万人ずつの社会でその内5000人ずつしか結婚出来ない社会構造の場合、一夫多妻制度・・通い婚があると女性だけ6〜7000人まで結婚・再生産に参加出来る有利な社会と言えるでしょうか?
一夫多妻性といってもすべてのオスが多妻であったのではなく、よほど経済力のあるエリートだけですから、(江戸時代では大名家だけだったでしょう)人口比ではほんのわずかです。
その実質は優秀なオスがより多くの子孫を残せるように、子を産む性の女性がより多く子を産むチャンスがあるようにした女性の特権でもあったでしょう。
上記の例で言えば、オスの種付け出来る数を上位5000人にとどめる自然原理があったとしても実際には6〜7000人分の子孫を確保出来ていることになっています。
人権・・いろんな権利の中でも子孫を残せるか否かは、すべて権利の上位にある(他の権利を犠牲にしても実現したいもの・・カマキリなどは交尾した後でメスに食べられてしまうほどですし、母親はすべてを犠牲にしても子を守ります)とすれば、女性の方がより多くのチャンスがあるシステムでは女性の方が優位な制度だったのです。
現在の一夫一婦制は、その実質は大学の全入制度と同じで、最末端までオスメスともに子孫を残せるシステムを前提にしているので男女平等になっている・・・機械的平等・・どんな劣った種でも子孫を残せる機会を保障しているに過ぎません。
これはオスだけはなく、メスもこの恩恵を受けていて、最下位近くのオスに至るまで結婚出来るようになった結果、自然界の掟に委ねれば結婚出来ない筈の最下位近くの女性もそれなりに相手を見つけられるようになって人口が膨張してしまったのです。
飲酒喫煙等が経済原理による歯止めがなくなったように、すべての分野で経済原理の歯止めが利かなくなってくると自律性が庶民にも必要な時代です。
ところで、「15の春を泣かせるな!」と言うキャンペインで字もマトモに読めなくとも高校に全員は入れる時代が続きましたが、最近ではその先送り現象で新聞すらマトモに読めなくとも大学に入れる時代・・大学全入時代が来つつあります。
高校の場合は入学後出席を取ってある程度厳しいので字もマトモに読めない子は中退して行きますが、大学は入学してしまえばノーチェック・・野放図なので全員卒業して行きます。
大卒と言うだけでは、全員がマトモな就職ができなくなるのは当然です。
マスコミでは、大卒の就職率の低下が報道されていますが、大卒のレベルが下がっていると言うか大衆化が進んでいる以上は、就職先も大衆化・・・レベルダウンしなければ、ミスマッチになるのは当然です。
形式的な格差否定社会が実現出来ても、個体の能力差がある事実は変わらないのですから、全入時代が来ると、大卒の肩書きが一定年齢を表す程度の意味しかなくなりつつあるのですから「大卒の就職率」と言う括り方がおかしいことになります。
大卒にこだわりたいならば、どこそこの大卒の就職率とその推移として公表すべきでしょう。
そうすれば、大学間競争が活発になります。
この数字が明らかになっている法科大学院の場合、数%しか司法試験合格率のない大学院は(学生も集まらないし・・)閉鎖に追い込まれる方向です。
種の維持に話題を戻しますと人間だけが自然界のルールを無視して・・(自己規律を求めず)子供も持てないのは可哀想式に種の劣化に任せていると、その内牛馬や豚鶏の方が優れた種になって人間が使われる時代が来る恐れも出てきます???
こんな風に話が発展して行くと格差社会が正しいとする意見の方に漂流して行きそうですが、今のところそこまでの結論・意識がなくマ、思いつきコラムですのでどこへ漂着するのか今のところ分りません。

都市住民内格差4

例えば非正規雇用・・・男性でも月額10数万から20万円前後の不安定職が増えて来ましたが、この場合、結婚出来ないまでも、都市住民2〜3世で親がマイホーム保有の場合には、親の家から働きに出ていけるので家賃や食費負担を全く負担しない人から、負担しても月額数万〜5〜6万円で済むのでその気になれば貯蓄も出来ます。
不安定職種のままで50〜60代になって親が死亡しても、前回コラム冒頭に書いたように、少子化の御陰でその家をほぼ単独相続出来るので住む家に困らないばかりか、普通はまとまった親の預貯金(老後資金を使い切る人は少ないでしょう)が入るので何の心配もありません。
地方出身の非正規雇用者・底辺労働者の場合は、大都会に出てくると直ぐに自分で住むところの確保・・家賃負担が必要な上に一人所帯なので、家計費としてかなりまとまった基礎支出をしなければなりませんから、無駄遣いしなくとも底辺労働・非正規雇用の収入では生活はきちきちです。
安定職でも地方から出て来た女子事務員、店員等年収数百万から500万以内では、独居生活は経済的にきついのでまとまった貯蓄をするのは難しいでしょう。
この状態でひとたび失業すると、たちまち住む家にも困る人が出るのは自然の成り行きです。
都市住民2〜3世と言っても、親世代が狭いアパート住まい(あるいは公営住宅)の場合、江戸時代の掘っ立て小屋の農民同様に成人した次世代と同居を続けられないので、直ぐに親の家を出て独立する必要がある点は地方出身者同様です。
都市住民2〜3世と言っても、若年底辺労働層では親の財力次第で二種類が出来ているのです。
地方出身者や大都市に親の家がない人は、非正規雇用から脱出しない限り・・永久的に一戸建てに類するマイホーム(物理的な家に限らず結婚して所帯を持つと言う意味でも)を持つ夢がなくなります。
非正規雇用者同士の結婚もあり・・結婚するとすればこれが普通ですが、その場合出産すると妻の収入がなくなるのが普通ですので、非正規雇用の夫単独収入では親の援助がないと家計を維持しきれなくなります。
現在行われている子供手当を少しくらい増額しても、夫が非正規雇用の場合、夫の収入だけでは到底足りないので貧困に苦しむ所帯が増えています。
この辺は、この後に紹介予定の一律生活費支給制度でも創設しない限り、非正規雇用者では子供を持つ夢の実現と貧困生活とのバーターになります。
(昨年2〜3月頃に一律生活費支給制度の原稿・・具体的イメージを書いている時には遅くとも、昨年5月頃には掲載予定として紹介しておきましたが、その後割り込み原稿が増えて先送る一方ですので、今年の5月に掲載出来るかどうかさえ今のところ見込みが立っていません。)
親が都市内にマイホームを持っていない場合、非正規雇用者等底辺層は所帯を持つどころか、職が途切れるとたちまち住む家さえ失いかねない脆弱さが問題です。
江戸時代には落語でよく出てくるように家賃滞納で年末には大家(管理人)との駆け引きがあったのですが、最近ではこれを嫌って家賃滞納者の留守中に強引に荷物を捨ててしまい、鍵を変えてしまう乱暴な大家が出て来て社会問題になっています。
これは一つには滞納者の増加(に業を煮やす大家が多くなったこと)の反作用・・家賃滞納者が増えている実態の反映と言えるでしょう。
この脆弱さこそ非正規雇用等の問題点であり、これに着目して昨年は年越派遣ムラに発展したのですが、マスコミの報道は彼らの脆弱な状態に注目させるには役に立ちましたが、派遣ムラが出来ただけで解決する問題ではありません。

都市住民内格差3

少子化が進んだ現在では子供が2人もいれば立派な方ですが、都市住民2〜3世で子供・兄弟が(少子化の結果)男女二人以下の場合、マイホームを保有している親が亡くなれば双方(配偶者)の親の家(遺産)をそれぞれ2分の1ずつ相続出来るので、自分で自宅をゼロから購入する必要がありません。
長寿化で親は長生きですので親の遺産相続は当面期待出来ないとしても、子供が30代頃になると親の親(祖父母)がちょうど亡くなる時期に来ているので、都市中心部の遺産を親が相続して処分してお金のはいった(まとまった退職金が入り年金もあって金の使い道のない)親からマイホーム資金を出して貰えるなどで、結果的に都市住民3世は得をしています。
これをスムースにするために、11/07/03「相続税法 5 (相続時精算課税適用者とは)」で解説したことがありますが、ここ10年ばかり前から生前贈与税の軽減政策が繰り返されて(今年度予算案でもこの点の拡充が報道されて)いるのです。
地方出身者に限らず都市住民2〜3世の中でも親・祖父母がマイホームその他まとまった資産を持っている(こういう親は年金も潤沢です)場合と、代々アパート(借家)住まいかによる格差が生じつつあります。
ただし、一定以上の安定就職の場合、今でも結婚すれば親の家があってもマンションを買ったり借りたりして自立するのが普通ですので、都市住民2〜3世と地方出身者とでは大した格差になりません。
親がしっかりしていれば親からマイホーム取得時に相当額の援助を受けられるのは、地方出身者でも同じと言えないこともありませんが、比率で言えば地方の方が資金力の高い人が少ない筈です。
例えば自営業者を見れば分りますが、50年前に同じ規模の年商の商店や開業医・薬局・飲食業・建築業者等がいたとした場合、人口がじりじりと減少して行って半分になって行った地域に立地していた業者と人口が2倍になった地域の業者とでは、(個人差があるとしても大方の傾向の話です)50年後の盛衰が明らかです。
サラリーマンでも同じで、成功した大企業ほど本社を大都市に立地する傾向があるので、本社部門勤務者が大都市に住んでいる率が高くなります。
このように、これからも人口が集まってくる首都圏と人口が減って行く一方の地方都市住民とでは、親の資力にも原則として差があることになります。
とは言え、弁護士や医師のような特殊職業(これもこれから怪しいですが・・・)の場合、親からマイホーム取得資金の援助などあってもなくても、自分自身の収入が多いので結果的に殆ど関係がありません。
このように若者自身の所得が高ければ親の資力差は問題が少ないのですが、所得が低くなるに連れて親から援助の有無による格差が大きくなって来ますので、エンゲル係数の高い底辺労働・非正規雇用者が増えてくると親の資力差が放置出来ない社会不正義になって来ます。
高度成長期にも集団就職で地方から(今よりも)大量に出て来ていたのですが、高度成長期には安定職業に就く人が多く、結果的に自前で何とかマイホームを入手出来る人が多かった(・・これに対応するために昭和30年代末から住宅ローンが発達しましたし、郊外住宅地開発が進みました)ので、その格差は乗り越え可能だったので社会問題にする必要がなかったとも言えます。
その上、当時は都市住民2〜3世も兄弟が多い時代で、親が長寿化し始めたときでしたから、結婚後も親の家に同居する人は皆無に近く、自分で独立してアパート等に住み最後はマイホームを入手する必要があった点は地方出身者と同じでした。
まして子供が4〜5人の時代でしたので親からの一人当たり援助も知れていました。
戦中戦後は食料不足時代の結果、戦争で良い思いをしたのは農民だけで、しかも戦後の農地解放で生産性や収入も増えて引き続き急激に豊かになった時代でした。
私の知っている限りでは小さな家を大きな家に立て替えたり新宅と言って次男用に立派な家を建てるうちもあって、(建築ラッシュでした)地方が豊かな時代でもあったのに対して、東京などは焼け野が原でゼロからの出発だったので、むしろ地方が豊か時代でした。
都市では、高度成長期に入っても漸くバラックを建て替えるところで、まだまだ蓄積した経済力は農家の方が大きい時代でした。
私は池袋で高校・大学と過ごしましたが、高校時代の友人の多くは池袋近辺の生家から出て、郊外にマイホームを得て転出して行きましたので通っていた高校周辺にそのまま住んでいる人はごく少数です。
何時の時代・・高度成長期にも日雇い労務者等不安定底辺労働者はいたことはいたのですが、低成長期に入ってしかも人余りで非正規雇用・・不安定職業に就く人の比率が上がって来たことで、放置出来ない社会問題になって来たと言えます。

 都市住民内格差2

消費者物価のデフレは現役の適応能力差よりは既得権価値(高齢者の預貯金保護)の保護向きですから、中間層以下の階層固定化に結びつき易いでしょう。
ここから、昨年末からの関心である中間層以下の都市住民内の格差問題(親世代の資産有無・多少による格差)に話題が戻って行きます。
マスコミは都市集中=悪を前提として如何に田舎は住みやすいかを長年宣伝し、たまにUターンがあるといかにも良いこと出るように宣伝し続けていますが、(農業の人口吸収力が減少し続ける以上は)首都圏その他の大都会への集中が今後も結果として進む一方でしょう。
これまで何回も書いていますが、長かった農業社会でこそ散らばって住む必要があったに過ぎないからです。
その他の産業の場合、むしろ集住の方がメリットが大きいので、マスコミがどう宣伝しようと自ずから都市集中が進む筈です。
親の家から大都会の雇用先あるいは大学等へ通えない地域に住んでいる若者にとっては、今後も都会に出て行って進学したり、働くしかないので、就労チャンスの少ない(まだ過疎地とは言わない)地方都市の親の家・資産を相続するメリットが少ない、明治維新から現在に至るまでと同じ意識傾向が今後も続くでしょう。
低成長時代になったと言っても、地方出身者・大都市住民一世にとっては(意識は都会人よりも古くて共同体尊重意識が強いのですが)明治以降から高度成長期までの地方脱出組と同様に今後も地方脱出するしかないので、(地方居住者が皆無になるまで)身体・現実の方では親離れ・・マイナス意識・・相続財産の有り難みが薄れて行く一方の状態がこれからも続いて行くことになります。
高度成長期前後までは地方脱出者は農村出身が中心でしたが、平成に入ってからは地方都市出身に入れ替わりつつあります。
昨年末に電車で一緒になった知人(70歳過ぎですが・・・)がある地方・・山口県と言っていましたが・・・の元は造り酒屋だったらしく遺産を相続したらしいですが、農地や山林などどうにもならないので困っていました。
彼としては先祖の家屋敷くらいは固定資産税を払ってでも相続し守って行くしかないが、その他の膨大な農地山林はいらない・・どこにあるかもよく分らないのに税ばかりかかるのは納得出来ないので、市役所に相談に行って来たがどうにもならないと言っていました。
この人に限らず、地方都市で元何かの事業をしていて今は廃業していて使用していないコンクリート製ビル・工場等を持っている(資産家の)親が亡くなった場合、東京にいる息子がこれを相続すると、取り壊す勇気もなくずるずると維持しがちですが、その内地方都市も過疎化が進んで地価が下がり続けて坪3〜5万円でも売れなくなってくると取り壊し費用の方が高い時代が来る可能性があります。
前記の人には「寄付でもするしかないでしょう」と答えておきましたが、(詳しくは書きませんが、市が寄付を受けるにはそれなりの基準があります)首都圏に住んでいて一定の生活をしている人にとっては、地方にある遺産はお荷物・・義務感で承継する・・マイナス資産(造り酒屋の立派な家屋敷も壊す訳にも行かないものの、どうして良いか分らないのですが、彼は何とか維持するとしてもその次の世代になると???となるでしょう)に過ぎないものになっています。
高度成長期に生活様式が激しく変わり、火鉢・提灯その他旧時代の家庭用品が次々と不要になって縁側の下などに置いてありましたが、(直ぐに捨てるには忍びなかったのでしょう)一般に靴であれ洋服であれ、使わなくなったのに保管していても時間の経過で結局は捨てるしかないことが多いものです。
郷里の家も、火鉢に比べて取り壊すまでの期間の長短はあれ、同じ運命を辿るしかない筈です。
火鉢や古いストーブその他家財道具を捨てるくらいは大した問題ではありませんが、家になってくると取り壊すだけでまとまったお金がかかり、都会に出た次世代にとっては大きなマイナス資産となります。
お荷物と言えば、年老いた親が遠く離れた地方に残っていること自体大きなマイナス心理負担でしょう。
都市住民2〜3世は大学〜就職直後も(結婚までは)親元から通えるので経済負担が少ないのに比べて、地方から出て来た人たちは自前で大都会のアパートを借りたりしなければならず、地方出身者は分が悪くて気の毒です。
以下は、この気の毒な感情・・論理的ではないかも知れませんが・・・に基づいて書いて行きます。

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