立憲主義2と憲法改正1

12月23日の続きに戻ります。
基本的人権であれば、法で規制できないかのような刷り込みもおかしなものです。
証券取引法や独禁法の規制が自由主義経済を死滅させたでしょうか?
道路交通法や自動車の規格規制が車産業を死滅させたでしょうか?
サッカーや野球その他ルールが整備されてこそ、そのゲームが発達するのです。
表現の自由が重要であるならばこそ、本来必要な表現の自由を守りながらの規制努力が可能でありそれをすべきです。
アメリカ大統領選挙介入のロシアゲートに限らず外国政府が国内政治に簡単に介入できている現状に鑑みて言論の自由.信用を守るために、少なくともメデイアその他一定の公的機関で発言発表する前に、外国政府・機関とどういう関係があるかあるいは資金関係の開示義務その他の説明義務みたいなものから入っていくなどやる気になれば、いくらでも規制を進める方法があるはずです。
日本人が国外での日本批判を強める傾向についての問題点は(慰安婦問題でいえば、中国や韓国政府の代弁とはっきりさせるならば、「中国や韓国の意見はそうなのね!」と思って聞いているので正当な評価が可能ですが、日本人として、「慰安婦を性奴隷」であった「現実にあった」と主張すれば、中立の国の人々の受け止め方としては、「日本人でさえ認めているのだから・・」という影響力の大きさ・「客観事実の検証をするまでもない」という方向へ議論が流れてしまう・問答無用形式に流れる効果は半端ではありません。
まして政府から中立を装うメデイアや弁護士が主張すると大きな影響力があります。
これが事実検証もないまま、日本の大手新聞がいうのだから] と国連決議やアメリカ議会決議の流れを作っていった成功例?のように見えます。
「性奴隷」という主張は日弁連公式認定もなく特定弁護士グループがやっていることですが、いかにも日本の弁護士の総意であるかのようにイメージ・誤解させる効果が大きいでしょう。
誤解する方が悪いのではなく、発言者が自己の立ち位置をはっきりさせないと聞き手の多くが誤解する場合には、自己の立場をはっきりせない方に問題があります。
この場合、いわば肩書きを偽って意見表明しているのと似た効果があります。
サッカーその他のスポーツの試合で相手チームから金をもらっている選手が重要場面で失策するようなものです。
このような場合、直前あるいは継続的に大金をもらっていることが発覚すれば、本当の失策か八百長か?という問題が起きます。
所属チーム以外からのお金をもらっている場合、所属チームに届け出る義務を定めておけば問題がほとんど解決します。
メディアや弁護士が外国資金を得ているようなことは滅多にないでしょうが、いろんな意見が何故か特定国の利益に直結しそうな場合には、よほど立ち位置を慎重にする必要があるでしょう。
集団自衛権論でも憲法学者の意見と現実政策論とは次元の違いがありますが、その説明を省略.すり変えをして世論を誤導しようとしているように見えます。
憲法学をストレートに政治論にする意見は、以下に批判されるような偏りが見られます。
立憲主義とは、まずは立法府が必要な法を制定し、行政府がそれを執行した上で、それが違憲か否かの判断を最終的に最高裁判所で決めるものであって、学者が前もって決める権利ではありません。
政治評論家や経済評論家が前もって「〇〇の決断をするのが正しい」というのは自由ですが、政治家や経営者がどのような決断するかはそれぞれの分野のトップあるいは合議体構成員が決めることであり、決断者は有名学者の意見や世論調査の結果に従ったからと言って免責されるものではなく政治責任を問われます。金利政策で日銀総裁が消費税増税で多くの政治家が痛い目に遭っています。
どんな立派な学者の言う通りにしたのであろうと、景気が悪くなれば政治家はおしまいですし、憲法を守っていても外的に侵略を許して責任を免れることはできません。
以下に紹介するように戦後学問世界では自衛隊違憲論一色だったのですが今ではこれにこだわっている人は変わり者扱いですが、学者の誰が責任を取ったでしょうか?
政治家や経営者は結果責任を負うのが社会のあり方です。
実務と学問とは違うからこそ、経済運営であれ公共政策であれ教育政策であれ何であれ、各種専門家は専門分野の見地からみればどうかの意見具申するだけあって、・我々法律家も相談に際して「法的意見はこうですが、あとは経営判断です」というだけです・・最終判断は各種の意見を勘案して国民の負託を受けた政治の場で総合判断して決めるようになっています。
高校時代には学校の教えることしか知らないことから、先生が褒めちぎるプラトンやソクラテスが最高であるかのようなイメージがすり込まれた結果、その頃に習った「哲人政治」をすごい・何故そうならないのか?と単純に思ったものでしたが、大人になってくると専門家というのは、習った視野の狭い分野だけやっと理解できる・・2〜3流の人材がなるものだということが分かってきました。
ファジーな無限の可能性を総合判断する能力にかけては政治家・これもその道の専門家ですが・・に叶いません。
http://www.huffingtonpost.jp/akihisa-nagashima/right-of-collective-self-defense_b_9755976.htmlによれば以下の通りです。

「政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。
これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。
しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。
なぜでしょうか。
要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。
(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
・・・・「要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。
これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。
もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」

上記解説の通り私の勉強した当時の憲法学では、自衛隊合憲論は、「烏を鷺(サギ)というようなものだ」という意見が、(司法試験の基本書になっていた)権威ある学説でした。
このコラムは自宅で暇つぶしに書いているので(その本は事務所にあって)そのままコピペ引用ができませんが、その比喩にインパクトがあったのでよく記憶していますが・・。
自衛隊違憲判断の推移は、厳然たる歴史事実(今では「自衛隊は違憲であるから解体すべき」という意見の人はごく少数でしょう)ですが、学者の言う通り自衛隊違憲論を選択した方が正しかった・・結果が良かったとは、国民のほとんどが認めていないでしょう。
無防備の時に韓国が李承晩ラインを設定し竹島が占領したのですが、もしもそのまま無防備を続けていれば、今頃中国は尖閣諸島を簡単に占拠していたでしょう。

立憲主義は何のため?

憲法は国家をよりよくするために制定しているものであって、「個人の人権さえ守れれば国が滅びても良い」という制度ではありません。
立憲主義の主張は本来国家あってのことであるべきですが、立憲主義の論旨を見ていると国家の存立はどうあるべきかの視点が欠けている傾向・・印象があるように見えます。
中国のシャープパワーが議論されるようになってその防衛のためかどうか分かりませんが「表現の自由」は個人の幸福追求権のための権利であるという主張のウエートが上がってきたように見えます。
「法曹実務にとっての近代立憲主義」の本を12月19日頃から紹介していますが、これを読んでいると「表現の自由が結果的に国家社会発展の基礎である」という私が憲法をならったころの要素が何となく背景に退き、社会のために役立つ側面よりは「個人の人権そのもの・憲法13条の幸福追求権を重視すべきである」という主張が大きくなっていきた印象です。
このような重心移動が重きをなしてきた背景は、国家社会発展のために表現の自由が重視される点をできるだけ背景に押し込んでいき、個人は所属社会・民族や組織の枠から外れた発言主張をしても不利益扱いされるのはおかしい・・・国歌斉唱起立拒否やピアノ演奏に応じないことが職務違反に問われるのは可笑しいという結論を導きたい意欲・イメージが濃厚です。
シャープパワー被害でいえば「何処から資金が出ているかどこの国のために意見を言うかも、個人の人権だ・・問題視するな」という立場の間接的な応援論でしょうか?
私には要約する能力がありませんが、第二章では、思想・良心の自由に関して、人権は何のためにあるのかという設問を通じて、ピアノ伴奏拒否事件や国歌斉唱時の起立命令違反事件を論じて公共的側面論が個人の内心の思想信条を踏みにじって良いのか?というような(私の理解不足かも知れませんが)批判をしています。
公共的側面とは何かというと、平たく言えば「公務に従事する以上は公務優先論」という意味でしょうが、素人的に読むと、企業その他組織に入った以上、組織企業人として行動する時には組織・企業の目指す方向へ協力義務があるのは当然です。
車社会反対思想を持っているからと言って車製造業務を拒否できない、あるいは結婚式場や葬儀屋に就職しながら、宗教が違うからと葬儀や結婚式の準備を拒否したり、居酒屋店員が、菜食主義だからと就業拒否したり、車の製造業務に従事するのを拒否するのは許されないのは当然・個人の思想の自由論とは次元が違うように思われます。
自衛隊に応募しておきながら非武装論者ですからと言って、兵器操作訓練を拒否するのも同じです。
思想良心の自由の重要性を説いて、業務命令を拒否できるかのような(期待を込めた)主張を読むと「前提が違うなあ!とまず驚いてしまいます。
続いて第3章47pには「表現の自由は民主主義社会の維持保全にとって必要な権利であるとし、「民主主義国家の政治的基盤をなし国民の基本的人権の中でもとりわけ重要なものである」という最高裁判決を引用して説明しているのは、従来型公共論でもあるでしょう。
「民主社会維持にとって不可欠なものである」とも書いていますが、そうであるならば、社会利益の範囲を考慮する必要があります。
「思想・良心の自由・内心でどう考えているかはいかなる権力もこれ犯せない」という大前提を論じた上で、表現の自由はこの外部表現であるから、これが侵されれば「内心の侵すべからざる自由を侵害する」ことになるという論建てで、「何を表現しようと勝手だ」と言わんばかり・・当然プロの学者がこんな乱暴な意見をはっきり書いている訳ではありません・・の全体から受けた印象です。
しかし、憲法の保障する人権は国家存立あっての権利であるにすぎません。
そもそも権利とは何か?といえば国法で保護されている利益・法益のことです。
国法の保護があって成り立っている権利が国家の存立を危うくする権利があると言うのは背理です。
何を計画しようと勝手だというのではなく、殺人計画やテロの計画の自由はないはずです。
この本の基調は、勘ぐれば中国のシャープパワー脅威論によって「日本人である以上そんな主張をして良いのか!」論を封じるための基礎刷り込み論のように思われます。
英エコノミスト誌の転載記事によるとシャープパワーの弊害があっても規制には慎重であるべきという意見がまだ先進国では基本的立場であるように見えますが、憲法13条の個人の権利を最重視するかどうかが背景的に大きな論点になって行きそうなイメージです。
今は規制がない上に規制をするにしても難しいことに中国がつけ込んで、諸外国での抱き込み活動・シャープパワーの脅威が目に余るようになってきたので12月21日紹介した新聞記事になって来たのです。
こうなると「良心のみに委ねておけない」ので、憲法との関連で難しいですが何らかの規制の必要な時代が来ています。
上記エコノミスト誌転載の日経新聞記事は、「魔女狩りのような摘発に乗り出すと法の支配が自滅する」と書いて「そういう土俵に乗ると中国に負けてしまう」と書いていますが、何もしない、できないイメージを流布する提案すること自体中国の息がかかっているのかの疑問があります。
中国の基本戦略は古代から戦わずして勝つ・相手が抵抗する意欲を喪失させるのが究極の目的です。
日清戦争時でもよく言われるように当時アジア最先端軍鑑「定遠」を日本に回航して、戦わずして日本が戦意喪失するように仕向けたのもその一端です。
定遠に関するウイキペデイアの記事からです。

「清国北洋水師の旗艦を務め、1886年(明治19年)には示威を兼ねて朝鮮、ロシア、日本を歴訪した。日本訪問の際には、その強大さと船員の乱行(長崎事件)から日本社会にとって大きな脅威として受け止められた。」

兵力が優っていると思うとあっさりと暴動.略奪事件を起こす点でも、当時から民度・兵のレベルがまるで違っています。
日本人は脅されると却って戦意高揚する民族性ですから、急いで海軍増強に励み日清戦争になると戦意にまさる日本が圧勝したのですが、中国人の国民性は古来から徴用された(自発性のない兵ですから)「兵はいかにして先に逃げるかに意を注ぐ」先陣の次に控える第二軍は逃亡兵を背後から撃つのが主たる任務になっている国民性を前提とした行動ですが、対日本では逆効果でした。
最近相次いでいる北朝鮮兵の逃亡事件では、北の軍が背後から逃亡兵を銃撃する光景が報道されていますが、これが中国や朝鮮の国民性です。
https://www.asahi.com/articles/ASKCQ34DHKCQUHBI013.html

兵士脱北時の映像を公開 追跡兵、軍事境界線越える
ソウル=牧野愛博
2017年11月22日14時30
事件発生当時、兵士が乗った小型四輪駆動車が高速で板門店に突入したが、軍事境界線から約10メートル手前の地点で脱輪し、兵士は走って韓国側に逃走した。北朝鮮軍兵士4人が計四十数発を発射し、一部の銃弾は軍事境界線を越えた。追跡した北朝鮮軍兵士の1人は数秒間、軍事境界線を越えて韓国側に入っていた。

2〜3日前にも似たような事が起きています。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9174.php

また北朝鮮兵士が亡命 軍事境界線に接近した捜索隊に韓国軍が射撃
2017年12月21日(木)13時31分

立憲主義とは?2(コミンテルンと日本共産党)

戦後コミンテルン支配はなくなっていたとばかり思っていましたが・・ソ連より活動家や評論家、メデイア関係者には影ながらの支配・指導が連綿と続いていたのでしょうか?
個々の文化人とソ連や中国共産党との関係は色々でしょうが、代表的なものとしてコミンテルンと日本共産党との関係を見ておきます。
https://plaza.rakuten.co.jp/fukuchanweekly/diary/201603050000/
によると以下の通りです。
ただし私には以下記載の事実について、真偽の確認能力(公開された秘密文書を直接読む能力)がありませんので、読者の自己判断でお読みください。

2016.03.05
日本共産党は、ソ連共産党の下部組織である「コミンテルン日本支部」として誕生
.日本共産党がソ連から資金援助を受けていたことは、ソ連崩壊後に解禁されたロシアの公文書で判明しているが、CIAも中国ルートを含めた資金の流れを掌握していた。
…..日本共産党に対する外国の年間資金援助額を三十万~四十万ドルと見た場合、同党年間収入の約四分の一に達していたことになる。
…..日本の政治資金規正法は当時から、外国からの政治献金を規制している。資金は当局の監視を逃れるため、さまざまな偽装工作を施し、香港経由で同党に渡っていたという。
…..「日本共産党一九五五~六三年」と題された報告書は六四年三月二十日付で全文約百ページ。それによると、共産党は五七年、中国から十万ドルの融資分を含む二十万ドルの資金を受領。報告書は情報源を伏せているが、資金の流れには、日中貿易振興を標榜する団体が仲介するルートも存在した。
…..中国が「進歩的日本企業」から商品を仕入れるというビジネスを名目に、この団体に中国側から資金が渡る仕組みがつくられ、この場合、CIAは「共産党の金庫番」とみなしていた故・袴田里見の元に資金が流れ込んでいたという。報告書は、外国からの資金援助の内、中国の提供分は少なくとも半分に達すると指摘。
…..ソ連の提供額も、党予算の10~15パーセントを占める割合になっていたと推定している。又、中国、ソ連からの資金援助は安保改訂の六〇年のような重要な年には例年よりも遥かに多かったと分析している。http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-1581.html
….ソ連共産党 が崩壊して、一連の民主化運動の中で「ソ連共産党時代の公文書」が公開されます。その中に「日本共産党とソ連共産党の関係」を示す公文書もありました。

上記記事は「ソ連共産党が日本共産党に対して資金援助をしていた」ことを示すものです。
NGOも政治活動をする以上は、政治資金規制法の適用を受けるべきで資金出所を明瞭にすべきですが、マネーロンダリングが巧妙になっているので、ソ連崩壊のようなことが起きない限り闇の中です。
どこから資金が出ているかの証拠がなくとも、支出に対応する収入源を明らかに出来ない限り違法と認定できるように逆からの方法も必要でしょう。
朝日新聞の押し紙(実際発行部数はかなり少ない)が有名ですが、朝日の場合もともと資金力があると言われているので、その差がソ連党から入っていないでしょうが、それにしても帳簿上どういう処理が出来ているのか不思議です・・赤旗も実数がどのくらいあるかが重要です。
その他に袴田氏と野坂参三との確執に絡んでどちらか忘れましたが、ソ連共産党に密告していたような記事も出てきます。
袴田事件などで検索すれば出てきます。
日本国内にいる限り、ソ連は手を出せなかったでしょうが、何かの名目で呼び出されてソ連へ行くとその時に拘束され粛清される仕組みですから、知らぬ間に密告されているとリスクが高まります。
今でも日本で中国贔屓の意見発表していたマスコミ人や評論家が中国出張中に消息不明→その後スパイ容疑で検挙されていると報道されることや突然死するニュースが最近それとなく出ますが、仲間内の密告が背景にあるのでしょうか。
ソ連共産党支配が弱っても(今でも恐怖政治をしている)中国の方には遠慮がいらないのか?が不思議ですが、中国共産党とは支配服従関係がないからでしょうか。
目立つ党の関係に限らず相応の影響力のありそうな文化人や学者・メデイア関係者には個別にいろんな名目で資金援助(政治家でないし政治資金規正法の適用がないので)いろんなチャンネルで)が行われて来た可能性・これが事実上の支配力です・もあるでしょう。
今アメリカで大きな政治テーマになっているトランプ政権誕生時のロシア疑惑もその一種です。
中国北朝鮮の政治を批判もしないが、理想として持ち上げている訳でもないので立憲主義を強調しても問題がないと言うことでしょうか?
上記の通り一見して中立的装いで、ノンポリが読む気になるような論旨から展開していきます。
本論に入って行くと高度な哲学的用語をちりばめた難解な論理というか、実務家の中でもレベルの低い私のような人間相手に再教育するにはもっと優しく書いてくれないと無理な印象です。
実務家が敬遠する所以でしょうか?
多くの専門家の分担執筆ですので、毛利氏の論文が難解だったか誰の論文が難解であったか記憶していないのですが、例えば冒頭担当の毛利透氏の論文(上記判例時報の「法曹にとっての立憲主義」の論文とは違う論文ですが)その一部がネットに引用されて出ているので、引用しやすいので表現方法の傾向を見るために紹介すると以下のような書きぶりです。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070427/p2

■[メモ][論点]『岩波講座憲法1 立憲主義の哲学的問題地平』における長谷部恭男包囲網
http://www.bk1.co.jp/product/2782737?partnerid=p-inaba3302385
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000107356/interactivedn-22
やはり公私を区分するジョン・ロールズの政治的リベラリズムと異なり、長谷部〔恭男〕が立憲主義を不自然な、人々に無理を強いる選択だと強調するのは、実は長谷部が公的領域での政治的発言に広く「公益」による歯止めを求めているからではないか(中略)。
長谷部の「社会の共通の利益」考慮の要求は、既に政治的発言自体に向けられている。各個人は、他人に対して働きかけようとする際には常に、その前に自分の内心で、表現しようとする内容が自分の私的思想の表明ではなく社会全体の利益にかなっているのかを吟味しなければならない。表現の「自由」が思ったことを言う自由を意味するはずである以上、彼は、国家の決定に影響を及ぼそうとする表現活動には「自由」を認めていないわけである。(中略)
しかし、表現の自由についてのこのような理解は、従来の憲法学が漠然とであれ想定してきた表現の自由観とは大きく異なっている。(中略)民意形成の場面では自由を認めるべきではないという理論は、戦後憲法学の常識への挑戦を含んでいる。

毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」6-7頁
表現の自由を行使しようかどうかためらう人々に、できるだけ行使する方向でのインセンティブを与えるべきだ(中略)。特に代表民主政においては、人々が絶望の中に放置されがちなだけに、公的領域への「現れ」を促進する必要が高いのである。一見無意味な活動が無意味ではないことを、法が示さなければならない。(中略)
日本の憲法学は表現の自由の重要性を説きながら、それを「行使」している人間は全人口からすればごく少数しかいないということの意味についてまったく考察してこなかった。(中略)少数の者が参加する公共圏が民主政を支えているからこそ、少数者になることのリスクを減らす必要がある。アレントが現代における政治への参加者として想定していたのは、生活に不自由のない富裕層ではない。日常的な社会の不公正に耐えられなくなって、どうしても異議申し立てをしたいという人々だ。同上、24-5頁
たとえ現実問題としては意味構築の作業に参加できる層が一部の専門家に限られるとしても、だから彼らのあいだでのみ意味に関する信憑が共有されれば十分だとすることは、「人民が自ら統治に参加している」という幸福な信憑を基礎とする民主政を揺るがすことになる。民主的プロセスを通じて、意味構築の少なくとも枠組みを決めていると人々が信じられること、また人々がそれを無理なく信じることのできる実態を維持することが、専門家には求められるのではないか。」

これが憲法学というものでしょうか?

立憲主義とは?1(共産党と憲法1)

日弁連が、実態無視で「窮乏を極め」と一方的言いっ放しで自己満足している(のか、その後の変化で意見を修正したのか 修正の動き中かが、ネット検索では不明ですが)のを見ると昭和40年代に流行った全学連のタテカンの延長みたいなイメージで「一人よがり」のイメージしか一般に与えないように思えますが・・。
もしかして、全共闘世代の生き残りに憧れている人たちが、日弁連の政治関連分野の委員会を牛耳っているのかもしれません。
すべて、この世の中に格差のない関係がない・・病人と健常人の違いもなければ、20歳〜40歳〜60歳の体力差もない、身長体重の差もない、足の早い人と遅い人との差もない・・究極の無格差社会など論理的に想定不可能です。
人間に限らず動植物どころか富士山のように秀麗な山もあれば、奇岩怪石・風光明媚な場所や目を背けたくなる様な景色や、レアアースもあればただの土塊もあるなどすべてに違いがあります。
何事にもいろんな品質差があるのを認めながら、それによって生じる格差(特に人間に限って)をどうするかが人類の知恵の出しどころでしょう。
商品の場合、品質差が5%しかなくとも精密部品ではゼロと100の利用価値差が生じることが多いですが、人間の場合そうは行きません。
5%の能力差が80〜100%の差にならないように、(足が弱くて展望台に登れない人がエレベータのおかげで展望台に登れるように)機械その他で弱点を補充するのが人間社会の知恵です。
格差社会反対と唱えていれば何かの解決に資するものではないし、枕詞に格差社会という流行語さえ使えば主張が正しいかのように振るまって合理的議論が止まってしまうような形式に持ち込むのは合理的対話や対策阻害・社会の停滞を招く論法です。
革新系に多い、憲法9条を守れとか平和主義・戦争反対論も同じで「戦争反対」と叫んでいれば平和を守れるものではないし、犯罪撲滅といえば犯罪がなくなるわけでないことは、中高校生でもわかる論理ですが、いい大人になってもわからない人もいます・・・これこそが能力格差社会の象徴でしょうか?
特定秘密保護法案や共謀罪法案をきっかけに?「近代法の法理を守れ」とか、「護憲」からいつの間にか「立憲主義」という新たな観念論の宣伝が広がり始めました。
一つには「国民大多数の反対を押し切って・」という常套文句が自民党政権の総選挙連続圧勝によって成り立たなくなったので得票数多数でもレベルの低い庶民の票にすぎない、「本当のありがたい価値観を教えてやる」必要が出てきたので、憲法違反主張が出てきたのですが、肝心の「憲法改悪」の動きが出てきてその支持者が着実に増えて来たので、憲法違反とか、憲法を守れというだけではまにあわなくなってきた・・「憲法を守れ」では頼りなくなってきた(はっきり言えないが憲法改正阻止が必要になった)からでしょうか?
このような標語が法律家内でさえも特定集団以外に支持が拡がらないらしく、1〜2ヶ月ほど前に判例時報の臨時増刊号として「法曹実務にとっての近代立憲主義」という本を送ってきました。
(タダでなく定価が着いています)
立憲主義運動にピンとこない法律実務家が多いので、教育が必要というイメージです。
(私も理解の遅れているグループです)
9条を守る会等の護憲運動系の弁護士によると「最近お金にならない委員会や集会に若者が集まらない」という嘆き節が聞かれますが・思想・意見が合わない若手が多くなったからではないでしょうか?
上記本の最後の方に立憲主義の流れの素描があり、「知識階級」が立憲主義を正面から言わなかったのは、以下のような歴史的経緯によるようです。
同書262pによると

「戦後立憲民主主義という言葉が消え、それは『民主主議』で代用されてきた。・・終戦後・・民主主義は万能薬のようになった。知識階級で影響力を強めたマルクス主義が、民主集中制や前衛党独裁を許容する『民主』を好み、ブルジョア的代議制と親和的な『立憲』を嫌った面もあろう・・」

なんとなく「知識階級」にとっては、ソ連の隆盛な時には、「立憲主義」の重要性などとても言えた状況ではなかったイメージが伝わってきます。
そもそもソ連や中国では憲法がどういう扱いになっていたのでしょうか?
中国現憲法についてのウイキペデイアの解説です。

現行82年憲法においては、75年憲法や78年憲法と異なり、憲法の具体的条項の中に「共産党」という言葉は登場せず、それが登場するのは、前文においてのみである[27]。憲法は一方で、前文第13段および第5条第4項において、すべての国家機関、武装力、各政党、各社会団体、各企業・事業組織は憲法および法律を順守しなければならない、と規定している。中国の憲法学者の多くは、この「各政党」の中には当然、共産党も含まれると解釈しており、一見、共産党は憲法体制の枠内にあるかのようである[27]。しかし他方、憲法前文に、「4つの基本原則」が規定されており、しかもこの原則の中核が「共産党の指導」の堅持であるがゆえに、共産党は、実質的に超憲法的存在となっている

http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v4/wtr/china.htmlによれば以下の通りです。
中国の国家制度の憲法的枠組み
弁護士 森川伸吾

中国においては天賦人権思想は否定されているが、これも「独裁の客体には権利を認めない」という思想と理論的に整合するものである。
・・人民民主独裁の「民主」と対応して、中国においては「民主集中制」が採用されている。・・・中国においては「反体制活動をする自由」は否定されているため、中国でいう「民主」は「多数決原理により意思決定を行なう」点に重点がおかれたものになっている。
中国においては権力分立制は民主集中制に矛盾する制度として否定されている。このように、中国における「民主」の概念は、市民の高度の政治的自由及び権力分立制を前提とした西側諸国における「自由主義的民主」の概念とは異なるものであり、「社会主義的民主」と呼ばれている。米中間で「民主」についての議論がかみ合わないのも、このような「民主」概念の差違に一因がある。
政党制度に関し、憲法前文においては中国共産党の政治面での指導的地位が明記されている。 共産党は政治に対する支配的影響力を事実上有するが国家機関ではなく、法的な意味での国家権力を行使するものではない。なお、共産党以外にも「民主党派」と呼ばれる八つの政党があるが、これらは「共産党の指導を受け入れて共産党に協力する」という存在であり、共産党と対立するものではない。
ところで、1999年憲法改正においては「社会主義法治国家」という概念が強調された。これは「人治」から「法治」への流れを憲法上確認するものである。但し、この「法治」は,国家は国家権力が定めた法に従って統治されるという概念であり,国家権力を制限する「法」の存在を認める「法の支配」の概念とは別のものである。また、法の制定主体である国家権力は共産党により指導される存在である。したがって、この「法治」と「党治」(共産党による支配)は両立する概念である。

上記の通り憲法があっても共産党が超法規的になんでも出来る仕組みのようです・党規律委員会が警察の上位機関として好き勝手に拉致していける・これが外から見て日常的に独裁/恐怖政治が簡単に実行されているように見える根源でしょう。
ソ連もいわゆるスターリン憲法が制定されていましたが、大同小異だったのでしょうか?
このように見ていくと日本の立憲主義とは共産党万能の中国型をいうのか、西欧型をいうのかの定義から入っていく必要がありそうです。
この本で初めて知ったのですが、それまで革新系の弁護士は何かというと憲法違反を主張する総本山みたいに思っていましたが、それは政府批判の方便として利用していただけであって本気の憲法重視論ではなかったようです。
どんな立派なことを憲法に書いていてもその上位の共産党がなんでも出来るのでは、憲法がないに等しいでしょう。
テロリストがテロの現場まで行く途中、交通信号やルールを守っているのと同じです。
原水禁反対、公害反対と運動しながら、中ソの公害や原水爆実験・軍事威嚇には何も言わない二重基準が不思議だと常々思っていたのですが、自分たちが政権を取れば言論弾圧や公害垂れ流しの批判を許さない予定だったからでしょうか。

近代法原理の見直し5( 令状主義の限界)

令状主義の限界・・捜査手法は犯罪の変化などに合わせて時代とともにあると言う意見の続きです。
機械やシステム整備だけでは、検挙し難い・・システム整備が進むには何年もかかるのであちこちに構築が終わった頃にはテロリストの方がその抜け穴探しに成功しているのが普通です。
私のような不注意な一般人が何かに慌てて間違ったボタンをオスなどして引っかかるのがオチ・抜け穴を研究しているテロリストの方は機械に引っかからないように全てクリアーする工夫をして犯行現場に来るのが普通でしょう。
要はサイバーテロと同じです。
本当に治安を守るには事前情報によって要注意人物を継続的に監視する・一般搭乗客向けの流れ作業では発見出来ない微妙な細工物などを念入りにチェックしたり、人間の目で注意観察などで事前発見に繋がり易いなどの関係にあります。
弁護士が経験する日常的現場で言えば、スーパーなどの防犯カメラが万引きを検挙するのではなく、警備員がプロの目で挙動不審者に気づくとそれとなく様子を見張っていると案の定レジを通さないでそのまま出て行くので、直ぐに追いついて万引き犯を検挙するなどの例が一般的です。
自衛権の定義も、北朝鮮から核攻撃受けてからでないと応戦出来ないと言う19〜20世紀前半型の定義でこと足りるかの議論の必要性があるのと同じです。
日露戦争時に・・バルチック艦隊が対馬海峡からはいるのか宗谷海峡廻りかが迎え撃つ日本海軍にとって重要情報でしたが、「敵艦見ユ」との報に接してから連合艦隊が出撃しても迎撃に間に合ったのです。
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
今は数分〜10分で北朝鮮や中国核爆弾が到着する時代ですから、爆弾テロ同様に全て後追いで・証拠を集めてからの検挙・反撃で間に合う時代ではありません。
スーダンのPKOでも書きましたが、今では群衆が徒歩で押し掛けて来る時代ではなく、ロケット砲などの攻撃を受けるまで(プライバシイ侵害のおそれがあると言う理由で)情報収集せずに待っているのでは、自衛出来ません。
上記のとおり今や事前に令状を示してから家宅捜索する(してもテロ計画の文書などある筈もない・・証拠自体見つからないに決っています・・指令メールが見つかっても今の法体系では、共謀だけでは犯罪ですらないから差し押さえすらも出来ません。
上記のとおり新犯罪類型では・定型行為を前提とする令状主義ではものの解決にならないに・・令状「主義」自体が破綻していることは明らかです。
令状で間に合う事件は従来どおりで良いですが、間に合わない事件には別の方法が必要です。
最高裁は憲法に書いていないプライバシー保護にまで令状がいると言うから、却って時代錯誤性を露呈しました。
ソモソモ令状「主義」と言う表現自体が、合理性を無視して何が何でも当てはめ拡張しようとする「主義」性を意味しています。
物事は是是非・・必要に応じて決めて行けば良いのであって、あらかじめ「主義」イデオロギーを決めていろんなものに無理に当てはめようとするのは間違いです。
欧米では早くからちょっとした犯罪でも現場射殺が一般化していることが・・黒人の抗議活動等を通して伝わって来ますが、暴動等がなくて大きく伝わって来ないその他の分野でもかなり実務が令状主義のドグマを離れて進んでいる筈です。
実際の犯罪捜査では、令状主義ドグマの限界・矛盾に耐えられないからでしょう。
この点について近代法の原理・基本から考え直す・・新たな法体系を練り上げるのは裁判所の役割を越えているので、立法府のやるべきことではないかと言う意見かも知れませんが、そうとすれば敢えて憲法35条の保護対象と言い切る必要もなかった・証拠排除しない方が合理的であったように思います。
憲法35条の保護対象に入っているからGPSを捜査に使うためには憲法改正が必要と判断すれば、そんなテーマでは憲法改正運動が盛り上がるわけがないので、ほぼ半永久的に利用出来ないでしょうから、憲法の令状対象に入っていないとすれば、令状を必要とする憲法を改正するまで令状なしに捜査に利用出来ます。
結局捜査のあり方をどうするかの政治的立ち位置次第で、憲法解釈が決まって行きます。
そこで民意の1〜2割の支持しかない政党は、選挙では勝てないので憲法学者等への浸透を重視するようになります。
憲法学者の多くが憲法違反と言い、これに影響されて運良く最高裁が認めれば鬼に金棒です。
4月6日に書いたように憲法改正は圧倒的大多数の国会議員を擁していても(選挙で勝っても)殆ど不可能な制度ですから、(国民の支持を受けていない)少数政党でも、憲法学会の支配的勢力を獲得すれば、国家の基本に関わる政策に反対するには「憲法違反」と言うテーマを掲げて戦えば良いことになります。
憲法学会の大勢に裁判所が呼応して「これは憲法違反」だと言う判例を作ってくれれば新たな法制定反対が出来なくなるので結果的に拒否権を、持つようになります。
「何でも反対政党」と言われていた社会党や共産党が憲法違反の主張をしょっ中して来たことや憲法学会〜司法界に浸透して来た所以です。
高浜原発停止決定の効果で運転が止まっていたのが、3月末の大阪高裁決定では再稼働可能になりましたが、地裁数人の裁判官の意見で国論の割れているテーマ・・原発を1年前後も停止させてしまえるのが、裁判所支配の威力です。
こう言う制度設計って、民意重視社会と言えるのでしょうか?

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