対外強行主義の限界1

国境の壁をなくすと自国立地の不利=人件費その他総合コスト高を嫌って,アメリカ系企業まで皆自国を棄ててメキシコへ工場移転していました。
これに対してトランプ氏が反発して企業には35%の関税をかけると脅したのです。
自国内企業が高コストでもメキシコ立地企業と競争出来るようにするには,相手国の貧困を理由に批判するのではなく相手国も豊かにしてやって同じ「高コスト体質」同レベルで来競争したらどうなるかのテーマをきっちり考えるべきことです。
アメリカの伝統的中南米政策は「相手を搾取し尽くして窮乏化に追い込んだまま究極の貧困状態で物事を考えらないほど追いつめて絶対に立ち上がれないようにする」ものでした。
モンロー宣言はこれを確かなものするためのもの・・囚われの「南北アメリカ大陸に口出しするな」と言うものだったように見えます。
新興国の各競争力に戻りますと,公園・・駅舎や道路工場設備も貧弱であるなどインフラコストがかかっていない・・人件費も何十分の1と安い分に比例して割安に物を作れますが,(その代わり技術レベルが低いので粗悪品が多い)それは一時のことです。
新興国が成長軌道に乗るとインフラが充実して来て(職場にも空調が効くようになり)負担経費がいるし,人件費も上がる・・私が年来書いている世界平準化が進みます。
国際平準化の流れについては,02/21/07「生活水準の国際平準化14と格差社会5(キャピタルゲイン2)」その他で繰り返し書き、平準化進行後の世界については,October 15, 2012「世界平準化後の世界ランキング6(民度2)」まで書いたことがあります。
賃金も上がる→今の中国のように賃金アップ(中進国の罠)で苦しむようになって大きな貿易黒字がなくなって行くのが普通ですから、不公正だ何だと言わずに自然の流れに委ねてその帰趨に任せれば良いことです。
このシリーズで書いているように、市場原理に委ねれば民度レベルまでしか給与やインフラレベルを上げられない・・これが正常な姿です。
自国民の給与・所得水準を上げたければ、民度を上げて行く努力しかありません。
先進国は産業革命の先行者利益の結果実力以上の所得水準を謳歌していたのですが、産業革命の成果が新興国にも及ぶようになるとメッキがはがれて行くのは当然で,将来的には自らの民度レベルに下がるのは仕方のないことです。
ラーメン屋で言えば,味付け能力が低くともラーメンにトウモロコシを乗せるアイデアだけで売上を伸ばすことは可能ですが、それは一時のことで,トウモロコシを乗せる方法が普及すると元々味付けの良い同業者に負けてしまいます。
スーパーダイエーはスーパー方式で先行しましたが,同業者が増えると販売能力の高い方に淘汰されました。
東南アジアや中国の安い人件費に目を付けて先行進出し大成功していた中堅家電メーカーがありましたが,その後実力のある大手が進出するとすぐに負けてしまいました。
いろいろな事例を見ると技術などの実力がなくて目先が利く程度では,一時的に大当たりしても中長期的には結局実力の限界で落ち着くしかないのです。
アメリカの民度は出身地の西洋諸国に比べてかなり低い・低レベル層が基礎集団と言う基本理解でこのシリーズでは書いていますが・・これを前提にすると、将来的には西洋平均以下の生活水準+資源販売益レベルに落として行くしかないと観念すべきです。
日中その他相手の場合には,関税以外の不公正慣行がどうのと言う言いがかりをして来ましたが,不公正と言う言いがかりをつけられない・・何の障壁もない国内同様の物流が実現しているNAFTA相手ではそれが通用しません。
そこで已むなく自国の雇用を守れと言うしかなくなった・・遂に本音が出たと言うべきでしょう。  
昨日書いたように輸入規制でホンの一時的に息をついても、外資が国内生産に参加すると一定期間経過で実力のない民族資本が負け始めるのが目に見えていますので,その内相手国に一定数以上の輸入受け入れを強要するしかなくなります。
政権発足当初に設定した輸出規制・・クルマの例で言えば、アメリカの輸出受入れ台数以上の輸出を相手国に認めない(たとえばフォード車を1万台以上輸入しないと日本から1万台以上の輸出を認めない場合)と強制的に決めさせていた場合、数年後にアメリカが輸出台数を増やすには,同数の輸入枠拡大を認めるしかなくなります。
結果的に同数を輸入するしかないならば,国内需要以上の生産が出来ないことは同じですから、国内生産を結局は国内需要以上に増やせない点は同じです。
まして特定品目別ではなく総額交渉の場合(貿易赤字を問題視するならば,これが普通の交渉でしょう)、日本が米国から食料品や燃料等を輸入すると,その分クルマ等工業製品の輸入を強制される量が減少します。
フォードの頼るピックアップトラックで言えば,トヨタもアメリカ国内で生産を始めると,結局は競争力・生産効率の差になって行くので,多分短期間でフォードの販売数が減って行くでしょうから、政商的利権で(日経新聞の推測記事の真偽不明ですがそのパターンで)動くフォードの栄華はそれまでの短期間になります。
トランプ氏の輸出入規制を煽る過激言動は一見目覚ましいように見えるものの、アメリカの信用を傷つける割に実はアメリカのビッグスリーにとって大した効果を生まないことが明らかです。
昨日紹介したように35%のトランプ以上の過激規制・・ビッグスリーの要請に答えて日本製クルマ輸入に100%課税の脅しを掲げたクリントン政権は,結果的にビッグスリーのアメリカ国内シェアーを落として終わったのですが,メキシコから国内回帰強制してもビッグスリーが現地生産の進んでいる日系その他海外勢に勝てるようにルトは思えません。
このままで放置ではオバマ政権と同じですから,国内でも自由競争による淘汰を認めずに(移民排斥同様に)民族資本かどうかで差別する方向に行くしかないのでしょうか?
こうなって来ると自由主義や人権思想の適用を国内外で分ける欧米の二重基準の人権思想の御都合主義の矛盾が国内でも起きて来ます。
中国が外資を導入しながら他方で何かと嫌がらせするのと、どう言う違いがあるのか分らない・・中国レベル以上の恣意的基準・・専制政治をしたいと言う意思がはっきりして来ます。
1月17日のダボス会議で世界一の横暴・恣意的政治をして世界からひんしゅくを買っている中国の習近平が、アメリカを名指ししないものの保護主義批判演説をしたので世界中が驚きました。
報道印象では「お前に言われたくない」と言う基本姿勢でしたが、私はそうは思いません・・まさに時代の変化・・アメリカが中国以上の恣意的政治に入ろうとしている危険を象徴していました。
中国でさえ霞んでしまうほどの恣意的・強引政治出現に,専制支配ナンバーワンの地位をアメリカに奪われるのが許せないと言う意味だったのでしょうか?
ウエストファーリア条約のシリーズで欧米の内外・人種や宗教で人権基準を分ける矛盾をこのコラムで書いて来ましたが、最も民度の低いアメリカで真っ先に露呈し始めると思われます。
私は安倍政権の外交が成功していることは認めますが,アメリカの価値観は表向きとは別に実質は無法者価値観・こん棒外交であるから、これと一緒は困る・・価値観外交は方便として利用する範囲だであるから、あまり言うと危険だと言う趣旨の意見を書いたことがありますが,こんなに早く本音を露骨に出して来る時代が来るとは思いませんでした。

重商主義政策と植民地争奪戦3(フランス革命2)

中世の農業+キリスト教ミックス秩序からルネッサンスを経てスペイン〜オランダ・新教の発展・宗教戦争の世紀を経て、宗教と切り離した合理主義・重商主義を基本にする世界秩序再編成の動きが,いわゆる英仏第二次百年戦争であったと思われます。
宗教からの切り離し・合理主義精神の進展度合いで見ると,イギリスがキリスト教の影響が薄かったことから,徹底化できたのに対し,フランスが半端であったところが,勝敗を分けたと言えます。
結果から見ると,合理主義と味覚音痴・・芸術・文化能力と反比例する・・仕方がないのかも知れません。
以下英仏第二次百年戦争と言う長期スパンで見直してみましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1002-032.htmlによると英仏第二次百年戦争は,1815年のナポレオン戦争終結時までとされています。
「17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争を開始し、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開、さらにそれはヨーロッパでのスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などの戦争と連動していた。 インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどが戦われた。インドでの戦闘は最終的にはイギリスが勝利を占め、新大陸でもアン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争の結果、やはりイギリスの優位のうちに終わった。」
「 第2次百年戦争とは、1689年のウィリアム戦争から始まった、イギリスとフランスの植民地(主にアメリカ大陸とインド)における勢力拡大の争いと、ヨーロッパにおける利害の対立が結びついた戦争で、ナポレオン戦争でイギリスが勝利した1815年までをいう。」
「1775年にアメリカ独立戦争が起こった。フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・セネガルを獲得した。しかし、長期にわたる英仏の抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。このように、英仏両国の植民地抗争は、両国に大きな影を落としている。」
英仏植民地争奪戦争とアメリカ独立戦争の関係,フランス革命については日本の学校教育ではそれぞれ別々の内政理由で自然発生的に起きたかのような羅列的説明をしています。
(私だけそのように誤解して来たのかも知れませんが・・)
植民地争奪では英仏7年戦争をクライマックスとしてあらかた勝敗がついたことも別の流れ教えられますが,これらは時間的に繋がっていて植民地争奪の勝敗があらかたついた直後にフランスによるアメリカ植民地人への不満たき付け・・内部不和の働きかけで宿敵イギリスの力を殺ぐ工作が行なわれ成功した結果アメリカの反乱・・独立運動が起きたと見るべきです。
上記記事では,フランスはアメリカ独立戦争に直ぐには参戦しないで情勢を見ていたとありますが,アメリカが対日宣戦布告しないで,裏で蒋介石や共産党軍を応援していてその後正面から日本叩きに転じたのとやり方は同じです。
人権などを煽った手前反乱軍側が勝ってもう一度「自分に支配させろ」とは言えずお祝いとして「女神の像」を送って終わりになりました。
独立戦争参加では膨大な戦費を使ったでしょうが、何の戦利品もなかったことになります。
この財政負担が次のフランス革命の直接の原因になります。
年末30日に書いたように産業革命で遅れていたフランスは国際競争力で劣っていたので,アメリカの独立に協力した「恩着せ」だけはアメリカ市場に食い込めません。
この辺は,ナポレオンの大陸大陸封鎖令が失敗した原因と同じです。
フランス革命はアメリカでのフランスの工作に対するイギリスの仕返し・・裏での撹乱工作があったと(私の独断推測です・素人は無責任で気楽です)見るべきでしょう。
今で言えばウクライナ危機の結果,仮に数年内にロシアで政変や内戦が起きて直ぐにアメリカ軍が介入した場合,アメリカの画策を疑うのが普通ですし,ロシアの政変だけ独立に勉強しても意味がないことが分るでしょう。
フランスの本当の敵はイギリスなので,革命の混乱後ナポレオンは大陸を制圧すると大陸封鎖令(イギリスのアメリカ大陸へのフランス製品輸入禁止の仕返し?)を何回か発してイギリス封じをするのですが,最後はナポレオンの敗退で終わります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「大陸封鎖令(たいりくふうされい)は、フランス帝国とその同盟国の支配者になった「ナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令(le décret de Berlin)とも呼ぶ。」
大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。この封鎖はある程度の成功を見たが、その同盟国は恩恵を受けることができず、不満や不平がのし掛かっていくこととなった。」
ブルボン王家は,30年戦争で大金を使ったのに何の得るところもなくおわって植民地を失い,その後更にアメリカ独立運動を画策し参戦したのですが、独立を助けたものの経済的に得るものが皆無だったので却って財政逼迫してしまいました。
フランス革命は,財政赤字穴埋め・・増税のために1788年7月の三部会招集に始まりますから,一見アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)終結後5年もたっているようですが,フランスは30年戦争による財政赤字穴埋めのためにアメリカの独立戦争開始の前年74年には財政改革に乗り出しています。
この改革がうまく行かないで30年戦争だけでも大変な状態になっていた・戦争に事実上負けたのでイギリス以上の財政逼迫であった・・「自分のアタマの蠅も追えない」のに同時に独立戦争に肩入れ(援助)して独立させる成果を上げたのが命取りになったと見るべきでしょう。
プーチンが,原油・資源安による財政難を誤摩化すために、クリミヤやシリアで果敢な行動をして国民や世間の不満をそらしていますが,苦しいときの逆張り財政負担が中期的には彼の足を引っ張ることになると思われます。
基礎状態の改善は社会構造変革が必要で難しいのですが,地域大国が周辺の弱い国相手の恫喝外交は圧倒的戦力投入すれば間違いなく短期的成果が出ます。
ただ,赤ちゃんお腹が痛くて泣いているときにガラガラっと音を出して気を引いても一時的でしかないと同じで,基礎体力・経済に無理があって国民が苦しいままであるときには,(国民は熱しやすく冷めやすい・・)次々と冒険行為を続ける必要があります。
今は超大国アメリカがいるので,ナチスのように際限ない侵略・膨張を続けることは出来ないでしょうから、トランプ氏登場によってプーチンの対外勇ましい行動も終わりでしょうし,中国の海洋膨張も歯止めを掛けるしかないでしょう。
中ロ共に手詰まりになって誤摩化しがきかなくなって・・いつかは経済状態ありのママになるしかない・・国民不満が再自覚される・赤ちゃんがまた泣き出すのと同じで胡麻かしていた分だけエネルギーが高まります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「1780年代、フランスでは45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。
そこで国王ルイ16世は1774年ジャック・テュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任する。
ルイ16世は次に銀行家ネッケルを財務長官に任命した。ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善をめざしたが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免された」

重商主義政策と植民地争奪戦2

重商主義と戦争に戻しますと,絶対王政とリンクしていた重商主義を今風に言い直せば,グローバリズムですが、彼らにとっては市場の最大化が最大の関心事でしょう。
重商主義の端的な現れがイギリス政府と結びついた東インド会社・・国策会社の役割です。
重商主義政策=武力による市場獲得競争が始まり,イギリスは最初スペイン無敵艦隊を破った後はオランダ(東インド会社)との競争でしたが,後発の強みで運営方法の合理化と背後の国力相違でオランダを徐々に凌ぎ,アメリカではニューヨ−クを手に入れた後は主にフランス相手に世界中で戦って来ました。
いわゆる7年戦争は,欧州大陸でのオーストリアとプロイセンの争闘を軸にして諸国が入り乱れた(狭い都の中だけで戦っているうちに地方に波及してしまった)応仁の乱のような戦争で、派生的に世界中の植民地・あるいは出先で戦争が行なわれたので多面的展開になります。
ナポレオン戦争やナチスは同じく大陸限定戦争だったので、最後はイギリスの世界展開に負けた歴史の繰り返しになります。
ロシアとの関係で言えば,7年戦争でロシアの帰趨が大きな影響を持っていた点も,ナポレンやヒットラーに共通です。
日本の地方に当たる海外植民地の勝敗が,逆に本拠地の勝敗に影響し結果的に英国の政界支配になった・・日本でも地方を支配下に納めて攻め上った信長・秀吉〜家康の天下になるのと結果は同じです。
フランスは地続きの関係で?大陸での戦争に主たるエネルギーを注いでいたのに対してイギリスは元々海洋国である上に宿敵フランスの勢力を殺ぐのが目的ですから,付き合い程度の関与しかしない・・火事場泥棒的に主力を植民地獲得戦争に注いでいました。
この違いが主戦場であった大陸での陸戦では孤立していたプロイセンが終始圧されっぱなしであった原因ですが,1762年1月にロシアのエリザヴェータ女帝が急死し、フリードリッヒ2世の信奉者であるロシアのピョートル3世が即位して一方的にオーストリア側から戦線離脱・・単独講和します。
大陸の戦争中にイギリスが制海権を握った結果,フランスがアメリカやインドで植民地を失う結果になりオーストリア・フランス連合側が苦しくなって息も絶え絶えのプロイセンが九死に一生を得て、和議になりました。
大陸では戦争の発端になった,シュレジアが結局プロセインのものとなって,オーストリアは何のために包囲網を敷いて戦争を始めか意味不明の結果・勝敗のはっきりしない玉虫色のパリ条約になっていたことになります。
仏墺は何も得るところがなく,特に仏は膨大な国費を費やした挙げ句に英国と競合していた植民地は殆ど英国に取られてしまった結果で終わりました。
これを英仏関係で見ると,第二次英仏百年戦争の中の1コマと言われるものです。
英仏(第二次百年)戦争終結直前の英仏7年戦争ではアメリカ植民地の人にとっては、それぞれのコミュニテイを守る必要・・古代の都市国家同様に必死ですから,自ら銃を取り、戦費を拠出するのも厭わなかったでしょう(独立戦争の英雄ワシントンが先頭切ってフランス軍と戦って言います・・)が,英国が対仏植民地戦争に勝ってしまい,攻めて来るフランス軍がいなくなった後になると、イギリスハ折角勝ったからと,植民地囲い込みを始める・・仏蘭からの輸入禁止政策に反発が起きて来ます。
オランダやフランスのお茶の方がロンドン経由のお茶より安かったのに戦争で勝った勢いで輸入禁止したことが植民地人の不満の発端でした。
ナポレオンの大陸封鎖令が大陸諸国の支持を得らなかったのと原理は同じです。
財政的視点で見れば,1773年のボストン茶会事件はフランス同様にイギリスが英仏7年戦争に費やした財政赤字穴埋めのために、課税努力したことに始まります。(フランスが植民地にではなく本国で戦後課税強化したのがフランス革命になったのと原理は共通です)
植民地争奪戦争が63年パリ条約でイギリスの完勝?に終わったので,この果実を得る権利がある・・勝った方の英国も膨大な戦費を使っているので,その穴埋めのために仏蘭からの輸入禁止やパリ条約直後の65年には印紙課税をしますが、これは猛烈な反発の結果3ヶ月で廃止になっています。
一方でお茶の輸入を東インド会社の独占にしました。
植民地の人が折角対仏戦争に協力して勝てたのに,(その結果割高なフランス製を買わなくて良くなっただけならば協力した甲斐がありますが,)東インド会社に対する恩賞として(抱き合わせで)フランスに競争で負けていた割高なイギリス製のお茶を強制されるようになるのでは、戦争に協力した意味がありません。
王様の戦争に市民が資金を出すのがイヤで革命になった経験があるので、イギリスは本国で課税せずに植民地課税になった上に戦争に協力した東インド会社に対する恩賞が必要だったのです
インドその他植民地では現地人が弱いので,強引な苛斂誅求が可能だったので,アメリカでもこれをやったのが失敗でした。
ロンドン経由のお茶は高過ぎたので,フランス、オランダ系の安い茶は密輸に頼ることになったことが元々の感情的対立の始まりでしたが,この取締がうまく行かないので(安いものの禁輸は無理があります),お茶に税金をかけることにしたことが事件の発端と言われています。
私個人の意見では,イギリスは工業製品では優位性を持っていたでしょうが,味音痴のイギリスが,嗜好品であるお茶の独占を図ったところに無理があったと思います。
アメリカ植民地にもフランス系やオランダ系がいますから、少しは味の分る人がいたことが不評をかったという見立てです。
元々ニューヨークはオランダ人の町です。
武力背景の輸入禁止から始めて、取締がうまく行かないからと間接税に切り替えたので大事件に発展してしまったのですが,間接税から始めていれば目立たなかったようにも思いますが,65年の印紙税で失敗しているのでそうとも言い切れないかも知れません。
当時関税制度が今ほどきめ細かくなかった・機能していなかったことが、強引な輸入禁止から始めた原因でしょうか?
関税の歴史は関所の発達から分るように古代からどこでもあるものですが,徴収方法は関所を設けて[木戸銭として)物理的に取り立てることから始まっています。
密輸=木戸破り・・武力摘発になりますので,これでは目立ち過ぎます。
この数十年の経済封鎖制度は、物理的封鎖ではなく,金融取引禁止でイランや北朝鮮,ロシアを締め上げるやり方が、効力を発揮しています。
アメリカが武力を使わなくとも,世界の銀行がアメリカでの金融取引停止になるのが怖いのでイラン原油取引に関する国際送金や輸出信用状発行が出来ない・・事実上取引停止状態になっていました。
北朝鮮の場合経済規模が小さいので,高額紙幣自体の密輸で何となっていますが,(日本のヤクザもアメリカに指定されると銀行口座を利用出来な・・ケイタイ1つ自分の名で持てないので,日常生活が非常に厳しくなっています)高額紙幣発行が減って行くとこの種の抜け穴も小さくなる一方です。
直接的な輸入禁止・・海上臨検・・機雷による港湾封鎖などの武力行使をしていませんが、間接的な方が密輸取締より効果が高い・・分り難いものです。
中国も武力でいくら威張っても国際金融取引停止の方が怖いので,人民元相場維持に必死になっている所以です。
外貨準備は金その他の組み合わせで内容不明・・政府発表次第なので正確には分りませんが,アメリカ国債保有額は,アメリカ政府発表なので保有額そのものを中国が誤摩化せません。
人民元急落の恐怖から人民元買い支えのために昨年1年間でほぼ1400億ドル相当の外貨準備が減ったと言われています・・昨年末頃に米政府発表・10月末頃の統計では,米国債保有額が日本よりも少なくなっています。
独立革命に戻りますと,一旦港湾封鎖・・ニューヨーク港へ仏、蘭等の船が入れないようにしても密輸を防ぎ切れなかった結果、間接・・物品税への切り替えですから,目立ってしまったと思われます。
本国では無税なのに,植民地だけ物品税がかかるのは不公平と言うところから騒ぎが大きくなりました。
この騒動には,フランスで発達した人権思想(と言っても西洋人の間だけの自由平等思想で黒人奴隷制が矛盾しないことから分るように、北米以外の植民地では構わなかったのです)が大きな影響を与えたと言われますが,要は、フランスやオランダが北米の植民地を失った敗者復活戦だったと見るべきでしょう。
これが,「代表なければ課税なし」のスロ−ガンになったのですが,アメリカ独立(革命)戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)を裏で仕掛けたのは、植民地戦争敗退し、しかもお茶その他の禁輸に反発するオランダやフランスだったと思われます。
学校歴史では、7年戦争やインド・ムガール帝国の没落、フレンチインデアン戦争などバラバラに教えた挙げ句にイキナリ人権思想紹介からアメリカ独立戦争の歴史,全く別個にフランス革命の紹介とバラバラ過ぎる説明が原因で分り難くしていると思います。
国際政治については,バラバラ理解ではなく、国際社会全体関連で理解すべきです。

重商主義政策と植民地争奪戦1

今日から、年末のシリ−ズの続きに戻ります。
今年は母校が何十年ぶりか・・あるいは史上初?で箱根駅伝に出られない年となって例年と違い,正月2日は手持ち無沙汰です。
そこで今日は正月早々家族で上野の国立博物館に出掛けて国宝級の逸品見学の予定となりました。
今年は[長谷川等伯」の松林屏風図が目玉らしいです。
昭和50年代半ば頃に小さな子供らを引き連れて智積院の宝物館で等伯の作品を見学していると「もっと良いのがある」と係の人が奥の部屋に案内してくれて、秘蔵している等伯の息子の作品を見せられて素晴らしいので感激したことがあります。
周知のとおり等伯の息子は等伯よりも更に才能が見込まれていたのに夭逝してしまった惜しい人材でした。
当時家族旅行が少なかったこともあって、?行く先々で大事にされたのも良い思い出です。
昭和56年秋に東大寺の3月堂だったかで家族で土間に座って拝観しているとタマタマ高僧らしい方が,欧米人学者らしい人を案内して入って来たことがあります。
内陣に入って仏像の間を縫って説明をしていたのですが,土間の椅子に座っていた私たち家族に気が付いて,「入ってきなさい」言われて,子供らと仏像と仏像の間に入れてもらったことがあります。
肝腎の国宝よりも,お堂の内陣?に入れてくれた方に記憶が残っています。 
こちらはプロではないので,細かな仕組みを聞いてもチンプンカンプンで,やはり一般人が見るべきように配列されている,正面から見ている方が素人には分りよいです。
美術展でに出品されている絵画でも「この色の出し方が難しく名人の技です」と説明されても,??と思うばかり・・猫に小判?こちらは全体として良ければ満足です。
2007年に久しぶりに東大寺に行ってみると、今は当時と違い、人が次々と入って来ますが,それでも有名美術館のような混雑がないのは良いことです。
土間部分が板張りになっていてその上にゴムのようなシートが敷いてありました。
知恩院の奥の方の廊下を歩き回って疲れて子供らと休憩していると,お坊さんが出て来たと思ったら御供物のお菓子を一杯持って来てくれたり、いろんなことがありました。
等伯の松林図屏風はまだ本物を見たことがありませんので、感想は見てからのお楽しみになります。
と言うわけで朝起きたらすぐに出掛ける予定でしたが,事情があって急遽延期・・明日に変更になりました。
今年は,正月気分を早めに切り上げて今日から普段のコラムに戻ります。
昨年末のシビリアンコントロ−ルの関心です。
一般的解説では,市民の抑制がないと戦争になり易いからシビリアンコントロールが必要となっていますが,重商主義・商人・教養と財産のある市民の方がより広い市場・・植民地を求めて戦争の時代に突入して行ったことを重商主義のコラムで10年ほど前に連載したことがあります。
モンゴルが版図を無茶に広げたのは、遊牧による移動を限界とするモンゴル人の自己欲求としては無理があります。
政権に入り込んだ商人・・色目人による西域通商路確保に関する要望によるものと理解するのが私の感想です。
ウイキペデイアのモンゴル帝国に関する記事では以下のとおりです。
「遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やムスリムの商人が入り込んでいたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れるとオルトクと呼ばれる共同事業に出資して利益を得た。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためである。」
「モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益をあげることを目指す重商主義的な政策をとった。」
時期的に見るとチンギスハーンの即位が1206年 – 1226年で最大版図の第5代のクビライの治世は1260年 – 1294年ですが,この当時の西洋の歴史を見ると実は十字軍遠征と大幅に重なります。
リチャード獅子心王とイスラム側のサラデイーン両雄の登場で知られる第三回十字軍遠征が1189〜1219年で、その後第8回(1270年)まで大規模に行なわれています。
(9回以降は小規模です)
他方でモンゴルの第三代皇帝グユクが1246年に ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語文国書が残っているなどローマ法王との交流も行なわれていて、モンゴル軍によるフレグ西方遠征軍による『バグダードの戦い』が1258年でありフレグがイランに「イル汗国」を樹立してモンゴル帝国が連合統治体制になる最初になり、これが西進の最後です、
世界規模での動きでみると,東西から世界交易の中心である中東地域までの通商路確保を目指していた時代であることが分ります。
モンゴル帝国の版図拡張が内陸ではロシアの前身であるルーシ、(ハンガリやーポーランドでもキリスト教のテンプル騎士団などと戦っていますが支配下におかず)中東ではバグダッド付近で終わっていること(代替わりが進み分国統治になて膨張エネルギーが衰えた事情もありますが)・・・地中海地域の商人にとって、中央アジア通商路の入口拠点だった(アッバース朝の首都であったが・・当時はイスラムの中心都市がカイロに移っていました)バグダッドあたりまでの通商路確保さえすれば良かったとすれば合理的です。
西欧にとっても十字軍遠征でイスラムの先進文化に触れたことが次のルネッサンスの導火線になっています。
膨張収束後の元の内政でもマルコポーロなど地中海の商人との交流が盛んでしたし,国際的に移動する商人を優遇し,多様な宗教の保護など,商業重視の政策を採用しています。
モンゴルによる西域通商路確保後には,関税・木戸銭については,途中木戸銭(日本の関所)徴収を禁止(最後の売上だけに課する)して流通の合理化を図っています。
元寇の原因は元が通商を求める文書に応じなければ武力制圧するかのような文言があった結果、誇り高い日本(武士)が拒否したことによるのが普通の解釈でしょう。
フビライの国書の最後は以下のとおりです。
「願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
 もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
 家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。不宣。」
これでは,通交に応じないなら[兵を用いる」と言う宣戦布告と同じです。
朝廷は「失礼ではないか」と言う返書を用意したようですが、武家政権の鎌倉幕府は返書拒否した・・元寇になったと言う流れです。
三国時代の曹操が発した呉の孫権に対する80万曹軍「呉において(お前の領地内で)将軍と会猟(勝負を付けよう)せんと欲す」と言う孫将軍に対する脅し文句→これが呉蜀同盟に発展し三国鼎立・・赤壁の戦いの発端になるのですが,昔から相手の立場をソンタクしない高飛車なのが特徴です。
高校時代の教科書にある・・18史略の1節です。
「今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。」
水軍だけでも80万を手中に収めている・・いわゆる100万曹軍の触れ込みの1節です。
幕末、西欧諸国も「開国に応じなければ不利になりますよ」と暗に匂わせていたので危機感から幕末騒乱が始まったのですが,最後にアメリカが武力を背景に強引に開国を迫りました。
アメリカも直接的表現しか出来ない点は中国とレベルが似ているので気が合う筈です。
これがトランプ氏になって,日本にとって危険性がある・・ハラハラするところです。
4~5日前に大雪による千歳空港の運行停止に対して中国人数百人が暴れて警察出動になったニュースに対して駐日中国大使が,「マスコミが煽っている」と逆批判しているニュースが流れていました。
日本人ならば「お騒がせして大変申し訳ない」と御詫びするところですが,先ず相手を非難しないと気が済まない不思議な国民性です。
御詫びした上で,そのように言い足したのを、マスコミに報道されたのかも知れませんが、そこに本音が出るリスクに気がつかないのでしょう。
北朝鮮や韓国あるいは中国が上から目線でしか言えないのは,弱過ぎて高飛車に出るしかないと思っている人が多いかと思いますが,威張った方が勝ち・・古代から礼儀・ソフトが発達していないのでしょうか?

シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)

フランス革命では政体がどう変わろうとも(途中王制復活もありましたが共通の敵?)キリスト教の千年以上にわたる思想・内心統制の復活だけは怖かったのです。
何か外形行為をして処罰されるのはまだ防ぎようがありますが,黙って考えている内心を審査されて処罰されるのって,恐るべき支配です。
内心をどうやって第三者が判定出来るのかの技術問題から,証拠裁判主義の原理が生まれて来たし,証拠と言っても自白だけではなく補強証拠がいると言う原理も生まれて来ました。
自白等に関する証拠法則についてはDecember 9, 2014, 「証拠法則と科学技術5(自白重視5)」前後で紹介していますので参照して下さい。
しかしそれは言わば瑣末な技術論であって,そもそも内心自体を支配しそれを理由に処罰出来る原理・・一神教原理の恐ろしさの自覚・・フランス革命当時の市民はこれからの解放を切実に望んでいたことの理解こそが重要です。
内心支配=違反者処罰の思想が多神教社会では起きようがありませんから,破門されると逃げ場のない社会・一神教支配と表裏の関係にあったことが分ります。
フランス革命の経験では,政体がどのように変わろうとも,市民の心の中まで・日常生活のあり方まで根こそぎ規制する教会・聖職者・・これの強制装置である軍の復権に対する恐れがあったので,これのお目付役としての「シビリアンコントロール」をコトの外重視して来たことが分かります。
制度上信教を自由化しても簡単に社会に根付くものではありません・・いつ反動・復活し、権力と結びつくか戦々恐々だったし、革命の混乱中に王党派などの乱立がありましたが,キリスト教支配復活を主張する党派は成立していません・・それほど警戒されていたのです。
欧米でシビリアンコントールを重視する歴史経緯・元はと言えばキリスト教による内面支配に対する市民の警戒感から始まっていることをこのシリーズで書いて来ましたが,これの反革命・・信教の自由違反を潜脱し一神教支配を復活したのがソ連共産党一党独裁制です。
共産党は宗教ではないから,単なる一党独裁に過ぎない・一党独裁に反するから?宗教自体を認めない・・信教の自由を侵害するものではなくこれが近代社会の究極の形・・市民社会よりも進んでいる?と言う変な論理です。
政権の気に入らない人物の行為を咎めて共産主義主張に反する反党行為であると烙印を押しては粛清・・シベリア送りや処刑する・・芸術表現から何から何まで思想統制していたのですから、結果から見れば近世の魔女裁判との違いが不明で実態は排他的新興宗教そのものでした。
結果から見れば,魔女裁判との区別不明・・いわゆる人民裁判と言うやり方で吊るし上げては、徹底的に排撃していた中国の文化大革命を想起しても良いでしょう。
ちなみに専制君主と絶対君主の違いは一般の説明では分り難いですが,私の大雑把な(粗い)独自解釈では過去から積み上げられた宗教解釈のルールに一応従っているのが西洋の絶対君主(王権神授説はでキリスト教の範囲内で支配する意味)であり,宗教ルールも何も基準がない・・君主の恣意的基準で処刑出来るのが専制君主であると言う使い分けが可能です。
ロシア革命の結果出来た共産主義政権は,専制君主制と一神教による絶対君主制との(支配者にとっては)いいとこ取りみたいな専制支配政体です。
こう言う制度が成立したのは,ロシアが古代社会状況に留まっていたところに近代生産技術を上から導入したことと密接な関係・・先進国の技術導入・模倣するのがやっとでその次の自由な発想を必要としていない・・まだ思想表現の自由を求める市民階層が育っていなかった・シビリアンと言う抵抗勢力がなかったことによります。
人民にとっては,(共産主義思想と言う基本基準・スローガンに毛が生えたような程度?はあるもののキリスト教神学ほどの学問蓄積がないので共産主義の外延が不明です)いつ反党分子の烙印を押されるか不明・・自衛するスベがない点では恐怖政治・・いわゆる収容所列島になります。
専制君主制のときは恣意的基準で君主の癇に障ると一瞬にして文字どおりクビが飛びましたが,その代わり強い者にへつらいさえすれば良かった・内面までチェックされることはありませんでしたが,共産「主義」社会になると「主義」に反する思想かどうか・・内面まで規制される窮屈社会になります。
共産主義は経済原理である以上,日々新たに起きる(国内だけでなく国外の変化があります)経済変化対応が必須ですから、共産主義の内容はキリスト神学のように特定時期の理想に固定出来ません。
社会や産業構造の変化に対応して現場で工夫するといつ共産主義の範疇を越えている反党行為として粛正されるか不明になります。
例えばレーニンのネップ政策のように一歩後退路線も政策的には(物事には妥協が必要です)有効でしたが,これを中下位幹部がうっかりやると粛清の標的にされる恐れがありました。
こう言う政体下では,西洋中世以上の暗黒社会ですから,活発な創意工夫が生まれるわけがない・・せいぜいアメリカの技術を盗んでは真似する・・これは国策ですからお墨付きがあって安心です・・のが限度ですから,(ロケットなどは大資本を掛けて盗めますが多種多様な民生技術窃取は無理なので)民生レベルが低下する一方になった原因です。
中国やロシアでロケットを飛ばせても、おいしいご飯を炊ける電気釜やウオッシュレット、クルマのエンジン1つ国産技術で作れないと言われている原因です。
両国共に国民がスポーツを楽しむ余裕が無くてオリンピック種目だけ集中練習させても、国民の体育レベルが上がるものではありません。
ソ連崩壊後にロシアが政治経済の自由化をしたらめちゃくちゃになった・・揺り戻して身の丈にあった,プーチンによる事実上の独裁制に戻って一息ついているところであるのに対し,中国の場合、改革開放政策がロシアよりうまく行っているのは,辛亥革命まで専制支配しか知らない民族とは言え,社会の発展段階がロシアとは格段に違っていたことにあります。
ただし、中国がロシアより社会構造が進んでいるにしても,日本のように千年単位の時間をかけて健全な市民階層(日本の場合武士層)を育てていなかった点は同じですし,これが一党独裁制(形を変えた専制支配)が未だに機能出来ている根拠です。
中国の社会構造は1君万民体制とは言え,極く少数とはいえ士大夫層が数千年単位で存在していたし,政体・・政治権力と関係なく商業活動は活発でした。
これは以前から書いているように中国地域はメソポタミヤ文明の先進商品販路の最東端として,(ずっと後世の名称ですが)過酷な中央アジアの通商路・シルクロードを経由して来て山を越えて初めて出たところ・・山々を越えて黄河上流域から入って来て一旦落ち着いた場所が黄河文明と言う位置づけです。
伝説上の古代王朝殷を中国では「商」言いますが,まさに「商」のクニが始まりです。
そこから河川沿い拠点を広げて行った歴史・・都市国家・・拠点網の形成から始まったこととも関係しています。
黄河文明?はメソポミヤ文明の東端商業拠点として始まったもので,独自文明ではないと言う意見を10年ほど前から書いて来ましたので,参照して下さい。
攻略軍が入城すると城内の有力者が祝いの酒をもって出迎える・・誰が勝っても(異民族でも)商売さえ出来れば良いのですから,これが古代から繰り返された風景で・・日本軍の南京入城も同じですから,出迎えた南京市民を大虐殺するわけがないのです。
どの政体・異民族も,城内進軍しても折角手に入れた都市の商売を潰すわけに行かないので,(上澄みとして商業社会と関係なく祭り上げられて来ただけ・・特に異民族支配のときはこれが顕著)先行している商業社会そのものを破壊する能力がなく,商売人自体は支配者の変更に関係なく連綿と続いていたことをここでは書いています。
03/27/10「農業社会=世襲→封建制と商業社会=中央集権→専制君主制1」以降に書いたシリーズでは,商業と規制は表裏の関係で馴染み易いことを書いたことがあります・・専制支配と馴染みが良いのです。
物造りになると自由な発想が必要ですが,商人は売れ筋情報を逸早くつかんで・・情報収集に励み急いで真似する・・商機を早くつかんだ方が勝ちでその程度の自由があればその他は規制がきっちりている方が便利です。
これが中国の模倣・・ブランド窃取等に繋がりサイバー攻撃が得意なのは中国商人の歴史によります。
中国はロシアより社会構造が進んでいる面で共産主義の思想統制・内面支配が緩いだけのことで単なる専制支配+商業社会の焼き直し・現在的表現です。
この限界・市民社会未成熟=言論重視=約束を守る社会に至らない点で、限界に突き当たっているのが現状です。
先端技術を盗む・模倣し身につけるだけでは追いつくには容易でしょうが、自発的にその先に進むには限界がある・・世界を指導する模範社会になるのは無理があります。

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