近代産業革命とIT革命の違い1

近代産業革命前に100人必要だった生産や輸送が産業革命による効率化で10人で生産し輸送できるようになれば、90人の職場が失われるはずが、余剰生産分を国外輸出によって失業しないで済めば、生産その他すべてが10倍になれば、国力10倍となり民生も10倍豊かになります。
その輸出を受け入れる国は受けれた分元々の生産従事人口が失業します。
いわゆる「失業の輸出」ですから、一旦受け入れ国になると失業が増える一方・・貧しくなる一方で先進国と後進国の格差が開く一方になっていた・・この市場構造固定化・・相手に生産力をつけさせない半永久的市場支配の権力構造が植民地支配体制です。
英国の紡績業発達がインドの綿産業を壊滅的に滅ぼし「白骨街道」になったことを以前紹介しました。
ラッダイト運動で主張していた矛盾を海外に押しつけることで自国内矛盾を回避し、先進国の優位性の固定化装置だったことになります。
それまでの植民地とは文字通り「植民する」ことだったのですが、産業革命以降は市場支配の枠組み固定化装置に変わったのです。
この枠組み変更に異議を唱えたのがアメリカ独立でした。
西欧諸国は植民地現地人台頭(・・・人種差別して威張るのが目的ではなく現地生産が始まると市場を失うの)を阻止するために人種の違いを強調し「アジア人は劣っているので何をしてもかなわない」という諦め精神を植え付ける人種差別政策に邁進することになります。
オリンピックも欧米人が身体能力がいかにすぐれているかの宣伝目的で始めたというのが私の偏見です。
フランスなどの西欧文化芸術宣伝もアメリカの好きなミスワールドなども同じです。
日本人はミスワールドなどハナから相手にしていませんし、文化芸術分野でも日本画に始まり独自文化を主張できたので自立できてきました。
販路である植民地で自前の産業育成・挑戦意欲を持たせないよう自信喪失政治をしていたのですが、同族出身者で構成されている北米では人種の優越論理が通じなかったから単なる市場扱い・搾取されるままでは納得しなくなり独立革命が起きたのです。
この支配構造に唯一の穴を開けたのが日本で、その日本が逆に工場生産品の輸出国になってアジアの市場を荒らされるどころかアメリカ市場に逆輸出が始まり、坐視できなくなった始まりが米国の排日差別法の成立であり市場争奪(欧米植民地に輸出させないブロック経済化→決定戦が第二次世界大戦です。
日本軍のシンガポール占領時に目の前で英軍が追い散らされ捕虜になっていくの見たシンガポールのリークアンユー氏が「絶対叶わないと思っていたアジア人が勝てる」と自信を持ったという原体験につながったのです。
戦争でこそ欧米は勝ちましたが、その後現地人の自信回復によって次々と独立運動が始まり戦後秩序が始まります。
日植民地民族もやればできるという自信がうまれた下地の上で、プラザ合意以降の日本叩き→日本企業の韓国台湾〜アジア諸国への工場移転による迂回輸出の成功→中国参入以降の低賃金国の攻勢です。
賃金格差が市品競争力低下になり、市場経済的に修正されていく・賃金の低い方に生産地が動いていくべきですが、市場経済的反映を上記の通り植民地支配により力づくでダムのように堰き止めてきた分、巨大な賃金格差・欧米とアジア・アフリカ諸国との途方もない生活水準・教育格差が生じていたのです。
旧植民地諸国・・低賃金国が生産に参入するとダム決壊による怒涛のごとき低賃金国からの工場製品の流入が始まると先進国(国内生産縮小→低賃金サービス業への転換)労賃がつられて下がらざる得ません。
(賃金平準化作用が終わるまで恒常的デフレ発生です)
世界の工場の地位が中国から東南アジア諸国等へ順次伝播していき、最後は世界の人件費の平準化が始まる・本来人皆平等論でいえば、公平な世界になる動きであると「世界平準化」というテーマで10年ほど前に書いたとおりです。
アメリカは、戦前排日法で日本人を鉄条網の収容所に収容して対日開戦を急いだように、今次の挑戦者中国に牙をむいたところですが、戦前の日本はいじめられているのをアジア人が内心で応援していても力がなかったので孤立したのですが、いまの中国は戦前日本よりはもっと乱暴ですが、その代わり周辺アジア諸国の地位があがっている点が大きな違いです。
話題が逸れましたが、今回のホームレス化の動きは英国産業革命後の囲い込み運動で、小作人を農地から追い出した運動の焼き直しのように見えます。
第二次産業革命?の寵児IT覇者も、世界規模で市場を席巻できる点は19世紀の産業革命と同じとしても、覇権国で新たに生み出すIT関連者数は微々たるものです。
この結果・・富分配に参加できる人はごく少数=格差が広がる宿命です。
IT産業で覇権国になっても、アップルの生産が中国で行われているように世界の工場として大量の中間層を生み出せません。
近代産業革命の恩恵を受ける国と受けない国が国単位(一定の社会規模・結局は民族単位)で分かれていたのが、IT革命では国単位〜民族単位ではなくITに適した能力の有無によって、砂粒的に分化し始めたと言うことでしょう。
今後民族出身地域差→奥深い文化力能力差は問題にならない時代が来ると言えば、現実の目の前の若手弁護士層を見ていると民族精神の精華である文化に関心のない人が増えてきた印象です。
IT化・デジタル化で気がつくことは、・・実務世界ではデジタル的処理能力が目先重要な印象・・これが文化の比重低下=出身民族差が背景に退く時代の予兆を感じるのは私だけでしょうか。
シリコンバレーでの活躍者は噂によれば出身民族差にこだわらないような印象を受けます。
今回は領主様が地域からまとめて小作人を追い出すのではなく、家賃引き上げに対応できない個別の住人をアパートから追い出すので、(地震による液状化現象のように)水が地面から染み出すようにあちこちに滲み出てきた印象です。
これが先端産業で成功している都市に限って一流ホテルやマンション周辺にホームレスが大量発生し群がり住み着いて?いる状況になっている原因と思われます。

政争と粛清2(未熟社会3→革命)

フランスやロシア革命の推移はよく知られているので、ここでは独裁政治途中短期間で病死したために独裁→恐怖政治になってしまう弊害に至らなかった・・(日本の信長のように短期間)あまり知られていないクロムウエルの独裁について紹介しておきましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-041.htmlから以下の通り引用して紹介しておきます。

「権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。
クロムウェルの独裁
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。」

社会混乱のマイナス視点で見れば、理念を伴った西欧の革命も中国歴代王朝末期の理念なき大動乱と同じですが、中国の場合、勝ち残って自分が皇帝になれれば大満足であって、勝ち組に参加した将兵も功労に応じた地位を得ればそれで満足ですから、さらなる権力闘争がありません。
結果的に権力維持のための外征をする必要がなかったことと、数十年単位に及ぶ大騒乱の結果国内経済衰退・人口激減などで体力が弱ってしまうのが普通でした。
例えば後漢末期の大混乱では人口が6分の1に減り周辺地域に設置した楽浪郡などを維持できなくなり現地政府(楽浪郡庁)を縮小したことで、朝鮮半島で現地民族が興隆しひいては日本列島人の自立が始まったたことが知られています。
魏晋南北朝に続く五胡16国、 唐末の五代10国、 清朝末期の動乱期も同様で周辺国に出て行くどころか、混乱期には周辺少数民族が入ってきた歴史です。
このように、中国の大義なき動乱の場合には、周りに迷惑をかけるどころではない・・その後2〜3代の皇帝は、国力回復に専念するしかないのが普通でした。
周辺民族への迷惑度から見れば、勝ち残った方が倒した前王朝とそっくり同じ政治制度を踏襲する中国の理念なき動乱の方が、すぐに安定政権になるメリットがありました。
日本の学者だけか?知りませんが、西洋の革命思想・理念先行を賛美する傾向がありますが、革命動乱後に理念先行の場合、もしかしたら新たな社会制度が生まれるメリットがありますが、革命に成功してすぐに穏健な民主化に成功した国はどこにもありません。
この点は戦争規模が大きければ大きいほど科学技術その他の大発展の契機になり新しいステージが開かれる・・次の時代に変わることが多いのですが、だからと言って大戦争到来を賛美するのが間違っているのと同じです。
このコラムで繰り返し書いてきたところですが、仁徳天皇が「民の竈を心配し」何事を決めるにもボトムアップで行う日本のような社会では大混乱になる革命を起こす必要がありません。
赤ちゃんが泣きわめく前に母親がちょっとした表情を察知しておむつを取り替えたり至れり尽くせりケアーする環境では、幼児期になって母親を信じているので駄々をこねたりしません。
青年期になっても親子で大げんかしなくとも(欧米の下手な子育てを前提に日本の青年に反抗期がないのはどうのと・・悦に入っている学者が多いのは・・革命賛美と同じ発想です)相互に気配りして家の伝統・文化を守りながら徐々に成長して行く社会の方が皆が幸せです。
日本は長年絶えざる発展をしながらも、古来の文化伝統を大切にして来られた所以です。
このようにして育った次世代が成長して中間管理職あるいは企業トップ、政治家・指導者になっても常に末端従業員や庶民の表情を読むこと・・気配りに長けています。
民意無視政治の結果、不満が爆発して権力に対して命がけで抵抗するのが革命(青年期の反抗)ですから、(中国歴代王朝末期の暴動も実質は同じです)そのような支配層しか持っていない民族民衆も思いやるレベルがどっこいどっこいであって、庶民レベル方が高いはずがありません。
庶民層がいきなり権力を握っても(育ちが悪いので)民主主義や人権尊重理念だけでうまく経営できる訳がありません。
経営不振や不祥事の社長や経営陣を吊るし上げて労組支配になって、うまく行った企業があるでしょうか?
ロシアで言えば、革命後に革命に協力 勝利したグループ内の抗争に勝利した支配グループもいざ実務に入ると政治経験のないズブの素人が利害の錯綜している内政(国民も革命成功により、前より良くなると新政権に期待しているのでなおさらです)をどうして良いか不明で混乱するのが当然です。
中国の場合、大動乱を経て権力を握ると直ちに 新皇帝に推戴されて歴代王朝の先例踏襲だけですから苦労がありませんが・・革命の場合過去のやり方を「がらっと変える」と主張して政権を取るから苦労することになります。
小池氏がチェンジと言い「リセットする」というから、却って何をするのか「さっぱり不明」という批判が起きるのです。
中国歴代暴動後の王朝の場合、大混乱を沈めて民の塗炭の苦しみからの解放が第一の仕事であって、民が暴動前の平穏な生活に戻れさえすれば良いのです。
ところが、毛沢東もスターリンも党内での権謀術数のプロではあったでしょうが、民生・利害調整をどうするか?という方向での政治経験がないし、王朝支配はよくないと立ち上がった結果、過去の王朝支配の真似をできないので、どのような政治をすればいいのかまるで分からなかったと思います。
専制支配下で特徴的な権謀術数は 政敵の足をすくって失脚させればおしまいです・・政敵が再起し報復できないように「罪9族に及ぶ」と言うほど徹底根こそぎ処刑するのが普通・・今回で言えば、薄熙来や周永康のように一度失脚したら再起できない仕組みです。
ところが、内政は民がいてこそ権力者ですから、民を丸ごと策略やざん言でひっかっけて目の前から消しさる訳には行きません。
民生の場合には、負けた方を丸ごと抹殺すれば良い訳ではなく、調整して納得させる技術が必要です。
民族丸ごとの移住強制はいわば個々人に対する粛清の大量処理版というべきです。
スターリンは政敵抹殺大規模版として自作農丸ごと、民族丸ごとシベリア流刑・移民強制をしていたし、ナチスはユダヤ人を丸ごと収容所に入れたと言われますが、これは少数民族にたいしてだけできることであって国民全般向けでは不可能です。
多数国民相手の民生では策略でゴマカし、陥れる権謀術数は効きません。

フランス革命3と中韓露の財政危機対応への教訓

昨日紹介したようにフランスでは,財政改革が暗礁に乗り上げて,収拾のつかない状態打開のために三部会を開いたものです。
戦費調達のための議会招集はうまく行かないで革命に発展することは,イギリスの2度にわたる革命の教訓から,フランスでも良く知っていた筈ですが,敢えて三部会招集の轍を踏んだのは,フランス王家は貴族と聖職者から税をとろうとしていて市民を対象にしていなかったので,うまく行くと思ったからではないでしょうか?
この経緯から国王は当初聖職者・貴族等と第三身分との仲裁者的立場でしたから、国民公会の最初の決定事項は立憲君主制であり,教会財産の没収・国有化決定だったことを12月17日に紹介しました。
最初は三部会の議決方式(部会別か全体合算決議か)で市民と貴族聖職者連合と揉めた争いが切っ掛けで、第三身分が国王の招集がないのにテニスコートに集まる事態(国民公会の前身)に発展し,次第に騒ぎが大きくなって行きました。
貴族と聖職者に対する増税が元々のテーマだったのに,革命騒動進展の結果貴族層がうまく生き残って,聖職者と王様だけが引き摺り下ろされて終わった・・今になっても貴族層が生き残っているのですから,宮廷の権謀術数下で生き残って来た才覚を活かした政治力は大したものです。
我が国では,古代から(信長時代の近衛前久)戦前の近衛家に至る藤原氏と応仁の乱以降生き残って来た細川家(明智の謀反の危機や関ヶ原でもうまく切り抜け,明治維新では薩長土肥政府に参画し・20年ほど前の細川元総理は近衛文麿の孫)のような能力です。
16年12月20日過ぎ頃に日経新聞連載のファッションデザイナー高田賢三の「私の履歴書」では,同氏のパートナーの紹介部分で貴族が現在も生き残っている状態が紹介されています。
イギリスに比べて貴族層が厚かったことや貴族自体が既に資本家として活躍していたことも原因でしょうし、民間の力まだ弱くて貴族層との共存が必要だった可能性もあります。
元々国王と二人三脚で世界展開していた筈の商人が植民地戦争でうまく行かなかったからと,最後に国王を処刑する方に回るのは変な結果ですが,絶対王政と協調する重商主義の限界・・産業脱皮の限界に不満が出て来た・・保護者的?国王が不要になって来たのでしょう。
現在国際政治で言えば,中ロ等地域大国が国威発揚による内政失敗の誤摩化しが効かなくなったときに,どのレベルで民間が不満を持っているかによってその後の変化が決まって来ます。
韓国で言えば,歴代政権による国民不満逸らし目的で毎回反日批判していても、これまで日本が反撃しなかったので、これで溜飲を下げて政権満足度が上がる国民レベルでした。
こう言う赤ちゃんのような低レベル国民の場合、当てが外れると大変です。
朴政権も歴代政権の成功体験そのままでやったところ安倍政権の反撃で失敗に終わったのですが、朴政権が反日の旗を降ろすしかなくなると・・(国民はがっかりしたでしょう)突如朴大統領降ろしの嵐になって来ました。
当然次の大統領野党候補のスローガンには「日韓合意破棄」が掲げられていますし、数日前には釜山の日本領事館前に慰安婦像を建てる許可をしたと報道されています。
中ロのように「自分らのレベルはこんなもの」と達観できない・・まだまだこ反日を繰り返すしかないのでしょう。
中ロも中進国の罠を抜け出せなくて国内不満を逸らすために対外威信発揮に生き残りをかけていたように見えますが,(シリアで成功しても次々と手を広げることは出来ないので)威信発揮することがなくなると国民がどう出るかはフランス革命同様に国民レベルにかかって来ます。
ロシアではソ連崩壊後民主化・自由化して大失敗した経験があり、(実はロシア革命自体・・農奴解放などして行ったことが,逆に大貴族の反発を受けて命取りになったようにも見えます)このときにプーチンのような強力指導者がもしも出なかったら[アラブの春」のような大混乱に陥っていたと思われます。
この経験から,資源安による財政危機程度の不満でプーチン体制を変えても人民レベルが先進国水準に追いついていない以上どうにもならない・強権支配体制を変えようがないのが実態でしょうし、国民もこれを知っていると思われます。
資源安による経済低迷は仕方がない・・政治責任ではないと国民が達観しているとすれば、プーチンが焦って(経済が苦しいのにむだな軍事費を使って)国威発揚をする必要がなかったことになります。
国威発揚行為が行き詰まったときには,この点に関する(無駄なことに国費を使わないで欲しいと言う)国民批判が起きる可能性がある・・フランス革命で言えば[王様の見栄で戦争しないで!」)ということになるのでしょうか。
同じことは中国にも言えて,国内不満逸らしが本当に必要でやっていたとすれば,対外示威行為が行き詰まると大変なことになりますが,(中華の夢再現は)政府が勝手にやっていただけで,人民の方は冷めた目で見ていたとすれば,行き詰まってもそれ自体で大政変になりません。
アラブ世界のように無茶苦茶にしても意味がない・・歴代王朝末期に毎回繰り返したような大流民化時代を百年規模で繰り返さない・・少しは智恵がついたのではないか、ロシアが完全民主化するのは無理と分ってからプーチンを選んだように、その程度の智恵があると思われます。
中国人民も軍事費(岩礁の埋め立て工事などは世界で孤立する上に莫大な無駄です)に無駄遣いされたことの責任をとって欲しいかも知れませんが,独裁制自体をやめる必要がないと思っている可能性があります。
中国は先端技術を盗む追いつき型社会・・国策によるサイバー攻撃等で先端技術を盗んで追いついて来た側面があります。
今は,まだ完全自由化・民主化しても世界トップに立つのは無理があることは自明・・どうせ5〜6番手に近づく程度がやっとならば、個人で技術を盗むより国策でやって欲しい・・もう少し先端技術剽窃で追いついて行く方が特だと言う判断と完全自由化とどちらを選ぶかまだ分りません。
中国がトランプ氏に脅されて海外膨張よりは,内政に向き合うしかなくなってある程度自由化するしかないとしても、国策による組織的剽窃が必須とした場合,フランス革命型・・貴族に代わる共産党幹部の特権を前提にした国家関与を大幅に残した自由主義社会を目指すことになるでしょう。
これが為替を完全自由化出来ない原因(実力・WTOで非市場国認定を受けている実体的基礎))であり、完全自由化しないのは,中国社会能力に適した政策選択でもあります。
こうして見ると中国は内政的にはレベル相応の適正な政治(経済政策)をしているのですから,矛盾があるのは対外的に実態以上に威張り過ぎる矛盾だけ修正すれば済むことになります。
評論家の多くは完全自由化こそが経済発展に必要であるから,自由化を半端にしたままで政府がところどころつまみ食い的介入しているから,無理・限界が来ている・・完全自由化=共産主義経済統制経済の矛盾を認めるしかない→共産党一党支配の終焉しかないだろう式のニュアンスの主張が普通です。
いわゆる神の手・市場が決める方が優れている意見自体に私も反対しませんが、社会の中でもいろんな組織がある・家族で言えば「優先順位が弱い者順」になるなど市場の自由競争原理とは違った原理があるように・・構成要素の違う部分社会ごとに違った決定仕組みの方が良いこともある・・小学1年生に「何でも自分らで決めなさい」と言っても学級運営はうまく行かない・レベルに応じた自治が必要なように・・これがうまく行く社会とそうはいかない社会があることも事実として受入れるしかないでしょう。
国家単位で見ても小学生レベルから働き盛り〜老成したクニまで発展段階の違うクニがあります。
1直線に伸びて来た中国経済には無理が来ているのはそのとおりですが,だからと言って(ソ連崩壊後のように)無防備(抵抗力もないのに)に完全自由化さえすれば解決するものではありません。
私の考えでは完全自由化しないから中国がダメになりかけているのではなく,1直線の成長路線が曲がり角に来た・・修正が必要と言うだけであって,ここで大幅な自由化したもっと無茶苦茶になる・・先進国の餌食になるだけだから半自由化でも良いから,自己能力が低いこと認めて,[この程度で勘弁して下さい」とやる方が合理的です。
ハンデイをつけてもらって堂々と悪びれずやる方がなんぼか気持ちが良いでしょうし、周辺も協力してあげようとなる筈ですが、謙虚姿勢に転じるには沽券を重んじる意識が邪魔になります。
中韓共に国際社会で生き難さを助長している原因・謙虚さの逆張り・沽券意識が邪魔している点では共通です。
沽券や格式にこだわるならば相応の公徳心・礼儀があればバランスが取れますが,格式に見合う道義心が皆無・道路で痰を吐き,技術その他盗み放題・・道義心が最低のままで沽券・・大国意識だけ振り回す・・文字どおり形式だけで威張る沽券意識ですから世界で嫌われているのに気が付かないのです。
GDPその他指標をかさ上げして,威張り散らすのは百害あって一利無し・・・「今のところこれしか出来ない」ので教えて下さいと言えば済むことです。
数字で言えば実態以上のGDPや外貨準備等の自慢〜SDR採用成功などが端的に背伸びし過ぎを現わしていますが,「かさ高さ」をやめて低姿勢で教えを乞うように修正すれば廻りとうまく行き、実利もあって何の問題もありません。
個人もクニも原理は同じ・・実力相応に自己表現出来るようになれば良いだけのことであって、これが出来ないで実力不相応に空威張りしていると世界・友人との軋轢が絶えません。
これが洋の東西を問わない礼儀作法と言うものです。
若い頃には自信喪失と過剰の振幅が大きいと言われますが,クニや社会にとっても同じことが言えます。
民族、先祖の誇りを持ち自信を持って生きるのは(植民地支配で失った民族の誇りを取り戻し再起するエネルギー源は必要で)良いことですが、それを振りかざして近隣をバカにするようになると行き過ぎです。
何ごとも行き過ぎを押さえるのは余程の智恵がないと難しいものです。

重商主義政策と植民地争奪戦3(フランス革命2)

中世の農業+キリスト教ミックス秩序からルネッサンスを経てスペイン〜オランダ・新教の発展・宗教戦争の世紀を経て、宗教と切り離した合理主義・重商主義を基本にする世界秩序再編成の動きが,いわゆる英仏第二次百年戦争であったと思われます。
宗教からの切り離し・合理主義精神の進展度合いで見ると,イギリスがキリスト教の影響が薄かったことから,徹底化できたのに対し,フランスが半端であったところが,勝敗を分けたと言えます。
結果から見ると,合理主義と味覚音痴・・芸術・文化能力と反比例する・・仕方がないのかも知れません。
以下英仏第二次百年戦争と言う長期スパンで見直してみましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1002-032.htmlによると英仏第二次百年戦争は,1815年のナポレオン戦争終結時までとされています。
「17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争を開始し、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開、さらにそれはヨーロッパでのスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などの戦争と連動していた。 インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどが戦われた。インドでの戦闘は最終的にはイギリスが勝利を占め、新大陸でもアン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争の結果、やはりイギリスの優位のうちに終わった。」
「 第2次百年戦争とは、1689年のウィリアム戦争から始まった、イギリスとフランスの植民地(主にアメリカ大陸とインド)における勢力拡大の争いと、ヨーロッパにおける利害の対立が結びついた戦争で、ナポレオン戦争でイギリスが勝利した1815年までをいう。」
「1775年にアメリカ独立戦争が起こった。フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・セネガルを獲得した。しかし、長期にわたる英仏の抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。このように、英仏両国の植民地抗争は、両国に大きな影を落としている。」
英仏植民地争奪戦争とアメリカ独立戦争の関係,フランス革命については日本の学校教育ではそれぞれ別々の内政理由で自然発生的に起きたかのような羅列的説明をしています。
(私だけそのように誤解して来たのかも知れませんが・・)
植民地争奪では英仏7年戦争をクライマックスとしてあらかた勝敗がついたことも別の流れ教えられますが,これらは時間的に繋がっていて植民地争奪の勝敗があらかたついた直後にフランスによるアメリカ植民地人への不満たき付け・・内部不和の働きかけで宿敵イギリスの力を殺ぐ工作が行なわれ成功した結果アメリカの反乱・・独立運動が起きたと見るべきです。
上記記事では,フランスはアメリカ独立戦争に直ぐには参戦しないで情勢を見ていたとありますが,アメリカが対日宣戦布告しないで,裏で蒋介石や共産党軍を応援していてその後正面から日本叩きに転じたのとやり方は同じです。
人権などを煽った手前反乱軍側が勝ってもう一度「自分に支配させろ」とは言えずお祝いとして「女神の像」を送って終わりになりました。
独立戦争参加では膨大な戦費を使ったでしょうが、何の戦利品もなかったことになります。
この財政負担が次のフランス革命の直接の原因になります。
年末30日に書いたように産業革命で遅れていたフランスは国際競争力で劣っていたので,アメリカの独立に協力した「恩着せ」だけはアメリカ市場に食い込めません。
この辺は,ナポレオンの大陸大陸封鎖令が失敗した原因と同じです。
フランス革命はアメリカでのフランスの工作に対するイギリスの仕返し・・裏での撹乱工作があったと(私の独断推測です・素人は無責任で気楽です)見るべきでしょう。
今で言えばウクライナ危機の結果,仮に数年内にロシアで政変や内戦が起きて直ぐにアメリカ軍が介入した場合,アメリカの画策を疑うのが普通ですし,ロシアの政変だけ独立に勉強しても意味がないことが分るでしょう。
フランスの本当の敵はイギリスなので,革命の混乱後ナポレオンは大陸を制圧すると大陸封鎖令(イギリスのアメリカ大陸へのフランス製品輸入禁止の仕返し?)を何回か発してイギリス封じをするのですが,最後はナポレオンの敗退で終わります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「大陸封鎖令(たいりくふうされい)は、フランス帝国とその同盟国の支配者になった「ナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令(le décret de Berlin)とも呼ぶ。」
大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。この封鎖はある程度の成功を見たが、その同盟国は恩恵を受けることができず、不満や不平がのし掛かっていくこととなった。」
ブルボン王家は,30年戦争で大金を使ったのに何の得るところもなくおわって植民地を失い,その後更にアメリカ独立運動を画策し参戦したのですが、独立を助けたものの経済的に得るものが皆無だったので却って財政逼迫してしまいました。
フランス革命は,財政赤字穴埋め・・増税のために1788年7月の三部会招集に始まりますから,一見アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)終結後5年もたっているようですが,フランスは30年戦争による財政赤字穴埋めのためにアメリカの独立戦争開始の前年74年には財政改革に乗り出しています。
この改革がうまく行かないで30年戦争だけでも大変な状態になっていた・戦争に事実上負けたのでイギリス以上の財政逼迫であった・・「自分のアタマの蠅も追えない」のに同時に独立戦争に肩入れ(援助)して独立させる成果を上げたのが命取りになったと見るべきでしょう。
プーチンが,原油・資源安による財政難を誤摩化すために、クリミヤやシリアで果敢な行動をして国民や世間の不満をそらしていますが,苦しいときの逆張り財政負担が中期的には彼の足を引っ張ることになると思われます。
基礎状態の改善は社会構造変革が必要で難しいのですが,地域大国が周辺の弱い国相手の恫喝外交は圧倒的戦力投入すれば間違いなく短期的成果が出ます。
ただ,赤ちゃんお腹が痛くて泣いているときにガラガラっと音を出して気を引いても一時的でしかないと同じで,基礎体力・経済に無理があって国民が苦しいままであるときには,(国民は熱しやすく冷めやすい・・)次々と冒険行為を続ける必要があります。
今は超大国アメリカがいるので,ナチスのように際限ない侵略・膨張を続けることは出来ないでしょうから、トランプ氏登場によってプーチンの対外勇ましい行動も終わりでしょうし,中国の海洋膨張も歯止めを掛けるしかないでしょう。
中ロ共に手詰まりになって誤摩化しがきかなくなって・・いつかは経済状態ありのママになるしかない・・国民不満が再自覚される・赤ちゃんがまた泣き出すのと同じで胡麻かしていた分だけエネルギーが高まります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「1780年代、フランスでは45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。
そこで国王ルイ16世は1774年ジャック・テュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任する。
ルイ16世は次に銀行家ネッケルを財務長官に任命した。ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善をめざしたが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免された」

フランス革命1(ルネッサンスの完成)→キリスト教支配からの解放

キリスト教自体西欧では,市民にとっては異民族による征服軍と同列の支配道具と見られていた(こんなことを西欧人は怖くて言えないでしょうから,誰も書けない本音を何のしがらみもない私が思いつきで書いているだけです)ことは,私の根拠の内の上記想像でだけではなく,市民のもう1つの語源であるラテン語civitas・シビリアンに関する以下の定義からも窺われます。
14日に引用したhttp://daruyanagi.jp/entry/2012/12/15/142304「市民概念の歴史的解剖」からの引用した箇所の続きです。
「とくに civil の用法に注目して分類すると、少し面白いことが分かる。
(外政に対して)内政の; 国内の,国家の
(聖職者に対して)俗(人)の.
(軍人・国家に対して)一般(市民)の、民間の
古代(ほかの都市≒国家)中世(聖職界)近代(官僚機構・常備軍)といった、各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる。」
上記を見ると原住民全体では市民とそれ以外(People)との大きな区別が古代から元々あって,他方でより多く政治参加したくなって来た市民にとっては,支配の道具である・・軍や聖職者と対立関係が生じますので・・権力抗争場面ではシビリアンと称するようになっていた印象を受けます。
(学説を見た訳ではなく,私の個人感想に過ぎませんのでそのつもりで・・。)
戦後軍国主義否定の関係でシビリアンコントロールの必要性を頻りに教えられましたが、上記解説(勿論正しいかどうかまでは知りませんが,見つかったので便宜上参考に引用しているだけです)によると,シチズンはピープルとの対比で使い、シビリアンは権力対抗・・異民族支配を受けて来た抵抗関係で使われるようになって来たのではないかと分類すると納得し易い観念であることが分ります。
最近「ガバメント論」から「ガバナンス論」に政治経済の議論の重心が変わって来たのと同様で時代によって概念の利用が変わって来る事例です。
ローマ滅亡後の西洋中世が暗黒の中世と言われる理由ですが,基本的に現地現住民を圧倒的あ格差のあるローマ文化が支配していたことによるのではないかと思われます。
滅亡したローマ文化を伝道する中核はキリスト教文化だったでしょうから,中世ヨーロッパを支配した思想はキリスト教であり,それを支配道具としてローマ教皇が権力をふるい,地元権力もその権威を支配道具に利用していたことになります。
「キリスト教に裏付けられたガバメント・軍」はゲルマンやケルト、フランク族等諸族支配そのものの象徴であったと見られます。
支配されて来た原住民の支配層が力をつけてきた結果、西洋を覆っていたキリスト思想・・暗黒の幕を破った・・ルネッサンスが始まった・・・その頃から対抗関係でシチズンの外にシビリアンが使われるようになったと見れば素直です。
続けて引用します。
「古代では兵士=市民だった。ローマ市民権には「正規軍として参戦する権利」が付与されていた。なので、civil に「非軍事的な・民間の」という用法はなかっただろう。また、キリスト教が広まる以前の civil に「俗の」という用法はなかっただろう。つまり、これらの用法は後代になって付け加えられたものだと考えられる。歴史的にザックリまとめるとこのようになるだろう。
古代:(外敵)⇔ソトの人間とは違う人たち、自国の構成員
中世:(キリスト教)⇔俗世の人たち、少し飛躍して解釈すれば自治都市や皇帝派(ギベリン)
近代:(国家)⇔暴力機構としての国家に属さない人たち」
自分たちの言葉・・トスカナ語で書かれたダンテの「神曲」がラテン語以外の言語を使用するようになったのがルネッサンスの始まりですが,力をつけた新興市民にとって,その頃から市民に対する支配の道具である軍やキリスト教・聖職者を対立すべきものと言う意識が生まれ「市民」+シビリアン意識の重要性が出て来たと解釈出来ます。
言わばフランス革命以降漸く・・異民族の思想である?キリスト・ローマ教皇支配を払いのけた・シビリアンが折角政権を奪取したのであるから,軍の必要を認めるとしても折角獲得した異民族?支配からの独立・シビリアンの権利を守るためにシビリアンが軍をコントロールすべきと言う流れになります。
正にフランス革命が別名「市民革命」と言われる所以で、千年間異民族の宗教であるキリスト教に支配されていた現住民代表の「市民」が漸く復権したことになります。
シビリアンが対抗すべき対象として「聖職者」が書かれているのを冒頭に紹介しましたが,フランス革命では漸く聖職者・キリスト教の圧迫をはねとばしたことが重要です。
市民革命では貴族の領地は没収されなかったので、未だに特権層を維持していることについてココ・シャネルの映画を観たときのコラムに書きましたが、フランス革命では真っ先に教会財産没収が行われていることに注目する必要があるでしょう。
学校の歴史で一般に西欧の三部会制度をフランス革命で打破された古い制度・アンシャンレジームと教えられ,マイナス評価しか受けませんが、キリスト教支配からの脱却の歴史としてみれば,三部会制度は正に異民族の宗教支配に対する世俗権力者の抵抗の第一歩として始まった・・重要な制度手がかりが始まったであったことが分ります。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-027.htmlからの引用です。
 「1302年、フランス王国・カペー朝のフィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際、聖職者・貴族・都市の商人代表を召集し、新税の課税を承認させたのが三部会の始まりである。聖職者である第一身分、貴族である第二身分が特権階級であり、第三身分は都市の商人、農民など特権を持たない人びとで構成された。」
以上のとおりローマ教皇に対する抵抗の結果勝ち取った制度ですから,当時としては言わばかなり革新的制度だったのです。
フランス革命の流れについては以下のとおりです。http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.html
フランス革命の初期に、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。Assemblée Nationale 1789年6月17日に成立し、封建的特権の廃止や人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散した。
議会の成果
 7月14日のバスティーユ牢獄襲撃、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択した。
 当初はヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。」
上記のとおり貴族の領地没収はしませんでしたが、教会財産国有化を真っ先に決議しています。
革命で支配権奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民の政治参加の権利」であって城外に住む庶民は対象になっていません。
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、実はヘンリイ8世のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか・・。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)名君だったと言う評価があるようです。

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