成長・停滞と出産1

維新以降は、江戸時代と違い都市労働者としての働き口が出来たので、成人すれば病人等以外は外に出てしまう・・明治に入って30年も経過する頃には大家族化どころか逆に都会定着によって郷里との縁が遠くなる核家族化が進展し始めて・・親族共同体意識の崩壊が進み始めていたことになります。
しかも、出先で知り合った人との結婚が進むと、地域に根ざした親族血縁意識も崩壊し始めます。
親族・地域共同体意識崩壊が始まってから実態に反した制度が出来たとすれば、民法典論争(「民法出(いで)て忠孝滅ぶ」のスローガンでした)で紹介したように共同体崩壊・・意識の変化を食い止めようとする勢力による反撃の成果であったと言えるでしょう。
民法典論争については、06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)」以下で紹介しました。
明治維新以降平成バブル期までは、(親の長寿化にあわせて長男夫婦までが新居を構える)核家族化が一直線に進行して行った過程であったとも言えるし、見方によれば子沢山時代だったので一家が分裂して行くしかなかった時代であったと言えます。
逆から言えばいくらでも分裂して行ける環境があったので多くの家庭で子沢山になった(政府による誘導だけではなく自発的だった)とも言えます。
何回も書きますが、二条城の黒書院のような大規模な家は生活の場としては存在せず、屋敷地としては広くとも庄屋クラスでも一つの住居用建物としては、数十坪あれば良い方の狭い生活でしたから、(一般農民の家は10坪前後のワンルームが普通でした)一つ屋根の下で生活出来る人数は限られます。
いつの時代にも一つ釜の飯を食い、生計を一にするのは親子直系だけで構成するのが原則で、新田開発や領土拡張その他景気が良ければ分家(家の制度で言う分家ではなくここでは、独立家庭を作る・枝分かれと言う意味です)して行けるし、社会が静止・停滞してしまうと分家・独立出来ないので子供は2人以内・・現状維持しかないのですが、誤って多く生まれたり嫁や婿に行き損ねると居候や厄介として傍系がぶら下がる例外的状態になると言えます。
江戸時代中期以降は経済成長が止まってしまったので、家族が分裂・独立出来なくなってしまいましたから、直系だけで次代に繋いで行く社会・・すなわち2人以上子を生み育てるのはリスクのある時代でした。
人口調節に失敗した例外的ぶら下がりが起きると庶民では都会へ放逐して無宿者にしていたのですが、明治以降は働き口が多く出来たので再び2人以上生み育てるのが普通になり、しかもぶら下がりが影を潜めた結果、核家族化が進んだに過ぎません。
ただ、都会への放出による核家族化は次男以下の別居になっただけでしたが、高度成長期以降は農林漁業がた産業に比べて収入が伸びなかったことから、地方では過疎化が進み長男も都会に出てしまう傾向が始まり、老人が取り残されるようになりました。
他方で、前回書いたように長寿化の進展が都会地でも長男夫婦と両親との別居をもたらし、核家族化の完成になったと言えます。
同一生活圏にありながら長男夫婦の別居が始まったのは、長寿化が大きな要因ですが、それだけではなく経済の成長があったればこそです。
非正規雇用が増えて来た昨今では、再び3世代同居が増えつつありますから成長社会では次世代が家を飛び出しやすく、停滞社会では家を出にくくなるので、成長・停滞は核家族化と出産数にとって重要な基準と言えるでしょう。

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