罪刑法定主義2(生麦事件)

日本人が当然知っているべきモラルを知らない外国人が来るようになった場合、日本人ならば当然知っているべきモラルの同一性がありません。
例えば、薩摩藩が幕末に起こした生麦事件が有名ですが、大名行列に乗馬で乗り入れるなど日本人から見れば「不敬」そのものでしょうが、外国人から見ればいきなり斬り殺されて大騒ぎになったものです。
乗り入れた英国人一行の方は、前方から東海道筋を道路いっぱいに進んで来る久光の行列を見て困惑したらしいですが、(通訳が随行していなかったのが事件発生の大きな原因だったでしょう)どうして良いか分からずにいると、先払いの者から身振りで道路脇によれと言われたように思って・・現在よくある光景・・山道や狭い道路で対向車に出くわすとお互い左右に避けながらゆっくり進むような感覚で脇によって進めば行列も右脇に寄ってくれるのかと思って騎馬のまま進んで行ったようです。
道が狭く久光の行列が道一杯に進んでくるので、結果的に英国人の騎馬グループと行列が衝突する形になり、先行の足軽などが馬を避ける結果、次第に行列の中程まで(すなわち久光の籠近くまで)行列をかき分けて乗り入れてしまう結果、護衛の武士団は黙って見過ごせない・・血相変えた戦闘モード満々の武士団の殺到に直面した英国人一行が馬主を巡らして引き返そうとしたが時すでに遅し!大事件に発展した瞬間だったらしいです。
日本の場合、古代から牛車や行列が行き合えば、身分格式の低い方が道を譲り脇に控えるのが礼儀でしたし、これは江戸城内の廊下で大名同士が出会っても同じルールです。
西欧でも例えば、西洋由来の軍隊組織では初見の人同士では相手の階級の見分けが付かないので肩章襟章等外見で階級が分かるようにしていて、階級の低い方が最敬礼して脇に下がって見送る仕組みです。
英国でも似たようなルールがあった・・・格上格下の礼儀ルールは洋の東西を問わず同じとしても、よそから来た英国人が島津の行列かどうか(旗印や家紋程度で分かるはずもないし)の判断もつかない上にそれが分かったからと言って、島津が何ほどの家柄か、自分と比較して自分がよけるべきかどうかの判断までは付かなかったでしょう。
ましてこの時、島津久光が700人もの軍勢を率いて江戸に出て来て、公武合体論に基づく一橋慶喜の将軍後見職任命や春嶽の政事総裁職任命等を迫って実現させて意気軒昂な帰路(は400人)でした。
こういう事情も全く知らなかったでしょう。
ただ、今でも、個人が何らかの集団とぶつかりそうになれば、言葉が通じなければ集団の通過を待つのが普通で、まして危なそうな軍の列であればなおさらではないでしょうか?
この辺に英国人側に常識論で見ても、一定の落ち度があったように見るのは、日本人としての贔屓目かも知れません。
この事件処理で幕府が英国の要求する巨額の賠償金を払ったものの、薩摩側はこれに応じなかったので薩英戦争につながるのですが、このように、大名行列と出会ったときの礼儀ルールをきちんと法令化していれば相手国からの文句に対する立場が大きく違っていた・・こんな危険な国だから、不平等条約が必要という論拠にされて明治以降の不平等条約解消が難航した下地でした。
人権擁護のためではなく国内的には権力意思貫徹には周知が前提・・対外的には国家主権確保のためにも、生類哀れみの例のような明文法が必要になります。
産業構造や社会生活が複雑化してくると、技術的規制は日常常識では判断しかねるので明文化して起き、プロでもその都度確認する必要が起きてきます。
建物建築でも「家はこういうものだ」「柱と柱の間隔は一間にきまってる」という経験による工事では間違うので、今ではいちいち図面を確認しながら作業していく必要があるのと同じです。
社会の仕組み=商品の種類が単純な時代には、いわゆる名僧知識の禅問答的御託宣で間に合ったしょうが、商品経済が複雑化してくると、具体的ルールや細則がないと現場でどうして良いか・個々人の裁量で行うと精密な機械が故障する時代になってきました。
精密部品・・普通の電化製品でも寸法は何センチ何ミリまでピタリ合っていないと不具合が起きる時代ですが、法制度もこれに比例して細かく細かくなる一方です。
世の中になぜ専門家が増えてくるかといえば、法律家でも金融商品取引ルール証券取引ルール、道路交通法、原子力安全規則などなど分野ごとに膨大精密すぎて、税務関係は税理士などそれぞれの専門家が必要な時代=それだけ法令(だけで足りずその先の規則、細則〜ガイドライン(別紙技術基準)等々分野ごとに細かくなっているからです。
これに加えて人の移動広域化・・異民族間移動の場合、元々の基準である道義意識も違ってくるので技術的規制だけでなくいわゆる自然犯でさえも明文化していないと外国人には、思いがけないことで処罰を受けるリスクが増えます。
現在では金融・証券取引や道路交通法あるいは各種環境規制や食品衛生や建築などの安全基準 のように専門化してくると、明文法に処罰すると書いていない限り処罰できないようにしてくれ・という逆転現象が起きてきます。
早くルールを明文してくれないと商品開発しても普及(ドローン利用のサービスや車自動運転、電子通貨関係など)できないという逆転現象が起きています。
罪刑法定主義が人権擁護という政治論より、産業発展によりいろんな分野でのルール化が求められるようになったことが、ルール化が進んだ基礎事情でしょう。
西洋では、絶対君主制・・恣意的処罰が横行したので絶対君主から領民の人権を守るために生まれたと習いますが、我が国の場合、支配者が慣習法や道徳律に反するルールを新たに決めた場合、特別な法令が必要な社会が到来していた・逆方向からの発達であったし、これが今の潮流と理解すべきではないでしょうか?
中国は独裁・専制・法治国家でなく人治国家と揶揄されていますが、商品経済が進み、産業構造が高度化すると政治家の思いつきで製造基準を変えられない・・精密ルール化は避けられないはずですので技術基準の法令化・ルール化が進む点は、同じではないでしょうか?
問題は(共産党幹部であろうとなかろうと、)誰もが等しく「ルールを守らねばならない」という法の下の平等ルールを守れるか次第ではないでしょうか?
そのためには司法権独立が必須ですが、中国政府は香港の覆面禁止条例無効判断をした高裁判決を否定する主張をしているようで、政府が司法権を軽視しているようでは、法を守る気がないと自己主張しているようなものでこれこそを重視すべきです。
諸葛孔明の故事に「泣いて馬謖を斬る」という故事がありますが、上に立つものは自分の決めたルールを守らないのでは、配下がルール・命令を聞かなくなるからです。

旧刑法2(罪刑法定主義1)

ちょっと話題がずれますが、皇族に対する罪というか、やってはいけないことは、日本民族にとっては法以前の自明の存在であるべきでした。
内乱・いわゆる謀反や親殺しが許されないことも同じでしょう。
内乱罪等を明記するようになった前提として考えられることは、まず西洋で発達した罪刑法定主義の思想・明文なければ処罰できない・・明文化するかしないかの論争があったはずです。
ボワソナード主導の立法作業でしたので、当然西欧の到達していた法思想を前提に行った筈ですが、法以前の存在であると思われていた皇族に対するルールを明文化=これを国会(国民の意思)で決めたときに限り初めて犯罪になることには抵抗があってもおかしくありません。
天皇の超法規的神格否定につながるものでそれ自体が明治政府にとっては大事件で大きな論争があってもおかしくなかったと思われますが、民法典のような大した政治論争ももなく?すんなり法制定されるまで行ったように見えます。
当時の国民意識では、討幕のための旗印として王政復古を掲げたものの、実際には古代からの象徴天皇程度の意識・・敗戦直前のような極端な神格化意識がなかったからではないでしょうか?
王政復古を看板にする明治維新体制は時代錯誤性が大きかったのですが、新政府は看板の建前上古代律令制に基づく二官八省制を一時採用しましたが、維新直後三治政治〜廃藩置県に始まる地方と中央関係組み替えによる地方組織整備などどんどん変えていく(司法官などの人材育成→西欧留学性派遣による世界の法常識の吸収も焦眉の急でした)中で、中央政体も二官八省制をどんどん形骸化していきます。
こうした明治初年の新政府体制再構築過程を紹介してきましたが、(旧刑法編纂や刑事法制や司法制度整備もその一環として紹介していたものです)これらを法制度として整える必要から司法卿ができ、並行して神祇官などの二官八省体制を改組して現行の各省体制の基礎を作っていくなど、実務面では着実に近代化が進んでいたので明治維新が成功したと思われます。
古代から連綿と続く天皇制の根本に関しても近代化の動きの総決算が明治憲法制定ですから、その下準備的各種法整備の一環である刑法制定作業においても政権の目指す本音の方向に動いて行くしかなかったのでしょう。
政権の要路にある人々は、政府・権力というものは民族全体の無言の賛同によって成り立っていることを知っていたし朝廷に対する尊崇の念も法で強制するものではないと心の底で知っていたでしょう。
ちなみに戦後皇族に対する罪全部がなくなったのは、天皇制存在の理由は国民の支持(といっても賛否を問う形式論ではなく、暗黙のこうあるべしという民族の価値観)によるのであるから、特別な法類型を決めなくとも良いのでないか!という意見であったように記憶していますが、あるいは尊属殺事件の憲法解釈であったかも知れません。
明治維新前の刑罰制度を大雑把に言えば、常識に属することは、明文で決めなくとも処罰できる・・「人を殺したり物を盗むな!」という御法度がなくとも、そんな道徳があると知らなかったと言わせない基本社会であったと言えるでしょう。
こういう社会の場合、法網を潜る(工夫)余地がありません。
中国の場合「天網恢々疎にして漏らさず」という古代からの名フレーズがあり、現在では、「上に政策あれば下に対策あり」「上有政策、下有対策」と言われるように法対策が盛んです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit

中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。
以下略

上記には4個の主張があるのですが、私に言わせれば中国人は私益あって公益意識がないというに尽きると思っています。
我が国では、公益=地域共同体→日本民族の共同利益を守るための道徳が先にあるのですから、明文法規はその例外的位置付け・・書いていないことにこそ真善美があると考える国民性です。
物事の理解には余白を重んじる・・音楽で言えば絶え間ない音の連続も綺麗ですが、お琴では「手事」と言いますが、あくまで手先の技のことです)むしろ音のない「間」を重んじ、沈黙は金といい、眼光紙背に徹するというようにすべて基礎的原理が同じです。
知識をいくら並べても限界があるデータのない先や余白から物ごとの本質を見抜く力にこそ価値があるのです。
詩で言えば余韻を重んじる点では、俳句こそがその最高形態でしょうか?
我が国では、法網をくぐる工夫をすること自体「恥ずべきこと」という意識ですから、タックスヘイブンとか法にさえ触れなければ何をしても良いという発想には驚きます。
中世以降の「非理法権天の法理」を紹介してきましたが、次第に権力が強くなってきて、道義や慣習任せにしないで権力者の定めるルールが最優先するようになると「犬を追い払ってはいけない」などの新ルールは社会常識的道徳律では気がつかないことになります。
為政者が、新たに今度これも禁止するから・・と決めた場合(禁中諸法度→紫衣事件は事前に「お達し」していたのに、従来慣習法?でやったのに何が悪い?と開き直った事件でした)知らない人が多くなるので、周知のために御法度を定めて江戸時代以降の各種御法度や生類哀れみの令・・注意を促すという仕組だったことになります。
価値観同一社会では、天皇家や徳川家に対して日本の道徳から見て許されない行為が何かの規定がなくとも、慣習を変えるとか、常識に反する新たな制定ルールだけお達し・公布すればよかったのでしょう。

カイロ宣言と米国朝鮮政策1(日本道義否定)

朝鮮半島の北半分がソ連圏に入ったので北の朝鮮人は、古代価値観を基本にして生きているソ連・ロシア民族支配をすんなり受け入れて安心したでしょうが、日々食うのに忙しい・・人口の90%以上を占める庶民にとって政治意見を言えないことや表現の自由の制限など日常何の不自由も感じないことを24〜25日に書いてきました。
表現の自由にこだわる芸術家でも普通の芸術活動である限り・同時代の緊迫した時代精神気分を表しているなどの評価を後世に受けるとしても、その程度のことで表現が規制されるとは考えにくく、99、99%の芸術家は政治などに関係なく、創作活動を自由にできてきたと思われます。
明治以降の漱石、島崎藤村の詩集などの文壇、日本画に表現の自由による制約を見る人は少ないでしょう。
江戸時代に世界に冠たる文化発達繚乱したのは、西洋近代の権力分立・人権思想の有無と関係なかったのです。
そもそも芸術家自体人口の1%もいないでしょう。
アメリカ占領下に入った南半分(現韓国)は、微温的な日本統治という緩衝装置がなくなり欧米価値観ストレートな政治文化の浸透に見舞われたことになります。
米国の中南米、南ベトナムその他各地支配・指導は、現地民族ごとの微妙な気持ちの汲み取り能力に欠けた・いわゆる投票箱民主主義・あんちょこな民主主義の押し付けが国情に合わない結果、多くの国で失敗の連続でした。
米国の対日戦争の大義として朝鮮民族の日本隷属からの解放を宣伝してきた米国としては、朝鮮占領政策では日本が進めていた以上の急速な近代化を目ざす必要に迫られていたことは、推測に難くありません。
朝鮮族の対日不満の源泉は旧特権階層の権益剥奪と教育の機会均等・四民平等・を徹底すれば国民大多数のストレス社会化が進みます。
自由競争社会化すればするほど、底辺層の方が富士の裾野のように最大多数になるのが原理です。
日本の場合文明開化によって新たな職域が量産され、失業した武士の多くを吸収しましたし、産業構造変化までひと世代程度の期間余裕があったので、紡績〜繊維から家電組み立てなどの構造変化も1世代以上の時間軸があり次世代がうまく適応できてきました。
新興国の場合工場設備丸ごと導入パターンですから、最新技術導入があんちょこな分に比例して産業構造・主役が変わって行く構造変化が5〜6年サイクルでくるので、日本に追いつくスピードは自慢でしょうが、それに比例してどんどん振り落とされ置いていかれる人が増えてストレス過多社会になって行きます。
ルーズベルト政権は対日開戦の大義名分として日本の朝鮮人民に対する過酷な植民地支配〜中国での南京虐殺などを国内外で大宣伝してきました。
対日開戦を奴隷状態にある悲惨な朝鮮人民解放戦と位置付けてきたのです。
フセインが大量破壊兵器を隠していると称してイラク侵攻を正当化したのと同じ手口です。
競争社会に対する不満を吸収する方向で米軍支配による「日本支配がひどかった」という反日宣伝が不満に火をつける形で、ガス抜きしていく効果を発揮していたと思われます。
アメリカの対日プロパガンダの公式記録がカイロ宣言に出ています。
1943年に出された連合国のカイロ宣言の一部・対朝鮮関連部分のみ紹介します。
カイロ宣言に関するウイキペデイアの記事からです。

対日方針を協議するため1943年(昭和18年)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
以下はカイロ宣言の日本語訳[1]。
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

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